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9 過去を乗り越える力
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翌日レイズンの体調は戻った。しかしその表情にはわずかな翳りが見て取れる。それがハクラシスは気になっていた。
その後も発作のようにうなされる夜を繰り返し、そのたびにハクラシスはレイズンのベッドに行き、彼を揺り起こした。一緒にいると悪夢を見ないこともあったから、共寝する夜もあった。
狭いベッドにでかい図体をした男が二人並んで寝るのは窮屈だったが、あの心を潰されるような悲鳴を聞くよりは遥かにマシだった。
(レイズンを騎士団の人間を会わせてしまったのがいけなかった。彼らはまた来るだろう。……早いうちここを引っ越すべきか)
だがそんなハクラシスの心配をよそに、レイズンはいつものように、何でもないかのように振る舞う。
下手くそな料理を作り、畑の世話をし、たまに狩りに出る。
ハムをつまみ食いし、少し煮詰まり過ぎた赤い木の実のジャムでパンを食べ、買ってもらった菓子を大事そうに食べている。
レイズンはハクラシスと住んでいるこの家でのこの暮らしが気に入っていた。
(——もうすぐ冬の季節が来る。木枯らしも吹き始めるこの時期に、お偉方もここに来る気はないだろう)
懸命に普段の生活を取り戻そうとしているレイズンの姿を見て、引っ越しについてはもう少し彼が落ち着いてからでもいいのでは、と考え直した。
ーーーー
「小隊長殿! ちょっと薪を取ってきますね」
夜、レイズンがキッチンで湯を沸かすハクラシスに声をかけた。
肌寒くなり最近はストーブを使う頻度が増えた。おかげで家の中の薪がすぐに無くなる。
雪が降りはじめる前に薪を小屋の中に目一杯積んでおかないとなあと思いながら、レイズンはマントを羽織り薪小屋に向かった。
薪小屋は家の裏手にある。以前は木の柵に屋根がついたような簡易的なものだったが、この間ハクラシスと二人でドアのついた立派な小屋に建て直したのだ。
これで冬に使う二人分の薪もたくさん格納できる。ついでに野菜もここに置いておけるので、キッチンを広く使えるようになったと、レイズンは喜んだ。
薪小屋から薪をいくつか拾い、ついでに野菜も持って戻ろうと、レイズンはカゴを取りに小屋の外に出た。
だがその時、ふと妙な気配を感じた。
何だろうとレイズンが足を止めたその時——
「——おい!」
急に腕を引っ張られ、口を押さえつけられた。
「ひっ」という声にならない声が出たが、なぜかそれ以上大きな声が出せない。
状況を判断するのが遅れたレイズンは、抵抗する間もなく誰かに引きずられるようにして、小屋の裏から林のほうへ連れこまれた。
騎士団にいた頃ならこれくらい容易に振り解けたかもしれない。しかし過去のトラウマがそうさせるのか、体は恐怖で硬直し、抵抗すらできない状況であった。
「……!!」
ドンと地面に押さえ込まれ、あの時の恐怖が蘇る。
これでも小隊長と狩りの訓練をして、体の筋力はある程度戻ったはずなのに。振り解こうにも解けない。
パニックに陥りかけたとき、耳元に荒い息づかいと共に、もう二度と聞きたくないと思っていた声が聞こえた。
「……レイズン、俺だ。抵抗しないでくれ」
ビクリと背筋が凍った。
抵抗できないまま体を仰向けにひっくり返され、おそるおそる見上げたレイズンの目に飛び込んできたのは————あの、ラックの顔だった。
「——……ラ…………」
レイズンは目を見張った。なぜ彼がここに……!
