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第四章:愛

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 まるで噴き出すように涙が溢れると、俺は慌てて電話口から顔を遠ざけ、スピーカーへと切り替えた。

『自分が、女性だったかもしれないという思いは……、正直ゼロではないんです。貴方の声が、いつも俺に優しく話しかけてきてくれるから。俺はその声を聞くと、いつも嬉しくなって、……気持ち悪いんですけど、甘えてしまうというか、その……なんというか』

 華頂さんは、続きの言葉を困ったように笑ってごまかすと、話を逸らすように「土田さんはどんな夢を見たんですか」と尋ねて来た。

 まだ涙が引っ込んでいない。
 俺は無理やり深呼吸を繰り返し、ぐいっと涙を拭うと、声の震えを最小に努めて返事した。

「昨日見た夢は、川のほとりで、花を摘んでいる夢でしたよ」

 泣いていることを、気付かれただろうか。
 不安に思ったが、電話先の華頂さんは俺の返答に弾んだ声を出した。

『へぇ! そうなんですね! それが女性だったということですか?』

 少し楽しそうだ。良かった、気付かれていない。
 ふーふーと息を整え、返答する。

「えぇ。でも、女性というより、女の子でしたけどね」
『わぁ、子供なんですか? そうかぁ。子供か~。幼馴染だったんですかね? 俺はあんまり子供の夢は見ないなぁ』

 意外や意外。どうやら見ている景色は二人違うみたいだ。

「もう、大人ってことですか?」
『そうですね。ベッドで……。あ、気持ち悪いとか言わないでくださいよ?』

 すでに気持ち悪そうな雰囲気がしているが、先に釘を刺されてしまってはどうしようもない。

『俺の夢は、ベッドで寝転がりながら、貴方と同じ声の持ち主と楽しくお喋りする夢が多いんですよね。何を話しているのかは、よく覚えていないんですけど、いつも楽しくて幸せで……。目が覚めると、その夢があまりに幸せ過ぎて、……何故かいつも……涙が出るんです』

 今も、思い出して涙を堪えているのだろうか。

「そこで、俺に“可愛い”と言われるわけですか?」
『まぁ……そういう日もあります』

 絶対に毎回言っているのだろう。その恥ずかしそうな返事を聞く限りは、間違いなさそうだ。
 俺は徐々に落ち着いてきた涙に、深呼吸を一つし、スピーカーを解除して耳元に携帯を戻した。

「どうして、幸せなのに涙が出るんでしょうね」

 目の前のペチュニアがゆらゆらと夜風に揺れる。

 華頂さんは、俺の何気ない質問に端的な答えを寄越した。

『もう……会うことが叶わないからでしょう』

 そうか……、そうだった。これは、俺達の記憶なんだ。
 身に覚えのない、俺達の「記憶」。



 もう会うことが叶わない。



 それは、現世である今の話ではない。前世とも限らない過去世で、俺達はきっと約束を果たせずに生き別れているんだろう。もしかすると死別の可能性もある。俺の足は動かなくて、横たわりながら、泣き叫ぶ人を見送った。あの時俺の足はどうなっていたんだ? 見えなくなった愛しい人を思って、真っ赤な天を仰ぎ、強く祈った。「来世では一緒に」と。夢は、いつだってここで終わる。続きはない……。

 きっと彼女は、俺ごときには測り知れない寂しさを……味わったのだろう。
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