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1巻
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呪われた男を拾いました
庭に男が落ちていた。
薬草を採りに行こうとトレッサが重い腰をあげ、たてつけの悪い古びた木戸を押し開いた瞬間、ゴンと扉がなにかにぶつかった。
また動物が迷い込んできたのかとトレッサは眉をひそめたが、庭先に転がっていたのは森に棲む獣――サイガでもアイベックスでもなく、大きな人間の男であった。
「っ!?」
トレッサは思わず目を見開いた。
こんな辺境の森で人と出会うなんて初めてのことだ。
森の中に引きこもって十九年。トレッサが交流する相手など、それこそ麓の村の住人くらいである。小さな村の住人は全員が顔見知りだが、この男は明らかに村の人間ではない。
まだ若い男だった。年の頃はトレッサと同じくらいだろうか。
少しクセのある柔らかそうな黒髪が、陽光を受けて輝いている。うつ伏せで倒れているので顔は見えないが、このあたりの村人では決して手に入れられないだろう上質な服を着ていた。
――どうしよう、面倒くさい。
行き倒れの男など、わけありの匂いしかない。
できれば見なかったことにして、家の中に戻りたい。
そんな気持ちがトレッサの中に芽生えたが、さすがにこんなものを家の庭先に放置したまま中に戻るのも気がひける。
生きているのかと疑問に思ったトレッサが恐る恐る男の身体に触れてみると、温かい体温が返ってきた。
死体ではないとわかって、ほっと息をはく。
森に引きこもっていたトレッサに、行き倒れを介抱した経験などない。とにかく外傷がないか探ってみようと腕に力を込めると、男の身体がゴロンと転がった。
「わぁ!」
仰向けになった男の顔を見て、トレッサは声をあげた。
倒れていた男の顔は右半分が焼け爛れて、原形をとどめないほどに皮膚が崩れていたのだ。
その傷を隠すためか、長く伸びた男の前髪は顔半分を覆っていたが、転がった衝撃で傷口が露わになっている。
あまりにも醜く痛々しい顔の傷。
けれどもトレッサが声をあげたのは、彼の傷が原因ではなかった。
――こんな見事な呪いは初めて見た。
男の傷から立ち上る呪いの気配を感じて、トレッサは銀色の目を爛々と輝かせた。
トレッサの左目は少々特殊で、視力は低いが呪いが見えるのだ。
その男の傷にまとわりつく呪いは、ドロドロと黒く濁っていて、かなりの執念深さで何度も丁寧に重ねがけされたのだとわかる。
男の傷にかけられた呪いを見た瞬間、トレッサから男への警戒心がふきとんだ。
ああ、知りたい研究したい解呪したい。
むくむくと、トレッサの中に研究欲が湧いてくる。
その瞬間、トレッサはこの男を拾うことに決めた。
トレッサは呪われた男をどうにか家の中に運び込むと、せっせと介抱した。
大きな外傷は見当たらなかったため、行き倒れの原因はおそらく衰弱だろう。
顔の傷はかなり酷いが、古い傷のようでもう乾燥している。この傷が原因で行き倒れていたということはなさそうだ。であれば、水分と栄養を与えれば目を覚ますはず。
トレッサは作業場でいくつもの薬草をすり潰し、栄養価の高い薬湯を作った。
意識のない人間に薬湯を飲ませることはできないが、薬湯で湿らせた布を口に含ませて、少しずつ水分をとらせるのだ。
トレッサは、できたばかりの薬湯を布に染み込ませて男の口内に詰め込んだ。その瞬間、カッと彼の目が見開かれる。
「ぐっ、ぐあっ、ごほっ、ごほっ!」
男はベッドから飛び起きると、慌てた様子で口の中から布を抜き取り、盛大に咳き込んだ。
トレッサは目を丸くしてその様子を見ていたが、我に返ると、慌ててキッチンから水を汲んで持ってくる。
「大丈夫ですか。これ、お水です」
男はトレッサが差し出した水を受け取ると、勢いよくがぶがぶと飲んだ。これは足りないとトレッサは慌てて追加の水を持ってくる。
コップ五杯ほど水を飲んだところで、ようやく男は落ち着いたようで、大きく息をはいた。
「助かった、すまない。毒を盛られたようだ」
「毒ですか?」
なるほど、だから行き倒れていたのか。
トレッサが納得しかけたところで、男は床に転がった布を忌々しそうに睨みつける。
「くそっ、口の中がまだ苦い」
「あ、すみません。それ、毒ではなく薬湯です」
「なに、薬湯?」
男の眉間にぐっと皺が寄ったのを見て、トレッサは申し訳ない気持ちでうつむいた。
よかれと思って作ったが、栄養にばかり意識がいって、味をまったく考慮していなかったことを思い出したのだ。
そういえば、麓の村人もトレッサの作った飲み薬は絶対に購入してくれない。
塗り薬よりも効果があるのにと思っていたが、理由はこういうことらしい。
「俺を殺そうとしたのではないのか?」
「違います」
いくらトレッサでも、行き倒れていた人間にとどめを刺すようなまねはしない。
せいぜいが、見なかったことにして見捨てる程度だ。
けれどもその案は、男にかけられた見事な呪いによって却下となった。
「私はあなたを助けたんです。倒れていたところを、家に運び入れて介抱しました。それで、栄養が足りていないのかと思い、薬湯を」
