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第一章 異世界ハルフェン
異世界ハルフェン 第五節
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夜になると、教会の浴室でウィルフレッドは桶で湯を被りながら体を洗っていた。レクスの館から教会に戻った三人は、彼の記憶が戻るまではここでお世話にすることをイリスから許諾を得ると、彼女のご厚意で浴室を先に使わせてもらっていた。
実に数ヶ月ぶりの、ちゃんとした入浴だった。今日まではずっと、人気のない工場の流し台などで簡単に洗っただけなだけに、汚染の無い綺麗な水で体を洗うと言葉どおり生き返ったような気分だった。身が温まる湯気の立つ水を再び被ると、そっと首にぶら下げている銀色の首飾りに彼は触れる。
そして胸の、青色に湛えた結晶体は、滴る水とともに淡く脈動するように輝いていた。
――――――
「それでさ、兄貴が物凄い速さでこうっ、一人ひとり突き飛ばしてめっちゃすごかったんだぜっ」
「お陰で村も大した被害が無くて、本当に助かったの」
「まあまあ、そんなに凄かったのね」
夜の食卓を囲んでは、カイ達は今日のウィルフレッドの戦績を演技交じりにイリスに伝えていた。
「ありがとうウィルさん、貴方がいなければ村の被害はもっとひどくなってたかもしれません。これもまた女神様のお導きの賜物でしょうね」
「いえ、こちらこそ、素性の知らない自分にこうも良くして頂いて…」
イリスから借りたこの世界の服を着て照れ臭そうな顔を浮かべるウィルフレッドを見て、ふと彼女は、彼がシチューを匙に入れたまま手に持って口にしていないことに気づいた。
「あら、ひょっとしたら口に合いませんでした?」
「そういう訳では、その…」
ウィルフレッドは感慨深そうにシチューを見つめる。
「すぐに食べ終わるには勿体無いと思って…できればゆっくりと噛み締めて味わいたいと…」
それを聞いてカイは面白おかしく笑い、エリネとイリスは昼のようにただ暖かく見守っていた。
「兄貴ってあんなに強いのに変なところで律儀だなぁ」
「別に良いじゃない、食べ物をしっかりと味わうことは女神様の恩恵をしっかりと感じるとも言えるから良いことだと思うの。お兄ちゃんなんか、よくも噛めずに飲み込むこともあるし、せっかく美味しい料理が勿体無いわよ」
「いつも全部綺麗に食べてるから別にいいだろ。」
そんな二人のやりとりにイリスが笑い、ウィルフレッドもまた、さっきと同じような感慨の眼差しで三人を見た。
――――――
月が空の半ばまで昇り、梟がホーホーと森の闇から鳴く深い夜。ウィルフレッドは教会の客人用の寝室で、窓に身を乗り出して夜風に吹かれながらこの世界の夜空を見つめていた。自分が知る月よりも大きいハルフェンの月、そして星々の輝きが、それが自分の知る天体とはまったく異なるものであることを示していた。
同じ宇宙の違う星系にいるという可能性もあるが、異なる天体、エルフ、女神…何よりも魔法という自分の世界に存在しない法則が、異世界にいることを力強く裏付けている。仮想空間でもないのであれば、やはり自分はハルフェンという異世界に転移してしまった可能性が一番高いだろう。
地球ではもはや一部マニアックな愛好家しか存在を知らない、神話や童話での言葉に最初は戸惑ったが、一人になって落ち着いてようやく状況をはっきりと受け止められた。
(((忘れるなよ、行ったことのねぇ土地への潜入任務で一つ重要なのは、現地の人になりきることにある。今までの固有概念は一時忘れて、奴らの常識が自分の常識だと思え。より柔軟な考え方を持つんだ。特殊な文化や考えを持つ地域ってのはたとえ今の時代でも存在するものだからな)))
あの人のかつての教訓が脳裏に浮かび上がる。今まで実際、車の神とかオイルを聖水として扱う小さなタウン等、奇妙な風習をもつ土地への潜入任務も何度かこなしたお陰か、異文化への適応性はそれなりにあって、このように異なる世界に転移した状況もこうして受け入れることはできた。驚くこと自体に変わりは無いが。
彼はさらにこうなった理由を思い返す。あの時…メルセゲルのオーバーロードによる爆発の被害をシティの人々から遠退けるために、あえて跳躍先を跳躍空間そのものに指定して跳躍を行わせた。けれど確か、跳躍演算プロセスの最中にメルセゲルは戦闘の余波に巻き込まれて損傷を受けたとおぼろげに覚えている。それが何かのエラーを起こし、ここまで飛ばされてきたのだろうか。
だが何故ここまで来たのかは今やさほど重要ではない、問題はこれからどうするべきだ?普通なら、なんらか帰還手段を探して戻ると考えるはずだが…。そんな必要はあるのだろうか?『組織』はもういない。あそこで自分を焦がす未練も今や全て消え失せた。
あるとすれば…あの人はどうなったのだろう。全てが一瞬の出来事だったが、あの戦いの最後、跳躍先である異空間で艦が連鎖爆発を起こし、視界が真っ白に染めたのを覚えてる。彼は爆発に巻き込まれて亡くなったのだろうか。それとも自分と同じ、この世界に…?