瞬きもせずにラックを見上げるレイズンを、ラックは懐かしそうに抱きしめた。
「手荒にしてすまなかったな。逃げられると困ると思ってな。……しかしお前こんなとこにいたのか。探したんだぞ」
この間騎士団長の従者が言っていた『探している人がいる』という言葉が頭をよぎる。
「……ああ、この前ここに騎士団長が来たんだろう。その時お前を見つけた者が、我が子爵家の配下の者でな。すぐに俺の元まで報告がきたんだ。それでお前を探してここまで来たんだ」
声が出ずパクパクと口を開け閉めするレイズンがおかしかったのか、ラックはくすりと笑うと頬を愛おしそうに撫でた。
「……だいぶ痩せたんだな。頬がこけてる。髪は伸ばしているのか? 長いのも似合うんだな。……なあ、こんなとこにいないで俺の元に帰ってこいよ。やっぱり俺はお前がいいんだ。あの日から俺の評判はガタ落ちでさ。いや、いいんだ俺が悪いのはわかってる。でもあの時はああするしかなかったんだ。貴族である俺たちは家名を汚すわけにはいかないんだ。分かってくれ。……愛するお前が目の前で汚されるのを見るのは俺も辛かった。ごめんなレイズン」
ラックの言葉は一方的だった。何も言えない相手にただ自分に有利な言い訳をしているだけ。本当に愛しているなら、許してもらう気があるなら、地面にレイズンを抵抗できないよう押さえつけたりするだろうか。
「なあ、一緒に騎士団に戻って、俺の誤解を解いてくれよ。今さ、お前がいなくなったのは、俺が名誉を守るためにお前を殺したからだなんて噂が流れてるんだぜ。おかしいだろ。俺がお前を殺すことなんかできないのに。一緒に戻ってさ、前みたいに仲良くしていればみんな納得してくれるんだ。このままじゃ除隊になっちまう。な、もし何かあっても、お前の生活は子爵家が面倒見る。結婚だって心配ない。あー……もちろん子供を作らないといけないから、ほかに妻を娶ることにはなるけど、正妻はお前だ。安心してくれ」
結婚? 正妻? レイズンはラックの言うことが理解できず、恐怖にただ震えた。
「……い、いやだ。離してくれ…………」
「……は?」
拒否されたことに驚いたのか、ラックは何を言われたのか分からないという顔で、首を傾げ、レイズンを見下ろした。
下から見上げるラックの顔は月の光の影になり、目だけが妙に白く浮き上がり、ひどく恐ろしかった。
「……レイズン、お前……。ハクラシス小隊長とデキてるって本当か」
「……え…………?」
これまで優しく語りかけていたラックの声が固くなる。
「小隊長おっかけてここまで来たって本当なのかって聞いてるんだ!」
急に荒らげた声にレイズンの体は反射的にビクッと跳ね上がった。
意味がわからない。
確かに世話になったハクラシスに会いにここまで来たが、すぐに出ていく予定だったし、そもそもデキてなどない。
「……俺は知っているんだぞ、レイズン。お前が小隊長のイニシャル入りの手巾を大事にしまっていたことを。俺と付き合っていながら、本当は心変わりしていたんだろう!」
あっとレイズンは思い出した。
たしかにハクラシスに渡そうとしていた手巾にはイニシャルを入れた。
だがあれは受け取ってもらえず、かといって捨てることもできず棚に入れっぱなしにしていたのを、自分でも忘れてほったらかしにしていた。
あれをラックは見つけていたのだ。
「最初は見てみぬフリをしようとしたさ。でもな、気になって包みを開けてしまった。あのイニシャルを見たときの俺の気持ちがわかるか? 俺の下で喘ぐお前の心が本当は小隊長にあるんだと思ったら、やるせなかった」
まったくもって誤解だった。あれにはそんな意図はなかった。本当に汚してしまった手巾の代わりを渡そうとしただけだったのに。
しかしそれを言ったとしても、今のラックに話が通じるとは思えない。
「あの男がいなくなって清々したと思ったのに。……なあ、今お前をここで犯して、ハクラシスに見せつけてやったら、奴はどんな顔するかな」
ラックはぴくりとも表情を変えず、レイズンを見つめて言った。
「なあ」
「……いや……だ……!」
このままだとあの日の二の舞だ。レイズンはラックの腕の中から逃げようと、動かぬ体で必死でもがき抵抗した。
