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第十章 大地の谷

大地の谷 第十一節

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夜も深くなり、エウトーレの小屋の傍にあった湖の湖畔で、カイは座り込んだまま湖面にたゆたう薄明かりの群を見つめていた。湖畔に茂る落ち着いた色の花草もまた不思議な明かりを発しているようで、とても穏やかな景色だった。

「カイくん、まだ寝てなかったのですか?」
振り返ると、笑顔を自分に向けるアイシャが立っていた。空の月明かりと谷の不思議な雰囲気に相まって、そよ風に吹かれる彼女はまるで何かの精霊と見違える程に幻想的で、美しかった。

「ああ、ちょっと、寝つけられなくて…」
赤く染める頬を隠すように顔を逸らすカイ。
「となり、座っていいかしら?」
「いいよ」
少し横にずれるカイの傍にアイシャが座り込む。入浴し終えた香りがふわりと伝わってきて、カイの胸が軽く高鳴る。その気持ちに反応したかのように、明かりの群が水面に小さな波紋を打つ。

(あ…カトーさんがくれた双色蔦…)
カトーの腕につける双色蔦の腕輪を見て、アイシャの胸もまたトクンと小さく弾いた。

まだ恋が成就してない人は、それが無事結果を実ることと、相手へのアプローチとして双色蔦の飾りを身に着けるのが慣習となっていた。胸の微熱を誤魔化すように、アイシャは湖面に視線を移すと、すぐに湖面上で優雅に舞う光の群に見入った。

「…凄く綺麗ですよね。この旅でまさかこんな綺麗な景色が見られるだなんて」
「あの光、妖精蛍という虫ってエウトーレが言ってたな。谷の外でも見られる虫だけど、ここの妖精蛍の光の色はこの谷特有のもので、悲しむ人の心を癒す不思議な効果があるってさ」
「そうだったのですか。確かにこうして見つめると気持ちが不思議と落ち着けるし、なんだか素敵な話ですね」
「そうだな…」

二人は暫く黙したまま、目の前の光景を見続けた。

「…アイシャ、この前に話してた俺のオヤジと母さんの話、覚えてるか」
「ええ」
ソラ町でカイが告げた、身分違いにより離れ離れになって悲しみに暮れてた彼の両親のことを思い出すアイシャ。

「俺は、勇気を搾り出して母さんに会わずに逃げ続けたオヤジが赦せなかった。その気持ちは今でも変わらない。けど…」
「けど…?」
「さっきの祈りを見てふと思うようになったんだ。オヤジは多分オヤジなりに悩み続けてたかも知れないって。母さんのこともそうさ。オヤジに会わずにいるのも、ひょっとしたら母さんなりの理由があったかもって…」

「…やっぱり、さっきのエウトーレ様の話を聞いたから?」
「或いはさっきの祈り、オヤジや母さんも対象に含まれてたかもしれない…」
ふと自分の手に、アイシャの暖かい手が重なったのを感じたカイ。
「きっと、カイくんは元から心のどこかでご両親のことを既に赦していたんじゃないでしょうか。ここの祈りはあくまでそれを知るきっかけだと、私は思ってますよ」

「…そう、かもな」
アイシャの微笑みにカイもまたつられて微笑む。
「けど、それでも俺は、感情は無理に隠さないという考えを変えはしないさ。オヤジ達を赦すこととそれとは全然違うことだから」
「そうですね。私もそんなカイくんの方が安心できますし、好きなんですから」

その言葉で小さく胸を打たれるカイ。
「…それ、やっぱり弟という意味で、だよな?」
「さあ、どうでしょうか」
意図がつかめないアイシャの笑顔に、カイは小さく苦笑する。
「意地悪ななこった」
「優しいに甘えたい年頃ですから」

お互い小さく笑うと、再び湖に舞う明かりに視線を移す二人。
「…カ――」「なあアイシャ」
何か言いたげなアイシャよりも先にカイが呼びかけた。
「って、ごめん、何か言いたかったのかい?」
「う、ううん。なんでもないです」
アイシャはふるふると頭を振って否定し、エウトーレが語った神器の件について相談しようとした気持ちを胸の中に潜めた。