ウィルフレッドはベッドへと倒れこみ、見知らぬ天井をただ見つめる。窓の外から夜風が木々の香りを運ぶ。ふわりと柔らかなベッドの質感に暖かな風呂と食事。元の世界ではデータ情報や仮想体験にしか残らない物事が、ここでは当たり前のようにどこでも存在し、心地良かった。
そしてなによりも、人情溢れるカイやエリネ達の笑顔は、異なる風習に見慣れてきた自分でさえ違和感を感じるものだった。あのドハンの性格さえも、自分から見ればとても微笑ましいと思えるぐらいだ。
紛争もあるといえばあるが、それでも自分にとって、ここの温かさはそれが霞むほど輝いて見えた。それもあってか、最初にエリネ達に誘われた時、思わず甘えたくなってそれに応えてしまった。
染みたオイルの匂い。過剰発展。恒常化した紛争。無関心。恐れ。孤独。罵倒。ウィルフレッドは子供のように膝を抱えてはベッドで竦む。過酷な世界で自分が支えとした灯火に身を寄せたあの時のように。もう今日はこれ以上考えないようにと決めては布団を被ると、日差しの香り漂う布団に包まれながら、忘れて久しい穏やかな眠りについた。
******
「なるほど、それでお前たちは命からがら逃げ戻ってきたと言うわけか…」
同時刻、森のある洞窟の中。数多くの部下たちに囲まれながら、焚火の明かりで鍛え抜かれたビルドの筋肉がテカリと輝く。
「申し訳ありませんお頭…途中であの変な奴が出てこなかったら、今頃貴方に最高の土産を献上できたのに…」
彼の前にドハンと数名の部下が、悲しくも悔しい顔を浮かべながらビルドの前に跪いていた。
腕組みして尊大に座っていたビルドがゆっくりと立ち上がる。二メートルを軽く超えた身の丈、背中に同じぐらい長さの大剣に、裸の上半身に攻撃的な入れ墨、そしてなによりも、ドハン以上に人間が鍛えうる極限まで磨かれた、ギラギラと光る筋肉。
「…ドハンよ、顔をあげよ。同じ肉体の美しさを追求した同士だ。お前の失敗は俺様の失敗でもある。責めなどせぬよ」
「お、お頭ぁ…」
うるうると涙するドハンに、カッとビルドが雄々しいポーズをとる。
「ビューティッ!」
それを見てドハンもすかさずに両手を大きく広げてポーズを取り始める。
「ビルディンクッ!」
「エクセレンッ!」
「アーンドゥッ、エレガントォッ!」
次々と二人の肉体美を遺憾なく発揮するポーズの連続に、部下たちは死んだ目をしながら拍手して歓声を挙げた。
「失敗は成功の母、失敗したらまた次の成功に繋げばよい。お前の失敗は無駄ではない、この俺様が必ずそれを成功に導いてみせよう」
力強く自分の肩を叩くビルドを見て、ドハンは猛烈な感動に心打たれる。
(なんたる度量…っ!やはりこの方だ…このお方こそ、筋肉より世界を救う定めを背負うものっ…、わが人生は全てこのお方のために…っ)
「それでお頭、これから俺たちゃ何をすればいい?」
「…ぬんっ!」
ビルドが突如、華麗なポーズを次々と取り始めた。
「おおっ、その構えは!」
ドハンが感動の声を上げる。
「ふんっ!」ムキっと上腕二頭筋を立て「ほっ!」ビシッと躍動感あるポーズで流れる筋肉の形をアピールし「はぁっ!」ババッと大きく両手を広げては、その大胸筋を遺憾なく披露した。
「…こ、これこそビルド様の大脳筋を最大限に活性化させるための儀式、『大脳筋ビルディング』…!」
ドハンはあまりの感激さに震える手を合わせた。
(なんなんだその儀式…)
(ようはビルド様が思考を集中するための運動ってことだよ)
(なるほど…でも大脳筋なんて筋肉あったのか?)