「おい抵抗するな……!」
パンッというレイズンの頬を打つ音がした。
「……抵抗するなと言っているだろう! 俺だって手を上げたくないんだ。な、俺はお前のいいところは知り尽くしてる。痛くはしない。だから安心しろ」
ヒュウッと風が吹き、もがいて服のはだけたレイズンの体に鳥肌が立つ。
「お前、本当に痩せたな。大丈夫だ。俺といればすぐに元に戻る」
そう言ってラックがレイズンの首筋を手で撫でたときだった。
「おい! レイズン! どこだ!?」
ハクラシスのレイズンを呼ぶ声が、あたりに響いた。
いつまで経っても戻らないレイズンに、心配したハクラシスが探しに来たのだ。
薪小屋の前にはレイズンが持って戻る筈の薪が散乱し、そのレイズンはどこにもいない。
明らかに何かが起こったと確信したハクラシスは、灯りを携えて周囲を探し回っていた。
レイズンを呼ぶハクラシスの声に、ラックは舌打ちをした。
そしてハクラシスの声がする方向にラックが気をそらしたその瞬間、レイズンがラックの脇腹を下から殴りつけた。
不意をつかれ驚いたラックが体勢を崩し前のめりになったところで、レイズンがラックの腕を掴み、それを軸に体を捻ると、うまいこと今度はレイズンがラックの上に馬乗りになることができた。
悪夢の中にいたレイズンを、ハクラシスの声がまるで呼び覚ましてくれたかのようだ。緊張が解けた体は、レイズンが思う通りに動いてくれた。
汗をかき、はーはーと肩で息をつくレイズン。ラックは下からそれを呆然と見上げていた。
「……レ……」
何か言おうと口を開いた瞬間、レイズンは腰に下げたシースからナイフを素早く抜くと、ダンッとラックの顔の横に突き立てた。
「……!!」
「口を閉じろ……!」
ラックの頬から血が一筋、たらと垂れ落ちた。
「小隊長殿!! 俺はここです!!」
そしてそんなことまったく構うことなく、大声でハクラシスを呼ぶと、これが最後だとラックに向き合った。
「……ラック、俺はお前を許すことなどできない。顔も見たくないし、声も聞きたくない。お前がどうなろうと知ったことじゃない。……けど、ラック。俺はずっとお前のことが好きだった。あの頃、本当に好きだったのはラックだけだったよ。一度だって心変わりなんかしちゃいなかった。でももうそれは昔のことだ。あの日すべて終わったんだ。……さよならラック」
そう言い終わる頃、ハクラシスがレイズンのそばに走り寄ってきた。
「どうした!? 何があった!」
そして地面を灯りで照らし、レイズンが押さえつけているのがラックだと知ると、苦々しい顔をした。
「……ラック、お前がなぜここにいる」
「…………」
その問いにラックは顔を背け、答えなかった。
ラックはここに一人で来たのではなかった。従者を数名つけ、旅行と称してここまで来たのだという。
下の街に着き馬車を降りた途端、従者を撒いて一人でここまで来たらしく、急に主人がいなくなり、従者は焦ってほうぼうを探し回っていたようだ。
従者のひとりがラックの目的を知っており、もしやと思ってここまで来てみれば、とんでもないことになっていて泡を食っていた。
従者はラックから、迷惑をかけたレイズンに謝罪したいとだけ聞いていた。それなのにまさか誘拐騒ぎを起こすとは。
ただでさえ厄介者の三男坊が旅先で騒ぎを起こしたのだ。従者はラックを馬車に放り込むと、ここは内密にとだけ言い残し、早々に立ち去っていった。
後から聞いた話だと、ラックは騎士団で除隊が決定していたらしい。
子爵家では何だかんだと手を尽くしたが除隊は免れず、結果的に家名に泥をぬったラックを許し難く、挙句旅先で騒ぎを起こしたということで、手に負えないとして子爵家所有の僻地にある領地に、領主代行という名目で軟禁されることになった。
子爵家からは平民のレイズンに謝罪は一切なかったが、ハクラシスには迷惑料と口止め料を兼ねた贈り物が届いた。
しかしハクラシスはそれを受取らずに送り返し、許すまじという無言の圧力をかけた。それに怯えた子爵家は、それ以降ハクラシスの影響を色濃く残す騎士団に、子息らを入隊させることはなかった。