「カイくんは何か言いたかったのですか?」
先ほどので少し勢いを失った思いを改めて確認するようにぐっとするカイ。
「その、いきなりで申し訳ないけど…。俺に貴族の礼儀作法をレクチャーしてくれないか?」
突拍子もないお願いに、アイシャは少し目を見開く。

「いきなりどうしたのカイくん?」
「俺、さっきからずっと考えてたんだ。もし母さんとオヤジが勇気を出して一緒にいられたとしても、それで本当にうまくいくかどうかって…。カトーとアリスもそうだけど、身分の違いで乗り越えるべき壁っていうのは、なにもそれだけじゃないよな」
「…そう、ですね」

「カトーには、アリスと一緒にいるのが釣り合わないのなら、釣り合うように努力しないとって言ったけど、実際カトーはがんばろうとしてたし、アリスだってそれを承知して覚悟を背負ってたもんな。…その、めっちゃ図々しいけどさあ、もし、アイシャが俺を受け入れてくれたら、俺だってがんばらなくちゃいけなくなるよな。貴族の生活をこれっぽっちも分からない自分じゃ、今から慣れておかないと大変だと思うから」

無意識にカイが拳を握る。
「それだけじゃない。巫女であるアイシャと一緒にいるようになったら、戦いもより厳しいものになるのに違いない。だから戦闘技術も、今までの猟師としてのスキルよりももっと磨いておかないと」
さわさわと吹く風が湖に波紋を起こしていき、蛍の明かりが小さく飛び乱れる。

「そんでさ、戦闘技術は兄貴にお願いするとして、礼儀作法の方はアイシャにお願いしたいと思ったんだ」
湖を波打つ風がアイシャの髪をなびかせる。
「それは、別に構いませんけど…、レクチャーならラナちゃんやレクス様もできますよね?なぜ私に…?」

「そりゃ、ラナ様の作法は基本的にヘリティアのものだし、レクス様は…ほら、ちょっとアレ、なんだからさ」
意味深に笑うカイにアイシャもつられて笑う。

「それにさ…俺、カトー達のことで思ったんだ。一緒にいたい人と相談せずに一人で突っ走っても意味ないんじゃないかって。二人で悩みをして、すれ違いから逃げずに色々と乗り越えておかないと一緒に長く歩むことはできないかもしれない。危うく離ればなれになってしまいそうなカトーや、オヤジ達のような結果にならないためにも、俺は…君と一緒になれるよう、あの神弓に相応しい人になりたい。アイシャと、君と一緒にがんばっていきたい。たとえこの後アイシャが俺を見限るとしても」
「カイくん…」

アイシャの心が小さく打たれ、暖かい気持ちが満ち溢れていく。カイはカイなりに色々と考えて、それを隠すことなく自分に打ち明けたことに。さっきまで神弓のことを悩んでた自分がバカらしく見えるほど、目の前のカイは彼女の目に力強くその存在を輝かせていた。

「ご、ごめん。まるで君が俺を受け入れた前提で話してて…。本当はすごく失礼だよな。まだアイシャは何も決めてないのに。けどここにいると、つい色々と考えて、そう思ったらすぐに行動したくてさ」
「ふふ、それだけにここは不思議な力に溢れているのかもしれませんね」
「そだね、あははは」
頬を赤くするカイに、アイシャは変わらぬ笑顔を送る。

「でもカイくん、すごいですね。自分よりも年下なのに、ちゃんとしっかりと未来のことも考えて、それでいて自分らしさも保てて決して逃げない。…いまだに迷ってる自分とは大違いで…」
少し俯くアイシャ。
「? アイシャ?」
「ううん、なんでもないです。そうですね、他でもない可愛い弟の頼みですもの。ルーネウス王国における礼儀作法、私がしっかりレクチャーしてあげます。ですけど覚悟してくださいね。私が教える以上、手抜きはしませんし、テストや宿題だってちゃんと出しておくのですから」