(シッ!また長時間トレーニングに付き合わされたくなかったら黙っときなっ)
「ふうぅぅぅ~~~。」
火に照らされた汗がキラキラと光る。まるで筋肉自体が輝いているように。
「…波状攻撃を仕掛ける」
「…はじょ…?」
聞き慣れない言葉にぽかんとする手下たち。
「この領地はあの村以外にもいくつかの村が点在してある。今日から一週間、ここにいる人手をいくつかに分けて順番にそれら村を襲わせる。かく乱された騎士団の奴らは対応のため各地に人手を分散させるだろう。そうなれば、本隊である我らは人手が分散されて守りが薄くなった例の村を容易く手に入ることができよう」
「なっ、なんか頭良さそうな作戦だ…っ」
「これが大脳筋の力…っ」
手下たちはなんとなく凄そうと聞こえる策にどよめく。
「他の村に赴くものは襲撃が終わった後、ここに戻らず例の村で待機せよ。頻繁にここに戻っては拠点がばれる危険性もあるし、村によっては距離もある。ここに戻るより先にそこで待機した方が効率も良いだろう。たとえ分隊が捕まっても我ら本隊に影響せず、寧ろさらにかく乱になってまさに一石二鳥の策よっ!」
「そっ、そこまで考えて…!大脳筋すげぇっ!」
「おっ、俺、これから真面目に体鍛えようかな!」
手下たちが歓声をあげ、ドハンに至ってはもはや化粧が乱れるほど涙して跪いてはビルドを拝んだ。
「これよりチーム分けを始める!明日から第一分隊を出撃させるぞ!」
ビルドが拳をあげると手下たちはさらにひと際大きな鬨をあげた。
ビルドが振り返って闇の中にある一際大きな檻を見る。何か大きい獣が檻の暗闇の中で蠢くと、彼は獰猛に笑った。
「ペチよ、もう少しの辛抱だ。もう少し待てば、たらふく美味しいものを食わせてやろうぞ」
******
朝日がブラン村を照らして夜の寒気を追い払い、小鳥たちが次々と目を覚まし始める頃。エリネはルルを肩に乗せてはウィルフレッドの部屋を軽く叩いた。
「ウィルさん、朝ごはんの時間――」
ガタッと、部屋の中で音がした。
「キュッ?」「ウィルさん?大丈夫ですか?」
物音が気になってついドアを開けて入るエリネ。ベッドの布団が床へと投げられており、当のウィルフレッドは壁に背を向けながら体が強張って構えていた。
「あ、エ、エリーか…」
「どうしたんですかウィルさん?ひょっとしたらまだ寝ていたのでしょうか?」
緊張が解いたように小さく息を吐くウィルフレッド。
「いや、大丈夫だ。少し体を動かせていただけだから…」
「そう、ですか」
何か言いたげのエリネだが、彼女はそれ以上問い詰めなかった。
「もう朝食はできてますから、用意ができたらいつでもどうぞですよ」
「ああ、ありがとう」
エリネが離れるのを確認すると、ウィルフレッドは軽く頭を叩いた。
(いけないな、逃亡生活の癖が抜けていない。世界も違うからもっと自然に振舞わないと…)
――――――
「どうぞウィルさん」
朝食を終え、イリスは協会の外で昨日洗濯し、乾いたウィルフレッドのコートや服を彼に手渡した。
「見たこと無い材質の服だし、なんか色々と金属装飾が付いているから心配してたけど、ちゃんと綺麗に洗ってて安心したわ」
「十分ですよ。ありがとうございます」
服を手にして会釈するウィルフレッド。
「あとこのコート、なんだか結構ボロボロになってて穴が開いてたところもあるから、勝手に修繕したけれど、中身に硬い糸みたいなのが仕込んでたし、迷惑だったのかしら?」
ウィルフレッドはコートを広げてみると、確かに破損していた部分の外部が縫い合わされたりと、新品には行かないまでもとても綺麗に整えられていた。コート内部のメカニカル的な構造はこれぐらいで破損することもないし、イリスも恐らく遠慮してあまり触れてないお陰で、正常に作動している。
「…ご迷惑だなんて、寧ろ感謝しきれないぐらいです」
感激そうな表情を浮かべる彼にイリスもまた微笑む。
「それは良かった。でもこのコート、結構使い古くなっているようだけど、他のものにするとかはどうかしら?うちには寄付された服とかまだ一杯あるのですよ」
「いえ、結構ですよ。このコートは自分にとって大事なものですから」
ウィルフレッドがコートを大事そうに掴むのを見て、イリスは何かを察するかのように微笑んだ。
「そうなのですね。分かったわ」
教会の中からカイとエリネが声をかける。
「シスターっ、皿洗い全部終わったよ」
「礼拝堂の掃除も一通り終わったわ」「キュッ」
「ありがとう二人とも。それじゃ支度が終わったら早くトーマスさんのところに行きなさい」
「「は~い」」
そう言って二人は自分の部屋に仕度にいった。
「なにかあるのですか?」