トレッサがそう口にしたのは、恩を売ってあわよくば彼の呪いを研究させてもらうためだ。
毒を盛って殺しかけたのだと誤解されては困る。
「薬湯?」
「薬湯です。あ、まだありますよ。飲みますか? 栄養面は保証します」
トレッサはそう言って、テーブルの上のコップを男に差し出した。
コップから立ち上る湯気を嗅いだ瞬間、彼は顔を青くして首を左右に振る。
「本当に毒ではないのか?」
「違います。飲まないなんてもったいない」
トレッサは毒ではないと証明するために薬湯を飲み干した。
少しクセのある味がして、微かに舌がぴりぴりと痺れる。が、飲めないほどでもない。
「本当に薬なのか。良薬は口に苦いとは聞くが」
「十種類以上の薬草を混ぜた特製品です。あなたを助けようとしたのだと、信じてくれました?」
「あ、ああ。毒だと疑ってすまない。ありがとう」
男はようやくトレッサを信じる気になったらしい。
お礼を言われて、トレッサはほっと息をはいた。
「ありがとうとおっしゃいましたが、それはつまり、私に恩を感じているということですか?」
「あ? ああ、そうだな。助けてくれて感謝している」
「ならば報酬を」
すかさずトレッサがそう言うと、男は困ったように眉根を寄せた。
「すまない。礼をしたいのは山々だが、あいにく持ち合わせがない」
「金銭などいりません」
「では、なにを」
「あなたのその顔の――」
「っ!」
トレッサが男の顔について言及した瞬間、彼の顔色が変わった。
顔の傷に手を這わせ、慌てた様子で顔半分を隠す。
「なぜだ、包帯は」
「包帯?」
そんなものは元々ついていなかった。トレッサがそう言うと、彼は忌々しそうに舌打ちをする。
「そうだ。逃げる途中で外れて」
「逃げる?」
逃げるとはどういうことか。トレッサは疑問に思ったが、彼は話したくないのか、固く口を引き結んだ。
「そんなことよりも、あなたのその顔です。顔」
「なんだ。恐ろしい、おぞましいと言いたいのか」
ギロリと睨まれてトレッサは慌てた。そんなことを思うはずがない。
「まさか! おぞましいなんて、とんでもない。そりゃあ、普通の人は怖がるかもしれませんけど、私は専門家ですし。むしろそんな見事な呪いは初めて見たので、感動したくらいです」
「待て、なんのことを言っている?」
「なにって、呪いですよね?」
「呪い?」
トレッサの言葉に男は不思議そうに目を瞬かせた。その様子を見て、トレッサはハッと気がつく。
そうだった。普通の人間には呪いが見えたりはしないのだ。
であれば、トレッサの言った「顔」という言葉は全て、彼の顔にある傷を指しているものだと誤解されているはず。
「すみません。私、人と話すのにあまり慣れていなくて。あなたの顔にある傷ではなく、その傷にかかっている呪いについて話がしたかったんです」
「呪い? 傷の話ではないのか?」
「傷はどうでもいいです。私が気になっているのは、その傷の上にかかっている呪いです」
「どうでもいい」
唖然とした男を見て、トレッサはしまったと慌てて手を振った。
なにせ、顔半分が爛れるほどの酷い怪我だ。それをどうでもいいというのはよくなかった。
「すみません、どうでもいいというのは言いすぎました。えっと、どうでもいいのではなく、興味がない――いや、関心がない?」
トレッサが言葉を重ねるにつれ、男はおかしな顔になっていく。
彼の反応を見て自分が失言をしていることに気がついたが、あいにく、引きこもりのトレッサにはそれをフォローする力がなかった。
「あの、えっと、すみません」
「いや、いい。それよりも呪いとはなんだ?」
どう言うべきか悩んでいるところに得意分野の話をふられて、トレッサはピンと背を伸ばした。
「はい。私、こう見えて解呪師でして」
「解呪師?」
問い返されて、トレッサは解呪師という職が一般的ではないことを思い出した。
師匠であったカチヤがそう名乗っていたのでトレッサも彼女に倣っているが、解呪で金銭を得ているわけではない。解呪師とはあくまで自称なのである。
「呪術の専門家です。でも、人を呪う仕事は受けなくて、解呪だけをおこなう人間のことです」
トレッサはそう言って、あまり成長しなかった平らな胸を誇らしげに反らした。
トレッサは師匠のカチヤを尊敬していた。
だから、カチヤに教わった解呪の技も、素晴らしいものであると誇っているのだ。
「私のこっちの目、少し特別なんです。視力が低い代わりに人の呪いが見える」
「呪いが見える?」
「そう。だから、あなたのその傷の上に、とても濃い呪いがかけられているのも見えています」
「っ!?」
トレッサの言葉に、男は驚いた顔をした。
「この傷に、呪いがかけられているのか?」
「はい。それはもう何重にも丁寧に、ドロドロとしたすごい呪いが」
トレッサは少しばかり興奮していた。
カチヤから解呪の手ほどきを受けたとはいえ、彼女は引きこもりである。
この森と麓の村くらいしか出歩かないので、実際に呪いを見る機会などゼロといってもいい。
カチヤのような解呪師になりたいが、こんな場所に引きこもっていては解呪の依頼など来るはずがない。けれども、街に出るのも嫌だ。
そんな葛藤を抱えていたら、呪いのほうからやってきたのだ。
これはなんとしてでも解呪させてもらわなければいけないと、トレッサは鼻息を荒くする。
