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第八章:草食系男子

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「いや ~……それはさすがに気付かなかったな」

 すっと指を引き抜かれる。

「遠くて見えないし」

 まぁ、そうだろうとは思うけど。
 いつもならきっとからかいモードに入るタイミングだ。俺のこういうバカみたいなとこを日下さんは見逃さない。”そんなこと意識してたの~?” なんてバカにするはずなのに、日下さんは困ったように薄っすら微笑んだだけだった。

 そして、ポツリと言った。

「ほんとに……遠かった、よ」

 タレ目は伏せられ、細長い彼の指がそっと俺の胸板に触れる。

「こんなに近くに居るのにね。笑えるくらい遠く感じた」

 ぱっと手は離れ、日下さんは俺に向き直るとまた柔らかく微笑んだ。

「住む世界が違うんだなぁって思い知らされちゃったよ」

 この気持ちをどんな風に表現すればいいのか、俺には適当な言葉が出てこなかった。ただ猛烈に悲しかった。それだけは確かな感情だったんだ。

「……そんな顔、しないでよ」

 困り顔の日下さんが、小首を傾げて俺を見つめてくる。そんな顔すんなって……じゃあどんな顔して聞けばいいんだよ。俺は日下さんにそんなこと言われたかったわけじゃない。カッコ良かったって、楽しかったって、また行きたいって……そう言って欲しかったのに。

 日下さんに一番楽しんで貰いたかった……だけなのに。

「……どんな顔してる?」

 遠かったなんて……アリーナにいても、最前列にいても、きっと日下さんはそう言ったんだろう。それが分かるから、余計に辛い。

「怒ってる……のかな?」
「だったらあながち間違ってねぇな」

 住む世界が違うなんて……。ふざけるなよ。ふざけんじゃねぇよ……っ!

「俺は漫画の中の人間じゃない」

 日下さんの目がじっと俺を見つめ、僅かに唇を噛んだ。そんな彼の手を取るとそのまま自分の胸に押し当てる。

「生きてんだろ! ここで! あんたの目の前で! アイドルなんて仮面もつけず、何も隠さず、同じ世界に……っ、同じ空間に生きてるだろ!」

 日下さんは一瞬眉を寄せ目を細めたけど、すぐに俯き、またすぐ笑顔で顔を上げた。

「分かってるよ。分かってる」

 総意ってするりと俺から手を引き抜く。

「だからもう行かないって言ってるんだ、コンサートに」

 俺にくるりと背を向ける。

「そんなこと意識したくないから、もう行かない。僕の知ってる加藤君は、アイドルじゃないから」

 一本……取られた。

「さ、寝よう」

 振り返りもせずに寝室に向かう。

 なんでなんだろう。なんでこんなことになるんだよ。違うだろ……違うじゃん。俺は日下さんにこんなこと感じて欲しかったわけじゃねぇのに。こんなことのために今日の日を準備してたわけじゃねぇのに。

 寝室に消える日下さんの背中を追いかけドアの前に立った。ベッドに乗り上げ、彼はこちらに背を向けて寝転がる。

「あ、電気消すの忘れてた」

 そう言うから、俺がリビングの電気を消した。電球の紅く淡い光の元に日下さんのシルエットが浮かび上がる。親や友達がコンサートに来てくれることは、今までなかったわけじゃない。そんなのしょっちゅうだけど、コンサートに来て、遠かったなんて言われたのは初めてだった。
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