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第一章:記憶
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切ったけど、「僕の声なんか忘れちゃってください」と言った自分の言葉が、何故かグルグルと頭の中を駆け巡った。
そして、忘れられてもいいのか、とぽつんと浮かんだ思い。
別に構わない。すぐにそう思ったのだが、「本当にいいのか」と誰かの声が俺に問いかけてきた。だから、「忘れられてはいけない理由でもあるのか」と問い返したのだが返事はなく、またすぐにぽつんと「忘れられてもいいのか」と尋ねられた。
そんな押し問答。
段々それにイライラしてきて、全然仕事に集中できなくて、「いいんだよ、それで! 何の問題もないだろ!」と心の中で大声を上げると、ぴたりと鬱陶しい声は消えた。
だけど、その代わりに、涙が一筋、勝手に零れて落ちたのだ。
……どういうことだ?
何故、泣いてしまったのか自分でも分からず困惑する。ただ、悲しいと思った。忘れないで欲しいと思った。思い出してくれとさえ、思ったんだ。
脳裏を掠めたのは青色の可愛いらしい花。半年ほど前に見た華頂さんの動画だ。
俺は急いで涙を拭い、パソコンで「勿忘草」を調べた。
花言葉は、
「私を忘れないで」
極めつけのようなこの言葉に、俺は急いで画面を閉じると、再び込み上がってくる涙を引っ込めるためにトイレへと駆けこんだ。
この感情はなんだ。この感覚はなんだ。
今まで経験したことのない感覚と感情に、心臓はバクバクとうねり、俺は個室のドアに凭れながら天井を仰いだ。
こんなの知らない。知り合ったばかりのおじさんに「私を忘れないで」なんて感情を抱くなんて……、ありえないだろ、間違ってる! これは、何かの間違いだ!
絶対に泣くもんかと思ったけど、「これは記憶なんだ」と言った華頂さんの寂しそうな声が、じわっと身に染みるように感じられた。
これは……『記憶』?
「いや、こんな記憶……、俺にはない。華頂さんの声だって、俺は知らない。あんなおじさん、俺は知らない。会ったことがない」
底抜けに明るい、花みたいに可愛い人……。俺を連れ出して、一人でぺちゃくちゃ喋って、男の俺に花冠を作る……そんな女性……俺は……、俺は──。
そこまで思って、はっとした。
何の記憶だ?
見たことのないものを見ていた。俺は今……何を見た? 何を思った?
そう思った時には、一秒前の映像が何一つ思い出せなくなっていて、喋っていたのが男だったのか女だったのか、もちろん花冠だって何一つ思い出せなくなってしまい、夢を見ていたように、記憶の中から映像は一瞬のうちに消え去っていった。
残っているのは、「何かを見た」という記憶だけ。
白昼夢。
「なんだ……? 俺は今、何を見た?」
何を思った?
恐ろしく感じるほどの忘却ぶりだった。
俺は仰いでいた天井からそろりと足元に視線を移し、二本の足で立っている己の足を見つめ、「立っている」と思った。思ったけど、この感覚すらも、普通に考えておかしいだろう。だって俺は二十五年間足を悪くしたことはないし、立っていて当たり前の生活をしているのだから。
蘇るのは、子供の頃から見続けている夢の光景だ。
いつもシチュエーションは違うが、最後に見たのはいつだったか。
真っ赤な映像。空襲警報の鳴る中、足の動かない俺を置いて防空壕に逃げていく仲間達。
俺は……、足が……動かないんだっけ? あの時どうして車いすに乗っていなかったんだっけ?
