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1巻
1-2
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たしか、長く続くトラックル家から分家し、辺境にあるペペトの森一帯を治めることになった領主の家だ。
両親が反対するはずない。諸手を挙げて送り出されるに決まっている。
「自己紹介がまだだったな。私はフィデル・ヴァランティスだ。つい数カ月前に伯爵位を継いで、ペペトの領主となっている」
フィデルは改めて自己紹介をしてから、恭しく礼をした。
「カナリー・バラチエです。あの、私に伯爵夫人なんて務まりませんよ」
名乗り返して、カナリーはいかに自分が結婚に向かないかを告げた。
夫人の主な役割は社交である。茶会を開いて情報を収集したり、人脈を築いて夫を支えたりするのが仕事だ。カナリーにできるとは思えない。
もちろん貴族令嬢として最低限の淑女教育は終えているが、デビュタント以降、カナリーはまったく社交を行っていないのだ。
しかも主たる貴族の顔や名前も覚えておらず、友人のひとりもいなかった。
「安心しろ、君に社交は求めない。跡継ぎがひとりは欲しいが、君が望まないのであれば、最悪養子を取ってもいい。とにかく結婚しているという事実が大事なんだ」
「社交はしなくてもいい?」
「ああ。社交で足を引っ張るくらいなら、ひきこもってくれた方が助かる。魔術の研究がしたいのであれば、研究室を与えよう。もちろん、研究資金の援助も」
フィデルの提案に、カナリーの耳がピクリと動く。
結婚など面倒だが、研究資金付きの研究室をくれるというなら話は変わる。
カナリーは魔術の研究をすることに反対されているので、とにかく資金繰りに苦労していたのだ。
「ペペトは魔物が多いので、研究素材にも困らないだろう。研究成果は領地のために使ってもらうが、時間があるときは私が魔力を提供してもいい」
豊富な研究素材に、魔力の提供まで!?
カナリーの目の色が変わった。こんな美味しい結婚など、今を逃せば二度と巡ってこないだろう。
「結婚します、旦那様! どうか、私に嫁がせてください!」
婚約を破談にしてしまった責任は取らないといけない。
決して、研究室に釣られたわけではないのだ。
カナリーが食い気味に宣言すると、満足そうにフィデルは頷いた。
* * *
「よろしかったのですか、フィデル様」
フィデルがカナリーを馬車に乗せて送り出したあと、背の高い亜麻色の髪の男が近づいてきた。
彼は、フィデルの従者であるサントスだ。フィデルがまだ幼い頃から屋敷に出入りしていて、長い間仕えてくれている。
「婚約のことか?」
先ほどカナリーにも告げた通り、フィデルは彼女に結婚を申し込むつもりだ。
そのための書状を急いで作り、屋敷へと帰るカナリーに持たせた。
「バラチエ子爵は野心があまりない男だ。トラックル家との繋がりもない。もともと、バラチエ子爵令嬢も候補に入れていたしな」
フィデルには急いで結婚しなければならない事情があったが、婚約者がいなかった。そのため、年齢が釣り合う貴族令嬢はすべて候補として調べていたのだ。
その中に、魔術狂いだと噂されるカナリーの名前もあった。
「まさか、こんな風に出会うとは思ってもいなかったがな」
唐突に全裸で自室に現れたカナリーには、フィデルも驚いた。
風変わりな令嬢だとは聞いていたが、彼女は想像以上だった。
「転移してきたと言っていましたが、事実でしょうか」
「さてな。だが、普通の手段で忍び込んだのではあるまい」
屋敷はかなり厳重に警備されている。誰の目にも触れず、室内にいるフィデルにも悟られないまま私室に入り込むなど、普通の令嬢には不可能だ。
「ですが、転移魔術ですよ?」
「面白い研究ではないか。もし実現すれば、ペペトにも十分な益が出る」
転移魔術は、古くから色々な国で研究されてきた。
理論上は可能だと言われながらも、安定性の低さや必要魔力量の多さ、魔力の反発、その他様々な要因から実用化するのは不可能だろうと思われている。今まで数々の魔術師が転移魔術の開発に挑戦したが、成功させた者はまだいない。
それでも研究が続けられているのは、転移魔術がもたらす恩恵が大きいからだ。
馬車に頼っている移動手段を魔術に置き換えることができれば、物流に革命が起きるのは容易に想像できる。
「……奥方が行うようなことではありませんが」
カナリーの奇怪な言動を思い出したのか、サントスは眉根を寄せた。
たしかに彼女は、貴族の夫人には向いていないだろう。
「普通の令嬢であれば、私との結婚など望まないだろう。ランシール子爵令嬢がいい例だ」
フィデルは家柄こそいいが、治めるペペトの地は田舎である。
王都から遠く、領地のほとんどが森に覆われている。そして魔物が多く、危険な土地でもある。
力自慢の騎士ならともかく、女性に人気のある場所ではない。
さらに、フィデルの外見も問題だった。黒髪に赤い目は、どうしても魔物を彷彿とさせる。
整った容姿は本来であれば女性から高評価を得るものだが、フィデルの場合は人間離れしていて、より魔物らしいと言われてしまうのだ。
特に赤い目は気になるらしく、正面から見つめると目を逸らされることも多い。
「この目を羨むなど、本当に変わっている」
かの令嬢は、フィデルが出会ったどんな令嬢とも違っていた。
カナリーのことを思い出して、フィデルは口元を綻ばせた。
珍しく穏やかな顔をしているフィデルを見て、サントスは目を丸くする。
「フィデル様、なんだか楽しそうですね」
「煩わしい問題がひとつ片づきそうだからな」
トバリース王国では、領地を持つ貴族は既婚でなくてはならない。世襲に伴うトラブルを減らすため、建国からそう法で定められている。
基本的に結婚後でなければ爵位を継げないのだが、ヴァランティス家では前伯爵が急死した際、フィデルしか直系がいなかったことから、条件付きで爵位継承が認められた。
その条件とは、爵位を譲り受けてから一年以内に結婚すること。
これが守られない場合、ペペトは隣にあるラーランド領に吸収されることが決まっていた。
外見などの理由からまだ婚約者がいなかったフィデルは条件の合う女性を探したが、なかなか見つけることができなかった。
二十四歳にもなれば、年齢の近い貴族女性はほとんど婚約が決まっているのだ。
かといって、平民から適当な相手を見繕うわけにもいかない。
結婚相手を見つけるのはフィデルにとって難題だった。
「本当にそれだけですか?」
「どういう意味だ?」
ニヤニヤと笑うサントスを見て、フィデルは眉を寄せた。
「いえ。ただなんとなく、カナリー様とフィデル様は相性が良さそうだと思っただけです」
サントスの言葉を聞いて、フィデルは口をへの字に曲げた。
貴族の結婚など、義務以外の何物でもない。
それに、あのように奇抜な令嬢と相性がいいと言われるのは心外だった。
「ふざけていないで、仕事に戻るぞ」
カナリーを乗せた馬車がすっかり見えなくなったのを確認して、フィデルは身を翻した。
第二章 お詫びに夫婦になりました
フィデルと出会ってから、ひと月が経過した。
彼との結婚話は、カナリーの予想以上にあっさりと進んだ。
カナリーの嫁入りを諦めていた両親は、フィデルの申し出に涙を流して喜んだ。
フィデルの容姿も、ふたりにとっては何の問題にもならないらしい。
伯爵家、それも当主に嫁げるなんて素晴らしいことだと、カナリー以上に力を入れていた。
研究室がもらえる約束なので、結婚にはカナリーも乗り気だが、両親の張り切りようには参ってしまった。転移魔術の研究を再開したかったのだが、嫁入りの準備があるとあちこち連れ回されて、ろくに時間が取れなかったのだ。
それに、貴族の結婚は婚約期間を設けるのが慣習であるにもかかわらず、フィデルからはできるだけ早く嫁いでくるよう言われていた。
ゆえに、カナリーは急いで嫁入り準備とやらを終わらせなければならなかったのだ。
(どうしてこんなに急いでるんだろう)
フィデルにはすぐに結婚したい事情があるようだ。それが何なのか気になるが、タイミングが合わずに尋ねる機会を得られなかった。
その分早く研究室をもらえるのだと割り切って、張り切る母に付き合うしかない。
(ドレスや家具なんて、好きに決めてくれていいのに)
研究資金を得るために、最低限の服以外は売り払ってしまうカナリーだ。
そのため、カナリーはほとんどドレスを持っていなかった。ドレスを作っても売られてしまうと分かってから、両親は彼女にドレスを与えなかったのだ。
とはいえ、さすがにドレスの一枚も持たずに嫁入りするわけにはいかない。おかげで連日ドレス選びを行うことになってしまったのだ。
最低限の嫁入り道具を揃えるだけでも大変なのに、さらに挙式用のドレスも作らなければならず、目が回るような忙しさだった。
「どんなドレスがいいかなんて、私には分かりません! お母様にお任せします」
「駄目です。そう言ってまた部屋から出てこないつもりでしょう? 役に立たない研究よりも、ドレスを作る方が大事です。あなたも嫁入りするのですから、いい加減悪癖は治さないといけませんよ」
張り切る母に首根っこを掴まれて、カナリーは白旗を上げた。
「魔術の研究は殿方が行うこと。あなたは淑女なのだから、これからは社交を頑張ってヴァランティス伯爵をお支えしなければなりません」
母の言葉に、カナリーは心の中で舌を出した。
トバリース王国にも魔術師という職が存在する。実践向きの魔術部隊もそうだし、国の中枢には魔術研究所だってある。
けれども魔術師はエリート職で、男性中心の世界だった。魔術部隊はそもそも男性しか就職できないし、魔術研究所で働くには国家魔術師の資格を得なければならない。
国家魔術師は、国が認めた魔術師に与えられる肩書きである。
だが、トバリース王国が建国して二百年、女性にこの肩書きが与えられたことはなかった。
この国では女性は家を切り盛りして守るものだという価値観が浸透している。当然ながら女性が表舞台に立てる機会は少なく、戦場に出るなどもっての他だ。
カナリーがいくら魔術を研究したところで、女性である以上、魔術師になることはできない。
だからこそ母は、カナリーの魔術狂いを正そうとしたのだった。
「女性魔術師になるだの、転移魔術を開発するだの、あなたはいつも夢のようなことばかり。そんな調子でこれからどう生きていくのか心配でしたが、ヴァランティス伯爵との結婚が決まって安心しました。これからは魔術にかまけるのはやめるように。分かっていますね?」
「はぁい」
母の言葉に、カナリーは生返事を返す。
(研究室をもらうのが目的だって知ったら、お母様は悲鳴を上げそうね)
フィデルに提示された条件は秘密にしておこうと心に決めて、カナリーはデザイン画に目を落とした。
そうして、自由に研究できないフラストレーションを抱えたまま、嫁入りの日がやってきた。
挙式はヴァランティス家の領地である、ペペトの教会で行った。
ペペトはトバリース王国の北端にある辺境地だが、規模はバラチエ家の屋敷がある街よりも大きい。ペペトの北部に位置する教会は、大きなステンドグラスが美しい、歴史を感じる建物だった。
ひきこもりで友人もいないカナリーは、招待客などほとんどいないと思っていたのだが、式には見慣れない参列者が並んでいた。バラチエ家やヴァランティス家と付き合いのある貴族達である。カナリーが社交をサボっていても、両親は人並みに社交をこなしているのだから当然か。
ひと通り挨拶を済ませたが、とても顔と名前を覚えられる気がしなかった。
ドレスの裾を踏んで転んだり、誓いの言葉を間違えないようにと必死だったカナリーに、招待客を覚える余裕などなかったのだ。
母はこれからは社交をと言ったが、やはりカナリーには難しいだろう。
どうにか大きな失敗もなく式を終え、カナリーはフラフラになりながらペペトの屋敷に向かう。
「ものすごく疲れました」
「あの程度でか? 式の規模も招待客も最低限にしておいたのだが」
馬車の中でぐったりするカナリーの隣で、フィデルは涼しい顔をしている。
カナリーにとっては盛大な式に見えたが、あれで最低限とは驚きだ。
「……貴族って大変ですね」
「君も貴族のはずだが?」
「義務を全部放棄して、屋敷にひきこもっていましたから」
これからもそうさせてもらいます、との意を込めて言うと、フィデルが呆れたように肩をすくめた。
「まぁいい。前にも言った通り、君に社交を任せるつもりはない」
「理解のある、素敵な旦那様で嬉しいです」
カナリーは心の底からそう告げた。
ヴァランティス家の屋敷は、伯爵家だけあってバラチエ家の屋敷よりも大きくて立派だ。
華美な雰囲気はないものの、屋敷も庭もきちんと手入れされている。彫刻などの目立った装飾品は少ないが、カーペットやさりげなく置かれた花瓶は良いものが使われていて、質実剛健といった雰囲気だった。
そんな屋敷の中を、フィデルは自ら案内してくれた。
ロビーから順に説明しようとする彼の言葉を、カナリーは遮る。
「あの、研究室はどこですか?」
「屋敷に着くなりそれか」
「一番大事なことですから」
そのために結婚したと言っても過言ではないのだ。
カナリーの訴えを聞いて、フィデルはため息を吐いてから屋敷の一室に案内してくれた。
実用的な大きな棚には、秤や魔力測定器などの器具がずらりと並んでいる。魔物の素材が詰め込まれた木箱、資料を並べられる本棚などが揃った、まさしく理想とも言える部屋に、カナリーは目を輝かせた。
「こ、これが研究室ですか!?」
「必要だと思うものをひと通り揃えたが、この程度の設備で問題ないか?」
フィデルの言葉に、カナリーは何度も首を縦に振った。
この程度とフィデルは言うが、カナリーが今まで研究を行っていた自室の何倍もの設備が整っている。もちろん魔術塔の研究施設には敵わないだろうが、十分すぎるくらいだ。
思っていたよりも立派な部屋に、じわじわと喜びが湧き上がってくる。
「部屋の中に入っても構いませんか?」
「好きにしろ」
「ふわぁああああ!」
喜びの声を上げながら、カナリーは研究室の中へ突撃した。
立派な机や器具、書棚も嬉しいが、何より気になったのが素材の詰まった木箱だった。
「ブラッドウルフの牙に、トドクタケ、ラーディンス石まである!」
箱の中の素材を確認して、カナリーは歓喜に震えた。
どれもこれも、欲しくてもなかなか手に入らなかったものばかりだ。
「こ、これ、全部私が使っていいんですか?」
希少な品が惜しげもなく揃っていることにカナリーは興奮した。
これだけの素材があれば、資金が足りなくて諦めていた実験も行える。
「君は転移魔術を研究しているのだろう? であれば、これくらいの品は必要なはずだ」
「え?」
どうやらこれらの素材は、カナリーの研究を考慮して用意されたらしい。
「あ、あの……馬鹿にしないんですか?」
「何をだ?」
「だって、転移魔術ですよ。遊びはほどほどにしろとか、夢を見るなとか……せめてもっと現実的な研究をしろとか、いつも言われるのに」
カナリーはずっと転移魔術の研究をしてきたが、周囲には子どもの遊びのように思われていた。
数々の魔術師が挑戦して実現しなかった魔術を、カナリーに開発できるはずがないと、そう思われていたのだ。
社交もせずに、叶うはずもない魔術を研究し続ける愚か者だと、両親にも呆れられていた。
けれどもここに集められた素材は、夢物語に使うには高価すぎる。
「君は遊びのつもりで研究しているのか?」
「まさか、違います!」
「なら構わない。転移までは成功させたのだろう? であれば、実用を目指して頑張ってくれ」
淡々と言われた言葉に、胸が熱くなる。
フィデルは転移魔術が実用化できる、あるいはその可能性があると信じて、これだけの素材を用意してくれたのだ。
(……どうしよう、すごく嬉しい)
今まで、カナリーの研究を応援してくれる人はいなかった。
転移魔術を完成させて、女性初の国家魔術師になると宣言しても、できるはずがないと否定され続けていた。
けれど、出会ってまだ少ししか経っていないにもかかわらず、フィデルはカナリーの研究を真面目に支援するつもりでいる。
「……頑張ります。絶対に」
昂る気持ちを宥めるように、カナリーは胸に手を当てた。そして絶対に転移魔術を完成させてやると意気込み、さっそく研究に取りかかろうと実験器具に手を伸ばす。
けれども、それを中断させたのはフィデルだった。
「まさか、今から研究を始めるつもりか?」
「え、駄目ですか?」
「駄目に決まっているだろう。何時だと思っている」
たしかに窓の外を見れば、すっかり暗くなっている。
「明かりの魔術は使えますし、徹夜で作業しても平気ですよ?」
カナリーは研究に夢中になれば、寝食も忘れて昼夜関係なくのめり込む人間だった。
魔術で光源は確保できるし、今から研究を始めても構わない。
結婚準備のために、しばらく研究を我慢してきたのだ。そんな中、こんなにも立派な素材を与えられれば、すぐに始めたくなるというもの。
早く研究がしたくてウズウズするカナリーに、フィデルは呆れた顔をした。
「今日、君は私と結婚したはずだ」
「分かってます。さっき式を挙げたんですから」
「そうか。では当然、これから初夜だということも分かっているな?」
「……あ」
すっかり忘れていた。というよりも、初夜を共に過ごさなければならないという認識が、カナリーの頭になかったのだ。
(初夜……フィデルと!?)