カイが満面の笑顔を浮かんで力ずよく頷いた。
「ああっ、どんとこい!お姉さんの指導なら俺はとことん頑張ってくからっ!…って、こうじゃないか。その、よろしくお願いいたします…だっけ?」
なんとなく会釈するカイにアイシャが軽く笑い出す。

「ええ、最初の動きとしては及第点ですね。これからもこの調子で頑張ってください。毎回テストに合格したら、ご褒美として頬に口づけ一回してあげますから」
「いっ!?」

トマトのように真っ赤になるカイを見てくすくす笑うアイシャに、彼は小さく口を尖る。
「…からかったなアイシャ?」
「だって、カイくんとても可愛かったから」

ふわりとしたアイシャの笑顔、美しい黄金色の瞳に、湖からの風で靡く彼女の髪から伝わる香りとともにカイの頬を紅潮させ、彼はポリポリと頬をかいて苦笑する。
「…姉さんを持つのって大変だなあ。エリーの気持ちが少しわかった気がするよ」
「ふふ、ごめんなさい。こんな意地悪なお姉さんで」
てへっとするアイシャ。

深くなる夜までに続いた二人の談笑を、月が優しい明かりで谷とともに照らしながら見守り続けた。


******


谷の周辺を覆う雲の隙間から朝日が差し込み、暖かな空気が夜の寒気をあたためる頃。
「ふっ、ふっ、ふっ」
連合軍のキャンプ地から少し離れた場所で、ウィルフレッドはコートを脱いでは片手腕立て伏せやスクワット、そして剣振りなど基本的なトレーニングを繰り返していた。汗一つもかかず、改造されたサイバーボディに基礎体力の鍛錬はあまり意味はないものの、それでも彼はこの世界に来てから常にこれを繰り返してきた。

「ウィルさ~ん」
元気な声とともに、ルルを肩に乗せるエリネが彼に走り寄る。彼は動きを止めて立ち上がると、ツバメの首飾りが朝日に当てられて輝く。
「キュキュッ」「おはようですウィルさん。…ひょっとしたら鍛錬を邪魔してしまったでしょうか」

「おはようエリー、ルル。いや、丁度一区きりしようとするところだ」
「そうですか。…それにしても、ウィルさんも基礎鍛錬をするのですね。その、他意はないですけど、ウィルさんぐらいに強いのならこのような鍛錬はあまり必要ないと思ってました」

ウィルフレッドが小さく笑う。
「どうかな。どちらかと言うと俺のような人こそ初心を忘れないよう基本鍛錬は常にすべきだと思う」
「どうしてでしょうか?」
「自分が無敵の力を手に入れたと奢ると、心に油断が生じてしまうからさ。この力だけに頼ると生身の際に培った感覚も鈍るし、敵に突き入れられる隙も出てくる」

(((いいかてめぇら。アルマになったからといって鍛錬を怠るなよ。銃の扱いだけじゃない、剣術に弓術、基礎トレーニングなど含めて全てだ。でないと痛い目を見るのはお前らの方だからな)))
ギルバートの教訓がまた頭に浮び、ジワリと切ない気持ちが彼の胸に染み出す。

「なるほど…、ウィルさんってしっかりものですね」
彼女の笑顔に微笑み返すウィルフレッド。
「それよりも、何か用があるのか?」
「はい、リアーヌさん達が朝食の用意をしたので呼びに来たんです」
「そうか、分かった」
傍に置いていたシャツやコートを着なおす。

「早く行こう、ルルもお腹を空かせてるだろうしな」「キュッ」
自分を撫でるウィルフレッドの手に気持ち良さそうに擦るルル。
「ふふ、そうですねっ」
エリネが自然とウィルフレッドの手を引き、彼もまた特に気にすることもなく彼女に引かれながら皆のところへと向かった。

――――――

「う~む、昨日でも思ったけど、ここの食事って本当に美味しいよね」
要人用の食卓が置かれた天幕の下、ミーナを除いたレクス達は谷の人達が用意した朝食を美味しそうに満喫しており、彼らを中心に周りにも民達が他の兵士達や騎士に周到に朝食を配っていた。