「ああ、二人は普段教会に用事がない時はいつも村のみんなのお手伝いをしているの。この時期、人手不足なところは結構ありますからね」
ウィルフレッドは暫し考えた。
「…シスター、その手伝い、俺もして構わないですか?」
「え、いいの?ウィルさんは客人だから別にそのようなことしなくても…」
「構いませんよ、体を動かしたほうが、どこかで記憶が戻るきっかけにはなるかもしれないし、居候している身として、何もしない方が寧ろ落ち着かないので」
「別に気にしなくてもいいのに…。でもウィルさんがそういうのなら、お願いしようかしら。カイ達に貴方も連れて行くよう伝えます。後は二人が案内しますので」
「ええ、ありがとうございます」
笑顔で教会に入るイリスを見送って、朝日の方に向かって意気込むように拳を握り締めるウィルフレッド。
「…よしっ」
――――――
「おお…」
カイとエリネ、そしてトーマスは、昨日盗賊に荒らされた倉庫の穀物袋を素早く片付けるのを見ては感嘆の声を上げる。
「これでいいでしょうか」
散らかった穀物袋は瞬く間に、倉庫にきっちりと数山積み上げられていた。
「いやはや十分じゃ。この袋、結構の重さになっとるのに、こうも軽々と持ち上げるとは。昨日の盗賊退治といい、中々良い腕っぷししとるのうあんた」
嬉しそうに褒めるトーマス。
「だろ?兄貴はやっぱ凄いよな」
「威張らないの、ウィルさんは結局私達の分までしたのだから、こっちも何か手伝わないと面目ないでしょ」
「ははは、心配なくとも修理や整理が必要な場所もまだまだあるぞい。お願いできるかの?」
「ええ、勿論っ」
「いくらでも言ってくれじいさんっ」
こうして数日間の、三人の村でのお手伝い紀行が始まった。
トーマスの倉庫の片づけが終わったら、他の村人の畜舎の掃除、雑草刈りに家畜のための水汲み、牧草。やり方のわからないものは、村人やカイ達の指導で学んでいき、その殆どをウィルフレッドはそつなくこなした。
「さすが盗賊退治のあんちゃんだっ、凄え速さだな」
だがすべてが順調と言う訳でもなかった。
「頼む、動かないでくれ…、あっ!」
毛剃りするために抑えた羊が、所々剃り失敗した跡とともに懐から跳び逃げてしまい、ウィルフレッドが慌てて追った。
「う~んこりゃ暫く練習が必要だな」
「だよね」
カイとエリネは互いを見ては苦笑し、その後エリネが剃り方をじっくりとウィルフレッドに教えた。
――――――
「気をつけてね、この子結構気性荒いから」
メリーの指導の下、ウィルフレッドはエリネ達とともに自分の担当の馬の手入れをしていた。毛ブラシを手に持っては、力を入れすぎないようにゆっくりとブラシかけするウィルフレッド。綺麗な毛並みに、逞しい体躯。
環境が激変した地球で馬に似たような変異生物はあったが、ここの馬は今やデータでしか見られない永き冬以前の馬そのものだった。こうして実物を見ると、なかなか力強さと美しさを感じる生き物だと彼は思った。
「うん、中々良く出来てるね、三人ともありがとう。特にウィルのあんちゃん。先日の件と良い、中々良い腕してるよね」
「そりゃ俺の兄貴だもん。凄いのは当然さ」
誇るカイにエリネも同意するように微笑む。
「そうだ、ウィルのあんちゃん。お礼としてはなんだが、うちの子乗ってみるかい?さっき結構興味深々と見てたようだしね」
「いいのか?」
「いいのいいの、ほら、こっちに来て」
メリーの案内で外へと出る三人。メリーは連れて出た一匹の白い馬の手綱をウィルフレッドに手渡す。
「はい、気をつけて乗るようにね」
ウィルフレッドは手綱を手に優しく馬に触れる。
「ウィルさん大丈夫?」
「ああ、問題ない。多分」
心配そうなエリネにウィルフレッドはそう言うが、馬の実物を見るのも乗るのも初めてだ。だが似た生き物に乗った経験はあったし、乗り方もここに来て人々のやり方を観察してきたから、見よう見まねでなんとかなるだろうと、ウィルフレッドは鞍にまたがった。
カイ達が見守る中、ウィルフレッドは試しにゆっくりと歩き出せ、そして思いっきり走らせた。
「はっ!」
重金属を含まない、心地よい向かい風が吹いてくる。自分でならより早いスピードで走れるのに、それでは感じられない独特の気持ちよさがあった。生まれて初めての体験と、目に広がるかつてない風景に、ウィルフレッドはまるで子供のような笑顔を浮かべた。
「楽しそうだなあ兄貴。他のこともだけど、まるで初めてやることみたいに面白そうにしててさ」
「ふふ、いいじゃない。何事も楽しめるというのは良いことと思うわよ」
気のままに馬を駆けるウィルフレッドを、二人とメリーは暖かな眼差しで見守った。
