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第4部.リムウル~エンドルーア 第1章
6.疑念
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イスカ・チェインは今夜も就寝前のひととき、自分のテントで預かっている男の傍らに立ち、彼の寝顔を見守りながら考えに沈んでいた。
美しいが精悍さも感じさせる、気品ある整った顔立ち。
今は少し日に焼けているが元は白かったと思われる肌は、北方民族のそれだった。
しかし漆黒の髪がその印象を裏切っている。
果たしてこの男はエンドルーアの民なのだろうか?
……いや、たぶんそうなのだろう、そうでなければ、あの不思議な術の使い手である説明がつかない。
しかし、ならばなぜ自国に敵対し我々に加勢するような真似をしたのか……?
いくら眺めていても、この男が目を覚まさない限りはわからないことだ。
なのに、この一週間というもの、イスカはついつい毎夜、堂々巡りの考えを頭に浮かばせながら、男の顔にじっと目を注いでしまう。
それはつまり、早く目を覚ましてもらいたい、死んで欲しくはない、という気持ちの現れでもあった。
彼とは一週間前に会ったばかり、しかも起きている彼と過ごしたのは、ほんのわずかな時間だけだったというのに……そのわずかな間の出来事を、自分はおそらく一生忘れることはないだろう。
彼が味方の本陣の中へ、たった一騎で乗り込んで来たのを見たときから、警戒しながらも、心魅かれるものを感じていた。
剣を抜いて色めき立つ将軍たちを前に顔色一つ変えず、軍の総大将であり大国の王子であるユリシウスと堂々と渡り合っている様子に、その剛胆さ、慎重さと考え深さをも垣間見た気がした。
だから彼について行く気になった。
誰の目にも明らかだった味方の軍の大敗を、この男なら防げるかも知れない、そして自分がその助けになれるかも知れないという予感があった。
……そして、あの戦い。
とにかく、今まで経験したこともない、凄まじい戦いだった。
名乗りを上げたときから、ある程度、覚悟してはいたが……実際は想像を遥かに超えていた。
噂の通りエンドルーアは、悪魔と契約でもしたのではないか……?
あのような化け物を味方に引き入れるとは。
この世の者とも思えぬ、獣とも人間ともつかない異様な姿をしたものたちが複数いたが、それぞれが目にも止まらぬスピードで動き回り、現れては消えるので、いったい全部で何人いるのかもハッキリとはわからなかった。
しかしこの男から事前に、剣や弓で襲って来る者だけを相手にするようにと言われていたので、異形の影を目の端にとらえながら、とにかく兵士の姿をしている者と戦った。
激しい戦闘の最中、妙に体の自由が利かなくなったり、突然、異形の者に襲われたりした。
正直、もう終わりかと観念しかけたが、その度にこの男に助けられた。
彼が自分の体を盾にして防いでくれたことも一度や二度ではない。
後で仲間たちに聞くと、彼らも同じような経験をしていた。
この男の剣の腕と運動能力が並大抵でないことはもちろんわかるが、あの激しい戦闘の中で、仲間たちと異形の者たちの位置をそれぞれ正確に察知していたことこそ驚きだった。
戦闘は唐突に終わった。
突然、自分たちの周りから、残っていた敵の姿も気配も一気に消え失せたのだ。
その次の瞬間、男が倒れた。
すぐに本陣に運んで手当をしたが……それきり、男は目を覚まさない。
「ふぅ……」
イスカは一つため息を吐き、自分ももう寝ようと、テントの中に一つだけある明かりに手を伸ばした。
ろうそくを吹き消す前に、ふと、再び男の方に目をやったとき。
突然、それは現れた。
男と自分の間の、何もない空間からにじみ出すように、見る見るうちに人形のものが現れて来たのだ。
「うわっ……?!」
イスカは後ろに飛び退った。
普通の人間なら腰を抜かしてしまってもおかしくない状況だった。
しかしさすがに彼は精神的にも鍛え抜かれた生粋の武人、とっさに剣を取って構え、
「何者だっ?!」
と鋭い誰何の声を上げた。
ハッと振り向いた顔を見ればそれはまだ年端も行かない少女だった。
大きな瞳からは涙があふれているように見えるが、なぜか全身ぐっしょりと濡れそぼっているのでそれも定かではない。
「あ……」
彼女はひどく驚いた様子で小さく声を上げ、周りを見回した。
が、すぐにまた眠っている男の方に振り向いて、彼の元に駆け寄った。
「ギメリック……!!」
“何だと……?!”
イスカは衝撃を受けた。
それは聞き流すことのできない名前だった。
それは今まさに、この軍が対峙している敵軍の総指揮官であり、一連の侵略の張本人と言われている、エンドルーアの皇太子の名だったからだ。
「……」
激しい混乱が襲って来て、イスカは剣を握りしめたまま、その場に立ち尽くした。
そう言えばこの男の容姿は、噂に聞くエンドルーアの皇太子のそれと一致している……。
“どういうことだ?! やはり敵軍の罠だったのか? しかしそれにしては、この状態はいったい……?!”
ふいに、男に取りすがっている少女が振り向いた。
不安そうにじっと見つめてくる。
まるでイスカが次にどう行動を起こすか見定めようとしているかのようだ。
イスカは自分の胸中の動揺を見透かされた気がして恥ずかしくなり、逆に落ちついてきた。
そして同時に、男が自らの名を明かさなかったことを思い出していた。
戦いの場に赴く途中、馬上での会話だった。
男に追いついたイスカが真っ先に声をかけた。
「私はイスカ。イスカ・チェイン、お供いたします」
「フレッド・エルサムです。同じく」
「ハル・アウィーク。お見知りおきを」
「俺は……すまないが、今は名乗れない。必要なときは、……そうだな、エリアードと呼んでくれ」
あのとき彼が本名を明かしていたら、おそらく我々の心に疑念が生じてとても助け合うことなどできなかっただろう。
しかしあの恐ろしい戦いを共にした今なら……その経験こそが真実だと、信じることができる。
この男の素性がどうであれ……彼があの戦いに命がけだったこと、そして自分の身を呈して我々を救ってくれたことが偽りであるはずがない。
お互いに命を預けて戦った者同士の絆がそう語っているではないか……。
イスカは剣を鞘に収めると、少女に向かって静かに問いかけた。
「あなたはこの方をご存知なのですね?」
少女は不安げな表情のまま、微かにうなずいた。
美しいが精悍さも感じさせる、気品ある整った顔立ち。
今は少し日に焼けているが元は白かったと思われる肌は、北方民族のそれだった。
しかし漆黒の髪がその印象を裏切っている。
果たしてこの男はエンドルーアの民なのだろうか?
……いや、たぶんそうなのだろう、そうでなければ、あの不思議な術の使い手である説明がつかない。
しかし、ならばなぜ自国に敵対し我々に加勢するような真似をしたのか……?
いくら眺めていても、この男が目を覚まさない限りはわからないことだ。
なのに、この一週間というもの、イスカはついつい毎夜、堂々巡りの考えを頭に浮かばせながら、男の顔にじっと目を注いでしまう。
それはつまり、早く目を覚ましてもらいたい、死んで欲しくはない、という気持ちの現れでもあった。
彼とは一週間前に会ったばかり、しかも起きている彼と過ごしたのは、ほんのわずかな時間だけだったというのに……そのわずかな間の出来事を、自分はおそらく一生忘れることはないだろう。
彼が味方の本陣の中へ、たった一騎で乗り込んで来たのを見たときから、警戒しながらも、心魅かれるものを感じていた。
剣を抜いて色めき立つ将軍たちを前に顔色一つ変えず、軍の総大将であり大国の王子であるユリシウスと堂々と渡り合っている様子に、その剛胆さ、慎重さと考え深さをも垣間見た気がした。
だから彼について行く気になった。
誰の目にも明らかだった味方の軍の大敗を、この男なら防げるかも知れない、そして自分がその助けになれるかも知れないという予感があった。
……そして、あの戦い。
とにかく、今まで経験したこともない、凄まじい戦いだった。
名乗りを上げたときから、ある程度、覚悟してはいたが……実際は想像を遥かに超えていた。
噂の通りエンドルーアは、悪魔と契約でもしたのではないか……?
