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第十三章 ウィルフレッド
ウィルフレッド 第五節
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それからジェーンとの共同生活は大変だけど、同時にとても充実していた。
「そう、Aはこう書いて…」
彼女は時折、教育端末を使って自分に読み書きを教えてくる。そのお陰で俺は周りのの情報をより深く取り入れるようになり、ネット接続端末を通して地球への認知を飛躍的に広げることができた。
かつて地球で行われた、環境汚染による食料危機やエネルギー問題を解決するための地球環境改造計画と月面コロニー建設計画。そのために建てられた四基の軌道エレベーター。そして全てを変えた世界大戦の勃発。
戦争の発端や正確な時間は今やどこにも記録されておらず、自称歴史研究家や物好きな同好会の推測しかないが、現在確証のある出来事は、戦争の最中でエレベーターの一基「ベート」が倒壊し、それをトリガーに起こった世界中の核戦争。これにより決定的な気候崩壊が発生し、『永い冬』と呼ばれる氷河期が始まった。
各国は冬から逃れるために軌道エレベーターの争奪を開始し、やがて世界中の政府が崩壊する。人々は激変した地球環境から逃れるよう、安定した太陽エネルギー源を維持できる残り三基のエレベーター、「アレフ」、「ギメル」、「ダレット」に集まり、現在のシティの雛形が形成された。食料確保のためにドームで改良動植物を栽培する農場の技術が確立したのもこの時期だといわれている。
それからまた数世紀を経てようやく気候が安定し、三つの軌道エレベーターシティを中心に都市国家と、それらによるシティ連合が樹立された。それが今に言う『エレベーターシティ連合』で、それぞれのシティをまとめて『三大シティ』と呼ばれている。俺がいつも見ている軌道エレベーターは「アレフ」で、自分がいるこのシティはその下にあるアレフシティの衛星都市の一つ、ダバールシティのようだ。
自分がいる世界がどのような形を理解したことは、意外にも自我の確立に繋がった気もした。なによりも、初めて触れる情報はどれもこれも新鮮で、俺はとにかく無我夢中にそれを貪ってた。
勿論、この前モーガンが言ってたように、ジェーンが妙に変なルールを押し込んでくることも少なくなかった。
「人に会えばちゃんと挨拶をっ、店が暇ならお隣さんの手伝いに行きなさいっ、何か貰ったらちゃんと礼を言うようにっ」
あの時の自分でもさすがに、この時代でああいうルールは少しダサイと感じなくもなかった。企業のサラリーマンでさえもそこまできっちりと要求することはないと今なら分かる。
「人にはちゃんと思いやりを。困った人は助ける。友達の悩みは聞いてあげる。互いに助け合うのは当たり前なことさね」
月に一日、ハンバーグを人々に無償提供するとき、ジェーンはいつもこの言葉を口にしていた。さすがに時代錯誤とも感じられる彼女の言葉には俺でも苦笑を禁じえなかった。いったいどんな錯乱の仕方をしたら、こんな現実的でない言葉を言えるのか。けれど、俺はそれをするのに意外と嫌いとは思わなかった。
「モーガンさん、倉庫の掃除終わりましたよ」
「…そーか」
相変わらずもタバコを吸いながら興味なさそうな顔をするモーガン。
「ふぅ、ジェーンは元からイカレてるが、あんたも相当なもんだな。律儀にあいつのことを真に受けてよ。妙な口調もしてケツがむずむずしらぁ。言っとくが掃除はあんたが勝手にやってることだから、給料とかはあげねえぞ」
「別にいいです。僕が好きにやってることですし、それに…。僕の口調とかそういうの、モーガンさんには関係ないことですよね」
珍しくもモーガンが苦笑する。
「違いねえ。――むやみに他人に深く関わるな。この時代における鉄則の一つだ。…もうここにやることはねえぞ、早く失せな」
モーガンらしいと思いながら、俺は小さく会釈してからその場を離れようとした。
「…あー、ちょっと待て」
「はい?」
一つの小さな栽培リンゴがこっちに投げ込まれた。
「つまみの残りだ。そいつの味は嫌いだから、ついでに処理しな」
「―――ありがとうっ、モーガンさん」
それ以上返事はせず、モーガンはめんどくさそうに新しいタバコにサイバネフィンガーで火をつけた。
俺のお節介はモーガンだけでなく、市場のほかの店にもしてあげていた。当然最初は誰もが怪訝とし、ジェーンのようにどこか精神がイカれたのかと思い込んでた。それが自分の意志でやってるのを知ると、これまたお決まりに「老もうなジェーンのことを真に受けなくてもいい」という忠告は来るけど、俺は当然いつも苦笑して流した。
「今日もよくがんばったねぇウィル」
一日の終わり、ジェーンの家に戻ると彼女は決まって得意のハンバーグを夕食として作ってくれる。
「ありがとうジェーンっ、いただきま~すっ」
すっかり馴染んだジェーン仕込の礼儀作法に沿って、俺はそれを美味しそうに頬張り、ジェーンもまたそのシワまみれの顔に微笑ましい笑顔を見せてくれる。
