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29 思いがけない再会
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この日レイズンは一日の仕事を終え、へとへとの状態で寮に戻ると、ドアに紙がはさまっていることに気がついた。
拾い上げ広げると、そこには走り書きではないきちんとした文字が現れた。何かの紙の端切れなのだと思うが、破かれたものではなく端はきれいに断ち切られていて、これを作成した人物の几帳面さが窺える。
(またアーヴァル様からの呼び出しか)
メモには日付けと時間だけが記されているが、レイズンにはそれが何か見ただけで分っていた。
今日はいつも以上にハードな訓練でひどく疲れていた。だからできれば早めにベッドに入りたかったのにと、悪態をつく。
だが残念ながら、この一方的に送りつけられる指示を無視するという選択肢は、レイズンに与えられていなかった。
(しかたない。まだ時間があるから少しだけ寝てからいこう)
どうせあちらで風呂とメシが待ってるだろうと、部屋に置いていた少量のビスケットで腹を満たすと、ごろんとベッドに横になった。
今日も部隊長の訓練は厳しかった。アーヴァルの推薦だからといって贔屓などされることなく、逆に目をつけられたのかと思うくらいみっちりとしごかれた。
基礎がなっていないということで、他の者よりも多めに鍛錬時間が取られたばかりか、訓練が終わったあとの片付けや整備も新人であるレイズンに割り当てられていた。
コネ入隊をした(とはいえ試験に合格し正式な入隊だったのだが)レイズンはちょっと部隊でも浮いた存在で、何かあっても助けてくれる者はいない。その代わり、といってはなんだが直接的な嫌がらせもない。
無駄な付き合いが発生せず、訓練に打ち込めるのはいいことだ。それに私生活に介入されることもない。それはそれでありがたかった。
レイズンはベッドの上で大の字になると、手足を突っ張ってうーんと伸びをした。
メモにあった時間までまだ一時間以上ある。少し眠って疲れを取ろう。そう思いつつ目を閉じた。
……その日は本当に疲れていたのだと思う。
目を閉じたレイズンは急速にまどろみ、そのまますっかりと眠りこけていた。
ちょっとひと眠りのつもりが、気がついたらなんと二時間も経過していたのだ。
約束の時間を三十分以上もオーバーしている。
レイズンは慌てて飛び起きると、部隊服のままで寮から少し離れた騎士団長の邸宅に向かって走った。
いつも邸宅についてから食事やら何やらで一時間くらいは支度にかかるのだから、急げばきっと何とかなるだろう。
一方的に押し付けられた約束であるが、約束は約束。元々拒否権はない上、決められた時間は遵守しなければならないという騎士団の教えが、すっかり身についてしまった。
レイズンはいつもの倍近い速さで邸宅の門まで辿り着くと、ハアハアと荒い息を吐いて門扉に手をかけた。
今日は星も月も雲に隠れているせいか、周囲は庭の外灯だけではひどく薄暗い。しかし庭のむこうに目をやれば、まるでレイズンを導くかのように、重厚な騎士団長の邸宅だけか煌々と際立って浮かび上がってみえた。
(……急がないと)
レイズンは一度大きく深呼吸をして、身だしなみを整えた。
そしてあらためて邸宅のほうに向き直り、門をくぐって外灯を頼りに歩き始めようとしたその時——
「そこにいるのは誰だ」
背後から急に声をかけられ、レイズンは驚いて肩をビクリと震わせた。
(……しまった。警備兵にでも見つかったか)
まさか背後に人がいるとは。
いつもなら誰にも会わないように気をつけながらここまで来るのに、今日は慌てていたからそこまで注意を払えなかったのだ。
どうごまかそうかと考えていたが、次に男の声を聞いて思考が一瞬止まった。