「その呪いとは、どういうものなんだ?」
「そうですね。調べるために少し触ってもいいですか?」
「まさか、この傷に触るのか?」
「傷の上に呪いがあるので。ダメですか?」
「いや、ダメではないが……」
男は戸惑いながら許可を出す。彼の気が変わらないうちにと、トレッサは急いで呪いに触れた。
呪いは微弱な魔力のパターンだ。目で見るよりも、触るほうがその性質がよくわかる。
トレッサの指が触れた瞬間、男はビクッと身体を震わせた。
「あ、ごめんなさい。痛みますか?」
「いや、痛みはないが」
男はどことなく居心地が悪そうだったが、痛くないのならば問題ないだろう。
トレッサは容赦なく傷に指を這わせ、指先でたっぷりと呪いを堪能した。
「なるほど、こういう感じですか。あれ、どうかしました? 顔が赤いですが」
「な、なんでもない。傷を人に触れられるのは初めてなので、驚いただけだ」
「そうですか」
本人がなんでもないと言うなら、気にすることでもないだろう。
それよりも今は呪いだとトレッサは意識を切り替えた。
「それで呪いですが、治癒を阻む効果がありますね。あとは安眠妨害」
「っ!」
心当たりがあったのか、トレッサの言葉に男は顔を青くした。
「何度もこの顔をどうにかしようとしたが、どんな治療もまるで効果がなかった。魔獣にやられた傷だから無理なのだと言われていたが」
「呪いのせいですね。治癒系の魔法や薬を遮断して、効果が届かないようにされています」
「夜、悪夢ばかり見るのも呪いのせいなのか?」
「おそらく」
トレッサが頷くと、男は深いため息をついた。それから、期待のこもった目でトレッサを見る。
「もしかして、その呪いをどうにかできれば、傷を治せるか?」
「どうでしょうか。見た感じ、かなり古い傷ですよね。皮膚もその状態で固定されていそうですし、それこそ治癒魔法にでも頼らないと無理だと思います」
男の期待を裏切るようで申し訳ないが、トレッサは素直な意見を述べた。
治癒魔法はごく一部の人間しか受けることができない、とても高価な治療法だ。
まず、魔法を使うためには魔力が必要だが、魔力を持つ人間が極端に少ないうえに、そのほとんどが貴族なのだ。
まれに貴族の血を引かないものでも魔力を得ることがあるが、魔法を使えるようになる者はあまりいない。
トレッサも実は魔力を持っている庶民の部類なのだが、呪いに関することと薬の調合に力を使える程度で、一般的な魔法が使えるわけではない。
魔法を使うには、魔力を持った上で、さらにその魔法の適性を持っていなければならないのだ。
つまり、治癒魔法の使い手は数えるほどしかいない。
そんな治療を受けられるのは、お貴族様かよほどの金持ちくらいのものである。
「治癒魔法でなら治せる?」
「治癒魔法なら治せるかもしれませんね。当てはあるんですか?」
トレッサが尋ねると、男は口を閉じる。
男の身なりはかなりいい。もしかしたら、貴族か裕福な商人なのかもしれない。
であれば、治癒魔法も選択肢として考えられるだろうと、トレッサは勝手に納得した。
そもそも、男の傷がどうなろうがトレッサにはさほど興味がないのだ。
「私に解呪させてもらえませんか?」
下心を隠すことなく、トレッサはそう申し出た。
これを逃せば、次はいつ呪いに出会えるかわからない。
トレッサは彼をここにとどめようと必死であった。
「呪いに詳しい人間なんて、探すのは大変ですよ。ちょっとばかり経験は少ないですが、私は専門家です。全力であなたの呪いを解いてみせます」
「その解呪というのは、すぐできるものなのか?」
「すぐは難しいかもしれませんが、ちゃんと研究すれば必ず。ね? だから私にその呪いを調べさせてください。ほら、あなたを助けたお礼だと思って」
ここで断られてはたまらないと、トレッサはさらに言葉を重ねた。
「もし急ぎの用があるのなら、その用が終わってからまたここに来てくれるのでも大丈夫ですから」
「いや、急ぎの用などない。それに、行く当ても……ない」
その言葉を聞いて、トレッサは目を輝かせた。
「だったら好都合じゃないですか。ええ、呪いを研究させてくれるなら、衣食住くらい提供しますとも」
トレッサが前のめりでそう言うと、男は驚いたように身体をのけ反らせた。
「ま、待て。そんなことを簡単に言っていいのか? 見たところ、君はひとり暮らしだろう」
「ひとり暮らしだから大丈夫なんです。他に迷惑をかける人もいません」
「そういう問題ではなくてだな」
「私がいいって言っているんです。大丈夫です」
トレッサがぽんと自分の胸を叩くと、男は諦めたようにため息をついた。
「不用心だとは思うが、正直、助かる。本当に行く当てがないんだ」
どこか憂いを帯びた表情でそう呟く男には、なにやら、ややこしい事情がありそうだ。
けれども、トレッサはその事情に首を突っ込もうとは思わなかった。
大事なのは彼が呪われているという一点であり、それ以外の部分はどうでもよかったのだ。
「だが、本当にいいのか? 俺は……こんな顔だろう。怖くないのか?」
「顔って怪我のことですよね。怪我がどうして怖いんです? 感染する病でもないのに」
どう見ても男の怪我は外傷である。うつるようなものではないだろう。