【第一章 終わり 第二章に続く】
実に数ヶ月ぶりの、ちゃんとした入浴だった。今日まではずっと、人気のない工場の流し台などで簡単に洗っただけなだけに、汚染の無い綺麗な水で体を洗うと言葉どおり生き返ったような気分だった。身が温まる湯気の立つ水を再び被ると、そっと首にぶら下げている銀色の首飾りに彼は触れる。
そして胸の、青色に湛えた結晶体は、滴る水とともに淡く脈動するように輝いていた。
――――――
「それでさ、兄貴が物凄い速さでこうっ、一人ひとり突き飛ばしてめっちゃすごかったんだぜっ」
「お陰で村も大した被害が無くて、本当に助かったの」
「まあまあ、そんなに凄かったのね」
夜の食卓を囲んでは、カイ達は今日のウィルフレッドの戦績を演技交じりにイリスに伝えていた。
「ありがとうウィルさん、貴方がいなければ村の被害はもっとひどくなってたかもしれません。これもまた女神様のお導きの賜物でしょうね」
「いえ、こちらこそ、素性の知らない自分にこうも良くして頂いて…」
イリスから借りたこの世界の服を着て照れ臭そうな顔を浮かべるウィルフレッドを見て、ふと彼女は、彼がシチューを匙に入れたまま手に持って口にしていないことに気づいた。
「あら、ひょっとしたら口に合いませんでした?」
「そういう訳では、その…」
ウィルフレッドは感慨深そうにシチューを見つめる。
「すぐに食べ終わるには勿体無いと思って…できればゆっくりと噛み締めて味わいたいと…」
それを聞いてカイは面白おかしく笑い、エリネとイリスは昼のようにただ暖かく見守っていた。
「兄貴ってあんなに強いのに変なところで律儀だなぁ」
「別に良いじゃない、食べ物をしっかりと味わうことは女神様の恩恵をしっかりと感じるとも言えるから良いことだと思うの。お兄ちゃんなんか、よくも噛めずに飲み込むこともあるし、せっかく美味しい料理が勿体無いわよ」
「いつも全部綺麗に食べてるから別にいいだろ。」
そんな二人のやりとりにイリスが笑い、ウィルフレッドもまた、さっきと同じような感慨の眼差しで三人を見た。
――――――
月が空の半ばまで昇り、梟がホーホーと森の闇から鳴く深い夜。ウィルフレッドは教会の客人用の寝室で、窓に身を乗り出して夜風に吹かれながらこの世界の夜空を見つめていた。自分が知る月よりも大きいハルフェンの月、そして星々の輝きが、それが自分の知る天体とはまったく異なるものであることを示していた。
同じ宇宙の違う星系にいるという可能性もあるが、異なる天体、エルフ、女神…何よりも魔法という自分の世界に存在しない法則が、異世界にいることを力強く裏付けている。仮想空間でもないのであれば、やはり自分はハルフェンという異世界に転移してしまった可能性が一番高いだろう。
地球ではもはや一部マニアックな愛好家しか存在を知らない、神話や童話での言葉に最初は戸惑ったが、一人になって落ち着いてようやく状況をはっきりと受け止められた。
(((忘れるなよ、行ったことのねぇ土地への潜入任務で一つ重要なのは、現地の人になりきることにある。今までの固有概念は一時忘れて、奴らの常識が自分の常識だと思え。より柔軟な考え方を持つんだ。特殊な文化や考えを持つ地域ってのはたとえ今の時代でも存在するものだからな)))
あの人のかつての教訓が脳裏に浮かび上がる。今まで実際、車の神とかオイルを聖水として扱う小さなタウン等、奇妙な風習をもつ土地への潜入任務も何度かこなしたお陰か、異文化への適応性はそれなりにあって、このように異なる世界に転移した状況もこうして受け入れることはできた。驚くこと自体に変わりは無いが。
彼はさらにこうなった理由を思い返す。あの時…メルセゲルのオーバーロードによる爆発の被害をシティの人々から遠退けるために、あえて跳躍先を跳躍空間そのものに指定して跳躍を行わせた。けれど確か、跳躍演算プロセスの最中にメルセゲルは戦闘の余波に巻き込まれて損傷を受けたとおぼろげに覚えている。それが何かのエラーを起こし、ここまで飛ばされてきたのだろうか。
だが何故ここまで来たのかは今やさほど重要ではない、問題はこれからどうするべきだ?普通なら、なんらか帰還手段を探して戻ると考えるはずだが…。そんな必要はあるのだろうか?『組織』はもういない。あそこで自分を焦がす未練も今や全て消え失せた。
あるとすれば…あの人はどうなったのだろう。全てが一瞬の出来事だったが、あの戦いの最後、跳躍先である異空間で艦が連鎖爆発を起こし、視界が真っ白に染めたのを覚えてる。彼は爆発に巻き込まれて亡くなったのだろうか。それとも自分と同じ、この世界に…?