「こちらを向きなさい。その服は弓兵か? ここは騎士団長私邸の敷地内だ。何か用事があってのことか」
——この声は
レイズンは聞き覚えのあるこの声に体が固まった。
まさか——
「どうした。こちらを向きなさい。命令だ」
声に怒気がこもる。……このまま騒ぎになってもいけない。
レイズンは意を決して、ゆっくりと振り返った。
(やっぱり……)
その声の主は、あのハクラシスだった。
レイズンが振り返ると、ハクラシスもまた息を呑み、驚きのあまりに目を見開いた。
「……まさか、レイズン、か……?」
外灯に照らし出されたハクラシスの顔を、まるで眩しいものを見るかのようにレイズンは目を細めた。
「お久しぶりです。……閣下」
思わず小隊長殿と言いそうになる。
「……なぜここにいるんだ。いつから……? なぜその制服を着ている……?」
いつも冷静なハクラシスが驚いて口籠っているのが、こんな時なのになんだかおかしかった。
「ひと月前からです。閣下。ひと月前に騎士団に復帰しました」
「閣下などと……そんな呼び方はやめてくれ。復帰などなぜ。——ずっとあそこにいるのだとばかり……」
ハクラシスが近づき手を伸ばそうとするのを、レイズンは咄嗟に後ずさり、その手から逃れた。
「……ひと月待ちました。でもあなたからは手紙の一つもなく、街でのうわさで職位を与えられたと聞いて、確かめるためここまで来ました。アーヴァル……騎士団長からあなたは奥様の元で暮らしていると聞きました」
「……手紙を受け取っていないだと?」
「はい。俺からも出しましたが返事はこなかった」
「……俺の元にその手紙は届いていない」
「……」
事情を知らないレイズンが、実はハクラシスが何通も手紙を出していたことなど知る由もない。
「アーヴァルはこのことを知っているのか」
「……アーヴァル様に復帰の手続きをして頂きました」
「俺は何も聞いていない!」
声を荒らげたハクラシスにビクリと肩が震える。しかしレイズンは動揺をおし隠し、必死で平静を装う。
「閣下、お静かに。閣下には内緒にしていただくようにアーヴァル様にお願いしておりました」
「……なぜそんなことを……」
レイズンはこの日のために用意していた言葉を、なるべく冷静に、感情を込めないよう、淡々と口から吐き出した。
「もうあの小屋に戻るつもりもありませんから、働いてお金を貯めようと思っておりました。幸いアーヴァル様が復帰を認めて下さいまして。……なぜ黙っていたかって……俺がここにいるのがあなたに見つかると面倒でしょう?」
「——レイズン!」
「閣下との縁もここまでです。いろいろとありがとうございました。面倒見て下さって感謝しています。今後、もし騎士団内で俺を見かけても無視してください。……お別れが言えてよかった。奥様とお幸せに」
「レイズン!!」
踵を返し走り去ろうとするレイズンの肩に、ハクラシスが掴みかかった。
レイズンは抗い振りほどこうとするが、相手が相手なだけになかなか振りほどけない。
無理やり体を正面に向けられ、もがいて押しのけようとするものの、ハクラシスの逞しい体はびくともしない。
「レイズン!」
「は、……離してください! 俺はこれからアーヴァル様の元に行かないといけないんです」
「アーヴァルのことなど今はいい! レイズン、ちゃんと俺の顔を見ろ!」
「俺のことは放っておいてください!」
「ちゃんと話がしたい!」
「話して何になるんですか! あなたには奥様がいて、俺が捨てられることに変わりな…………んんっ」
一向に話を聞こうとしないレイズンに焦れたハクラシスが、言葉を遮るようにして唇を塞いだ。
無理矢理押し付けられる唇に、レイズンは必死で顔を背け逃れようとした。しかし後頭部を片手で押さえつけられ、動けない。
「はな……」
離してくださいと言いかけると、すかさず舌が割り込み、レイズンの口内を弄り、舌を絡めとる。
「んっ……は…………」