「いや、そうだな。感染はしない」
「だったら問題ありません」
トレッサが力強く頷くと、彼は初めて小さく口元を緩めた。
「それでは、しばらく世話になる」
「はい。是非、呪いを研究させてください。あ、自己紹介がまだでしたね。私はトレッサといいます。この森で呪いの研究をしながら、薬を作って暮らしています」
「俺は……レニーと呼んでくれ」
男は名乗るときに、ほんの少し躊躇いを見せた。
その様子を見て、もしかしたら偽名かもしれないとトレッサは疑ったが、それもどうでもいいことであった。偽名だろうがなんだろうが、呼びかける名前があれば困りはしない。
「わかりました。それではしばらくよろしく、レニー」
「ああ。よろしく頼む」
こうして、レニーがトレッサの研究対象となることが決まったのだった。
森での生活
その日から、トレッサとレニーの共同生活が始まった。
当然かもしれないが、レニーには森暮らしの経験がないらしい。トレッサにとっては当たり前の日常も、レニーにとってはそうでないことが多々あった。
レニーは貴重な呪われた人なのだから、家でのんびりしていていいと思っていたのだが、トレッサの予想以上にレニーはよく働いた。
「なぜこの部屋は、こんなに散らかっている」
「ぐっ、この薬草、カビているのではないか?」
「なんだこのシーツは、虫に食われているぞ!?」
基本的に呪い以外には興味がなく、家事などは最低限、健康を維持できればいいとしか思っていないトレッサの感性は、レニーには受け入れがたいものだったようだ。
レニーは荷物で埋もれた部屋から箒を発掘して家を掃除し、腐った薬草の処理をおこない、寝具や衣服の虫干しを始めた。
当初、レニーをどこかの裕福なおぼっちゃんだと考えていたトレッサは、そのテキパキとした働きぶりに驚いた。
確かにレニーは家事に慣れているようには見えなかったが、それでもトレッサの何倍も上手い。
日ごとに綺麗になっていく家を眺めて、トレッサは実にいい拾いものをしたと喜んだ。
たとえ呪われていなくても、レニーは素晴らしい男だ。
特にトレッサが感動したのは、レニーが作った料理であった。
初日の夜はトレッサが手料理をふるまったのだが、腕によりをかけた品はレニーの口に合わなかったらしく、彼は一口で匙を置いたのだ。
「人間の食べものと思えない」
「そうですか? 慣れればいけますよ」
険しい顔で手料理を睨みつけるレニーの隣でトレッサが完食すると、彼は化け物でも見るような目をトレッサに向けた。
確かに味がいいとは言えないが、慣れればどうとでもなるものだ。
トレッサがそう言うと、レニーは明日からは自分が作ると申し出た。
そうして翌日に出されたレニーの料理は、確かに素晴らしいものであった。
トレッサが作った料理と本当に同じ材料でできているのか疑いたくなるくらい、美味しかったのだ。
息を止めずに食物を呑み込めるなんていつぶりだろうと、トレッサは感動した。
「すごい。すごいです、レニー。ちゃんとお肉の味がします!」
「俺は君がすごいと思う。いったい、今までどうやって暮らしていたんだ」
不思議そうに問いかけられて、トレッサは首をかしげた。
どうやってと言われても、ある程度の栄養をとり、眠りさえすれば人間は生きていけるものだ。
とにかく生でなければお腹を壊す確率は減るので、火だけは通すようにすればいい。
そう答えると、レニーは額に手を当てて深くため息をついた。
「もっと手をかけて調理すれば、美味しく食べられるだろう」
「その手をかけるのが面倒です。どうせ、お腹に入れば同じなんですから、そんな時間があったら、本を読むか研究をしたいじゃないですか」
トレッサはべつに味音痴というわけではない。レニーの作った食事は素直に美味しいと思えるし、自分の料理とどちらを食べたいかと聞かれれば、迷わずレニーの食事を選ぶ。
けれども調理にかかる手間を考えると、いつもの食事でいいとなってしまうのだ。
もちろん、美味しいものを食べられるのは大歓迎なので、トレッサは本当にレニーに感謝をしていた。自分がなにもしなくても、家が片付き、美味しい食事が出てくるのだ。
このままずっと、レニーがこの家に住んでくれればいいのにとさえ思うほどだった。
昼間の生活は問題なかったが、夜になると大変であった。
レニーは、トレッサの師匠であるカチヤが以前使っていた部屋で生活をしているのだが、深夜になると、その部屋から唸り声が聞こえてくるのだ。その声があまりに大きく、また悲鳴じみていたので、驚いたトレッサは慌てて彼の部屋へと向かった。
勝手に部屋に入るのは失礼かと思ったが、緊急事態と判断してドアを開ける。
トレッサが声をかけると、レニーは脂汗を流しながらベッドから飛び起きた。
「すごい声でしたけど、大丈夫でした?」
「すまない。起こしてしまったか」
レニーは申し訳なさそうにトレッサに謝罪した。聞けば、いつものことだという。
寝れば悪夢にうなされて、途切れ途切れにしか睡眠をとることができないらしい。
おそらくは、呪いにかけられた安眠妨害のせいだろう。
どうすればいいか考えた結果、トレッサはレニーのために特製の眠り薬を調合した。
これを飲めば、朝まで夢も見ずに眠れること間違いなしの効能のものだ。
