1 / 3
1.江戸の朝
しおりを挟む
――おっ? 何だか今朝はずいぶん体が軽いぞ――
と、タケは思った。
昨日の夜、土蔵の隅に転がっていたネズミを食べてから、どうも具合が悪かったのだが、それが嘘のようだ。
寝床にしている古座布団の上で大きく一つ伸びをして、箪笥の上に飛び乗ってみる。
まるで、血気盛んな若い雄だった頃のように、優美でしなやかな身のこなしだった。
白地に茶色の斑が散る毛皮さえ、昔の色つやを取り戻した気がする。
飾ってある日本人形の隣で、タケはひとしきり毛繕いをした。
それから前足を揃えて座ると、部屋を見下ろした。
タケの飼い主である千代は、まだ布団の中でぐっすり眠っている。
江戸に店を構えて木綿を商うこの東屋は、大店とまではいかぬまでも、そこそこの規模の中堅どころだ。
一人娘の千代は、今年数えで十七になる。
子猫の時に拾われて以来、タケはずっと、千代の部屋で彼女と一緒に寝起きしていた。
――千代ちゃん、起きておくれよ。おいら、ちょいと外を見回りに行きてぇんだ――
ニャア、の一声にその思いを込めて呼んでみたが、千代は目を覚ます気配がない。
障子と雨戸の向こうでは、すでに初夏の日射しが降り注いでいるらしく、賑やかなスズメたちの声がする。
ウキウキした気分に誘われて、思わずタケはそちらの方へと首を伸ばした。
すると突然、タケの目に映る景色が、部屋の中から外の廊下へと、まるで帳をめくりあげたように切り替わった。気がつくとタケは廊下に座って、目の前の雨戸を眺めていたのだ。
――あれれ? いつの間にここに来ちまったんだろう――
振り返ると、障子は閉まったままだ。
一体何が起きたのかと、タケは首をひねった。
江戸の町の朝は早い。
通りにはすでに、天秤棒を担いで豆腐や蜆を売り歩く、振り売りの声が飛び交い始めていた。
「ほい、活きのいいアナゴ、今が旬だよ」
この屋敷に馴染みの魚屋の声も、母屋のお勝手の方から微かに聞こえてくる。
タケはよくおこぼれをもらっているので、つい涎を垂らしそうになりながら、ああ、今すぐ外へ出たい、と思った。
すると、どうだろう。タケの体がすうっと雨戸を通り抜けたではないか。
――うわぁ! 何だ何だ? おいら、どうしちまったんだぃ……――
中庭に降り立ったタケはびっくりして、タワシのような短いシッポをまんまるに膨らませた。
見ると、雨戸はやっぱり閉まっている。
――妙なことになっちまったなぁ。でもまあ、自由に通り抜けできるってぇのは、便利じゃねぇか?――
と、タケが思ったとき。
「あっ! ネコタマ様だ!」
「ホントだ、ネコタマ様!」
「こんなところに! 大変だ大変だ!」
濃桃色の花をつけたツツジの陰から、三匹の猫が飛び出して来た。
黒猫と茶トラと、灰縞の体に白い腹掛けと白足袋を着けたような、サバトラの猫だ。
どの猫も、まだ子猫と言っていいぐらいに若い。
「誰だぃお前たちは。この辺じゃ見かけねぇ顔だな。それに『ネコタマ』ってぇのはいったい、何のことだぃ?」
三匹の猫はタケの前にきちんと座り直した。
「『ネコタマ様』は猫の神様、正しくは『ネコタマ大明神様』とおっしゃいます」と黒猫。
「もちろん、あなた様のことです」と茶トラ。
「あなた様は本日、めでたくも『ネコタマ大明神様』におなりあせあせ……あれ?」サバトラが舌を噛み、首をかしげる。
「……おなりあそばしたのです」と、黒猫が後を引き取った。
と、タケは思った。
昨日の夜、土蔵の隅に転がっていたネズミを食べてから、どうも具合が悪かったのだが、それが嘘のようだ。
寝床にしている古座布団の上で大きく一つ伸びをして、箪笥の上に飛び乗ってみる。
まるで、血気盛んな若い雄だった頃のように、優美でしなやかな身のこなしだった。
白地に茶色の斑が散る毛皮さえ、昔の色つやを取り戻した気がする。
飾ってある日本人形の隣で、タケはひとしきり毛繕いをした。
それから前足を揃えて座ると、部屋を見下ろした。
タケの飼い主である千代は、まだ布団の中でぐっすり眠っている。
江戸に店を構えて木綿を商うこの東屋は、大店とまではいかぬまでも、そこそこの規模の中堅どころだ。
一人娘の千代は、今年数えで十七になる。
子猫の時に拾われて以来、タケはずっと、千代の部屋で彼女と一緒に寝起きしていた。
――千代ちゃん、起きておくれよ。おいら、ちょいと外を見回りに行きてぇんだ――
ニャア、の一声にその思いを込めて呼んでみたが、千代は目を覚ます気配がない。
障子と雨戸の向こうでは、すでに初夏の日射しが降り注いでいるらしく、賑やかなスズメたちの声がする。
ウキウキした気分に誘われて、思わずタケはそちらの方へと首を伸ばした。
すると突然、タケの目に映る景色が、部屋の中から外の廊下へと、まるで帳をめくりあげたように切り替わった。気がつくとタケは廊下に座って、目の前の雨戸を眺めていたのだ。
――あれれ? いつの間にここに来ちまったんだろう――
振り返ると、障子は閉まったままだ。
一体何が起きたのかと、タケは首をひねった。