胸を押す手も無駄な抵抗と知り、次第に力が入らなくなる。レイズンの体から力が抜け抵抗が失せると同時にハクラシスが唇を離すと、レイズンの体が地面に崩れ落ち、膝をつく前に片腕を掴まれた状態でぶら下がった。
「……すまなかったレイズン……」
ハクラシスが動揺した声でレイズンの体を引き上げようとするが、力の抜けたレイズンの体は思いのほかダラリと重く、腰を抱えて抱き止める。
「……ズルいですよ……。いつもこんなふうに、俺の欲しいものだけを散々与えて……。俺はペットじゃないんです。ましてやあなたの子供でもない。奥さんの元に行くなら、王都に立つ前に言って欲しかった」
俯いたレイズンからズズッと鼻をすする音が出た。
「それについては、本当にすまなかった。俺も妻のことについて、その時はまだ何も知らなかったんだ。レイズン……顔がみたい。顔を見て話がしたい」
膝をつき下を向いたままのレイズンを宥め、頬を両手で挟み上を向かせようとするのを、レイズンは手で振りほどき抗ってみせた。
それにさっきは夢中で気づかなかったが、この匂い。ハクラシスの体臭に混じって、ハッカ水のようなスッとした香油の匂いがする。
それはレイズンの知らない匂い。彼の背後にこの香油を選んだ妻の影が見え隠れした。
レイズンはハクラシスの隙をついて、ドンッと押し退けた。
「レイズン!?」
レイズンは涙でぐしゃぐしゃの顔を袖で拭いて隠した。
「——レイズン、無理強いしてすまなかった。お願いだ。話をしよう」
ハクラシスが戸惑うようにで、もう一度その体を引き寄せようと手を伸ばしたその時——
タイミングがいいのか悪いのか、邸宅の方から、レイズンを探す声が聞こえた。
「レイズン? そこにいるのですか? ……一体どうしたんですか。時間はとうに……」
ハクラシスが暗がりに目を細めると、レイズンの背後から見知った姿が近づいてくる。
「……ベイジルか」
「ハ……ハクラシス閣下!」
レイズンの向こう側にいるハクラシスに気がつくと、ベイジルはサッと姿勢を正す。
ベイジルはチラッとレイズンの方を見やった。それであらかた事情を察したのだろう、やれやれといったように軽く眉間に皺を寄せ、小さく吐息した。
「……ベイジル。レイズンがここにいるのを、お前も知っていたのか。それなら彼がここに来たことをなぜ私に言わない」
「私は閣下の個人的事情など何も存じません。彼について私は閣下からは直接何も聞いておりませんし、私はアーヴァル様のご命令にただ従っているだけです」
ハクラシスが怒気を孕んだ低い声でベイジルを詰問するが、ベイジルはそれに動じることなく返答する。
確かにハクラシスから直接ベイジルに何か言うことはなかったが、アーヴァルの側近が何も知らない筈がない。これまでのアーヴァルとのやり取りだって近くで聞いていたのだ。
——さすがアーヴァルが重用する者だけあって白々しい嘘が得意だと、ハクラシスは心の中で皮肉った。
「さ、レイズン。もう時間はとっくに過ぎています。アーヴァル様をこれ以上お待たせするわけ訳にはいきません。……ハクラシス閣下、彼にはアーヴァル様との約束がありますので、これで失礼いたします」
ベイジルは強引にレイズンを引っ張り、ハクラシスに背を向ける。
後ろでベイジルを引き止める声がするが、聞こえなかったかのようにそのまま立ち去った。
しかしその実、冷静に対応したと見せて内心では、かなりまずいことになったと、ベイジルは冷や汗ダラダラの状態であった。
「時間になっても来ないから探しにきてみれば……まさか閣下と鉢合わせしているとは思いませんでしたよ」
ベイジルは隣でグスグスと鼻を鳴らしているレイズンを横目で見て、嘆息した。
「……さ、これでとりあえず顔を拭いて下さい。本当はこのまま寮に帰したいところですが……団長がお待ちなので行きますよ」