フィデルとの初夜を想像して、カナリーの顔が熱くなる。
「あの、その、初夜って……その、初夜ですよね」
意味をなさない言葉が口から漏れる。
結婚の条件を告げたときも、フィデルはできれば子どもが欲しいと言っていた。
子ども――そのためには、子どもができる行為をしなければならない。
つまり、男女のアレコレなのだが、カナリーにはその覚悟ができていなかった。
(初夜っていったい、どうすれば……!?)
間の抜けたことに、カナリーは研究室がもらえることに浮かれて、今日までこの問題について深く考えていなかった。
「結婚したばかりの夫婦が共に過ごさないのは、外聞が悪い。寝室へ移動するぞ」
「は、はひっ!」
裏返った声で返事をして、カナリーはフィデルの背を追った。
寝室は当然、フィデルと同室なのだろう。よほど事情がない限り、結婚した男女が別の部屋で寝ることはありえない。
前を歩くフィデルの背中を見つめていると、カナリーの鼓動がどんどん速くなっていった。
カナリーとフィデルは婚約期間を設けなかった。結婚について何度か打ち合わせはしたものの、プライベートな会話もしたことがない。
だから、カナリーはまだフィデルがどういう人間なのか分かっていないのだ。
それなのに、いきなり初夜だなんて。
覚悟が決まらないまま、二階にある部屋の前でフィデルが立ち止まる。
ここが夫婦の寝室なのだろう。中央に置かれた立派なベッドに視線が吸い込まれた。
こちらも屋敷と同様に装飾が少なくシンプルであるが、調度品は良いものを使っていて品がある。
部屋の中には赤毛のメイドがいて、カナリーを見るなり顔を綻ばせた。
「お待ちしておりました、奥様」
ハキハキと元気な声で喋るメイドだ。年はカナリーより上だろうが、そばかすの浮いた純朴そうな顔が、彼女を幼く見せていた。
「ルル、彼女を頼む」
「畏まりました」
フィデルはルルと呼ばれたメイドにそれだけ言うと、身を翻して部屋を出た。
フィデルの姿が消えたあと、ルルはきらきらした目でカナリーを見つめる。
「さあさあ、奥様。湯あみに参りましょう!」
全身に丁寧に香油を塗られ、生地の薄いナイトドレスを着せられる。
カナリーが今まで着ていた夜着とはまったく違う、妙に色気のあるこのドレスは、男性を誘惑するためのものなのだろう。
ルルの手で磨かれたのが何のためかと思うと、恥ずかしくてたまらない。
「大丈夫ですよ、奥様。すべてフィデル様にお任せすればいいんです」
「そう言われても……」
「初めては誰しも不安ですが、皆が通る道ですから」
楽しそうなルルの手によって、カナリーはぽいっとベッドに放り込まれた。
寝室にフィデルの姿はない。どうやら彼も湯あみをしているようだ。
ベッドの中でそわそわしていると、寝室の扉が開いてフィデルが戻ってきた。
彼の艶やかな黒髪はしっとりと水気を帯びていて、湯上がりのためか頬も微かに色づいている。その様子が妙に色っぽくて、カナリーは思わずまじまじと彼を見つめてしまった。
「待たせたか?」
「い、いえ……」
フィデルが寝台に近づいてくる。何を話せばいいのか分からず、カナリーは俯いた。
緊張で身体が硬くなる。ぎゅっとシーツを握るカナリーを見て、フィデルはふっと息を吐いた。
「案ずるな。無理強いするつもりはない」
「え?」
柔らかな声に驚いて、カナリーは顔を上げた。
「こちらの都合で婚約期間も設けなかったからな。無理に抱いたりはしない。使用人が不審がっては困るので、隣で寝させてもらうが」
「えっと、いいんですか?」
「今は結婚したという事実があれば十分だ」
拍子抜けした気持ちでいると、フィデルがベッドに入り込む。
本当に何もする気がないのか、彼はそのまま横になってカナリーに背を向けた。
(ほっとしたような……なんだか、寂しいような)
覚悟が決まっていなかったのでありがたいが、気合を入れて準備してくれたルルに申し訳なくなる。
けれど、これもフィデルの気遣いなのだろう。
カナリーはふぅっと力を抜くと、隣で寝そべる彼の背に目を向けた。
「ずいぶん結婚を急いでいたみたいですけど、何か理由があるんですか?」
フィデルのことを少しでも知ろうと、カナリーは会話を試みる。
なるべく早く嫁ぐようフィデルが急かしたため、カナリーは急いで準備したのだが、その理由をきちんと聞けていなかった。
「君は法には詳しくないのか? 領地を持つ貴族は、既婚者でなければならないんだ」
呆れた声で言われて、そうだったかとカナリーは記憶をたどる。
そういえば昔、屋敷に来ていたカヴァネスにそんなことを習った気がした。
「あれ? でも、フィデルは領主なのに独身でしたよね?」
「父が急死したので特例措置を受けたんだ。だが、法に準じるべく、一年以内に結婚する必要があった」
なるほど。それでフィデルは結婚を急いでいたのか。
「事情は分かりましたが……跡継ぎだったんですよね? どうして婚約していなかったんですか」
「していなかったのではなく、できなかったんだ。この目を見れば分かるだろう?」
フィデルは不機嫌そうに言って、ごろんと寝返りを打つ。
両親が反対するはずない。諸手を挙げて送り出されるに決まっている。
「自己紹介がまだだったな。私はフィデル・ヴァランティスだ。つい数カ月前に伯爵位を継いで、ペペトの領主となっている」
フィデルは改めて自己紹介をしてから、恭しく礼をした。
「カナリー・バラチエです。あの、私に伯爵夫人なんて務まりませんよ」
名乗り返して、カナリーはいかに自分が結婚に向かないかを告げた。