レニーはなぜかこの世の終わりのような顔をしてその薬を飲み干した。狙いどおり朝まで安眠できたようなので、これで問題はないだろう。
「おはようございます、レニー。ちゃんと眠れたみたいですね」
「ああ、そうだな。こんなに寝たのは久しぶりだ」
「それはよかった。じゃあ、毎晩薬を調合しますね」
庭に男が落ちていた。
薬草を採りに行こうとトレッサが重い腰をあげ、たてつけの悪い古びた木戸を押し開いた瞬間、ゴンと扉がなにかにぶつかった。
また動物が迷い込んできたのかとトレッサは眉をひそめたが、庭先に転がっていたのは森に棲む獣――サイガでもアイベックスでもなく、大きな人間の男であった。
「っ!?」
トレッサは思わず目を見開いた。
こんな辺境の森で人と出会うなんて初めてのことだ。
森の中に引きこもって十九年。トレッサが交流する相手など、それこそ麓の村の住人くらいである。小さな村の住人は全員が顔見知りだが、この男は明らかに村の人間ではない。
まだ若い男だった。年の頃はトレッサと同じくらいだろうか。
少しクセのある柔らかそうな黒髪が、陽光を受けて輝いている。うつ伏せで倒れているので顔は見えないが、このあたりの村人では決して手に入れられないだろう上質な服を着ていた。
――どうしよう、面倒くさい。
行き倒れの男など、わけありの匂いしかない。
できれば見なかったことにして、家の中に戻りたい。
そんな気持ちがトレッサの中に芽生えたが、さすがにこんなものを家の庭先に放置したまま中に戻るのも気がひける。
生きているのかと疑問に思ったトレッサが恐る恐る男の身体に触れてみると、温かい体温が返ってきた。
死体ではないとわかって、ほっと息をはく。
森に引きこもっていたトレッサに、行き倒れを介抱した経験などない。とにかく外傷がないか探ってみようと腕に力を込めると、男の身体がゴロンと転がった。
「わぁ!」
仰向けになった男の顔を見て、トレッサは声をあげた。
倒れていた男の顔は右半分が焼け爛れて、原形をとどめないほどに皮膚が崩れていたのだ。
その傷を隠すためか、長く伸びた男の前髪は顔半分を覆っていたが、転がった衝撃で傷口が露わになっている。
あまりにも醜く痛々しい顔の傷。
けれどもトレッサが声をあげたのは、彼の傷が原因ではなかった。
――こんな見事な呪いは初めて見た。
男の傷から立ち上る呪いの気配を感じて、トレッサは銀色の目を爛々と輝かせた。
トレッサの左目は少々特殊で、視力は低いが呪いが見えるのだ。
その男の傷にまとわりつく呪いは、ドロドロと黒く濁っていて、かなりの執念深さで何度も丁寧に重ねがけされたのだとわかる。
男の傷にかけられた呪いを見た瞬間、トレッサから男への警戒心がふきとんだ。
ああ、知りたい研究したい解呪したい。
むくむくと、トレッサの中に研究欲が湧いてくる。
その瞬間、トレッサはこの男を拾うことに決めた。
トレッサは呪われた男をどうにか家の中に運び込むと、せっせと介抱した。
大きな外傷は見当たらなかったため、行き倒れの原因はおそらく衰弱だろう。
顔の傷はかなり酷いが、古い傷のようでもう乾燥している。この傷が原因で行き倒れていたということはなさそうだ。であれば、水分と栄養を与えれば目を覚ますはず。
トレッサは作業場でいくつもの薬草をすり潰し、栄養価の高い薬湯を作った。
意識のない人間に薬湯を飲ませることはできないが、薬湯で湿らせた布を口に含ませて、少しずつ水分をとらせるのだ。
トレッサは、できたばかりの薬湯を布に染み込ませて男の口内に詰め込んだ。その瞬間、カッと彼の目が見開かれる。
「ぐっ、ぐあっ、ごほっ、ごほっ!」
男はベッドから飛び起きると、慌てた様子で口の中から布を抜き取り、盛大に咳き込んだ。
トレッサは目を丸くしてその様子を見ていたが、我に返ると、慌ててキッチンから水を汲んで持ってくる。
「大丈夫ですか。これ、お水です」
男はトレッサが差し出した水を受け取ると、勢いよくがぶがぶと飲んだ。これは足りないとトレッサは慌てて追加の水を持ってくる。
コップ五杯ほど水を飲んだところで、ようやく男は落ち着いたようで、大きく息をはいた。
「助かった、すまない。毒を盛られたようだ」
「毒ですか?」
なるほど、だから行き倒れていたのか。
トレッサが納得しかけたところで、男は床に転がった布を忌々しそうに睨みつける。
「くそっ、口の中がまだ苦い」
「あ、すみません。それ、毒ではなく薬湯です」
「なに、薬湯?」
男の眉間にぐっと皺が寄ったのを見て、トレッサは申し訳ない気持ちでうつむいた。
よかれと思って作ったが、栄養にばかり意識がいって、味をまったく考慮していなかったことを思い出したのだ。
そういえば、麓の村人もトレッサの作った飲み薬は絶対に購入してくれない。
塗り薬よりも効果があるのにと思っていたが、理由はこういうことらしい。
「俺を殺そうとしたのではないのか?」
「違います」
いくらトレッサでも、行き倒れていた人間にとどめを刺すようなまねはしない。
せいぜいが、見なかったことにして見捨てる程度だ。
けれどもその案は、男にかけられた見事な呪いによって却下となった。
「私はあなたを助けたんです。倒れていたところを、家に運び入れて介抱しました。それで、栄養が足りていないのかと思い、薬湯を」