イカレたと言われたっていい、馬鹿馬鹿しいと笑われてもいい。なぜなら、誰にも省みずに無視し続けられ、何もかもが冷たく重く圧し掛かるこの残酷な世界で俺を救ってくれたのは、家族という温もりを教えてくれたのは、実の親でも誰でもない、もはや自分の息子の区別もつかなくなった、目の前の狂った老婆なのだから。
******
エリネの前の景色が再び朦朧となる。
「あ、これは…、さっきのようにこのまま進めばいいのですかミーナ様」
「いや、ちょうどマナの流れを調整したいところだ。少しそこで待ってくれるか」
「うん、分かりました」
エリネの表情の変化にレクスが気付く。
「…なんだか嬉しそうだねエリーちゃん?」
「はい、だって…ウィルさんがジェーンさんに出会えたことが、なんだかとても嬉しくて」
「うん、分かるよその気持ち。あんな世界でも人の善性はなくなっていないんだなって思うよね」
「俺も分かるよエリー。あのジェーンって人、兄貴にとってのシスターみたいなもんだよな。その、心が壊れていたってのが、ちょっと皮肉だけど…」
「ジェーンの行動原理はどうであれ、それでウィルくんが平安を得られたことは紛れもない事実よ。それだけ分かれば十分じゃない」
そういうラナの顔もどこか微笑ましそうに笑っていた。
「…にしても、ウィルくんの世界って本当にハードだよねえ。みんも見てた?」
レクスは、ウィルフレッドが触れるネット端末を通して見た数々の歴史映像や資料のことを指していた。
「ああ…、軌道エレベータだっけ、あんなドデカいものが遥か上空から地面に叩きつけられてよ…神の鞭みたいのがあんのなら、あんな形しているのかもな…」
「それにあの世界の町…シティでしたでしょうか。その外の殆どが荒涼化してるというのも、中々想像できないですよね…」
マナの調整が終わったのか、ミーナが話に割り込む。
「それより、だ。今のウィルを見る限り、このまま良い話で終わる訳でもないだろう。心の構えはした方がいい。エリー、聞こえるな?」
「はい、私はいつでもいけますっ」
「うむ、用意できたら進むといい」
ウィルフレッドの曖昧な記憶軸の中で、エリネは強く手を胸に握りしめ、少し息を吸っては再び歩き出した。
(ウィルさん…。私、しっかりと受け止めますから…っ)
******
ジェーンと一緒に暮らして数年の年月が過ぎた。当初はイカレ野郎の認識だった俺もいまやすっかり市場に溶け込み、「変わり者のウィル」、「お人よしのウィル」と親しみを込めた名で呼ばるようになっていた。自分が世間の基準からおかしいのは承知しているから、特に悪い気はしなかった。
だがこの過酷なメガロシティが、そのまま俺達に安寧な日々を過ごすことを許す訳がなかった。
「え~、市民の皆様。ここの土地はわが社クレッセンツが買い取りました。三日後に建設工事が行われますので、それまでに搬出作業を終えてください。皆様の補償手当てなどを含めた告知メッセージは後ほどそれぞれの個人端末などに送られますので、ご確認下さい」
いかにもサラリーマンらしいスーツを着た会社員が、ライオットシールドやライフルなどでフル武装された企業私兵たちを従え、市場のスピーカーで退去布告を告げる。いきなりの出来事に当然市場の皆は不平を訴えた。
「三日で搬出だとっ?」
「なにこの補償金額っ、全然足りないじゃないのっ!」
「冗談じゃないっ!何十年も続けてきたこの店を壊すというのかっ!」
間も無くして私兵隊と現地民の間で互いに対峙するラインが市場の広場で成される。「企業の犬はでていけっ!」
「もっと補償金をよこせってんだ!」
石や空缶が飛ばされる行列の中で、店の鉄棒を持って振り回すジェーンの姿もやはりいた。
「出ていきなさえ!ここはアタシの店だよ!勝手に壊すんじゃないっ!」
「ジェーンっ、無茶はしないでここから離れよう…!」
なぜかヘンリーが撃たれた光景がジェーンと重なり、俺は強い不安を感じてはジェーンをその場から連れ出そうとする。
そして見た、興奮する群衆を見てサラリーマンが私兵の指揮官らしき人物に頷くのを。発砲音と悲鳴が広場に響き渡った。催涙ガスグレネード、スタン用ゴム弾は勿論定番だが、ガスに咽られて激しく嘔吐しては倒れて動かなくなった人や、ゴム弾に撃たれて骨が砕いた音をして倒れる人も大勢いた。
暴徒鎮圧時に起こった不幸な事故死…、わざとガスの成分を過剰に盛り込む、または致死成分を混ぜる、ゴム弾を規定以上のパワーで急所を狙うなどの手法はシティの保安隊にも良く使われる常套手段だ。鎮圧用装備であることさえ確認すれば、シティの法律はその他の出来事を大抵見過ごす。
「「「うわあああぁっ!」」」
現場はすぐに混乱に陥った。逃げ惑う人達もいれば、命がけで私兵達に突っ込む人もいた。俺は即座に服からちぎった布で鼻と口を覆い、ジェーンが彼らに踏み潰されないよう必死にかばいながら後退する。
「ジェーン!今のうちに逃げよう!ここにいたら危ないぞ!」
「威張ることしかできない軟弱物どもめぇ!老人を敬う心もない――」
彼女の体が大きく震え、がくりと膝をついて激しく咳き込み始める。
「げほ!げほげほ!」
「ジェーンっ!?催涙ガスを吸い込んでしまったのかっ!?」
顔色が徐々に青くなるジェーンを背負いながら、俺は全力でその場から離れた。
――――――
「げほげほっ!げほーっ!」