「ええ、ただの野菜やキノコのサラダがここまで美味くなるなんて、レシピを教えて貰いたいぐらいです」
シャクシャクと食が進むアイシャ達に、ウィルフレッドもまたじっくりとその味を噛み締めていた。この世界の新鮮な野菜自体、既に彼にとって極上の美味なのに、ここの野菜の味はもはやそれらを超えて、ここから出たらもう食べられなくなるのかと心配するぐらいの美味しさだった。

「ほんっとそうだよなっ。ここの野菜の鮮度ってめちゃくちゃ良いんだけど、一体どうやって栽培してるんだろう…もぐもぐ」
口にサラダを一杯詰め込んでいくカイにリアーヌが微笑みながら水を渡す。
「昨日の小麦畑でもお伝えした通り、ここはガリア様が世界の加護と化した土地ゆえ、ここで育まれた命は少なかれその影響が表されてるのです」
「そっか、…ごくごく…うちブラン村のトーマスじいさん。きっとここに永住したくなるな。こんなに美味しい野菜が作れるんだから」

「お兄ちゃんもう少し落ち着いて。…でも本当にそうよね。空気も美味いし、谷に響く音も綺麗ですし、ここにいるだけでとても落ち着くから」
「どうでしょうね。私から言えば少しわ」
ラナはエリネの言葉に反して少し顔を小さくしかめていた。

「ラナ様、まだ昨日エウトーレ様の話を…?」
レクスが少し困ったようにラナを見る。
「そういう訳ではないわ。ここにいる時の落ち着きの気持ちが少し不自然だと言いたいのよ」
「不自然なのか?」
サラダを平らげたばかりのウィルフレッドがその意味を理解しようとする。

「ラナ様の仰るとおりです」
レクス達がリアーヌの方を見た。
「皆様もご存知の通り、いくらガリア様の恵みに満ちていても、この谷自体は苦しみと悲しみなどの感情に苛まれる魂に安息を与える墓なのです。故にここではそういった感情が満ち溢れておりますし、それを静めるための安寧に包まれています。墓守である谷の民でない人がここに長く居座ると、その悲しみに飲み込まれて心が沈み、情熱が消えてしまいます」

「なるほど…確かに昨日の話があったとしても、ここの民達の落ち着き方はちょっと普通じゃない気がするからね」
妙に納得したようにレクスはリアーヌと他の民達のどこか達観している落ち着いた表情を見る。

「ええ、ですので長居せずに早めに旅たった方が宜しいかと。後悔、振り返り、達観…それは老いて死に行くもの達のものなのです。たとえ一時足を休める必要があっても、生きてる限りどうかその歩みを諦めと感傷で止まらないようにしてください」
リアーヌの話で、キースの言葉がまたウィルフレッドの胸に滲み出ては感傷が込み上がる。これもまた、この土地にいる故なのだろうか。

「そうですね、そもそも私達は一日も早くエステラ王国に向かわなければならないのですから。ミーナ先生とドーネ様が戻りましたら、すぐにでもここから発ちましょう」
アイシャに頷くラナ。ミーナとドーネは朝早くからエウトーレとともに例の四神の鍛冶場に向かっており、彼女達とは一緒にいない。

「にしても、邪神ゾルドの正体に関する碑文ねえ…。今まであまりそのこと考えもしなかったけど、みんなはどうかな?」
「私もあまり考えてませんでした。ただ小さい頃から聞いた話で、当たり前のように存在していたぐらいしか思わなくて…アイシャさんは?」

「私もです、地獄と呼ばれる地底世界から踊る悪魔達と共にやってきたとか、太古の強大な魔獣モンスターとか、識者の間でも色んな説があるみたいですけど…」
ラナが続いた。
「けどそれらを証明する証拠は殆ど見つからなかったし、残された文献からは殆ど情報もなかったから結局は謎のままになってるのが現状ね」

