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第三章:目印

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 見たことないおじさんで、聞き馴染みのない声をして、それでも親しみやすくて話しやすくて、笑顔の似合う人。

「シロツメクサ。きっとこれが、この春最後のシロツメクサです。今ここで約束しましょう。俺は貴方を思い出します。貴方はいつだって、分からないことをすぐ俺に調べさせようとするから、これは俺の仕事なんです、きっと」

 そう口にして、「今、可笑しなことを言ったな」と思った。だけど、泣きじゃくる華頂さんはそんなこと気にも留めずに頷くと、手渡したシロツメクサをぎゅっと握った。

 これは、一体何の記憶なのだろう。何をさっきから口走っているのだろう。分からないけど、シロツメクサを握りしめる彼の手をそっと握り込み、指を絡めて握った。

「必ず連絡します。今度は、貴方の知らない番号から」

 耳元で、彼にだけそう囁くと、華頂さんは俺の肩口で突然緊張したように固まり、小さな小さな声で「はい」と返事した。
 その返事を聞き、俺は絡めた指を解き、体を離す。

 涙を幾筋も流している三十七歳のおじさんは、潤んだ瞳で俺を見つめ、無言のまま、静かに頭を下げた。

「呼び止めてすみませんでした。気を付けてお帰り下さい」

 彼は、そう言う俺に柔らかく微笑むと、困惑しているスタッフ達の元へと戻り、車に足を片方かけた。
 だけどそこでしばらく動かなくなってしまい、どうしたのかと全員が不安に思う中、迷いに迷いに迷って、俺を振り返った。
 その時の不安げな顔と言ったらない。疑うような、信じていないような、裏切られることに怯えているような、そんな顔。

 なんでそんな顔するんだよ。

「かちょ……」
「約束」

 名前を呼び終えるより先に、そう言った華頂さん。

 約束──。

 右手に握られているシロツメクサは彼の手の中でゆらゆらと風に吹かれ、これは約束なのだと、思い出してくれと、静かに俺に訴える。

「……えぇ、約束です。必ず、……必ずです」

 俺の言葉に消えるような笑顔を浮かべた華頂さんは、皆の待つ車に乗り込み、窓から俺に手を振った。それを見送り終えると、涙が一気に溢れて零れて……、たまらずその場にしゃがみ込んで泣いた。

 どうして涙が溢れるのか、どうしてこんなにも悲しくて、寂しいのか、原因が分からない。だけど、涙はなかなか止まってくれなくて、きっと今、彼も泣いているのだろうと思った。何故かそれが痛いほどによく分かったのだ。

「華頂さん……」

 これは俺達の“記憶”なんだろうか。この涙の意味は、一体なんなんだ……っ。


 涙が収まるのを待って、俺は式場へと戻った。先輩達が心配そうに俺の背中を撫でてくれて、一体何だったのだと聞いてくるから、苦笑いを返した。

「俺も分かんないんです。体が勝手に動いてました。何を言って、何を伝えていたのかも、……正直、意味、分かってないんですよね」
「はぁ?」

 先輩達は素っ頓狂な声を出したけど、事実なのだから仕方ない。

「でも、華頂さんにはどうやら通じていたみたいなんで、あれで良かったのでしょう」
「なにそれ!? そんな適当な事ある!?」

 ビックリされてしまうけど、それでいいんだと思う。適当なんかじゃないんだ、きっと。
 これは、交わした覚えのない二人だけの約束なんだよ。

「いいんです、それで。もう、彼も泣いていないので」
「えぇ?」

 分かるんだよ、なんとなく。もう今は笑ってる。そんな気がするから。

「お騒がせしました! じゃあ、明日の準備、再開しましょう! 急がないと帰りが夜中になってしまいます!」
「はぁ!? あんたが足止めしたくせに~!」

 先輩達に文句を言われながら、俺はさっきとは打って変わって晴れやかな気持ちで明日の準備を再開した。
 彼も笑っている。前を向いた。そんな感覚がしっかりと伝わってくるから、俺は安心して仕事に戻った。
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