ウィルフレッドはベッドへと倒れこみ、見知らぬ天井をただ見つめる。窓の外から夜風が木々の香りを運ぶ。ふわりと柔らかなベッドの質感に暖かな風呂と食事。元の世界ではデータ情報や仮想体験にしか残らない物事が、ここでは当たり前のようにどこでも存在し、心地良かった。
そしてなによりも、人情溢れるカイやエリネ達の笑顔は、異なる風習に見慣れてきた自分でさえ違和感を感じるものだった。あのドハンの性格さえも、自分から見ればとても微笑ましいと思えるぐらいだ。
紛争もあるといえばあるが、それでも自分にとって、ここの温かさはそれが霞むほど輝いて見えた。それもあってか、最初にエリネ達に誘われた時、思わず甘えたくなってそれに応えてしまった。
染みたオイルの匂い。過剰発展。恒常化した紛争。無関心。恐れ。孤独。罵倒。ウィルフレッドは子供のように膝を抱えてはベッドで竦む。過酷な世界で自分が支えとした灯火に身を寄せたあの時のように。もう今日はこれ以上考えないようにと決めては布団を被ると、日差しの香り漂う布団に包まれながら、忘れて久しい穏やかな眠りについた。
******
「なるほど、それでお前たちは命からがら逃げ戻ってきたと言うわけか…」
同時刻、森のある洞窟の中。数多くの部下たちに囲まれながら、焚火の明かりで鍛え抜かれたビルドの筋肉がテカリと輝く。
「申し訳ありませんお頭…途中であの変な奴が出てこなかったら、今頃貴方に最高の土産を献上できたのに…」
彼の前にドハンと数名の部下が、悲しくも悔しい顔を浮かべながらビルドの前に跪いていた。
腕組みして尊大に座っていたビルドがゆっくりと立ち上がる。二メートルを軽く超えた身の丈、背中に同じぐらい長さの大剣に、裸の上半身に攻撃的な入れ墨、そしてなによりも、ドハン以上に人間が鍛えうる極限まで磨かれた、ギラギラと光る筋肉。
「…ドハンよ、顔をあげよ。同じ肉体の美しさを追求した同士だ。お前の失敗は俺様の失敗でもある。責めなどせぬよ」
「お、お頭ぁ…」
うるうると涙するドハンに、カッとビルドが雄々しいポーズをとる。
「ビューティッ!」
それを見てドハンもすかさずに両手を大きく広げてポーズを取り始める。
「ビルディンクッ!」
「エクセレンッ!」
「アーンドゥッ、エレガントォッ!」
次々と二人の肉体美を遺憾なく発揮するポーズの連続に、部下たちは死んだ目をしながら拍手して歓声を挙げた。
「失敗は成功の母、失敗したらまた次の成功に繋げばよい。お前の失敗は無駄ではない、この俺様が必ずそれを成功に導いてみせよう」
力強く自分の肩を叩くビルドを見て、ドハンは猛烈な感動に心打たれる。
(なんたる度量…っ!やはりこの方だ…このお方こそ、筋肉より世界を救う定めを背負うものっ…、わが人生は全てこのお方のために…っ)
「それでお頭、これから俺たちゃ何をすればいい?」
「…ぬんっ!」
ビルドが突如、華麗なポーズを次々と取り始めた。
「おおっ、その構えは!」
ドハンが感動の声を上げる。
「ふんっ!」ムキっと上腕二頭筋を立て「ほっ!」ビシッと躍動感あるポーズで流れる筋肉の形をアピールし「はぁっ!」ババッと大きく両手を広げては、その大胸筋を遺憾なく披露した。
「…こ、これこそビルド様の大脳筋を最大限に活性化させるための儀式、『大脳筋ビルディング』…!」
ドハンはあまりの感激さに震える手を合わせた。
(なんなんだその儀式…)
(ようはビルド様が思考を集中するための運動ってことだよ)
(なるほど…でも大脳筋なんて筋肉あったのか?)