「だー正体なんてどうでもいいじゃないか。邪神が俺達に悪いことしてくるんだったらば、俺達は全力で反撃する。それで十分だよっ」
アイシャ達に反してすっぱりと言い切るカイに、レクス達が小さく笑い出す。
「単純明快だねえカイくんは。こりゃミーナ殿にからかわれる訳だよ」
「お、大きなお世話だよっ!」
「それがカイのいいところだと俺は思うけどな」
「兄貴っ!やっぱ兄貴だけが俺の仲間だよっ!」
「もうお兄ちゃんったらみっともないわよ」「キュキュ~ッ」


******


湖へと流れる川を遡るように谷の奥へと続く山道を、ミーナとドーネはエウトーレの案内で歩いていく。
「…凄いなここは。奥に行くほど、純粋なマナの濃度が徐々に上がっていくのが分かる」
「ああ、髭がピリピリと感じられるほどにな」
「たとえ今はもう機能できなくとも、そこはかつて女神達が協力して神器を鋳造した場所ですからね。微々たるものですが、女神達の力は今でもそこに息づいているのです」

(ここでガリアとやらとともに神器の鋳造を、か…。ガリアに関しては解せないことがまだ多いな。それも例の碑文で分かるようになるのだろうか)

色々と逡巡している内に、徐々に狭くなる山道はやがて、突出した山々が成す岸壁に囲まれた小さく開いた土地に三人を導いた。
「着きました、お二人方、ここが神器誕生の地、四神の鍛冶場です」
「おお…っ」

ドーネが思わず声をあげる。岩壁からは山の融雪による滝が怒涛に流れ、そこにまた小さな源流となる湖を作っていた。その湖のすぐ傍の林の中で、小さな城にさえ見違えるほど壮麗な建物があった。屋根やその壁、道に施された彫像やレリーフ、模様は風化して老朽化してはいるが、寧ろその荘厳な雰囲気にさらに神秘さをも纏わせており、その独特さをより一層強めている。

「これは確かに凄い。この建物の模様、現代の人間のものでもドワーフのものでもないな」
「ああ、あんたらエルフのスタイルに少し似てるが、ディティールはまたちょっと変わってるな…」
三人が常人の三倍ぐらいの高さもある重厚な金属の門の前で、エウトーレは杖を掲げて言葉を唱える。
「鉄よ、水よ、火よ、炉に命を、我らに道を」

ドアに施された女神の模様が淡く光ると、重々しい音とともに門が開く。長い回廊を歩いて通ると、火の入ってない大きな炉が置かれた場所に出た。部屋の一方に壁がなく、その外には岩壁から落ちる滝が轟きの音をあげ、鋳造用の水を案内する水道がそこから中へと伸びている。ドーネが再び驚嘆の声をあげた。
「お、おおお…なんて美しい炉だ。火も入ってないのにひしひしとその力強さを感じられる…!」
ミーナ達に構わずにドーネは炉へと走り寄った。

「ドーネ殿、どうかここでじっくり見学してください。私はミーナ殿を碑文のところに案内しますが、そこには入らないでくださいね」
「分かってる!…この石、ただの石じゃねえな。どこから運んできたんだ…?」
もはや二人が眼中にないドーネにミーナが苦笑する。
「相変わらずマイペースな奴だな」
「私達も行きましょう。ミーナ殿、こちらに」

二人は炉の部屋からさらに回廊を歩き、この建物の最奥と思われる扉の前で立ち止まった。先ほどのように言葉を唱えると、周りに粉塵を撒き散らしながら扉が開いていく。

「碑文の内容は、封印管理者の継承者である貴方しか見れません。私はここで待ってます」
「ああ。感謝する」
少し心を構えなおし、ミーナは部屋の中へと入った。

それは、中央以外には何もない空間だった。天井の窓から射す明かりが部屋に唯一存在する漆黒の碑文に、スポットライトを当てているかのように照らしている。その周りには剣や弓、そして装飾品と思われるものの残骸が多く置かれていた。
(これが…三位一体トリニティの秘法と、邪神の正体の情報が記された碑文…)

小さく息を呑み、ミーナは碑文の前へと進んだ。まるでミーナに呼応すりょうに碑文が淡く光りだし、上方に三位一体トリニティの模様が浮ぶと、それに続いて金色の文字が浮び出た。
(これはまた凄く古い言語だな。……我ら、女神の名の元にこれを鋳造せり…いつかかの邪神が解き放たれる時が迫る際に…救いがもたらされると願って…)
その下に続く言葉を読み取ろうとするミーナは困惑した表情を浮かべる。