「しっかりしてくれジェーン!サムさんっ、ジェーンの容態はどうなってますっ?」
ジェーンのアパートで彼女をベッドに安置し、何度か水を飲ませても咳が止まらないのを怖れた俺は時折市場で看病をしているサム医師を連れ、彼女の容態を見せた。
携帯用診査端末で何度かスキャンをしたサムは小さく溜息をした。
「どうやら何かの有毒物質で肺組織が徐々に壊死している。見たこともない毒素だから、中和できるものを探すのもまず望めないな。肺をサイバネ化する以外に助ける道はない」
「そんな…っ」
さっきの催涙ガスに含まれた成分に違いない。
「だったら、今すぐサイバネ手術を―――」
「ウィル、サイバネ手術は非常に高額だ。君たちにそれを支払えるお金なんて持ってるのか?」
「え…、それって、どのぐらい…」
「人工肺は結構需要も大きいからな。手術料まで入るとざっと十万D.C.は必要になる」
「十…っ」
まるでいつものことのように平然とした顔でサムが機材を片付ける。
「資金が用意できたらまた呼んでくれ。…もしできないのなら、元々彼女も随分の高齢だ。そろそろ休むには丁度いいタイミングではないのかね」
「そんなこと…っ!つ、つけにすることはできませんかっ?」
「こちとら慈善事業をやってる訳ではない。いや、そんな無償に近いことをしてくれる医者なんざどこを探してもいないと思うぞ。…今回の往診料ぐらい、まけてあげるよ。すまんな」
謝罪を言うサムの顔は、ただ淡々としていた。暫く呆然と立っていた自分は、容態が悪化していくジェーンを見て、あらためて市場の方に助けを求めに行った。
市場での騒動はすでに鎮静化し、少数の私兵がまだ現場に残って倒れた人々の処理を行っている。他の市場の人々に先ほどの激情は欠片もなく、沈んだ顔をしては自分の店の片付けをしていた。
「ジェーンが?…すまないがさすがにそんな大金は出せんな」
「彼女には一応世話にはなっていたが…こっちも次の食い扶持を探さないといけないからなあ…」
「元々イカレてんだ。そろそろ楽にしてあげても良い時期じゃないか…」
予想はしていたが、先ほど生活の場所を奪われたばかりの彼らに、当然ジェーンに構ってあげられる余裕などなかった。それでも、ひょっとしたらという思いで俺は必死に尋ね続けた。
「…モーガンさん!」
いつも以上に仏頂面なモーガンに俺は声をかけてみた。
「…そうか、ジェーンの奴が…」
「ああっ。このままだとジェーンが死ぬんだっ。お願いしますっ、俺がしっかり働いて返しますから、今はどうか金を融通してくれませんかっ!?」
モーガンは手に持った荷物を置いて、ゆっくりとタバコに火をつけては吐き出す煙とともに溜息する。
「悪いことはいわねえ。あきらめなウィル」
「え…」
「俺は言ったよな、他人に深く関わるな、と。今の時代で生きるには一番大事なルールだ。そもそもあれほどの金額を出せる奴が市場にいるかよ。あっても他人のためよりもまず自分に使うのが人の情ってもんだ。誰かが助けると信じてるのなら…あんたはジェーンに毒されすぎだ。今回を機に縁を切るのが身の為だぞ」
まるで頭が金槌に打たれたような衝撃だった。いや、或いはモーガンの言うとおりかも知れない。ヘンリーもまた、俺やダニーのために身を挺したからこそ命を落としたんだ。正義感が先走って無駄死にするのがこの時代のルールなら、狂った一人の老婆のために金を貸してくれる人はそれこそ狂人だろう。
「俺も早く次の店の場所をさがさねえと。あんたは―――」
モーガンが応えるよりも先に、俺はその場を離れた。
――――――
「ふぅー…っ、ふぅー…っ」
苦しそうなジェーンの傍で、俺は悔しさのあまりに涙を流していた。
「…うぅ…っ、くそっ…!」
「…これ、ウィル…」
今でも死にそうな目で俺を見るジェーンがその震えた手で軽く自分の頭を叩いた。
「だめだよ…乱暴な言葉遣い、しちゃあ…。隣人さんが、怖がるじゃないか…」
「ジェーン…っ」
とめどない涙が滝のように目から流れ、ジェーンの布団を濡らしていく。
「そんなのどうでもいいっ!隣人に優しく接しても、いいことなんの意味もないんだ!こんな時に、誰もジェーンを助けてくれないじゃないか…っ」
ジェーンの苦しそうな目が俺を見つめる。
「寧ろ損するばかりで…っ!何の見返りもないことばっかりして…っ!」
「…違うさね」
憤慨で震える俺の手をジェーンは弱々しいその手で包んでくれた。
「もとより…見返りのためにそれをしてる訳でもない…それに…アタシにはちゃあんと、見返りは貰ってるさえ…こんな、物狂いの老婆に、ずっと一緒にいてくれる…あんたが、いるじゃないか…」
俺は目を大きく見開いた。
「ジェーン…?まさか、正気に…っ」
「…げほっ!げほぉー!」
一段と大きく咳き込んでは血を吐き出す彼女。
「ジェーン!しっかりしてジェーン!」
これ以上返事ができないのか、ジェーンは先ほど以上に苦しそうな息遣いをし、視線ももはや上の空だった。
「どうすれば…っ、このままじゃ本当に…っ!」
ブブー
このときだった。インターホンが鳴いたのは。
「誰だよこんな時に…っ」
カメラ映像を見ると、昼で見たサラリーマンと同じ、いや、それ以上にきっちりとした黒スーツを着た男だった。昼の出来事で思わず頭に来た俺が罵倒する。