トレッサがそう口にしたのは、恩を売ってあわよくば彼の呪いを研究させてもらうためだ。
毒を盛って殺しかけたのだと誤解されては困る。
「薬湯?」
「薬湯です。あ、まだありますよ。飲みますか? 栄養面は保証します」
トレッサはそう言って、テーブルの上のコップを男に差し出した。
コップから立ち上る湯気を嗅いだ瞬間、彼は顔を青くして首を左右に振る。
「本当に毒ではないのか?」
「違います。飲まないなんてもったいない」
トレッサは毒ではないと証明するために薬湯を飲み干した。
少しクセのある味がして、微かに舌がぴりぴりと痺れる。が、飲めないほどでもない。
「本当に薬なのか。良薬は口に苦いとは聞くが」
「十種類以上の薬草を混ぜた特製品です。あなたを助けようとしたのだと、信じてくれました?」
「あ、ああ。毒だと疑ってすまない。ありがとう」
男はようやくトレッサを信じる気になったらしい。
お礼を言われて、トレッサはほっと息をはいた。
「ありがとうとおっしゃいましたが、それはつまり、私に恩を感じているということですか?」
「あ? ああ、そうだな。助けてくれて感謝している」
「ならば報酬を」
すかさずトレッサがそう言うと、男は困ったように眉根を寄せた。
「すまない。礼をしたいのは山々だが、あいにく持ち合わせがない」
「金銭などいりません」
「では、なにを」
「あなたのその顔の――」
「っ!」
トレッサが男の顔について言及した瞬間、彼の顔色が変わった。
顔の傷に手を這わせ、慌てた様子で顔半分を隠す。
「なぜだ、包帯は」
「包帯?」
そんなものは元々ついていなかった。トレッサがそう言うと、彼は忌々しそうに舌打ちをする。
「そうだ。逃げる途中で外れて」
「逃げる?」
逃げるとはどういうことか。トレッサは疑問に思ったが、彼は話したくないのか、固く口を引き結んだ。
「そんなことよりも、あなたのその顔です。顔」
「なんだ。恐ろしい、おぞましいと言いたいのか」
ギロリと睨まれてトレッサは慌てた。そんなことを思うはずがない。
「まさか! おぞましいなんて、とんでもない。そりゃあ、普通の人は怖がるかもしれませんけど、私は専門家ですし。むしろそんな見事な呪いは初めて見たので、感動したくらいです」
「待て、なんのことを言っている?」
「なにって、呪いですよね?」
「呪い?」
トレッサの言葉に男は不思議そうに目を瞬かせた。その様子を見て、トレッサはハッと気がつく。
そうだった。普通の人間には呪いが見えたりはしないのだ。
であれば、トレッサの言った「顔」という言葉は全て、彼の顔にある傷を指しているものだと誤解されているはず。
「すみません。私、人と話すのにあまり慣れていなくて。あなたの顔にある傷ではなく、その傷にかかっている呪いについて話がしたかったんです」
「呪い? 傷の話ではないのか?」
「傷はどうでもいいです。私が気になっているのは、その傷の上にかかっている呪いです」
「どうでもいい」
唖然とした男を見て、トレッサはしまったと慌てて手を振った。
なにせ、顔半分が爛れるほどの酷い怪我だ。それをどうでもいいというのはよくなかった。
「すみません、どうでもいいというのは言いすぎました。えっと、どうでもいいのではなく、興味がない――いや、関心がない?」
トレッサが言葉を重ねるにつれ、男はおかしな顔になっていく。
彼の反応を見て自分が失言をしていることに気がついたが、あいにく、引きこもりのトレッサにはそれをフォローする力がなかった。
「あの、えっと、すみません」
「いや、いい。それよりも呪いとはなんだ?」
どう言うべきか悩んでいるところに得意分野の話をふられて、トレッサはピンと背を伸ばした。
「はい。私、こう見えて解呪師でして」
「解呪師?」
問い返されて、トレッサは解呪師という職が一般的ではないことを思い出した。
師匠であったカチヤがそう名乗っていたのでトレッサも彼女に倣っているが、解呪で金銭を得ているわけではない。解呪師とはあくまで自称なのである。
「呪術の専門家です。でも、人を呪う仕事は受けなくて、解呪だけをおこなう人間のことです」
トレッサはそう言って、あまり成長しなかった平らな胸を誇らしげに反らした。
トレッサは師匠のカチヤを尊敬していた。
だから、カチヤに教わった解呪の技も、素晴らしいものであると誇っているのだ。
「私のこっちの目、少し特別なんです。視力が低い代わりに人の呪いが見える」
「呪いが見える?」
「そう。だから、あなたのその傷の上に、とても濃い呪いがかけられているのも見えています」
「っ!?」
トレッサの言葉に、男は驚いた顔をした。
「この傷に、呪いがかけられているのか?」
「はい。それはもう何重にも丁寧に、ドロドロとしたすごい呪いが」
トレッサは少しばかり興奮していた。
カチヤから解呪の手ほどきを受けたとはいえ、彼女は引きこもりである。
この森と麓の村くらいしか出歩かないので、実際に呪いを見る機会などゼロといってもいい。
カチヤのような解呪師になりたいが、こんな場所に引きこもっていては解呪の依頼など来るはずがない。けれども、街に出るのも嫌だ。
そんな葛藤を抱えていたら、呪いのほうからやってきたのだ。
これはなんとしてでも解呪させてもらわなければいけないと、トレッサは鼻息を荒くする。