レイズンはというと、恐怖に打ち勝ち見事な立ち回りを演じたというのに、ラックを引き渡した後熱を出して倒れ、数日間寝込んでしまった。
「まだ少し熱があるな」
ハクラシスはレイズンの額に手をやると、まだやや熱が残っている。
「……うーん。でももう大丈夫ですよ。そろそろ起きられます」
「何を言っている。微熱でも無理はいかん。長引くとあとが大変だ」
「へーい」
ちゃんと寝ておけとパコンと軽く額を叩かれ、レイズンは布団に潜りながらへへへと笑った。
「……これ俺の独り言なんですけど」
「……ああ」
「俺、本当にラックのこと好きだったんですよね」
布団の中でレイズンはもぞもぞと動きながら呟いた。
「はじめて騎士団に入って、はじめて声かけてくれたのがラックで、寮の部屋も一緒でパートナーにもなってくれて、本当にいろいろ面倒みてくれたんですよね。俺は平民で、ラックは三男とはいえ子爵家の人間で。普通ならパートナーでさえも遠慮して話すのに、ラックは気さくで。……俺、ラックのこと本当に好きだったんです」
「…………」
ハクラシスが何も返さないことに安心して、レイズンは言葉を続けた。
「ラックは俺が従順であれば機嫌が良かった。彼は俺が逆らうなんて、思ったことなかったんでしょうね。この前のことだって、俺がナイフを持っていることに気がついていたんだと思うんですよ。マントの下だったとはいえ、馬のりになれば誰だって気がつく。でもラックはそれを取り上げなかった。俺が刃向かうなんて、考えたことなかったんでしょう」
布団の中からズズッと鼻をすする音がする。
「俺は小隊長から貰ったナイフで、ラックとの縁を断ち切りました。ラックを見た時怖くて震えました。でも小隊長のおかげで俺は過去を断ち切ることができたんです。小隊長のおかげです。ありがとうございました」
「……独り言だったんじゃないのか」
ハクラシスが布団の中に鼻かみ用の手巾を差し入れてやると、布団の中からへへへ嬉しそうな声とブーッという鼻をかむ音が聞こえた。
寝込んでいる間中、レイズンがまた悪夢を見るのではとハクラシスは心配したが、レイズンはもう悪夢で悲鳴をあげたりはしなかった。
レイズンにとってあの日あったことを忘れることはできないが、過去のことに向き合い断ち切れた今、ラックのことで悪夢を見ることはもうない。
その後も発作のようにうなされる夜を繰り返し、そのたびにハクラシスはレイズンのベッドに行き、彼を揺り起こした。一緒にいると悪夢を見ないこともあったから、共寝する夜もあった。
狭いベッドにでかい図体をした男が二人並んで寝るのは窮屈だったが、あの心を潰されるような悲鳴を聞くよりは遥かにマシだった。
(レイズンを騎士団の人間を会わせてしまったのがいけなかった。彼らはまた来るだろう。……早いうちここを引っ越すべきか)
だがそんなハクラシスの心配をよそに、レイズンはいつものように、何でもないかのように振る舞う。
下手くそな料理を作り、畑の世話をし、たまに狩りに出る。
ハムをつまみ食いし、少し煮詰まり過ぎた赤い木の実のジャムでパンを食べ、買ってもらった菓子を大事そうに食べている。
レイズンはハクラシスと住んでいるこの家でのこの暮らしが気に入っていた。
(——もうすぐ冬の季節が来る。木枯らしも吹き始めるこの時期に、お偉方もここに来る気はないだろう)
懸命に普段の生活を取り戻そうとしているレイズンの姿を見て、引っ越しについてはもう少し彼が落ち着いてからでもいいのでは、と考え直した。
ーーーー
「小隊長殿! ちょっと薪を取ってきますね」
夜、レイズンがキッチンで湯を沸かすハクラシスに声をかけた。
肌寒くなり最近はストーブを使う頻度が増えた。おかげで家の中の薪がすぐに無くなる。
雪が降りはじめる前に薪を小屋の中に目一杯積んでおかないとなあと思いながら、レイズンはマントを羽織り薪小屋に向かった。
薪小屋は家の裏手にある。以前は木の柵に屋根がついたような簡易的なものだったが、この間ハクラシスと二人でドアのついた立派な小屋に建て直したのだ。
これで冬に使う二人分の薪もたくさん格納できる。ついでに野菜もここに置いておけるので、キッチンを広く使えるようになったと、レイズンは喜んだ。