さっと胸元から手巾を出すとレイズンに渡した。そして玄関の扉までくると、慣れた手付きでノッカーを鳴らし、出てきた執事長に耳打ちするとレイズンを無常にも引き渡した。
拾い上げ広げると、そこには走り書きではないきちんとした文字が現れた。何かの紙の端切れなのだと思うが、破かれたものではなく端はきれいに断ち切られていて、これを作成した人物の几帳面さが窺える。
(またアーヴァル様からの呼び出しか)
メモには日付けと時間だけが記されているが、レイズンにはそれが何か見ただけで分っていた。
今日はいつも以上にハードな訓練でひどく疲れていた。だからできれば早めにベッドに入りたかったのにと、悪態をつく。
だが残念ながら、この一方的に送りつけられる指示を無視するという選択肢は、レイズンに与えられていなかった。
(しかたない。まだ時間があるから少しだけ寝てからいこう)
どうせあちらで風呂とメシが待ってるだろうと、部屋に置いていた少量のビスケットで腹を満たすと、ごろんとベッドに横になった。
今日も部隊長の訓練は厳しかった。アーヴァルの推薦だからといって贔屓などされることなく、逆に目をつけられたのかと思うくらいみっちりとしごかれた。
基礎がなっていないということで、他の者よりも多めに鍛錬時間が取られたばかりか、訓練が終わったあとの片付けや整備も新人であるレイズンに割り当てられていた。
コネ入隊をした(とはいえ試験に合格し正式な入隊だったのだが)レイズンはちょっと部隊でも浮いた存在で、何かあっても助けてくれる者はいない。その代わり、といってはなんだが直接的な嫌がらせもない。
無駄な付き合いが発生せず、訓練に打ち込めるのはいいことだ。それに私生活に介入されることもない。それはそれでありがたかった。
レイズンはベッドの上で大の字になると、手足を突っ張ってうーんと伸びをした。
メモにあった時間までまだ一時間以上ある。少し眠って疲れを取ろう。そう思いつつ目を閉じた。
……その日は本当に疲れていたのだと思う。
目を閉じたレイズンは急速にまどろみ、そのまますっかりと眠りこけていた。
ちょっとひと眠りのつもりが、気がついたらなんと二時間も経過していたのだ。
約束の時間を三十分以上もオーバーしている。
レイズンは慌てて飛び起きると、部隊服のままで寮から少し離れた騎士団長の邸宅に向かって走った。
いつも邸宅についてから食事やら何やらで一時間くらいは支度にかかるのだから、急げばきっと何とかなるだろう。
一方的に押し付けられた約束であるが、約束は約束。元々拒否権はない上、決められた時間は遵守しなければならないという騎士団の教えが、すっかり身についてしまった。
レイズンはいつもの倍近い速さで邸宅の門まで辿り着くと、ハアハアと荒い息を吐いて門扉に手をかけた。
今日は星も月も雲に隠れているせいか、周囲は庭の外灯だけではひどく薄暗い。しかし庭のむこうに目をやれば、まるでレイズンを導くかのように、重厚な騎士団長の邸宅だけか煌々と際立って浮かび上がってみえた。
(……急がないと)
レイズンは一度大きく深呼吸をして、身だしなみを整えた。
そしてあらためて邸宅のほうに向き直り、門をくぐって外灯を頼りに歩き始めようとしたその時——
「そこにいるのは誰だ」
背後から急に声をかけられ、レイズンは驚いて肩をビクリと震わせた。
(……しまった。警備兵にでも見つかったか)
まさか背後に人がいるとは。
いつもなら誰にも会わないように気をつけながらここまで来るのに、今日は慌てていたからそこまで注意を払えなかったのだ。
どうごまかそうかと考えていたが、次に男の声を聞いて思考が一瞬止まった。
「こちらを向きなさい。その服は弓兵か? ここは騎士団長私邸の敷地内だ。何か用事があってのことか」
——この声は
レイズンは聞き覚えのあるこの声に体が固まった。
まさか——
「どうした。こちらを向きなさい。命令だ」