「なんだおまえっ、今度はジェーンのアパートまで押収しにきたのか企業のクソヤロウ!」
男は眉一つ動かず、何かの医療注射用シリンダを取り出して見せた。
「…ここはジェーン宅で間違いないな。彼女の容態は存じている。これが見えるか。応急用の医療シリンダだが、これを注射すれば彼女の容態を安定させることができる」
「なんだって…」
「詳しい話はその後でするが、今の彼女は一刻を争う状態だと思う。先に入れてもらえないかね」
新手の押入り強盗か?と思って暫く迷ったが、ジェーンの容態が危ないのは事実だし、あの時は藁にも縋りたい気持ちだった。
自衛用のスタンガンを隠し持ちながら男を部屋の中に入れた。俺に監視されながら、彼がシリンダを注射すると、さっきまで凄く苦しそうなジェーンの呼吸は段々と安定し、やがて熟睡しているのを見て俺は思わず舌を巻いた。
ジェーンの布団をかけなおすと、俺はキッチンの食卓で例の男と向かい合って座った。改めて見ると、サラリーマンにしては精悍な体格で、鋭く冷たい彼の視線に思わず体が震えた。
「自己紹介しよう。私はクアッドフォース社の社員で、ボランティアを募集している」
「クアッドフォース社…ボランティア…?」
俺は男から差し出された名前入り名刺をマジマジと見つめた。
「単刀直入に言おう。そこのジェーン女史の治療をわが社が行う代価として、君にはわが社の戦闘要員として入社して頂きたい」
「入社だって…?」
いきなりのオファーに驚くが、当然それよりも警戒心の方が遥かに上回った。
「あんた舐めてるのかっ?俺みたいな戦闘要員って、ようは少年兵が欲しいって訳だろっ?そんなのどこかのストリートで孤児たちを捕まえれば一杯あるんじゃないかっ!わざわざそんな手間かけてスカウトしに来るなんざ、そんな話信じられるかっ!」
激昂して名刺を机に投げ出しても、男は顔色一つも変えなかった。
「…確かにこのまま信じろというには無理があるか。もう少し具体的に話そう」
机の名刺を男は自分の胸ポケットに仕舞う。
「私達はある大きな計画の実験候補を探している。詳しい内容は明かせないが、大変大掛かりで繊細な計画でね。孤児を誘拐して無理やり従わせるための記憶操作や洗脳という要素は極力排除し、自力で積極的に参加してくれる人でなければいけないものだ」
「大きな…計画…?」
「の実験候補だ。君がすぐに計画の候補になれる訳ではない。入社して、我らの業務を最後までこなして生き残り、そこで始めて実験体となる資格が得られる。そしてその最終段階では命に関わることにもなるが…。もしそれを最後までやり通せば、きみは全てを凌駕する力を手に入れると断言しよう」
「全てを凌駕する力って…」
俺は思わず苦笑した。いかにも企業らしい宣伝文句で、しかもよりによって全てを凌駕する力とか子供すら笑い出そうな幼稚な物言いに。…けれど目の前の男の冷たい目は、その真剣さを訴えていた。
「おおげさだな。それってどんな奴だ。新型アームドスーツか超能力者の開発か?それとも新しいサイボーグ技術?」
「それら全てを覆すほどの力、とだけ言っておこう」
男が腕時計タイプの端末を操作すると、無数のホログラムモニターが彼の周りに浮び、そこには俺が孤児だった頃から今までの映像や、身体情報などのデータが映りだされていた。それだけで、彼の言う会社はただの会社ではないことが分かる。
「計画の精神的、肉体的な適合者を探すために、我々はAIや監視員による候補探しを前から行ってきた。多くのシティをしらみつぶしにな。それだけ大掛かりな計画だ。君のような先天的遺伝子適合者は珍しいゆえ、こちらも資金は惜しまない。もっとも、さっき言ったように、適合する条件はあっても実験体になれるかどうかは君のがんばり次第だ。例え実験体になれなくても、それまでの業績次第でそのままわが社の正社員として採用することもできる」
「…ふん、聞こえはいいけど、ようはあんたらの実験体になれって話なんだろ?」
「そうだ。君には全てをわが社に捧げて実験体になってもらう。そのフラスコを破って自由になれるかどうかは、君次第だがな」
俺は暫し考え込んだ。
「あと、これも先に言っておくが、一度承諾したら君はわが社の所有物になり、今までの経歴は全て消されることが決まりだ。それはつまり、ジェーン女史とはこれっきりで二度と会うことはできなくなる」
「ジェーンと…?」
「その代わり、彼女は必ず治療することを約束しよう。なんなら、彼女を治療してから契約書に署名してもかまわない。だがもしここで断ったら、ここまでの会話は記憶操作で消してもらい、治療の話も当然なくなる。よく考えたまえ」
俺はいまやぐっすりと眠っているジェーンの方を見た。…正直、力とかなんとか俺にはまったく関係ないし、欲しいとも思わない。…けれど、それでジェーンが本当に助かるのなら…。彼女がなければ、俺は元々ゴミのように死んでいたんだ。この命を彼女に返すのに、躊躇う必要なんてなかった。
「…分かった。条件を飲もう。でもジェーンは必ず助けるんだぞっ」
「承知した。今すぐ医療班を呼ぼう。…わが社へようこそ、ウィルフレッドくん」
何の感慨もない無表情の顔のまま差し出された男の手を握り返す。
それが俺のミハイルとの、『組織』との最初の接触だった。
【続く】
「そう、Aはこう書いて…」
彼女は時折、教育端末を使って自分に読み書きを教えてくる。そのお陰で俺は周りのの情報をより深く取り入れるようになり、ネット接続端末を通して地球への認知を飛躍的に広げることができた。
かつて地球で行われた、環境汚染による食料危機やエネルギー問題を解決するための地球環境改造計画と月面コロニー建設計画。そのために建てられた四基の軌道エレベーター。そして全てを変えた世界大戦の勃発。
戦争の発端や正確な時間は今やどこにも記録されておらず、自称歴史研究家や物好きな同好会の推測しかないが、現在確証のある出来事は、戦争の最中でエレベーターの一基「ベート」が倒壊し、それをトリガーに起こった世界中の核戦争。これにより決定的な気候崩壊が発生し、『永い冬』と呼ばれる氷河期が始まった。
各国は冬から逃れるために軌道エレベーターの争奪を開始し、やがて世界中の政府が崩壊する。人々は激変した地球環境から逃れるよう、安定した太陽エネルギー源を維持できる残り三基のエレベーター、「アレフ」、「ギメル」、「ダレット」に集まり、現在のシティの雛形が形成された。食料確保のためにドームで改良動植物を栽培する農場の技術が確立したのもこの時期だといわれている。
それからまた数世紀を経てようやく気候が安定し、三つの軌道エレベーターシティを中心に都市国家と、それらによるシティ連合が樹立された。それが今に言う『エレベーターシティ連合』で、それぞれのシティをまとめて『三大シティ』と呼ばれている。俺がいつも見ている軌道エレベーターは「アレフ」で、自分がいるこのシティはその下にあるアレフシティの衛星都市の一つ、ダバールシティのようだ。
自分がいる世界がどのような形を理解したことは、意外にも自我の確立に繋がった気もした。なによりも、初めて触れる情報はどれもこれも新鮮で、俺はとにかく無我夢中にそれを貪ってた。
勿論、この前モーガンが言ってたように、ジェーンが妙に変なルールを押し込んでくることも少なくなかった。
「人に会えばちゃんと挨拶をっ、店が暇ならお隣さんの手伝いに行きなさいっ、何か貰ったらちゃんと礼を言うようにっ」
あの時の自分でもさすがに、この時代でああいうルールは少しダサイと感じなくもなかった。企業のサラリーマンでさえもそこまできっちりと要求することはないと今なら分かる。
「人にはちゃんと思いやりを。困った人は助ける。友達の悩みは聞いてあげる。互いに助け合うのは当たり前なことさね」
月に一日、ハンバーグを人々に無償提供するとき、ジェーンはいつもこの言葉を口にしていた。さすがに時代錯誤とも感じられる彼女の言葉には俺でも苦笑を禁じえなかった。いったいどんな錯乱の仕方をしたら、こんな現実的でない言葉を言えるのか。けれど、俺はそれをするのに意外と嫌いとは思わなかった。
「モーガンさん、倉庫の掃除終わりましたよ」
「…そーか」
相変わらずもタバコを吸いながら興味なさそうな顔をするモーガン。
「ふぅ、ジェーンは元からイカレてるが、あんたも相当なもんだな。律儀にあいつのことを真に受けてよ。妙な口調もしてケツがむずむずしらぁ。言っとくが掃除はあんたが勝手にやってることだから、給料とかはあげねえぞ」
「別にいいです。僕が好きにやってることですし、それに…。僕の口調とかそういうの、モーガンさんには関係ないことですよね」
珍しくもモーガンが苦笑する。
「違いねえ。――むやみに他人に深く関わるな。この時代における鉄則の一つだ。…もうここにやることはねえぞ、早く失せな」
モーガンらしいと思いながら、俺は小さく会釈してからその場を離れようとした。
「…あー、ちょっと待て」
「はい?」
一つの小さな栽培リンゴがこっちに投げ込まれた。
「つまみの残りだ。そいつの味は嫌いだから、ついでに処理しな」
「―――ありがとうっ、モーガンさん」
それ以上返事はせず、モーガンはめんどくさそうに新しいタバコにサイバネフィンガーで火をつけた。
俺のお節介はモーガンだけでなく、市場のほかの店にもしてあげていた。当然最初は誰もが怪訝とし、ジェーンのようにどこか精神がイカれたのかと思い込んでた。それが自分の意志でやってるのを知ると、これまたお決まりに「老もうなジェーンのことを真に受けなくてもいい」という忠告は来るけど、俺は当然いつも苦笑して流した。
「今日もよくがんばったねぇウィル」
一日の終わり、ジェーンの家に戻ると彼女は決まって得意のハンバーグを夕食として作ってくれる。
「ありがとうジェーンっ、いただきま~すっ」
すっかり馴染んだジェーン仕込の礼儀作法に沿って、俺はそれを美味しそうに頬張り、ジェーンもまたそのシワまみれの顔に微笑ましい笑顔を見せてくれる。
イカレたと言われたっていい、馬鹿馬鹿しいと笑われてもいい。なぜなら、誰にも省みずに無視し続けられ、何もかもが冷たく重く圧し掛かるこの残酷な世界で俺を救ってくれたのは、家族という温もりを教えてくれたのは、実の親でも誰でもない、もはや自分の息子の区別もつかなくなった、目の前の狂った老婆なのだから。
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エリネの前の景色が再び朦朧となる。