薪小屋から薪をいくつか拾い、ついでに野菜も持って戻ろうと、レイズンはカゴを取りに小屋の外に出た。
だがその時、ふと妙な気配を感じた。
何だろうとレイズンが足を止めたその時——
「——おい!」
急に腕を引っ張られ、口を押さえつけられた。
「ひっ」という声にならない声が出たが、なぜかそれ以上大きな声が出せない。
状況を判断するのが遅れたレイズンは、抵抗する間もなく誰かに引きずられるようにして、小屋の裏から林のほうへ連れこまれた。
騎士団にいた頃ならこれくらい容易に振り解けたかもしれない。しかし過去のトラウマがそうさせるのか、体は恐怖で硬直し、抵抗すらできない状況であった。
「……!!」
ドンと地面に押さえ込まれ、あの時の恐怖が蘇る。
これでも小隊長と狩りの訓練をして、体の筋力はある程度戻ったはずなのに。振り解こうにも解けない。
パニックに陥りかけたとき、耳元に荒い息づかいと共に、もう二度と聞きたくないと思っていた声が聞こえた。
「……レイズン、俺だ。抵抗しないでくれ」
ビクリと背筋が凍った。
抵抗できないまま体を仰向けにひっくり返され、おそるおそる見上げたレイズンの目に飛び込んできたのは————あの、ラックの顔だった。
「——……ラ…………」
レイズンは目を見張った。なぜ彼がここに……!
瞬きもせずにラックを見上げるレイズンを、ラックは懐かしそうに抱きしめた。
「手荒にしてすまなかったな。逃げられると困ると思ってな。……しかしお前こんなとこにいたのか。探したんだぞ」
この間騎士団長の従者が言っていた『探している人がいる』という言葉が頭をよぎる。
「……ああ、この前ここに騎士団長が来たんだろう。その時お前を見つけた者が、我が子爵家の配下の者でな。すぐに俺の元まで報告がきたんだ。それでお前を探してここまで来たんだ」
声が出ずパクパクと口を開け閉めするレイズンがおかしかったのか、ラックはくすりと笑うと頬を愛おしそうに撫でた。
「……だいぶ痩せたんだな。頬がこけてる。髪は伸ばしているのか? 長いのも似合うんだな。……なあ、こんなとこにいないで俺の元に帰ってこいよ。やっぱり俺はお前がいいんだ。あの日から俺の評判はガタ落ちでさ。いや、いいんだ俺が悪いのはわかってる。でもあの時はああするしかなかったんだ。貴族である俺たちは家名を汚すわけにはいかないんだ。分かってくれ。……愛するお前が目の前で汚されるのを見るのは俺も辛かった。ごめんなレイズン」
ラックの言葉は一方的だった。何も言えない相手にただ自分に有利な言い訳をしているだけ。本当に愛しているなら、許してもらう気があるなら、地面にレイズンを抵抗できないよう押さえつけたりするだろうか。
「なあ、一緒に騎士団に戻って、俺の誤解を解いてくれよ。今さ、お前がいなくなったのは、俺が名誉を守るためにお前を殺したからだなんて噂が流れてるんだぜ。おかしいだろ。俺がお前を殺すことなんかできないのに。一緒に戻ってさ、前みたいに仲良くしていればみんな納得してくれるんだ。このままじゃ除隊になっちまう。な、もし何かあっても、お前の生活は子爵家が面倒見る。結婚だって心配ない。あー……もちろん子供を作らないといけないから、ほかに妻を娶ることにはなるけど、正妻はお前だ。安心してくれ」
結婚? 正妻? レイズンはラックの言うことが理解できず、恐怖にただ震えた。
「……い、いやだ。離してくれ…………」
「……は?」
拒否されたことに驚いたのか、ラックは何を言われたのか分からないという顔で、首を傾げ、レイズンを見下ろした。
下から見上げるラックの顔は月の光の影になり、目だけが妙に白く浮き上がり、ひどく恐ろしかった。
「……レイズン、お前……。ハクラシス小隊長とデキてるって本当か」
「……え…………?」
これまで優しく語りかけていたラックの声が固くなる。
「小隊長おっかけてここまで来たって本当なのかって聞いてるんだ!」
急に荒らげた声にレイズンの体は反射的にビクッと跳ね上がった。
意味がわからない。
確かに世話になったハクラシスに会いにここまで来たが、すぐに出ていく予定だったし、そもそもデキてなどない。