「その呪いとは、どういうものなんだ?」
「そうですね。調べるために少し触ってもいいですか?」
「まさか、この傷に触るのか?」
「傷の上に呪いがあるので。ダメですか?」
「いや、ダメではないが……」
男は戸惑いながら許可を出す。彼の気が変わらないうちにと、トレッサは急いで呪いに触れた。
呪いは微弱な魔力のパターンだ。目で見るよりも、触るほうがその性質がよくわかる。
トレッサの指が触れた瞬間、男はビクッと身体を震わせた。
「あ、ごめんなさい。痛みますか?」
「いや、痛みはないが」
男はどことなく居心地が悪そうだったが、痛くないのならば問題ないだろう。
トレッサは容赦なく傷に指を這わせ、指先でたっぷりと呪いを堪能した。
「なるほど、こういう感じですか。あれ、どうかしました? 顔が赤いですが」
「な、なんでもない。傷を人に触れられるのは初めてなので、驚いただけだ」
「そうですか」
本人がなんでもないと言うなら、気にすることでもないだろう。
それよりも今は呪いだとトレッサは意識を切り替えた。
「それで呪いですが、治癒を阻む効果がありますね。あとは安眠妨害」
「っ!」
心当たりがあったのか、トレッサの言葉に男は顔を青くした。
「何度もこの顔をどうにかしようとしたが、どんな治療もまるで効果がなかった。魔獣にやられた傷だから無理なのだと言われていたが」
「呪いのせいですね。治癒系の魔法や薬を遮断して、効果が届かないようにされています」
「夜、悪夢ばかり見るのも呪いのせいなのか?」
「おそらく」
トレッサが頷くと、男は深いため息をついた。それから、期待のこもった目でトレッサを見る。
「もしかして、その呪いをどうにかできれば、傷を治せるか?」
「どうでしょうか。見た感じ、かなり古い傷ですよね。皮膚もその状態で固定されていそうですし、それこそ治癒魔法にでも頼らないと無理だと思います」
男の期待を裏切るようで申し訳ないが、トレッサは素直な意見を述べた。
治癒魔法はごく一部の人間しか受けることができない、とても高価な治療法だ。
まず、魔法を使うためには魔力が必要だが、魔力を持つ人間が極端に少ないうえに、そのほとんどが貴族なのだ。
まれに貴族の血を引かないものでも魔力を得ることがあるが、魔法を使えるようになる者はあまりいない。
トレッサも実は魔力を持っている庶民の部類なのだが、呪いに関することと薬の調合に力を使える程度で、一般的な魔法が使えるわけではない。
魔法を使うには、魔力を持った上で、さらにその魔法の適性を持っていなければならないのだ。
つまり、治癒魔法の使い手は数えるほどしかいない。
そんな治療を受けられるのは、お貴族様かよほどの金持ちくらいのものである。
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トレッサは彼をここにとどめようと必死であった。
「呪いに詳しい人間なんて、探すのは大変ですよ。ちょっとばかり経験は少ないですが、私は専門家です。全力であなたの呪いを解いてみせます」
「その解呪というのは、すぐできるものなのか?」
「すぐは難しいかもしれませんが、ちゃんと研究すれば必ず。ね? だから私にその呪いを調べさせてください。ほら、あなたを助けたお礼だと思って」
ここで断られてはたまらないと、トレッサはさらに言葉を重ねた。
「もし急ぎの用があるのなら、その用が終わってからまたここに来てくれるのでも大丈夫ですから」
「いや、急ぎの用などない。それに、行く当ても……ない」
その言葉を聞いて、トレッサは目を輝かせた。
「だったら好都合じゃないですか。ええ、呪いを研究させてくれるなら、衣食住くらい提供しますとも」
トレッサが前のめりでそう言うと、男は驚いたように身体をのけ反らせた。
「ま、待て。そんなことを簡単に言っていいのか? 見たところ、君はひとり暮らしだろう」
「ひとり暮らしだから大丈夫なんです。他に迷惑をかける人もいません」
「そういう問題ではなくてだな」
「私がいいって言っているんです。大丈夫です」
トレッサがぽんと自分の胸を叩くと、男は諦めたようにため息をついた。
「不用心だとは思うが、正直、助かる。本当に行く当てがないんだ」
どこか憂いを帯びた表情でそう呟く男には、なにやら、ややこしい事情がありそうだ。
けれども、トレッサはその事情に首を突っ込もうとは思わなかった。
大事なのは彼が呪われているという一点であり、それ以外の部分はどうでもよかったのだ。
「だが、本当にいいのか? 俺は……こんな顔だろう。怖くないのか?」
「顔って怪我のことですよね。怪我がどうして怖いんです? 感染する病でもないのに」
どう見ても男の怪我は外傷である。うつるようなものではないだろう。
「いや、そうだな。感染はしない」
「だったら問題ありません」
トレッサが力強く頷くと、彼は初めて小さく口元を緩めた。
「それでは、しばらく世話になる」
「はい。是非、呪いを研究させてください。あ、自己紹介がまだでしたね。私はトレッサといいます。この森で呪いの研究をしながら、薬を作って暮らしています」
「俺は……レニーと呼んでくれ」
男は名乗るときに、ほんの少し躊躇いを見せた。