「あ、これは…、さっきのようにこのまま進めばいいのですかミーナ様」
「いや、ちょうどマナの流れを調整したいところだ。少しそこで待ってくれるか」
「うん、分かりました」
エリネの表情の変化にレクスが気付く。
「…なんだか嬉しそうだねエリーちゃん?」
「はい、だって…ウィルさんがジェーンさんに出会えたことが、なんだかとても嬉しくて」
「うん、分かるよその気持ち。あんな世界でも人の善性はなくなっていないんだなって思うよね」
「俺も分かるよエリー。あのジェーンって人、兄貴にとってのシスターみたいなもんだよな。その、心が壊れていたってのが、ちょっと皮肉だけど…」
「ジェーンの行動原理はどうであれ、それでウィルくんが平安を得られたことは紛れもない事実よ。それだけ分かれば十分じゃない」
そういうラナの顔もどこか微笑ましそうに笑っていた。
「…にしても、ウィルくんの世界って本当にハードだよねえ。みんも見てた?」
レクスは、ウィルフレッドが触れるネット端末を通して見た数々の歴史映像や資料のことを指していた。
「ああ…、軌道エレベータだっけ、あんなドデカいものが遥か上空から地面に叩きつけられてよ…神の鞭みたいのがあんのなら、あんな形しているのかもな…」
「それにあの世界の町…シティでしたでしょうか。その外の殆どが荒涼化してるというのも、中々想像できないですよね…」
マナの調整が終わったのか、ミーナが話に割り込む。
「それより、だ。今のウィルを見る限り、このまま良い話で終わる訳でもないだろう。心の構えはした方がいい。エリー、聞こえるな?」
「はい、私はいつでもいけますっ」
「うむ、用意できたら進むといい」
ウィルフレッドの曖昧な記憶軸の中で、エリネは強く手を胸に握りしめ、少し息を吸っては再び歩き出した。
(ウィルさん…。私、しっかりと受け止めますから…っ)
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ジェーンと一緒に暮らして数年の年月が過ぎた。当初はイカレ野郎の認識だった俺もいまやすっかり市場に溶け込み、「変わり者のウィル」、「お人よしのウィル」と親しみを込めた名で呼ばるようになっていた。自分が世間の基準からおかしいのは承知しているから、特に悪い気はしなかった。
だがこの過酷なメガロシティが、そのまま俺達に安寧な日々を過ごすことを許す訳がなかった。
「え~、市民の皆様。ここの土地はわが社クレッセンツが買い取りました。三日後に建設工事が行われますので、それまでに搬出作業を終えてください。皆様の補償手当てなどを含めた告知メッセージは後ほどそれぞれの個人端末などに送られますので、ご確認下さい」
いかにもサラリーマンらしいスーツを着た会社員が、ライオットシールドやライフルなどでフル武装された企業私兵たちを従え、市場のスピーカーで退去布告を告げる。いきなりの出来事に当然市場の皆は不平を訴えた。
「三日で搬出だとっ?」
「なにこの補償金額っ、全然足りないじゃないのっ!」
「冗談じゃないっ!何十年も続けてきたこの店を壊すというのかっ!」
間も無くして私兵隊と現地民の間で互いに対峙するラインが市場の広場で成される。「企業の犬はでていけっ!」
「もっと補償金をよこせってんだ!」
石や空缶が飛ばされる行列の中で、店の鉄棒を持って振り回すジェーンの姿もやはりいた。
「出ていきなさえ!ここはアタシの店だよ!勝手に壊すんじゃないっ!」
「ジェーンっ、無茶はしないでここから離れよう…!」
なぜかヘンリーが撃たれた光景がジェーンと重なり、俺は強い不安を感じてはジェーンをその場から連れ出そうとする。
そして見た、興奮する群衆を見てサラリーマンが私兵の指揮官らしき人物に頷くのを。発砲音と悲鳴が広場に響き渡った。催涙ガスグレネード、スタン用ゴム弾は勿論定番だが、ガスに咽られて激しく嘔吐しては倒れて動かなくなった人や、ゴム弾に撃たれて骨が砕いた音をして倒れる人も大勢いた。
暴徒鎮圧時に起こった不幸な事故死…、わざとガスの成分を過剰に盛り込む、または致死成分を混ぜる、ゴム弾を規定以上のパワーで急所を狙うなどの手法はシティの保安隊にも良く使われる常套手段だ。鎮圧用装備であることさえ確認すれば、シティの法律はその他の出来事を大抵見過ごす。
「「「うわあああぁっ!」」」
現場はすぐに混乱に陥った。逃げ惑う人達もいれば、命がけで私兵達に突っ込む人もいた。俺は即座に服からちぎった布で鼻と口を覆い、ジェーンが彼らに踏み潰されないよう必死にかばいながら後退する。
「ジェーン!今のうちに逃げよう!ここにいたら危ないぞ!」
「威張ることしかできない軟弱物どもめぇ!老人を敬う心もない――」
彼女の体が大きく震え、がくりと膝をついて激しく咳き込み始める。
「げほ!げほげほ!」
「ジェーンっ!?催涙ガスを吸い込んでしまったのかっ!?」
顔色が徐々に青くなるジェーンを背負いながら、俺は全力でその場から離れた。
――――――
「げほげほっ!げほーっ!」
「しっかりしてくれジェーン!サムさんっ、ジェーンの容態はどうなってますっ?」