声に怒気がこもる。……このまま騒ぎになってもいけない。
レイズンは意を決して、ゆっくりと振り返った。
(やっぱり……)
その声の主は、あのハクラシスだった。
レイズンが振り返ると、ハクラシスもまた息を呑み、驚きのあまりに目を見開いた。
「……まさか、レイズン、か……?」
外灯に照らし出されたハクラシスの顔を、まるで眩しいものを見るかのようにレイズンは目を細めた。
「お久しぶりです。……閣下」
思わず小隊長殿と言いそうになる。
「……なぜここにいるんだ。いつから……? なぜその制服を着ている……?」
いつも冷静なハクラシスが驚いて口籠っているのが、こんな時なのになんだかおかしかった。
「ひと月前からです。閣下。ひと月前に騎士団に復帰しました」
「閣下などと……そんな呼び方はやめてくれ。復帰などなぜ。——ずっとあそこにいるのだとばかり……」
ハクラシスが近づき手を伸ばそうとするのを、レイズンは咄嗟に後ずさり、その手から逃れた。
「……ひと月待ちました。でもあなたからは手紙の一つもなく、街でのうわさで職位を与えられたと聞いて、確かめるためここまで来ました。アーヴァル……騎士団長からあなたは奥様の元で暮らしていると聞きました」
「……手紙を受け取っていないだと?」
「はい。俺からも出しましたが返事はこなかった」
「……俺の元にその手紙は届いていない」
「……」
事情を知らないレイズンが、実はハクラシスが何通も手紙を出していたことなど知る由もない。
「アーヴァルはこのことを知っているのか」
「……アーヴァル様に復帰の手続きをして頂きました」
「俺は何も聞いていない!」
声を荒らげたハクラシスにビクリと肩が震える。しかしレイズンは動揺をおし隠し、必死で平静を装う。
「閣下、お静かに。閣下には内緒にしていただくようにアーヴァル様にお願いしておりました」
「……なぜそんなことを……」
レイズンはこの日のために用意していた言葉を、なるべく冷静に、感情を込めないよう、淡々と口から吐き出した。
「もうあの小屋に戻るつもりもありませんから、働いてお金を貯めようと思っておりました。幸いアーヴァル様が復帰を認めて下さいまして。……なぜ黙っていたかって……俺がここにいるのがあなたに見つかると面倒でしょう?」
「——レイズン!」
「閣下との縁もここまでです。いろいろとありがとうございました。面倒見て下さって感謝しています。今後、もし騎士団内で俺を見かけても無視してください。……お別れが言えてよかった。奥様とお幸せに」
「レイズン!!」
踵を返し走り去ろうとするレイズンの肩に、ハクラシスが掴みかかった。
レイズンは抗い振りほどこうとするが、相手が相手なだけになかなか振りほどけない。
無理やり体を正面に向けられ、もがいて押しのけようとするものの、ハクラシスの逞しい体はびくともしない。
「レイズン!」
「は、……離してください! 俺はこれからアーヴァル様の元に行かないといけないんです」
「アーヴァルのことなど今はいい! レイズン、ちゃんと俺の顔を見ろ!」
「俺のことは放っておいてください!」
「ちゃんと話がしたい!」
「話して何になるんですか! あなたには奥様がいて、俺が捨てられることに変わりな…………んんっ」
一向に話を聞こうとしないレイズンに焦れたハクラシスが、言葉を遮るようにして唇を塞いだ。
無理矢理押し付けられる唇に、レイズンは必死で顔を背け逃れようとした。しかし後頭部を片手で押さえつけられ、動けない。
「はな……」
離してくださいと言いかけると、すかさず舌が割り込み、レイズンの口内を弄り、舌を絡めとる。
「んっ……は…………」
胸を押す手も無駄な抵抗と知り、次第に力が入らなくなる。レイズンの体から力が抜け抵抗が失せると同時にハクラシスが唇を離すと、レイズンの体が地面に崩れ落ち、膝をつく前に片腕を掴まれた状態でぶら下がった。