夫人の主な役割は社交である。茶会を開いて情報を収集したり、人脈を築いて夫を支えたりするのが仕事だ。カナリーにできるとは思えない。
もちろん貴族令嬢として最低限の淑女教育は終えているが、デビュタント以降、カナリーはまったく社交を行っていないのだ。
しかも主たる貴族の顔や名前も覚えておらず、友人のひとりもいなかった。
「安心しろ、君に社交は求めない。跡継ぎがひとりは欲しいが、君が望まないのであれば、最悪養子を取ってもいい。とにかく結婚しているという事実が大事なんだ」
「社交はしなくてもいい?」
「ああ。社交で足を引っ張るくらいなら、ひきこもってくれた方が助かる。魔術の研究がしたいのであれば、研究室を与えよう。もちろん、研究資金の援助も」
フィデルの提案に、カナリーの耳がピクリと動く。
結婚など面倒だが、研究資金付きの研究室をくれるというなら話は変わる。
カナリーは魔術の研究をすることに反対されているので、とにかく資金繰りに苦労していたのだ。
「ペペトは魔物が多いので、研究素材にも困らないだろう。研究成果は領地のために使ってもらうが、時間があるときは私が魔力を提供してもいい」
豊富な研究素材に、魔力の提供まで!?
カナリーの目の色が変わった。こんな美味しい結婚など、今を逃せば二度と巡ってこないだろう。
「結婚します、旦那様! どうか、私に嫁がせてください!」
婚約を破談にしてしまった責任は取らないといけない。
決して、研究室に釣られたわけではないのだ。
カナリーが食い気味に宣言すると、満足そうにフィデルは頷いた。
* * *
「よろしかったのですか、フィデル様」
フィデルがカナリーを馬車に乗せて送り出したあと、背の高い亜麻色の髪の男が近づいてきた。
彼は、フィデルの従者であるサントスだ。フィデルがまだ幼い頃から屋敷に出入りしていて、長い間仕えてくれている。
「婚約のことか?」
先ほどカナリーにも告げた通り、フィデルは彼女に結婚を申し込むつもりだ。
そのための書状を急いで作り、屋敷へと帰るカナリーに持たせた。
「バラチエ子爵は野心があまりない男だ。トラックル家との繋がりもない。もともと、バラチエ子爵令嬢も候補に入れていたしな」
フィデルには急いで結婚しなければならない事情があったが、婚約者がいなかった。そのため、年齢が釣り合う貴族令嬢はすべて候補として調べていたのだ。
その中に、魔術狂いだと噂されるカナリーの名前もあった。
「まさか、こんな風に出会うとは思ってもいなかったがな」
唐突に全裸で自室に現れたカナリーには、フィデルも驚いた。
風変わりな令嬢だとは聞いていたが、彼女は想像以上だった。
「転移してきたと言っていましたが、事実でしょうか」
「さてな。だが、普通の手段で忍び込んだのではあるまい」
屋敷はかなり厳重に警備されている。誰の目にも触れず、室内にいるフィデルにも悟られないまま私室に入り込むなど、普通の令嬢には不可能だ。
「ですが、転移魔術ですよ?」
「面白い研究ではないか。もし実現すれば、ペペトにも十分な益が出る」
転移魔術は、古くから色々な国で研究されてきた。
理論上は可能だと言われながらも、安定性の低さや必要魔力量の多さ、魔力の反発、その他様々な要因から実用化するのは不可能だろうと思われている。今まで数々の魔術師が転移魔術の開発に挑戦したが、成功させた者はまだいない。
それでも研究が続けられているのは、転移魔術がもたらす恩恵が大きいからだ。
馬車に頼っている移動手段を魔術に置き換えることができれば、物流に革命が起きるのは容易に想像できる。
「……奥方が行うようなことではありませんが」
カナリーの奇怪な言動を思い出したのか、サントスは眉根を寄せた。
たしかに彼女は、貴族の夫人には向いていないだろう。
「普通の令嬢であれば、私との結婚など望まないだろう。ランシール子爵令嬢がいい例だ」
フィデルは家柄こそいいが、治めるペペトの地は田舎である。
王都から遠く、領地のほとんどが森に覆われている。そして魔物が多く、危険な土地でもある。
力自慢の騎士ならともかく、女性に人気のある場所ではない。
さらに、フィデルの外見も問題だった。黒髪に赤い目は、どうしても魔物を彷彿とさせる。
整った容姿は本来であれば女性から高評価を得るものだが、フィデルの場合は人間離れしていて、より魔物らしいと言われてしまうのだ。
特に赤い目は気になるらしく、正面から見つめると目を逸らされることも多い。
「この目を羨むなど、本当に変わっている」
かの令嬢は、フィデルが出会ったどんな令嬢とも違っていた。
カナリーのことを思い出して、フィデルは口元を綻ばせた。
珍しく穏やかな顔をしているフィデルを見て、サントスは目を丸くする。
「フィデル様、なんだか楽しそうですね」
「煩わしい問題がひとつ片づきそうだからな」
トバリース王国では、領地を持つ貴族は既婚でなくてはならない。世襲に伴うトラブルを減らすため、建国からそう法で定められている。
基本的に結婚後でなければ爵位を継げないのだが、ヴァランティス家では前伯爵が急死した際、フィデルしか直系がいなかったことから、条件付きで爵位継承が認められた。
その条件とは、爵位を譲り受けてから一年以内に結婚すること。
これが守られない場合、ペペトは隣にあるラーランド領に吸収されることが決まっていた。
外見などの理由からまだ婚約者がいなかったフィデルは条件の合う女性を探したが、なかなか見つけることができなかった。
二十四歳にもなれば、年齢の近い貴族女性はほとんど婚約が決まっているのだ。