(シッ!また長時間トレーニングに付き合わされたくなかったら黙っときなっ)
「ふうぅぅぅ~~~。」
火に照らされた汗がキラキラと光る。まるで筋肉自体が輝いているように。
「…波状攻撃を仕掛ける」
「…はじょ…?」
聞き慣れない言葉にぽかんとする手下たち。
「この領地はあの村以外にもいくつかの村が点在してある。今日から一週間、ここにいる人手をいくつかに分けて順番にそれら村を襲わせる。かく乱された騎士団の奴らは対応のため各地に人手を分散させるだろう。そうなれば、本隊である我らは人手が分散されて守りが薄くなった例の村を容易く手に入ることができよう」
「なっ、なんか頭良さそうな作戦だ…っ」
「これが大脳筋の力…っ」
手下たちはなんとなく凄そうと聞こえる策にどよめく。
「他の村に赴くものは襲撃が終わった後、ここに戻らず例の村で待機せよ。頻繁にここに戻っては拠点がばれる危険性もあるし、村によっては距離もある。ここに戻るより先にそこで待機した方が効率も良いだろう。たとえ分隊が捕まっても我ら本隊に影響せず、寧ろさらにかく乱になってまさに一石二鳥の策よっ!」
「そっ、そこまで考えて…!大脳筋すげぇっ!」
「おっ、俺、これから真面目に体鍛えようかな!」
手下たちが歓声をあげ、ドハンに至ってはもはや化粧が乱れるほど涙して跪いてはビルドを拝んだ。
「これよりチーム分けを始める!明日から第一分隊を出撃させるぞ!」
ビルドが拳をあげると手下たちはさらにひと際大きな鬨をあげた。
ビルドが振り返って闇の中にある一際大きな檻を見る。何か大きい獣が檻の暗闇の中で蠢くと、彼は獰猛に笑った。
「ペチよ、もう少しの辛抱だ。もう少し待てば、たらふく美味しいものを食わせてやろうぞ」
******
朝日がブラン村を照らして夜の寒気を追い払い、小鳥たちが次々と目を覚まし始める頃。エリネはルルを肩に乗せてはウィルフレッドの部屋を軽く叩いた。
「ウィルさん、朝ごはんの時間――」
ガタッと、部屋の中で音がした。
「キュッ?」「ウィルさん?大丈夫ですか?」
物音が気になってついドアを開けて入るエリネ。ベッドの布団が床へと投げられており、当のウィルフレッドは壁に背を向けながら体が強張って構えていた。
「あ、エ、エリーか…」
「どうしたんですかウィルさん?ひょっとしたらまだ寝ていたのでしょうか?」
緊張が解いたように小さく息を吐くウィルフレッド。
「いや、大丈夫だ。少し体を動かせていただけだから…」
「そう、ですか」
何か言いたげのエリネだが、彼女はそれ以上問い詰めなかった。
「もう朝食はできてますから、用意ができたらいつでもどうぞですよ」
「ああ、ありがとう」
エリネが離れるのを確認すると、ウィルフレッドは軽く頭を叩いた。
(いけないな、逃亡生活の癖が抜けていない。世界も違うからもっと自然に振舞わないと…)
――――――
「どうぞウィルさん」
朝食を終え、イリスは協会の外で昨日洗濯し、乾いたウィルフレッドのコートや服を彼に手渡した。
「見たこと無い材質の服だし、なんか色々と金属装飾が付いているから心配してたけど、ちゃんと綺麗に洗ってて安心したわ」
「十分ですよ。ありがとうございます」
服を手にして会釈するウィルフレッド。
「あとこのコート、なんだか結構ボロボロになってて穴が開いてたところもあるから、勝手に修繕したけれど、中身に硬い糸みたいなのが仕込んでたし、迷惑だったのかしら?」
ウィルフレッドはコートを広げてみると、確かに破損していた部分の外部が縫い合わされたりと、新品には行かないまでもとても綺麗に整えられていた。コート内部のメカニカル的な構造はこれぐらいで破損することもないし、イリスも恐らく遠慮してあまり触れてないお陰で、正常に作動している。
「…ご迷惑だなんて、寧ろ感謝しきれないぐらいです」
感激そうな表情を浮かべる彼にイリスもまた微笑む。
「それは良かった。でもこのコート、結構使い古くなっているようだけど、他のものにするとかはどうかしら?うちには寄付された服とかまだ一杯あるのですよ」
「いえ、結構ですよ。このコートは自分にとって大事なものですから」
ウィルフレッドがコートを大事そうに掴むのを見て、イリスは何かを察するかのように微笑んだ。
「そうなのですね。分かったわ」
教会の中からカイとエリネが声をかける。
「シスターっ、皿洗い全部終わったよ」
「礼拝堂の掃除も一通り終わったわ」「キュッ」
「ありがとう二人とも。それじゃ支度が終わったら早くトーマスさんのところに行きなさい」
「「は~い」」
そう言って二人は自分の部屋に仕度にいった。
「なにかあるのですか?」
「ああ、二人は普段教会に用事がない時はいつも村のみんなのお手伝いをしているの。この時期、人手不足なところは結構ありますからね」