「……すまなかったレイズン……」
ハクラシスが動揺した声でレイズンの体を引き上げようとするが、力の抜けたレイズンの体は思いのほかダラリと重く、腰を抱えて抱き止める。
「……ズルいですよ……。いつもこんなふうに、俺の欲しいものだけを散々与えて……。俺はペットじゃないんです。ましてやあなたの子供でもない。奥さんの元に行くなら、王都に立つ前に言って欲しかった」
俯いたレイズンからズズッと鼻をすする音が出た。
「それについては、本当にすまなかった。俺も妻のことについて、その時はまだ何も知らなかったんだ。レイズン……顔がみたい。顔を見て話がしたい」
膝をつき下を向いたままのレイズンを宥め、頬を両手で挟み上を向かせようとするのを、レイズンは手で振りほどき抗ってみせた。
それにさっきは夢中で気づかなかったが、この匂い。ハクラシスの体臭に混じって、ハッカ水のようなスッとした香油の匂いがする。
それはレイズンの知らない匂い。彼の背後にこの香油を選んだ妻の影が見え隠れした。
レイズンはハクラシスの隙をついて、ドンッと押し退けた。
「レイズン!?」
レイズンは涙でぐしゃぐしゃの顔を袖で拭いて隠した。
「——レイズン、無理強いしてすまなかった。お願いだ。話をしよう」
ハクラシスが戸惑うようにで、もう一度その体を引き寄せようと手を伸ばしたその時——
タイミングがいいのか悪いのか、邸宅の方から、レイズンを探す声が聞こえた。
「レイズン? そこにいるのですか? ……一体どうしたんですか。時間はとうに……」
ハクラシスが暗がりに目を細めると、レイズンの背後から見知った姿が近づいてくる。
「……ベイジルか」
「ハ……ハクラシス閣下!」
レイズンの向こう側にいるハクラシスに気がつくと、ベイジルはサッと姿勢を正す。
ベイジルはチラッとレイズンの方を見やった。それであらかた事情を察したのだろう、やれやれといったように軽く眉間に皺を寄せ、小さく吐息した。
「……ベイジル。レイズンがここにいるのを、お前も知っていたのか。それなら彼がここに来たことをなぜ私に言わない」
「私は閣下の個人的事情など何も存じません。彼について私は閣下からは直接何も聞いておりませんし、私はアーヴァル様のご命令にただ従っているだけです」
ハクラシスが怒気を孕んだ低い声でベイジルを詰問するが、ベイジルはそれに動じることなく返答する。
確かにハクラシスから直接ベイジルに何か言うことはなかったが、アーヴァルの側近が何も知らない筈がない。これまでのアーヴァルとのやり取りだって近くで聞いていたのだ。
——さすがアーヴァルが重用する者だけあって白々しい嘘が得意だと、ハクラシスは心の中で皮肉った。
「さ、レイズン。もう時間はとっくに過ぎています。アーヴァル様をこれ以上お待たせするわけ訳にはいきません。……ハクラシス閣下、彼にはアーヴァル様との約束がありますので、これで失礼いたします」
ベイジルは強引にレイズンを引っ張り、ハクラシスに背を向ける。
後ろでベイジルを引き止める声がするが、聞こえなかったかのようにそのまま立ち去った。
しかしその実、冷静に対応したと見せて内心では、かなりまずいことになったと、ベイジルは冷や汗ダラダラの状態であった。
「時間になっても来ないから探しにきてみれば……まさか閣下と鉢合わせしているとは思いませんでしたよ」
ベイジルは隣でグスグスと鼻を鳴らしているレイズンを横目で見て、嘆息した。
「……さ、これでとりあえず顔を拭いて下さい。本当はこのまま寮に帰したいところですが……団長がお待ちなので行きますよ」
さっと胸元から手巾を出すとレイズンに渡した。そして玄関の扉までくると、慣れた手付きでノッカーを鳴らし、出てきた執事長に耳打ちするとレイズンを無常にも引き渡した。
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