(なんだこの文字は?支離滅裂で意味がまったく分から…いや、違う、これは…)

ミーナは暫く、碑文に浮ぶ文字を暗記することに専念した。

――――――

「…もう読み終わったのですかミーナ殿?」
碑文の部屋から出てきたミーナがエウトーレに頷く。
「ああ、一応内容も暗記したが…あの文章は不完全だったぞ」
「不完全ですか?」
「単語の文字が多く抜かれていて、推敲できないよう羅列もばら撒かれている。我が思うには、恐らく対となる文章があるはずだが、何か心あたりはあるか?」

エウトーレは困惑しながら考え込む。
「いえ。ビリマ殿を含めた今までの継承者はどれも碑文を読んで意味を汲んだと仰っていて、対となる文章については一度も聞いたこともありません」
「…そうか…そなたが知らないとなると…」
「ええ…もしもう片方の文章が存在するのであれば、封印管理者の方が持っているものかもしれません。恐らく安全のためにわざと文章を二つに分割して、それぞれ保管するようにしたのでしょう。ミーナ殿の方は何か存じてませんか?」

ミーナは必死に回想する。かつて彼女はエリクに荒らされた封印の里を、丸一日かけて何か重要なものが残されているのか必死に捜索した。当然、当代管理者のビリマの私室なども含めてだが、目ぼしいものは何も見つからなかった。もし、本当に彼女が予想したとおりもう片方の文章があり、それがエウトーレの言うように封印管理者が保管していたとすれば、その行方を知るもっとも可能性の高い人がいる。

(エリク…っ)

ミーナが杖を強く握りしめた。それを察したエウトーレは、穏やかな口調で語りかける。
「ミーナ殿、過ぎたことを悔やんでも仕方ありません。もし文章の片割れの行方をご存知でしたら、機を見てそれを手にすれば良いことです」
「エウトーレ…」
「今はこのままで良いのですが、必ずもう片方を手に入れてください。神器と同じく、三位一体トリニティの秘法は万が一邪神が復活した際に絶対必要なものですから」
「…心得ておる」

いつものような達観的で穏やかな笑顔を見せるエウトーレ。
「ともかく、私達大地の墓守が封印管理継承者に伝えられることは全て伝えました。ビリマ殿も貴方がここに来てくださったことを嬉しく思うのでしょう」
「そうだな…感謝する、エウトーレ」
亡き師を思い、ミーナは少し切なそうに微笑んだ。

「最後に一つ、貴女に頼まれた例の異世界の来訪者、ウィル殿のことです」
「おお、あやつのことを診てくれたのか?」
「はい。昨日に丁度その機会がありましてね」
「それで、何か分かったことはあるか?」

「貴女の言うとおり、彼には確かに魔法が殆ど効かないですね。例えガリア様を源とする魔法でもだめでした」
「やはりそうか…それについての理由はどう考えておる?」
「詳しい理由は私にも分かりませんが、実は昨日もう一つ興味深い現象を確認しました。ドーネ殿がウィル殿の世界の金属で作った剣はエンチャントが非常にかかりにくくなっていました」

「そのようなことが?初耳だな」
「ええ。これらの現象から、ウィル殿の件について一つ仮説を出しています」
「どのような?」

「魔法法則の因果カルマ学はご存知ですよね。魔法に限らずこの世のことわりを含んだ森羅万象を研究する学問です」
「ああ、当然だ」
「あくまで推論ですが、恐らく彼は―――」


ズウウゥゥゥン…

建物が、低い鳴動とともにビリビリと揺れた。
「な、なんだ、地震か?」
「いえ、これは――」

ズウウゥゥゥン…ッ

先ほどより大きい鳴動が建物を揺らし、天井から小石が落ち始める。
「エウトーレっ?」
「何者が、吹雪の結界を破ろうとしてます…っ」



【続く】

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