ウィルフレッドは暫し考えた。
「…シスター、その手伝い、俺もして構わないですか?」
「え、いいの?ウィルさんは客人だから別にそのようなことしなくても…」
「構いませんよ、体を動かしたほうが、どこかで記憶が戻るきっかけにはなるかもしれないし、居候している身として、何もしない方が寧ろ落ち着かないので」
「別に気にしなくてもいいのに…。でもウィルさんがそういうのなら、お願いしようかしら。カイ達に貴方も連れて行くよう伝えます。後は二人が案内しますので」
「ええ、ありがとうございます」
笑顔で教会に入るイリスを見送って、朝日の方に向かって意気込むように拳を握り締めるウィルフレッド。
「…よしっ」
――――――
「おお…」
カイとエリネ、そしてトーマスは、昨日盗賊に荒らされた倉庫の穀物袋を素早く片付けるのを見ては感嘆の声を上げる。
「これでいいでしょうか」
散らかった穀物袋は瞬く間に、倉庫にきっちりと数山積み上げられていた。
「いやはや十分じゃ。この袋、結構の重さになっとるのに、こうも軽々と持ち上げるとは。昨日の盗賊退治といい、中々良い腕っぷししとるのうあんた」
嬉しそうに褒めるトーマス。
「だろ?兄貴はやっぱ凄いよな」
「威張らないの、ウィルさんは結局私達の分までしたのだから、こっちも何か手伝わないと面目ないでしょ」
「ははは、心配なくとも修理や整理が必要な場所もまだまだあるぞい。お願いできるかの?」
「ええ、勿論っ」
「いくらでも言ってくれじいさんっ」
こうして数日間の、三人の村でのお手伝い紀行が始まった。
トーマスの倉庫の片づけが終わったら、他の村人の畜舎の掃除、雑草刈りに家畜のための水汲み、牧草。やり方のわからないものは、村人やカイ達の指導で学んでいき、その殆どをウィルフレッドはそつなくこなした。
「さすが盗賊退治のあんちゃんだっ、凄え速さだな」
だがすべてが順調と言う訳でもなかった。
「頼む、動かないでくれ…、あっ!」
毛剃りするために抑えた羊が、所々剃り失敗した跡とともに懐から跳び逃げてしまい、ウィルフレッドが慌てて追った。
「う~んこりゃ暫く練習が必要だな」
「だよね」
カイとエリネは互いを見ては苦笑し、その後エリネが剃り方をじっくりとウィルフレッドに教えた。
――――――
「気をつけてね、この子結構気性荒いから」
メリーの指導の下、ウィルフレッドはエリネ達とともに自分の担当の馬の手入れをしていた。毛ブラシを手に持っては、力を入れすぎないようにゆっくりとブラシかけするウィルフレッド。綺麗な毛並みに、逞しい体躯。
環境が激変した地球で馬に似たような変異生物はあったが、ここの馬は今やデータでしか見られない永き冬以前の馬そのものだった。こうして実物を見ると、なかなか力強さと美しさを感じる生き物だと彼は思った。
「うん、中々良く出来てるね、三人ともありがとう。特にウィルのあんちゃん。先日の件と良い、中々良い腕してるよね」
「そりゃ俺の兄貴だもん。凄いのは当然さ」
誇るカイにエリネも同意するように微笑む。
「そうだ、ウィルのあんちゃん。お礼としてはなんだが、うちの子乗ってみるかい?さっき結構興味深々と見てたようだしね」
「いいのか?」
「いいのいいの、ほら、こっちに来て」
メリーの案内で外へと出る三人。メリーは連れて出た一匹の白い馬の手綱をウィルフレッドに手渡す。
「はい、気をつけて乗るようにね」
ウィルフレッドは手綱を手に優しく馬に触れる。
「ウィルさん大丈夫?」
「ああ、問題ない。多分」
心配そうなエリネにウィルフレッドはそう言うが、馬の実物を見るのも乗るのも初めてだ。だが似た生き物に乗った経験はあったし、乗り方もここに来て人々のやり方を観察してきたから、見よう見まねでなんとかなるだろうと、ウィルフレッドは鞍にまたがった。
カイ達が見守る中、ウィルフレッドは試しにゆっくりと歩き出せ、そして思いっきり走らせた。
「はっ!」
重金属を含まない、心地よい向かい風が吹いてくる。自分でならより早いスピードで走れるのに、それでは感じられない独特の気持ちよさがあった。生まれて初めての体験と、目に広がるかつてない風景に、ウィルフレッドはまるで子供のような笑顔を浮かべた。
「楽しそうだなあ兄貴。他のこともだけど、まるで初めてやることみたいに面白そうにしててさ」
「ふふ、いいじゃない。何事も楽しめるというのは良いことと思うわよ」
気のままに馬を駆けるウィルフレッドを、二人とメリーは暖かな眼差しで見守った。
【第一章 終わり 第二章に続く】
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