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恋愛開始
逆玉覚悟した男
しおりを挟む店の営業が終わった深夜。
深夜と言っても明け方に近い。本来なら紗耶香にはハードワークだ。昼間も他店舗を抱える紗耶香が、バーの休業再開の準備や営業も手伝っていたからだ。
「疲れたんじゃないか?」
「今日は流石にね………」
肩が凝ったのか、首を左右に動かす紗耶香に、裕司は揉んでやりたいが躊躇する。手を差し伸べるには、微妙な距離だった2人の時間が長過ぎた。裕司は手を伸ばし掛けたが、留めてしまった。
「ねぇ……言ってた覚悟、て何?」
「社長に会ってきた」
「うん、それは聞いた……連絡あったし……それが覚悟?」
「覚悟は別………社長から、サポートを宜しく、て言われた」
「………今迄と同じじゃない」
「…………言葉にするのが難しいんだよ」
タバコに火を着け、手持ち無沙汰でライターを玩具にし始める裕司を、紗耶香はただ裕司を観察していた。
「難しい覚悟なの?」
「難しいな………覚悟も……それを伝える言葉を紡ぐ覚悟も……」
紗耶香に言ってもいい事なのだろうか、と思った裕司。
「それは私に?父に?」
「社長には言った」
「…………じゃ、1つずつ言ってみてよ」
「1つずつ………ねぇ……」
そうやって、紐解く事も大事な事なのだと紗耶香は裕司に言いたかった。全部ひっくるめて考えているから、紗耶香は裕司が如何したいか分からないのだ。それが先日の現場で強く思った事だった。
「私………恋愛経験なんて無いし、分からないんだけど……好きだって言った人が居るのに、他の人が抱けるものなの?」
「…………好きな女が抱けねぇから、他は全部一緒なんだよ……俺にはな」
「な、何それ………女性を軽視してない?」
「だから風俗があるんだよ……軽視してるとは思ってはいない………同意ならセックス出来る………っ!」
パシャッ!と、紗耶香はまた感情に任せ、飲んでいたワインを裕司の頭に掛ける。
「…………酷いよ………何で……私……裕司がそれでも嫌いになれないのが悔しいよ……女を抱きたかったら……私じゃ……駄目なの?………好き合ってるんじゃないの?」
「…………好きだぜ、紗耶香の事」
「なら!」
裕司はカウンター内にあるおしぼりを持って来ると、濡れた髪を拭く。怒りもせず、紗耶香の怒りを受け取る。
「俺には紗耶香に触れる権利なんて元々無かったんだよ……恋人になるなんて、夢だった……それが触れていい、て言われても今更どうやって触れていいか、なんて分からねぇ………セックスしたら責任取らなきゃならねぇ、て思ったら、それでお前の両親に反対されたら………それはそれで覚悟が要るだろうが!」
「…………だから……私に触れないの?」
「…………あぁ……だったら付き合わない方がいい、て思うだろ……傷が浅い内に……」
「…………」
「て、思ってた」
「……………ん?」
過去形にした裕司。
―――現在進行系の話ではないの………かな?
それなら話が変わってくる。紗耶香は恋人同士らしい事がしたいのだ。裕司がそれを制御している節があったのを紗耶香は怒っている。
「…………あぁ……だからだな……先に社長に、紗耶香と結婚前提………っつうか……白河酒造の後継者の旦那として……勉強する気あるか、て聞かれたんだよ………で、その覚悟をした、て紗耶香に言わなきゃな……と……」
「…………恋人らしい事……出来る………の?」
「お前が言う『恋人らしい事』て何だよ」
「キス………とか………その先………とか?」
「……………そのうちな」
「そのうち、て何!」
恋愛初心者の紗耶香にいきなりハードな事が出来るのか、と裕司が出した言葉。
―――キス……本気キス、て如何やったっけ………
と思考を巡り回した裕司なのだが、裕司も恋愛初心者だという事は紗耶香は知らない。
「恋愛初心者のお子ちゃまだろうが、お前」
「…………ゔっ……」
そう、虚勢を張らねばならない30歳の裕司。紗耶香が裕司は女を取っ替え引っ替えしているのを知っているから、恋愛豊富だと思っているのだ。
「………キスも……まだ駄目なの?」
「ワイン塗れの俺に抱き着くのか?お前……服汚れるぞ?」
「あ!ごめん!スーツ弁償するから!」
「…………スーツの弁償は別にいいが………寝みぃ……帰るか…………タクシー呼ぶぞ、紗耶香」
「………あ、もうこんな時間……」
「朝だよ朝………ふわぁぁぁ……」
「裕司………」
「ん~?」
スマートフォンでタクシー会社に電話をしようと検索する裕司に紗耶香は声を掛けた。その瞬間、振り向く裕司に紗耶香は頬にキスを贈る。
「…………」
「恋人………なんだよね?私達」
「…………あ?…あぁ……」
「びっくりさせた?いきなり過ぎた?」
「……………違う……」
「なら、何?」
「…………キスはこうやるんだよ……」
「!」
紗耶香は裕司の腕に肩を抱かれた。急に頬に掛かる、酒とタバコとフレグランスの香り。ザラッとした舌が、紗耶香に初めて入る。歯肉を這う舌と、裕司から流された唾液。そして、紗耶香の舌が吸われ、絡めとられそうになるキス。
キス中、息を如何やってしたらいいか分からない紗耶香は、裕司のスーツを握り締め、フルフルと震わせた。
「…………」
自分のスーツを握り締められて、苦しそうにする紗耶香を見た裕司は、下唇を甘噛みして終わらせる。
「…………っと!………大丈夫か?」
「………う……うん……」
「初めてのキスで腰砕けてんじゃねぇよ……タクシー呼ぶから、帰ったらゆっくり休めよ」
「………う、うん………」
夢の様なキスで、力が入らない紗耶香は、如何やって家に帰ったか分からないぐらい、呆然としていた。
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