かといって、平民から適当な相手を見繕うわけにもいかない。
結婚相手を見つけるのはフィデルにとって難題だった。
「本当にそれだけですか?」
「どういう意味だ?」
ニヤニヤと笑うサントスを見て、フィデルは眉を寄せた。
「いえ。ただなんとなく、カナリー様とフィデル様は相性が良さそうだと思っただけです」
サントスの言葉を聞いて、フィデルは口をへの字に曲げた。
貴族の結婚など、義務以外の何物でもない。
それに、あのように奇抜な令嬢と相性がいいと言われるのは心外だった。
「ふざけていないで、仕事に戻るぞ」
カナリーを乗せた馬車がすっかり見えなくなったのを確認して、フィデルは身を翻した。
第二章 お詫びに夫婦になりました
フィデルと出会ってから、ひと月が経過した。
彼との結婚話は、カナリーの予想以上にあっさりと進んだ。
カナリーの嫁入りを諦めていた両親は、フィデルの申し出に涙を流して喜んだ。
フィデルの容姿も、ふたりにとっては何の問題にもならないらしい。
伯爵家、それも当主に嫁げるなんて素晴らしいことだと、カナリー以上に力を入れていた。
研究室がもらえる約束なので、結婚にはカナリーも乗り気だが、両親の張り切りようには参ってしまった。転移魔術の研究を再開したかったのだが、嫁入りの準備があるとあちこち連れ回されて、ろくに時間が取れなかったのだ。
それに、貴族の結婚は婚約期間を設けるのが慣習であるにもかかわらず、フィデルからはできるだけ早く嫁いでくるよう言われていた。
ゆえに、カナリーは急いで嫁入り準備とやらを終わらせなければならなかったのだ。
(どうしてこんなに急いでるんだろう)
フィデルにはすぐに結婚したい事情があるようだ。それが何なのか気になるが、タイミングが合わずに尋ねる機会を得られなかった。
その分早く研究室をもらえるのだと割り切って、張り切る母に付き合うしかない。
(ドレスや家具なんて、好きに決めてくれていいのに)
研究資金を得るために、最低限の服以外は売り払ってしまうカナリーだ。
そのため、カナリーはほとんどドレスを持っていなかった。ドレスを作っても売られてしまうと分かってから、両親は彼女にドレスを与えなかったのだ。
とはいえ、さすがにドレスの一枚も持たずに嫁入りするわけにはいかない。おかげで連日ドレス選びを行うことになってしまったのだ。
最低限の嫁入り道具を揃えるだけでも大変なのに、さらに挙式用のドレスも作らなければならず、目が回るような忙しさだった。
「どんなドレスがいいかなんて、私には分かりません! お母様にお任せします」
「駄目です。そう言ってまた部屋から出てこないつもりでしょう? 役に立たない研究よりも、ドレスを作る方が大事です。あなたも嫁入りするのですから、いい加減悪癖は治さないといけませんよ」
張り切る母に首根っこを掴まれて、カナリーは白旗を上げた。
「魔術の研究は殿方が行うこと。あなたは淑女なのだから、これからは社交を頑張ってヴァランティス伯爵をお支えしなければなりません」
母の言葉に、カナリーは心の中で舌を出した。
トバリース王国にも魔術師という職が存在する。実践向きの魔術部隊もそうだし、国の中枢には魔術研究所だってある。
けれども魔術師はエリート職で、男性中心の世界だった。魔術部隊はそもそも男性しか就職できないし、魔術研究所で働くには国家魔術師の資格を得なければならない。
国家魔術師は、国が認めた魔術師に与えられる肩書きである。
だが、トバリース王国が建国して二百年、女性にこの肩書きが与えられたことはなかった。
この国では女性は家を切り盛りして守るものだという価値観が浸透している。当然ながら女性が表舞台に立てる機会は少なく、戦場に出るなどもっての他だ。
カナリーがいくら魔術を研究したところで、女性である以上、魔術師になることはできない。
だからこそ母は、カナリーの魔術狂いを正そうとしたのだった。
「女性魔術師になるだの、転移魔術を開発するだの、あなたはいつも夢のようなことばかり。そんな調子でこれからどう生きていくのか心配でしたが、ヴァランティス伯爵との結婚が決まって安心しました。これからは魔術にかまけるのはやめるように。分かっていますね?」
「はぁい」
母の言葉に、カナリーは生返事を返す。
(研究室をもらうのが目的だって知ったら、お母様は悲鳴を上げそうね)
フィデルに提示された条件は秘密にしておこうと心に決めて、カナリーはデザイン画に目を落とした。
そうして、自由に研究できないフラストレーションを抱えたまま、嫁入りの日がやってきた。
挙式はヴァランティス家の領地である、ペペトの教会で行った。
ペペトはトバリース王国の北端にある辺境地だが、規模はバラチエ家の屋敷がある街よりも大きい。ペペトの北部に位置する教会は、大きなステンドグラスが美しい、歴史を感じる建物だった。
ひきこもりで友人もいないカナリーは、招待客などほとんどいないと思っていたのだが、式には見慣れない参列者が並んでいた。バラチエ家やヴァランティス家と付き合いのある貴族達である。カナリーが社交をサボっていても、両親は人並みに社交をこなしているのだから当然か。
ひと通り挨拶を済ませたが、とても顔と名前を覚えられる気がしなかった。
ドレスの裾を踏んで転んだり、誓いの言葉を間違えないようにと必死だったカナリーに、招待客を覚える余裕などなかったのだ。
母はこれからは社交をと言ったが、やはりカナリーには難しいだろう。
どうにか大きな失敗もなく式を終え、カナリーはフラフラになりながらペペトの屋敷に向かう。
「ものすごく疲れました」
「あの程度でか? 式の規模も招待客も最低限にしておいたのだが」
馬車の中でぐったりするカナリーの隣で、フィデルは涼しい顔をしている。
カナリーにとっては盛大な式に見えたが、あれで最低限とは驚きだ。
「……貴族って大変ですね」
「君も貴族のはずだが?」
「義務を全部放棄して、屋敷にひきこもっていましたから」
これからもそうさせてもらいます、との意を込めて言うと、フィデルが呆れたように肩をすくめた。
「まぁいい。前にも言った通り、君に社交を任せるつもりはない」
「理解のある、素敵な旦那様で嬉しいです」
カナリーは心の底からそう告げた。
ヴァランティス家の屋敷は、伯爵家だけあってバラチエ家の屋敷よりも大きくて立派だ。
華美な雰囲気はないものの、屋敷も庭もきちんと手入れされている。彫刻などの目立った装飾品は少ないが、カーペットやさりげなく置かれた花瓶は良いものが使われていて、質実剛健といった雰囲気だった。
そんな屋敷の中を、フィデルは自ら案内してくれた。
ロビーから順に説明しようとする彼の言葉を、カナリーは遮る。
「あの、研究室はどこですか?」
「屋敷に着くなりそれか」
「一番大事なことですから」
そのために結婚したと言っても過言ではないのだ。
カナリーの訴えを聞いて、フィデルはため息を吐いてから屋敷の一室に案内してくれた。
実用的な大きな棚には、秤や魔力測定器などの器具がずらりと並んでいる。魔物の素材が詰め込まれた木箱、資料を並べられる本棚などが揃った、まさしく理想とも言える部屋に、カナリーは目を輝かせた。
「こ、これが研究室ですか!?」
「必要だと思うものをひと通り揃えたが、この程度の設備で問題ないか?」
フィデルの言葉に、カナリーは何度も首を縦に振った。
この程度とフィデルは言うが、カナリーが今まで研究を行っていた自室の何倍もの設備が整っている。もちろん魔術塔の研究施設には敵わないだろうが、十分すぎるくらいだ。
思っていたよりも立派な部屋に、じわじわと喜びが湧き上がってくる。
「部屋の中に入っても構いませんか?」
「好きにしろ」
「ふわぁああああ!」
喜びの声を上げながら、カナリーは研究室の中へ突撃した。
立派な机や器具、書棚も嬉しいが、何より気になったのが素材の詰まった木箱だった。
「ブラッドウルフの牙に、トドクタケ、ラーディンス石まである!」
箱の中の素材を確認して、カナリーは歓喜に震えた。
どれもこれも、欲しくてもなかなか手に入らなかったものばかりだ。
「こ、これ、全部私が使っていいんですか?」
希少な品が惜しげもなく揃っていることにカナリーは興奮した。
これだけの素材があれば、資金が足りなくて諦めていた実験も行える。
「君は転移魔術を研究しているのだろう? であれば、これくらいの品は必要なはずだ」
「え?」
どうやらこれらの素材は、カナリーの研究を考慮して用意されたらしい。
「あ、あの……馬鹿にしないんですか?」
「何をだ?」
「だって、転移魔術ですよ。遊びはほどほどにしろとか、夢を見るなとか……せめてもっと現実的な研究をしろとか、いつも言われるのに」
カナリーはずっと転移魔術の研究をしてきたが、周囲には子どもの遊びのように思われていた。
数々の魔術師が挑戦して実現しなかった魔術を、カナリーに開発できるはずがないと、そう思われていたのだ。
社交もせずに、叶うはずもない魔術を研究し続ける愚か者だと、両親にも呆れられていた。
けれどもここに集められた素材は、夢物語に使うには高価すぎる。
「君は遊びのつもりで研究しているのか?」
「まさか、違います!」
「なら構わない。転移までは成功させたのだろう? であれば、実用を目指して頑張ってくれ」
淡々と言われた言葉に、胸が熱くなる。
フィデルは転移魔術が実用化できる、あるいはその可能性があると信じて、これだけの素材を用意してくれたのだ。
(……どうしよう、すごく嬉しい)
今まで、カナリーの研究を応援してくれる人はいなかった。
転移魔術を完成させて、女性初の国家魔術師になると宣言しても、できるはずがないと否定され続けていた。
けれど、出会ってまだ少ししか経っていないにもかかわらず、フィデルはカナリーの研究を真面目に支援するつもりでいる。
「……頑張ります。絶対に」
昂る気持ちを宥めるように、カナリーは胸に手を当てた。そして絶対に転移魔術を完成させてやると意気込み、さっそく研究に取りかかろうと実験器具に手を伸ばす。
けれども、それを中断させたのはフィデルだった。
「まさか、今から研究を始めるつもりか?」
「え、駄目ですか?」
「駄目に決まっているだろう。何時だと思っている」
たしかに窓の外を見れば、すっかり暗くなっている。
「明かりの魔術は使えますし、徹夜で作業しても平気ですよ?」
カナリーは研究に夢中になれば、寝食も忘れて昼夜関係なくのめり込む人間だった。
魔術で光源は確保できるし、今から研究を始めても構わない。
結婚準備のために、しばらく研究を我慢してきたのだ。そんな中、こんなにも立派な素材を与えられれば、すぐに始めたくなるというもの。
早く研究がしたくてウズウズするカナリーに、フィデルは呆れた顔をした。
「今日、君は私と結婚したはずだ」
「分かってます。さっき式を挙げたんですから」
「そうか。では当然、これから初夜だということも分かっているな?」
「……あ」
すっかり忘れていた。というよりも、初夜を共に過ごさなければならないという認識が、カナリーの頭になかったのだ。
(初夜……フィデルと!?)
フィデルとの初夜を想像して、カナリーの顔が熱くなる。
「あの、その、初夜って……その、初夜ですよね」
意味をなさない言葉が口から漏れる。
結婚の条件を告げたときも、フィデルはできれば子どもが欲しいと言っていた。
子ども――そのためには、子どもができる行為をしなければならない。
つまり、男女のアレコレなのだが、カナリーにはその覚悟ができていなかった。
(初夜っていったい、どうすれば……!?)
間の抜けたことに、カナリーは研究室がもらえることに浮かれて、今日までこの問題について深く考えていなかった。
「結婚したばかりの夫婦が共に過ごさないのは、外聞が悪い。寝室へ移動するぞ」
「は、はひっ!」
裏返った声で返事をして、カナリーはフィデルの背を追った。
寝室は当然、フィデルと同室なのだろう。よほど事情がない限り、結婚した男女が別の部屋で寝ることはありえない。
前を歩くフィデルの背中を見つめていると、カナリーの鼓動がどんどん速くなっていった。
カナリーとフィデルは婚約期間を設けなかった。結婚について何度か打ち合わせはしたものの、プライベートな会話もしたことがない。
だから、カナリーはまだフィデルがどういう人間なのか分かっていないのだ。
それなのに、いきなり初夜だなんて。
覚悟が決まらないまま、二階にある部屋の前でフィデルが立ち止まる。
ここが夫婦の寝室なのだろう。中央に置かれた立派なベッドに視線が吸い込まれた。
こちらも屋敷と同様に装飾が少なくシンプルであるが、調度品は良いものを使っていて品がある。
部屋の中には赤毛のメイドがいて、カナリーを見るなり顔を綻ばせた。
「お待ちしておりました、奥様」
ハキハキと元気な声で喋るメイドだ。年はカナリーより上だろうが、そばかすの浮いた純朴そうな顔が、彼女を幼く見せていた。
「ルル、彼女を頼む」
「畏まりました」
フィデルはルルと呼ばれたメイドにそれだけ言うと、身を翻して部屋を出た。
フィデルの姿が消えたあと、ルルはきらきらした目でカナリーを見つめる。
「さあさあ、奥様。湯あみに参りましょう!」
全身に丁寧に香油を塗られ、生地の薄いナイトドレスを着せられる。
カナリーが今まで着ていた夜着とはまったく違う、妙に色気のあるこのドレスは、男性を誘惑するためのものなのだろう。
ルルの手で磨かれたのが何のためかと思うと、恥ずかしくてたまらない。
「大丈夫ですよ、奥様。すべてフィデル様にお任せすればいいんです」
「そう言われても……」
「初めては誰しも不安ですが、皆が通る道ですから」
楽しそうなルルの手によって、カナリーはぽいっとベッドに放り込まれた。
寝室にフィデルの姿はない。どうやら彼も湯あみをしているようだ。
ベッドの中でそわそわしていると、寝室の扉が開いてフィデルが戻ってきた。
彼の艶やかな黒髪はしっとりと水気を帯びていて、湯上がりのためか頬も微かに色づいている。その様子が妙に色っぽくて、カナリーは思わずまじまじと彼を見つめてしまった。
「待たせたか?」
「い、いえ……」
フィデルが寝台に近づいてくる。何を話せばいいのか分からず、カナリーは俯いた。
緊張で身体が硬くなる。ぎゅっとシーツを握るカナリーを見て、フィデルはふっと息を吐いた。
「案ずるな。無理強いするつもりはない」
「え?」
柔らかな声に驚いて、カナリーは顔を上げた。
「こちらの都合で婚約期間も設けなかったからな。無理に抱いたりはしない。使用人が不審がっては困るので、隣で寝させてもらうが」
「えっと、いいんですか?」
「今は結婚したという事実があれば十分だ」
拍子抜けした気持ちでいると、フィデルがベッドに入り込む。
本当に何もする気がないのか、彼はそのまま横になってカナリーに背を向けた。
(ほっとしたような……なんだか、寂しいような)
覚悟が決まっていなかったのでありがたいが、気合を入れて準備してくれたルルに申し訳なくなる。
けれど、これもフィデルの気遣いなのだろう。
カナリーはふぅっと力を抜くと、隣で寝そべる彼の背に目を向けた。
「ずいぶん結婚を急いでいたみたいですけど、何か理由があるんですか?」
フィデルのことを少しでも知ろうと、カナリーは会話を試みる。
なるべく早く嫁ぐようフィデルが急かしたため、カナリーは急いで準備したのだが、その理由をきちんと聞けていなかった。
「君は法には詳しくないのか? 領地を持つ貴族は、既婚者でなければならないんだ」
呆れた声で言われて、そうだったかとカナリーは記憶をたどる。
そういえば昔、屋敷に来ていたカヴァネスにそんなことを習った気がした。
「あれ? でも、フィデルは領主なのに独身でしたよね?」
「父が急死したので特例措置を受けたんだ。だが、法に準じるべく、一年以内に結婚する必要があった」
なるほど。それでフィデルは結婚を急いでいたのか。
「事情は分かりましたが……跡継ぎだったんですよね? どうして婚約していなかったんですか」
「していなかったのではなく、できなかったんだ。この目を見れば分かるだろう?」
フィデルは不機嫌そうに言って、ごろんと寝返りを打つ。
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