あのような化け物を味方に引き入れるとは。
この世の者とも思えぬ、獣とも人間ともつかない異様な姿をしたものたちが複数いたが、それぞれが目にも止まらぬスピードで動き回り、現れては消えるので、いったい全部で何人いるのかもハッキリとはわからなかった。
しかしこの男から事前に、剣や弓で襲って来る者だけを相手にするようにと言われていたので、異形の影を目の端にとらえながら、とにかく兵士の姿をしている者と戦った。
激しい戦闘の最中、妙に体の自由が利かなくなったり、突然、異形の者に襲われたりした。
正直、もう終わりかと観念しかけたが、その度にこの男に助けられた。
彼が自分の体を盾にして防いでくれたことも一度や二度ではない。
後で仲間たちに聞くと、彼らも同じような経験をしていた。
この男の剣の腕と運動能力が並大抵でないことはもちろんわかるが、あの激しい戦闘の中で、仲間たちと異形の者たちの位置をそれぞれ正確に察知していたことこそ驚きだった。
戦闘は唐突に終わった。
突然、自分たちの周りから、残っていた敵の姿も気配も一気に消え失せたのだ。
その次の瞬間、男が倒れた。
すぐに本陣に運んで手当をしたが……それきり、男は目を覚まさない。
「ふぅ……」
イスカは一つため息を吐き、自分ももう寝ようと、テントの中に一つだけある明かりに手を伸ばした。
ろうそくを吹き消す前に、ふと、再び男の方に目をやったとき。
突然、それは現れた。
男と自分の間の、何もない空間からにじみ出すように、見る見るうちに人形のものが現れて来たのだ。
「うわっ……?!」
イスカは後ろに飛び退った。
普通の人間なら腰を抜かしてしまってもおかしくない状況だった。
しかしさすがに彼は精神的にも鍛え抜かれた生粋の武人、とっさに剣を取って構え、
「何者だっ?!」
と鋭い誰何の声を上げた。
ハッと振り向いた顔を見ればそれはまだ年端も行かない少女だった。
大きな瞳からは涙があふれているように見えるが、なぜか全身ぐっしょりと濡れそぼっているのでそれも定かではない。
「あ……」
彼女はひどく驚いた様子で小さく声を上げ、周りを見回した。
が、すぐにまた眠っている男の方に振り向いて、彼の元に駆け寄った。
「ギメリック……!!」
“何だと……?!”
イスカは衝撃を受けた。
それは聞き流すことのできない名前だった。
それは今まさに、この軍が対峙している敵軍の総指揮官であり、一連の侵略の張本人と言われている、エンドルーアの皇太子の名だったからだ。
「……」
激しい混乱が襲って来て、イスカは剣を握りしめたまま、その場に立ち尽くした。
そう言えばこの男の容姿は、噂に聞くエンドルーアの皇太子のそれと一致している……。
“どういうことだ?! やはり敵軍の罠だったのか? しかしそれにしては、この状態はいったい……?!”
ふいに、男に取りすがっている少女が振り向いた。
不安そうにじっと見つめてくる。
まるでイスカが次にどう行動を起こすか見定めようとしているかのようだ。
イスカは自分の胸中の動揺を見透かされた気がして恥ずかしくなり、逆に落ちついてきた。
そして同時に、男が自らの名を明かさなかったことを思い出していた。
戦いの場に赴く途中、馬上での会話だった。
男に追いついたイスカが真っ先に声をかけた。
「私はイスカ。イスカ・チェイン、お供いたします」
「フレッド・エルサムです。同じく」
「ハル・アウィーク。お見知りおきを」
「俺は……すまないが、今は名乗れない。必要なときは、……そうだな、エリアードと呼んでくれ」
あのとき彼が本名を明かしていたら、おそらく我々の心に疑念が生じてとても助け合うことなどできなかっただろう。
しかしあの恐ろしい戦いを共にした今なら……その経験こそが真実だと、信じることができる。
この男の素性がどうであれ……彼があの戦いに命がけだったこと、そして自分の身を呈して我々を救ってくれたことが偽りであるはずがない。
お互いに命を預けて戦った者同士の絆がそう語っているではないか……。
イスカは剣を鞘に収めると、少女に向かって静かに問いかけた。
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