その様子を見て、もしかしたら偽名かもしれないとトレッサは疑ったが、それもどうでもいいことであった。偽名だろうがなんだろうが、呼びかける名前があれば困りはしない。
「わかりました。それではしばらくよろしく、レニー」
「ああ。よろしく頼む」
こうして、レニーがトレッサの研究対象となることが決まったのだった。
森での生活
その日から、トレッサとレニーの共同生活が始まった。
当然かもしれないが、レニーには森暮らしの経験がないらしい。トレッサにとっては当たり前の日常も、レニーにとってはそうでないことが多々あった。
レニーは貴重な呪われた人なのだから、家でのんびりしていていいと思っていたのだが、トレッサの予想以上にレニーはよく働いた。
「なぜこの部屋は、こんなに散らかっている」
「ぐっ、この薬草、カビているのではないか?」
「なんだこのシーツは、虫に食われているぞ!?」
基本的に呪い以外には興味がなく、家事などは最低限、健康を維持できればいいとしか思っていないトレッサの感性は、レニーには受け入れがたいものだったようだ。
レニーは荷物で埋もれた部屋から箒を発掘して家を掃除し、腐った薬草の処理をおこない、寝具や衣服の虫干しを始めた。
当初、レニーをどこかの裕福なおぼっちゃんだと考えていたトレッサは、そのテキパキとした働きぶりに驚いた。
確かにレニーは家事に慣れているようには見えなかったが、それでもトレッサの何倍も上手い。
日ごとに綺麗になっていく家を眺めて、トレッサは実にいい拾いものをしたと喜んだ。
たとえ呪われていなくても、レニーは素晴らしい男だ。
特にトレッサが感動したのは、レニーが作った料理であった。
初日の夜はトレッサが手料理をふるまったのだが、腕によりをかけた品はレニーの口に合わなかったらしく、彼は一口で匙を置いたのだ。
「人間の食べものと思えない」
「そうですか? 慣れればいけますよ」
険しい顔で手料理を睨みつけるレニーの隣でトレッサが完食すると、彼は化け物でも見るような目をトレッサに向けた。
確かに味がいいとは言えないが、慣れればどうとでもなるものだ。
トレッサがそう言うと、レニーは明日からは自分が作ると申し出た。
そうして翌日に出されたレニーの料理は、確かに素晴らしいものであった。
トレッサが作った料理と本当に同じ材料でできているのか疑いたくなるくらい、美味しかったのだ。
息を止めずに食物を呑み込めるなんていつぶりだろうと、トレッサは感動した。
「すごい。すごいです、レニー。ちゃんとお肉の味がします!」
「俺は君がすごいと思う。いったい、今までどうやって暮らしていたんだ」
不思議そうに問いかけられて、トレッサは首をかしげた。
どうやってと言われても、ある程度の栄養をとり、眠りさえすれば人間は生きていけるものだ。
とにかく生でなければお腹を壊す確率は減るので、火だけは通すようにすればいい。
そう答えると、レニーは額に手を当てて深くため息をついた。
「もっと手をかけて調理すれば、美味しく食べられるだろう」
「その手をかけるのが面倒です。どうせ、お腹に入れば同じなんですから、そんな時間があったら、本を読むか研究をしたいじゃないですか」
トレッサはべつに味音痴というわけではない。レニーの作った食事は素直に美味しいと思えるし、自分の料理とどちらを食べたいかと聞かれれば、迷わずレニーの食事を選ぶ。
けれども調理にかかる手間を考えると、いつもの食事でいいとなってしまうのだ。
もちろん、美味しいものを食べられるのは大歓迎なので、トレッサは本当にレニーに感謝をしていた。自分がなにもしなくても、家が片付き、美味しい食事が出てくるのだ。
このままずっと、レニーがこの家に住んでくれればいいのにとさえ思うほどだった。
昼間の生活は問題なかったが、夜になると大変であった。
レニーは、トレッサの師匠であるカチヤが以前使っていた部屋で生活をしているのだが、深夜になると、その部屋から唸り声が聞こえてくるのだ。その声があまりに大きく、また悲鳴じみていたので、驚いたトレッサは慌てて彼の部屋へと向かった。
勝手に部屋に入るのは失礼かと思ったが、緊急事態と判断してドアを開ける。
トレッサが声をかけると、レニーは脂汗を流しながらベッドから飛び起きた。
「すごい声でしたけど、大丈夫でした?」
「すまない。起こしてしまったか」
レニーは申し訳なさそうにトレッサに謝罪した。聞けば、いつものことだという。
寝れば悪夢にうなされて、途切れ途切れにしか睡眠をとることができないらしい。
おそらくは、呪いにかけられた安眠妨害のせいだろう。
どうすればいいか考えた結果、トレッサはレニーのために特製の眠り薬を調合した。
これを飲めば、朝まで夢も見ずに眠れること間違いなしの効能のものだ。
レニーはなぜかこの世の終わりのような顔をしてその薬を飲み干した。狙いどおり朝まで安眠できたようなので、これで問題はないだろう。
「おはようございます、レニー。ちゃんと眠れたみたいですね」
「ああ、そうだな。こんなに寝たのは久しぶりだ」
「それはよかった。じゃあ、毎晩薬を調合しますね」
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