江戸の町の朝は早い。
通りにはすでに、天秤棒を担いで豆腐や蜆を売り歩く、振り売りの声が飛び交い始めていた。
「ほい、活きのいいアナゴ、今が旬だよ」
この屋敷に馴染みの魚屋の声も、母屋のお勝手の方から微かに聞こえてくる。
タケはよくおこぼれをもらっているので、つい涎を垂らしそうになりながら、ああ、今すぐ外へ出たい、と思った。
すると、どうだろう。タケの体がすうっと雨戸を通り抜けたではないか。
――うわぁ! 何だ何だ? おいら、どうしちまったんだぃ……――
中庭に降り立ったタケはびっくりして、タワシのような短いシッポをまんまるに膨らませた。
見ると、雨戸はやっぱり閉まっている。
――妙なことになっちまったなぁ。でもまあ、自由に通り抜けできるってぇのは、便利じゃねぇか?――
と、タケが思ったとき。
「あっ! ネコタマ様だ!」
「ホントだ、ネコタマ様!」
「こんなところに! 大変だ大変だ!」
濃桃色の花をつけたツツジの陰から、三匹の猫が飛び出して来た。
黒猫と茶トラと、灰縞の体に白い腹掛けと白足袋を着けたような、サバトラの猫だ。
どの猫も、まだ子猫と言っていいぐらいに若い。
「誰だぃお前たちは。この辺じゃ見かけねぇ顔だな。それに『ネコタマ』ってぇのはいったい、何のことだぃ?」
三匹の猫はタケの前にきちんと座り直した。
「『ネコタマ様』は猫の神様、正しくは『ネコタマ大明神様』とおっしゃいます」と黒猫。
「もちろん、あなた様のことです」と茶トラ。
「あなた様は本日、めでたくも『ネコタマ大明神様』におなりあせあせ……あれ?」サバトラが舌を噛み、首をかしげる。
「……おなりあそばしたのです」と、黒猫が後を引き取った。
0
お気に入りに追加
0
あなたにおすすめの小説
〖完結〗その子は私の子ではありません。どうぞ、平民の愛人とお幸せに。
藍川みいな
恋愛
愛する人と結婚した…はずだった……
結婚式を終えて帰る途中、見知らぬ男達に襲われた。
ジュラン様を庇い、顔に傷痕が残ってしまった私を、彼は醜いと言い放った。それだけではなく、彼の子を身篭った愛人を連れて来て、彼女が産む子を私達の子として育てると言い出した。
愛していた彼の本性を知った私は、復讐する決意をする。決してあなたの思い通りになんてさせない。
*設定ゆるゆるの、架空の世界のお話です。
*全16話で完結になります。
*番外編、追加しました。
旦那様は魔法使い
なかゆんきなこ
恋愛
クレス島でパン屋を営むアニエスの夫は島で唯一の魔法使い。褐色の肌に赤と青のオッドアイ。人付き合いの少し苦手な魔法使いとアニエスは、とても仲の良い夫婦。ファンタジーな世界で繰り広げる、魔法使いと美女のらぶらぶ夫婦物語。魔法使いの使い魔として、七匹の猫(人型にもなり、人語を解します)も同居中。(書籍掲載分は取り下げております。そのため、序盤の部分は抜けておりますのでご了承ください)
【完結】引きこもり令嬢は迷い込んできた猫達を愛でることにしました
かな
恋愛
乙女ゲームのモブですらない公爵令嬢に転生してしまった主人公は訳あって絶賛引きこもり中!
そんな主人公の生活はとある2匹の猫を保護したことによって一変してしまい……?
可愛い猫達を可愛がっていたら、とんでもないことに巻き込まれてしまった主人公の無自覚無双の幕開けです!
そしていつのまにか溺愛ルートにまで突入していて……!?
イケメンからの溺愛なんて、元引きこもりの私には刺激が強すぎます!!
毎日17時と19時に更新します。
全12話完結+番外編
「小説家になろう」でも掲載しています。
アルバートの屈辱
プラネットプラント
恋愛
妻の姉に恋をして妻を蔑ろにするアルバートとそんな夫を愛するのを諦めてしまった妻の話。
『詰んでる不憫系悪役令嬢はチャラ男騎士として生活しています』の10年ほど前の話ですが、ほぼ無関係なので単体で読めます。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
【取り下げ予定】愛されない妃ですので。
ごろごろみかん。
恋愛
王妃になんて、望んでなったわけではない。
国王夫妻のリュシアンとミレーゼの関係は冷えきっていた。
「僕はきみを愛していない」
はっきりそう告げた彼は、ミレーゼ以外の女性を抱き、愛を囁いた。
『お飾り王妃』の名を戴くミレーゼだが、ある日彼女は側妃たちの諍いに巻き込まれ、命を落としてしまう。
(ああ、私の人生ってなんだったんだろう──?)
そう思って人生に終止符を打ったミレーゼだったが、気がつくと結婚前に戻っていた。
しかも、別の人間になっている?
なぜか見知らぬ伯爵令嬢になってしまったミレーゼだが、彼女は決意する。新たな人生、今度はリュシアンに関わることなく、平凡で優しい幸せを掴もう、と。
*年齢制限を18→15に変更しました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる