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逃げられない(5)

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 それまでの熱が嘘のように梶川は固い声でそういうと、鈴を立ち上がらせて浴室を出た。いったい急にどうしたのだろうと鈴は疑問に思ったが、梶川に言われるがまま浴室を出る。脱衣所に置いてあったバスタオルを掴むと、梶川は高い空気を霧散させて笑顔で鈴に向き直った。

「ほら、先輩。身体拭きましょう。拭いてあげます」
「じ、自分で拭ける!」
「いいから。俺がやりたいんです」

 梶川はバスタオルを掴んで鈴の身体を拭き始めた。先ほどまで容赦なく鈴を責め立てていたとは思えないほど優しい手つきだ。

「先輩、メイク落ちちゃってますね。道具、持ってます?」
「ポーチは持ってきてるけど」
「今から直して間に合いますか?」
「大丈夫。そんなに濃いメイクじゃないし」

 普段、鈴は最低限のメイクしかしていない。メイクに時間をかけていないので、崩れた分を直すだけならそう時間はかからないだろう。梶川に身体を拭いてもらったあと、玄関に落ちていた衣服を拾い集めていると、梶川は何かを考えるように口元に手を当てる。

「先輩、メイク、好きじゃないんですか?」
「そういうわけじゃないけど。私はキツイ顔をしているでしょう? しっかりメイクをしたら、キツさがさらに酷くなってしまうみたいで」

 鈴はそこまで容姿は悪くないとは思うのだが、いかんせん気がきつそうな顔をしている。吊り上がった目はコンプレックスで、睨んでいないのに睨まれたと言いがかりをつけられることもあった。濃いメイクをすればそれがより引き立ってしまうので、常にナチュラルメイクを心がけているのだ。

「先輩の顔、俺は好きですけど」
「ありがとう。でも、リップサービスは要らないから」
「本心ですよ」

 梶川の言葉に鈴は苦笑した。彼の周りにはいつも色んな女性が群がっている。それこそ、メイクも気合をいれた鈴よりも可愛い子ばかりだ。彼女達と比較したら自分は全く女性らしさが足りないだろうと鈴は自覚している。

「梶川くんの親しみやすさは素晴らしいと思うけど、あまりそういう言葉を気軽に言わない方がいいよ。女性を誤解させる」
「先輩は誤解してくれないんですか?」
「私は身の程を知っているので」

 言葉を素直に受け取るには、梶川は鈴にとって眩しすぎた。彼は営業部のエースだ。人の懐にするりと入り込むトークスキルは素晴らしく、次々と案件を決めてきている。
 いくらでも女性を選び放題である彼がどうして自分に目をつけたのか鈴は不思議で仕方がなかったが、おそらくは自分からセフレを募集するような女が珍しかったのだろう。

 ほんの少しの興味。あるいは、いつでも切り捨てられる身体だけの関係。
 そうでなければ、梶川が鈴を相手にするはずがない。営業スキルの高い彼の言葉を真に受けるなど愚の骨頂である。

「先輩、自己評価が低すぎません?」
「冷静だと言ってよね」

 きちんとスーツを身にまとって背筋を伸ばす。梶川も既に衣服を身に着け、いつでも出社できる状態になっている。こうしてみれば、先ほどまで裸で抱き合っていたのが幻だったのではないかと鈴は感じた。

「梶川くんは先に出て。私は、メイクを直してから行くから」

 一緒に出社して、怪しまれるのはごめんである。そう鈴が含んで言うと、梶川は不服そうに唇を尖らせた。

「それは構いませんけど。退職願はちゃんと処分してくださいね。俺のせいで先輩が会社を辞めるとか嫌ですから」
「分かった。梶川くんがちゃんと黙っていてくれるなら、辞めない」
「本当ですか? 絶対ですからね!」

梶川は嬉しそうに笑うと、お先に失礼しますといって、きちんとルーム代金を置いてホテルの部屋を出ていった。
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