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逃げられない(1)

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 翌朝、鈴は退職願を鞄に忍ばせていつもより二時間も早く出社した。引継ぎ資料を作るために、誰もいないオフィスで作業をしようと思ったからだ。流石にこの時間ならば誰も出社していないだろう。そう思っていたのだけれど。

「おはようございます、先輩」
「か、梶川くん、なんで」
「先輩のことだから、今日は早く出社するんじゃないかなぁと思って」

 梶川はそう言うと、はいっと鈴にむかって手の平を差し出してきた。

「なんですか、その手は」
「出してください、退職願」
「どうして、私が退職願を持っているって思うの」

 退職願を書いてきたのは事実だけれど、それを誰にもうちあけてはいない。まさか鞄からはみ出しているのかと、鈴は慌てて通勤バッグを見たが、きちんとファスナーは閉まっていた。

「御影先輩って、何を考えてるか読めないようで、めちゃくちゃ分かりやすいですから」

 くすりと笑われて、鈴はむっと眉根を寄せた。

「お断り。退職願なら、ちゃんと直属の上司に渡します」
「でも、先輩が退職願を書いたのって、俺のせいでしょう?」

 梶川はそう言って鈴に詰め寄った。つられて鈴は後ろに下がるが、すぐにガタンと背中が壁にぶつかる。背中を壁に張りつかせた鈴を見て、梶川はくすくすと笑った。

「そう警戒しないでくださいよ」
「昨日あれだけ好き勝手しておいて、どの口が言う」
「ええ、でもあれは、先輩の希望でもあったじゃないですか」
「う、うるさい。というか、どうして私が掲示板に募集をかけたことを知ってるのよ!」

 掲示板に書き込んだのは鈴の家からだし、当然、そのことを誰にも話していない。なのに狙ったように梶川が応募してくるのはおかしいではないか。
鈴が怒鳴ると、梶川は綺麗な笑みを作る。

「先輩。いくら昼休みでも、会社のパソコンでプライベートメールを見るのは止めた方が良いですよ」
「なっ……いや、でも、あのとき、後ろには誰もいなかったはず」
「履歴、消してなかったでしょう。ああ、あと、ログインパスワードもちゃんと定期的に変えた方が良いですよ」

 梶川の言葉に鈴は頬を引きつらせた。つまり彼は、鈴の業務用IDでログインをして、閲覧履歴を確認したということらしい。

「梶川くん、どうしてそんなことを」
「先輩がコソコソしていたから気になったんです。でも、確認して良かった」

 梶川はそういうと、ドンと鈴の顔の横に手をついた。

「ねぇ先輩。あんな風にセフレを募集するのは良くないですよ? どんな相手がくるか分かんないんですから」
「言われなくても、二度としません」

 匿名の掲示板など信用してはいけないのだと、鈴は身に染みて理解した。見知らぬ相手だと安心していたら、会社の後輩が来ることもあるのだから。あんな思いをするのは二度とごめんである。完全に懲りた。二度としない。

「本当に二度としないでくださいよ? あと、退職願。出してください」
「だから、どうして梶川くんに」
「その退職願を部長に渡したら、俺、部長に言っちゃいますよ? 先輩が仕事を辞めたい本当の理由」

 脅されて鈴は顔を顰める。それだけは絶対に嫌だった。これ以上、あんな恥ずかしいことを誰かに知られるなんてごめんである。

「退職願を渡せば、黙っていてくれるの?」

 鈴が問いかけると、梶川は考えるように顎に手を当てた。

「ねぇ、先輩。まだ、タイムカード押していませんよね?」
「まだ押してないけど」
「始業時間まであと二時間もあります。ついてきてください」
「ちょっと、梶川くん⁈」

 梶川は鈴の腕を引っ張ると、オフィスを出て外へと連れ出した。早朝のビジネス街は人通りも少なく閑散としている。彼はぐんぐんと速足で街を歩くと、薄暗く細い路地へと入り込む。

「どこに行く気!?」
「ん、確かすぐ近くにあったはず……あ、やっぱり。ありました」

 そう言って梶川が連れて来たのは、洒落た雰囲気の清潔感のあるラブホテルであった。ご休憩と書かれた看板の前で立ち止まり、彼はにやりと笑う。

「ねぇ、先輩。昨日のこと黙っていて欲しかったら、このまま俺につきあって下さいよ」

 この状況でつきあうという意味が、何をさしているか分からない鈴ではない。
 セフレを募集するような女だと、安く見られているのかもしれない。それでも、昨日のことを会社で言いふらされたらと思うと、鈴は梶川の言葉に従うしかなかった。
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