「……俺は知っているんだぞ、レイズン。お前が小隊長のイニシャル入りの手巾を大事にしまっていたことを。俺と付き合っていながら、本当は心変わりしていたんだろう!」
あっとレイズンは思い出した。
たしかにハクラシスに渡そうとしていた手巾にはイニシャルを入れた。
だがあれは受け取ってもらえず、かといって捨てることもできず棚に入れっぱなしにしていたのを、自分でも忘れてほったらかしにしていた。
あれをラックは見つけていたのだ。
「最初は見てみぬフリをしようとしたさ。でもな、気になって包みを開けてしまった。あのイニシャルを見たときの俺の気持ちがわかるか? 俺の下で喘ぐお前の心が本当は小隊長にあるんだと思ったら、やるせなかった」
まったくもって誤解だった。あれにはそんな意図はなかった。本当に汚してしまった手巾の代わりを渡そうとしただけだったのに。
しかしそれを言ったとしても、今のラックに話が通じるとは思えない。
「あの男がいなくなって清々したと思ったのに。……なあ、今お前をここで犯して、ハクラシスに見せつけてやったら、奴はどんな顔するかな」
ラックはぴくりとも表情を変えず、レイズンを見つめて言った。
「なあ」
「……いや……だ……!」
このままだとあの日の二の舞だ。レイズンはラックの腕の中から逃げようと、動かぬ体で必死でもがき抵抗した。
「おい抵抗するな……!」
パンッというレイズンの頬を打つ音がした。
「……抵抗するなと言っているだろう! 俺だって手を上げたくないんだ。な、俺はお前のいいところは知り尽くしてる。痛くはしない。だから安心しろ」
ヒュウッと風が吹き、もがいて服のはだけたレイズンの体に鳥肌が立つ。
「お前、本当に痩せたな。大丈夫だ。俺といればすぐに元に戻る」
そう言ってラックがレイズンの首筋を手で撫でたときだった。
「おい! レイズン! どこだ!?」
ハクラシスのレイズンを呼ぶ声が、あたりに響いた。
いつまで経っても戻らないレイズンに、心配したハクラシスが探しに来たのだ。
薪小屋の前にはレイズンが持って戻る筈の薪が散乱し、そのレイズンはどこにもいない。
明らかに何かが起こったと確信したハクラシスは、灯りを携えて周囲を探し回っていた。
レイズンを呼ぶハクラシスの声に、ラックは舌打ちをした。
そしてハクラシスの声がする方向にラックが気をそらしたその瞬間、レイズンがラックの脇腹を下から殴りつけた。
不意をつかれ驚いたラックが体勢を崩し前のめりになったところで、レイズンがラックの腕を掴み、それを軸に体を捻ると、うまいこと今度はレイズンがラックの上に馬乗りになることができた。
悪夢の中にいたレイズンを、ハクラシスの声がまるで呼び覚ましてくれたかのようだ。緊張が解けた体は、レイズンが思う通りに動いてくれた。
汗をかき、はーはーと肩で息をつくレイズン。ラックは下からそれを呆然と見上げていた。
「……レ……」
何か言おうと口を開いた瞬間、レイズンは腰に下げたシースからナイフを素早く抜くと、ダンッとラックの顔の横に突き立てた。
「……!!」
「口を閉じろ……!」
ラックの頬から血が一筋、たらと垂れ落ちた。
「小隊長殿!! 俺はここです!!」
そしてそんなことまったく構うことなく、大声でハクラシスを呼ぶと、これが最後だとラックに向き合った。
「……ラック、俺はお前を許すことなどできない。顔も見たくないし、声も聞きたくない。お前がどうなろうと知ったことじゃない。……けど、ラック。俺はずっとお前のことが好きだった。あの頃、本当に好きだったのはラックだけだったよ。一度だって心変わりなんかしちゃいなかった。でももうそれは昔のことだ。あの日すべて終わったんだ。……さよならラック」
そう言い終わる頃、ハクラシスがレイズンのそばに走り寄ってきた。
「どうした!? 何があった!」
そして地面を灯りで照らし、レイズンが押さえつけているのがラックだと知ると、苦々しい顔をした。
「……ラック、お前がなぜここにいる」
「…………」
その問いにラックは顔を背け、答えなかった。
ラックはここに一人で来たのではなかった。従者を数名つけ、旅行と称してここまで来たのだという。