分からなくなってそっと右足を引き上げる。……動く。左足も引き上げてみる。動く。
そして思ったのだ。
「あぁ、そうだ。動くよ。立てるよ。踏ん張れる。だから、愛する人だって、もう抱き上げられるんだよ、俺は……」
そう口にしていることすら、自分の記憶には残らなかった。
ただただ不思議な感覚に眩暈を覚える。覚束ない足取りで事務所に戻ると、先輩達が俺を心配し、おでこにそっと手を当てた。そして。
「やだ、熱あるじゃない、土田! 帰りな! 病院行かなきゃ!」
部長にもすぐ帰るよう命令され、俺は荷物をまとめて退社することになった。
そして、忘れられてもいいのか、とぽつんと浮かんだ思い。
別に構わない。すぐにそう思ったのだが、「本当にいいのか」と誰かの声が俺に問いかけてきた。だから、「忘れられてはいけない理由でもあるのか」と問い返したのだが返事はなく、またすぐにぽつんと「忘れられてもいいのか」と尋ねられた。
そんな押し問答。
段々それにイライラしてきて、全然仕事に集中できなくて、「いいんだよ、それで! 何の問題もないだろ!」と心の中で大声を上げると、ぴたりと鬱陶しい声は消えた。
だけど、その代わりに、涙が一筋、勝手に零れて落ちたのだ。
……どういうことだ?
何故、泣いてしまったのか自分でも分からず困惑する。ただ、悲しいと思った。忘れないで欲しいと思った。思い出してくれとさえ、思ったんだ。
脳裏を掠めたのは青色の可愛いらしい花。半年ほど前に見た華頂さんの動画だ。
俺は急いで涙を拭い、パソコンで「勿忘草」を調べた。
花言葉は、
「私を忘れないで」
極めつけのようなこの言葉に、俺は急いで画面を閉じると、再び込み上がってくる涙を引っ込めるためにトイレへと駆けこんだ。
この感情はなんだ。この感覚はなんだ。
今まで経験したことのない感覚と感情に、心臓はバクバクとうねり、俺は個室のドアに凭れながら天井を仰いだ。
こんなの知らない。知り合ったばかりのおじさんに「私を忘れないで」なんて感情を抱くなんて……、ありえないだろ、間違ってる! これは、何かの間違いだ!
絶対に泣くもんかと思ったけど、「これは記憶なんだ」と言った華頂さんの寂しそうな声が、じわっと身に染みるように感じられた。
これは……『記憶』?
「いや、こんな記憶……、俺にはない。華頂さんの声だって、俺は知らない。あんなおじさん、俺は知らない。会ったことがない」
底抜けに明るい、花みたいに可愛い人……。俺を連れ出して、一人でぺちゃくちゃ喋って、男の俺に花冠を作る……そんな女性……俺は……、俺は──。
そこまで思って、はっとした。
何の記憶だ?
見たことのないものを見ていた。俺は今……何を見た? 何を思った?
そう思った時には、一秒前の映像が何一つ思い出せなくなっていて、喋っていたのが男だったのか女だったのか、もちろん花冠だって何一つ思い出せなくなってしまい、夢を見ていたように、記憶の中から映像は一瞬のうちに消え去っていった。
残っているのは、「何かを見た」という記憶だけ。
白昼夢。
「なんだ……? 俺は今、何を見た?」
何を思った?
恐ろしく感じるほどの忘却ぶりだった。
俺は仰いでいた天井からそろりと足元に視線を移し、二本の足で立っている己の足を見つめ、「立っている」と思った。思ったけど、この感覚すらも、普通に考えておかしいだろう。だって俺は二十五年間足を悪くしたことはないし、立っていて当たり前の生活をしているのだから。
蘇るのは、子供の頃から見続けている夢の光景だ。
いつもシチュエーションは違うが、最後に見たのはいつだったか。
真っ赤な映像。空襲警報の鳴る中、足の動かない俺を置いて防空壕に逃げていく仲間達。
俺は……、足が……動かないんだっけ? あの時どうして車いすに乗っていなかったんだっけ?
分からなくなってそっと右足を引き上げる。……動く。左足も引き上げてみる。動く。
そして思ったのだ。
「あぁ、そうだ。動くよ。立てるよ。踏ん張れる。だから、愛する人だって、もう抱き上げられるんだよ、俺は……」
そう口にしていることすら、自分の記憶には残らなかった。
ただただ不思議な感覚に眩暈を覚える。覚束ない足取りで事務所に戻ると、先輩達が俺を心配し、おでこにそっと手を当てた。そして。
「やだ、熱あるじゃない、土田! 帰りな! 病院行かなきゃ!」
部長にもすぐ帰るよう命令され、俺は荷物をまとめて退社することになった。
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