ジェーンのアパートで彼女をベッドに安置し、何度か水を飲ませても咳が止まらないのを怖れた俺は時折市場で看病をしているサム医師を連れ、彼女の容態を見せた。
携帯用診査端末で何度かスキャンをしたサムは小さく溜息をした。
「どうやら何かの有毒物質で肺組織が徐々に壊死している。見たこともない毒素だから、中和できるものを探すのもまず望めないな。肺をサイバネ化する以外に助ける道はない」
「そんな…っ」
さっきの催涙ガスに含まれた成分に違いない。
「だったら、今すぐサイバネ手術を―――」
「ウィル、サイバネ手術は非常に高額だ。君たちにそれを支払えるお金なんて持ってるのか?」
「え…、それって、どのぐらい…」
「人工肺は結構需要も大きいからな。手術料まで入るとざっと十万D.C.は必要になる」
「十…っ」
まるでいつものことのように平然とした顔でサムが機材を片付ける。
「資金が用意できたらまた呼んでくれ。…もしできないのなら、元々彼女も随分の高齢だ。そろそろ休むには丁度いいタイミングではないのかね」
「そんなこと…っ!つ、つけにすることはできませんかっ?」
「こちとら慈善事業をやってる訳ではない。いや、そんな無償に近いことをしてくれる医者なんざどこを探してもいないと思うぞ。…今回の往診料ぐらい、まけてあげるよ。すまんな」
謝罪を言うサムの顔は、ただ淡々としていた。暫く呆然と立っていた自分は、容態が悪化していくジェーンを見て、あらためて市場の方に助けを求めに行った。
市場での騒動はすでに鎮静化し、少数の私兵がまだ現場に残って倒れた人々の処理を行っている。他の市場の人々に先ほどの激情は欠片もなく、沈んだ顔をしては自分の店の片付けをしていた。
「ジェーンが?…すまないがさすがにそんな大金は出せんな」
「彼女には一応世話にはなっていたが…こっちも次の食い扶持を探さないといけないからなあ…」
「元々イカレてんだ。そろそろ楽にしてあげても良い時期じゃないか…」
予想はしていたが、先ほど生活の場所を奪われたばかりの彼らに、当然ジェーンに構ってあげられる余裕などなかった。それでも、ひょっとしたらという思いで俺は必死に尋ね続けた。
「…モーガンさん!」
いつも以上に仏頂面なモーガンに俺は声をかけてみた。
「…そうか、ジェーンの奴が…」
「ああっ。このままだとジェーンが死ぬんだっ。お願いしますっ、俺がしっかり働いて返しますから、今はどうか金を融通してくれませんかっ!?」
モーガンは手に持った荷物を置いて、ゆっくりとタバコに火をつけては吐き出す煙とともに溜息する。
「悪いことはいわねえ。あきらめなウィル」
「え…」
「俺は言ったよな、他人に深く関わるな、と。今の時代で生きるには一番大事なルールだ。そもそもあれほどの金額を出せる奴が市場にいるかよ。あっても他人のためよりもまず自分に使うのが人の情ってもんだ。誰かが助けると信じてるのなら…あんたはジェーンに毒されすぎだ。今回を機に縁を切るのが身の為だぞ」
まるで頭が金槌に打たれたような衝撃だった。いや、或いはモーガンの言うとおりかも知れない。ヘンリーもまた、俺やダニーのために身を挺したからこそ命を落としたんだ。正義感が先走って無駄死にするのがこの時代のルールなら、狂った一人の老婆のために金を貸してくれる人はそれこそ狂人だろう。
「俺も早く次の店の場所をさがさねえと。あんたは―――」
モーガンが応えるよりも先に、俺はその場を離れた。
――――――
「ふぅー…っ、ふぅー…っ」
苦しそうなジェーンの傍で、俺は悔しさのあまりに涙を流していた。
「…うぅ…っ、くそっ…!」
「…これ、ウィル…」
今でも死にそうな目で俺を見るジェーンがその震えた手で軽く自分の頭を叩いた。
「だめだよ…乱暴な言葉遣い、しちゃあ…。隣人さんが、怖がるじゃないか…」
「ジェーン…っ」
とめどない涙が滝のように目から流れ、ジェーンの布団を濡らしていく。
「そんなのどうでもいいっ!隣人に優しく接しても、いいことなんの意味もないんだ!こんな時に、誰もジェーンを助けてくれないじゃないか…っ」
ジェーンの苦しそうな目が俺を見つめる。
「寧ろ損するばかりで…っ!何の見返りもないことばっかりして…っ!」
「…違うさね」
憤慨で震える俺の手をジェーンは弱々しいその手で包んでくれた。
「もとより…見返りのためにそれをしてる訳でもない…それに…アタシにはちゃあんと、見返りは貰ってるさえ…こんな、物狂いの老婆に、ずっと一緒にいてくれる…あんたが、いるじゃないか…」
俺は目を大きく見開いた。
「ジェーン…?まさか、正気に…っ」
「…げほっ!げほぉー!」
一段と大きく咳き込んでは血を吐き出す彼女。
「ジェーン!しっかりしてジェーン!」
これ以上返事ができないのか、ジェーンは先ほど以上に苦しそうな息遣いをし、視線ももはや上の空だった。
「どうすれば…っ、このままじゃ本当に…っ!」
ブブー
このときだった。インターホンが鳴いたのは。
「誰だよこんな時に…っ」
カメラ映像を見ると、昼で見たサラリーマンと同じ、いや、それ以上にきっちりとした黒スーツを着た男だった。昼の出来事で思わず頭に来た俺が罵倒する。
「なんだおまえっ、今度はジェーンのアパートまで押収しにきたのか企業のクソヤロウ!」
男は眉一つ動かず、何かの医療注射用シリンダを取り出して見せた。