下の街に着き馬車を降りた途端、従者を撒いて一人でここまで来たらしく、急に主人がいなくなり、従者は焦ってほうぼうを探し回っていたようだ。
従者のひとりがラックの目的を知っており、もしやと思ってここまで来てみれば、とんでもないことになっていて泡を食っていた。
従者はラックから、迷惑をかけたレイズンに謝罪したいとだけ聞いていた。それなのにまさか誘拐騒ぎを起こすとは。
ただでさえ厄介者の三男坊が旅先で騒ぎを起こしたのだ。従者はラックを馬車に放り込むと、ここは内密にとだけ言い残し、早々に立ち去っていった。
後から聞いた話だと、ラックは騎士団で除隊が決定していたらしい。
子爵家では何だかんだと手を尽くしたが除隊は免れず、結果的に家名に泥をぬったラックを許し難く、挙句旅先で騒ぎを起こしたということで、手に負えないとして子爵家所有の僻地にある領地に、領主代行という名目で軟禁されることになった。
子爵家からは平民のレイズンに謝罪は一切なかったが、ハクラシスには迷惑料と口止め料を兼ねた贈り物が届いた。
しかしハクラシスはそれを受取らずに送り返し、許すまじという無言の圧力をかけた。それに怯えた子爵家は、それ以降ハクラシスの影響を色濃く残す騎士団に、子息らを入隊させることはなかった。
レイズンはというと、恐怖に打ち勝ち見事な立ち回りを演じたというのに、ラックを引き渡した後熱を出して倒れ、数日間寝込んでしまった。
「まだ少し熱があるな」
ハクラシスはレイズンの額に手をやると、まだやや熱が残っている。
「……うーん。でももう大丈夫ですよ。そろそろ起きられます」
「何を言っている。微熱でも無理はいかん。長引くとあとが大変だ」
「へーい」
ちゃんと寝ておけとパコンと軽く額を叩かれ、レイズンは布団に潜りながらへへへと笑った。
「……これ俺の独り言なんですけど」
「……ああ」
「俺、本当にラックのこと好きだったんですよね」
布団の中でレイズンはもぞもぞと動きながら呟いた。
「はじめて騎士団に入って、はじめて声かけてくれたのがラックで、寮の部屋も一緒でパートナーにもなってくれて、本当にいろいろ面倒みてくれたんですよね。俺は平民で、ラックは三男とはいえ子爵家の人間で。普通ならパートナーでさえも遠慮して話すのに、ラックは気さくで。……俺、ラックのこと本当に好きだったんです」
「…………」
ハクラシスが何も返さないことに安心して、レイズンは言葉を続けた。
「ラックは俺が従順であれば機嫌が良かった。彼は俺が逆らうなんて、思ったことなかったんでしょうね。この前のことだって、俺がナイフを持っていることに気がついていたんだと思うんですよ。マントの下だったとはいえ、馬のりになれば誰だって気がつく。でもラックはそれを取り上げなかった。俺が刃向かうなんて、考えたことなかったんでしょう」
布団の中からズズッと鼻をすする音がする。
「俺は小隊長から貰ったナイフで、ラックとの縁を断ち切りました。ラックを見た時怖くて震えました。でも小隊長のおかげで俺は過去を断ち切ることができたんです。小隊長のおかげです。ありがとうございました」
「……独り言だったんじゃないのか」
ハクラシスが布団の中に鼻かみ用の手巾を差し入れてやると、布団の中からへへへ嬉しそうな声とブーッという鼻をかむ音が聞こえた。
寝込んでいる間中、レイズンがまた悪夢を見るのではとハクラシスは心配したが、レイズンはもう悪夢で悲鳴をあげたりはしなかった。
レイズンにとってあの日あったことを忘れることはできないが、過去のことに向き合い断ち切れた今、ラックのことで悪夢を見ることはもうない。
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初めは乗り気でなかったが、持ち前の前向きな性格により、次第に力を発揮していく。
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軽いノリのお話しを目指しています。
※BLに分類していますが軽めです。
※他サイトへも掲載しています。
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