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第一章:記憶

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「おい、うっせぇぞ! さっさと目覚まし止めろよ!」

 ドカッとベッドの底を蹴り上げられ、俺は悪夢から目を覚ました。
 足の上には、飼い猫が丸まって寝こけており、空襲警報だと思っていた音はこともあろうか目覚まし時計だった。

「おいおい。またあの夢か」
「いいから、それ消せっつってんだろ!」

 弟がどかどかと長い脚で二段ベッドの下から俺を追い立てるから、仕方なく時計を止めて起き上がった。
 子供の頃からよく見る夢だ。毎回シチュエーションは違う。ただ、いつも俺は顔の見えない誰かに置いて行かれる夢。いや、言い方が悪いな。俺はいつもいつだって「先に行け」と自ら言うんだから。相手は、男なのか女なのかも分からないけど、嫌だと最後の最後まで抵抗して、近くにいる誰かに引きずられて遠ざかっていく。家族なのか、恋人なのか、親友なのか……。でもきっと優しいやつ。
 俺は毎回そいつの名前を呼んで、燃えるように真っ赤な景色の中、何かを祈るんだ。それが何かは分からないけど、優しい願いのような、幸せな願いのような、途方もない願いのような──。

 さっきまで見ていた夢なのに、何を祈っていたのかを思い出せないのが悔しい。祈った内容も、自分の名前も、相手の名前も。もちろん、相手の声も容姿も、何一つ思い出せない。

 子供の頃から何度となく見続けているこの夢は、きっと前世か何かの記憶なのだろうと、俺は勝手に思っている。じゃなきゃ、これだけしつこく見ることはないだろう。

 俺は足元で眠る猫の下から足を引き抜き、二段ベッドの階段を下りた。

「今日は大学昼からか?」
「うっせぇな。睡眠の邪魔すんな」

 弟は、朝、すこぶる機嫌が悪い。恋の一つでもすれば直るだろう、なんて父親が冗談を言っていたが、この歳になって直っていないのだから、今後直る見込みはない。

 昨夜のうちに準備しておいたスーツ一式を片手に部屋を出て、ダイニングの扉にあるフックへそれを吊るした。
 顔を洗い、飯を作り、テレビのニュースを見る。

 就職して三年。
 俺の就職と弟の進学が一緒で、偶然、勤務地と大学が近場だったため、親が弟を俺に押し付けた。弟も朝はあんなだが、機嫌を取り戻すと「兄ちゃん兄ちゃん」とそれなりに可愛い。四年間よろしく♡と、語尾にハートマークを付けられてしまえば、兄として断れるはずもない。

 俺の就職先は、結婚式場。
 本当は全然興味なかったんだけど、就活に落ちまくって落ちまくって、ようやく拾ってくれたのが県外の今の職場だった。結婚式場の仕事に就くと婚期が遅れるぜなんて同級生に言われながらも、ここしか採用が決まらなかったのだからどうすることも出来ない。それにそんなの迷信だろうし。

 採用が決まってすぐ、母に買って貰った三着のスーツ。今も尚、その三着を着まわす日々だ。

 多忙な毎日、煌びやかな世界。甘ったるい匂いのする職場で俺まで女子力が上がりそうだと思いながら、契約を取ってはプランニングして、準備して、当日を迎える。幸せそうなカップルを何組も何組も見送り、三年。正直な話をすると、俺は毎回感動している。
 飽きずに、懲りずに、式当日に感極まる。決して誰にも言わないけど、涙が出そうなほど、感動してしまうんだ。
 興味もなく始めた仕事に、生き甲斐を感じている。探していたわけじゃないけど、これが俺の天職じゃないかとさえ、思ってるんだよ。

「さぁ、今日も頑張るか」

 まだ寝ている弟にいってきますも言わず、俺は仕事へ出掛けた。
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