「…ここはジェーン宅で間違いないな。彼女の容態は存じている。これが見えるか。応急用の医療シリンダだが、これを注射すれば彼女の容態を安定させることができる」
「なんだって…」
「詳しい話はその後でするが、今の彼女は一刻を争う状態だと思う。先に入れてもらえないかね」
新手の押入り強盗か?と思って暫く迷ったが、ジェーンの容態が危ないのは事実だし、あの時は藁にも縋りたい気持ちだった。
自衛用のスタンガンを隠し持ちながら男を部屋の中に入れた。俺に監視されながら、彼がシリンダを注射すると、さっきまで凄く苦しそうなジェーンの呼吸は段々と安定し、やがて熟睡しているのを見て俺は思わず舌を巻いた。
ジェーンの布団をかけなおすと、俺はキッチンの食卓で例の男と向かい合って座った。改めて見ると、サラリーマンにしては精悍な体格で、鋭く冷たい彼の視線に思わず体が震えた。
「自己紹介しよう。私はクアッドフォース社の社員で、ボランティアを募集している」
「クアッドフォース社…ボランティア…?」
俺は男から差し出された名前入り名刺をマジマジと見つめた。
「単刀直入に言おう。そこのジェーン女史の治療をわが社が行う代価として、君にはわが社の戦闘要員として入社して頂きたい」
「入社だって…?」
いきなりのオファーに驚くが、当然それよりも警戒心の方が遥かに上回った。
「あんた舐めてるのかっ?俺みたいな戦闘要員って、ようは少年兵が欲しいって訳だろっ?そんなのどこかのストリートで孤児たちを捕まえれば一杯あるんじゃないかっ!わざわざそんな手間かけてスカウトしに来るなんざ、そんな話信じられるかっ!」
激昂して名刺を机に投げ出しても、男は顔色一つも変えなかった。
「…確かにこのまま信じろというには無理があるか。もう少し具体的に話そう」
机の名刺を男は自分の胸ポケットに仕舞う。
「私達はある大きな計画の実験候補を探している。詳しい内容は明かせないが、大変大掛かりで繊細な計画でね。孤児を誘拐して無理やり従わせるための記憶操作や洗脳という要素は極力排除し、自力で積極的に参加してくれる人でなければいけないものだ」
「大きな…計画…?」
「の実験候補だ。君がすぐに計画の候補になれる訳ではない。入社して、我らの業務を最後までこなして生き残り、そこで始めて実験体となる資格が得られる。そしてその最終段階では命に関わることにもなるが…。もしそれを最後までやり通せば、きみは全てを凌駕する力を手に入れると断言しよう」
「全てを凌駕する力って…」
俺は思わず苦笑した。いかにも企業らしい宣伝文句で、しかもよりによって全てを凌駕する力とか子供すら笑い出そうな幼稚な物言いに。…けれど目の前の男の冷たい目は、その真剣さを訴えていた。
「おおげさだな。それってどんな奴だ。新型アームドスーツか超能力者の開発か?それとも新しいサイボーグ技術?」
「それら全てを覆すほどの力、とだけ言っておこう」
男が腕時計タイプの端末を操作すると、無数のホログラムモニターが彼の周りに浮び、そこには俺が孤児だった頃から今までの映像や、身体情報などのデータが映りだされていた。それだけで、彼の言う会社はただの会社ではないことが分かる。
「計画の精神的、肉体的な適合者を探すために、我々はAIや監視員による候補探しを前から行ってきた。多くのシティをしらみつぶしにな。それだけ大掛かりな計画だ。君のような先天的遺伝子適合者は珍しいゆえ、こちらも資金は惜しまない。もっとも、さっき言ったように、適合する条件はあっても実験体になれるかどうかは君のがんばり次第だ。例え実験体になれなくても、それまでの業績次第でそのままわが社の正社員として採用することもできる」
「…ふん、聞こえはいいけど、ようはあんたらの実験体になれって話なんだろ?」
「そうだ。君には全てをわが社に捧げて実験体になってもらう。そのフラスコを破って自由になれるかどうかは、君次第だがな」
俺は暫し考え込んだ。
「あと、これも先に言っておくが、一度承諾したら君はわが社の所有物になり、今までの経歴は全て消されることが決まりだ。それはつまり、ジェーン女史とはこれっきりで二度と会うことはできなくなる」
「ジェーンと…?」
「その代わり、彼女は必ず治療することを約束しよう。なんなら、彼女を治療してから契約書に署名してもかまわない。だがもしここで断ったら、ここまでの会話は記憶操作で消してもらい、治療の話も当然なくなる。よく考えたまえ」
俺はいまやぐっすりと眠っているジェーンの方を見た。…正直、力とかなんとか俺にはまったく関係ないし、欲しいとも思わない。…けれど、それでジェーンが本当に助かるのなら…。彼女がなければ、俺は元々ゴミのように死んでいたんだ。この命を彼女に返すのに、躊躇う必要なんてなかった。
「…分かった。条件を飲もう。でもジェーンは必ず助けるんだぞっ」
「承知した。今すぐ医療班を呼ぼう。…わが社へようこそ、ウィルフレッドくん」
何の感慨もない無表情の顔のまま差し出された男の手を握り返す。
それが俺のミハイルとの、『組織』との最初の接触だった。
【続く】
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