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番外編
ウリやってた元ヤンキーは奥手彼氏に抱かれたい2
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「……んだよ。今日おせーのかよ」
学校から帰宅すると着替えを済ませると、空になった弁当箱を洗い、それとなく風呂掃除も終えた春壱は、木嶋が帰るまで畳の部屋に寝転びスマホゲームで暇を潰していた。
今ちょっと夢中になってるパズルゲームで、漫画アプリの広告に出たやつ。割と簡単なのだが、稀にハードモードのステージがあり、かなり集中して遊んでしまう。こんな日の暇つぶしにはちょうどいい。
もうちょっとでレベルコンプリートといったとき、画面上部に軽快な音とともに、木嶋からのメッセージ通知が表示された。
どうやら今日は残業らしい。
メシは21時過ぎてもよければ、帰宅後作るから待っていろというメッセージだった。
今日北村に言われたことが、ふと頭をよぎった。
「ちぇっ、しょーがねーなー。なにか俺が作ってやっか」
一人暮らし用の小さな冷蔵庫をパカッと開けると、中にはいくつかの野菜と卵、ソーセージが入っていた。
(うわ、何作っていいのか、わかんねー)
いつも木嶋は何作ってくれてたっけ。
草系の野菜はどれも同じにしか見えないし、ピーマンに至ってはどうやって切るのかも分からない。スマホで検索しようとし、ハッと思い出した。
(あー……、火は危ないから使うなって木嶋に言われてんだった。じゃー結局ダメじゃん)
冷凍庫には、冷凍うどんとラップして冷凍したご飯が2つ入っている。ご飯はきっと今日の夕食用だろう。
今はまだ19時半過ぎ。冷凍ごはんを解凍するにはまだ早い。あんまり余計なことして、無駄になるのも嫌だ。風呂の掃除もできているし、散らかったゴミを捨て、部屋の隅に残っていた洗濯物をたたむと、もう春壱にできることはない。
ゲームも飽きてきたし、仕方なく、今日の授業の復習をしようと、リュックからノートを取り出して机に広げた。
しかし今日北村から言われたことのせいで、なんだか落ち着かない春壱は、どうにもこうにも木嶋のことが気になってしまい勉強も手につかない。
結局30分ほどで春壱は勉強をやめ、畳の上に寝転んだ。
じっと黙っていると部屋の中は静かで、お隣のテレビの音が薄い壁の向こうから漏れて聞こえる。何を観ているのかは分からないが、なんだか賑やかな番組を観ているのだけは分かる。
「木嶋、早く帰ってこねーかなぁー」
お隣のテレビの音を聞きながらぼーっとし、しばらく経ってからスマホを手に取ると、20時半を過ぎたところだった。
21時過ぎには家に木嶋は帰ってくる。スマホのブラウザを開き、木嶋が乗る電車の時刻を調べる。58分に駅へ着く電車があるから、乗るとしたら多分それだ。
(なんか落ち着かねーし、たまには迎えに行ってやっか)
電車が着くにはまだちょっと早いが、改札の前で待っていよう。春壱はリュックから鍵を出しスマホを手に取ると、いそいそと玄関を出た。
21時近くになると、不思議と駅はサラリーマンよりも遊びから帰る学生のほうが多くなる。木嶋はスーツだし背も高いから、きっと見つけやすいだろう。春壱はアパレル店舗の大きな看板が掲げられた柱に凭れて、改札から流れ出てくる人々を目で追っていた。
改札の時計が58分になり、そろそろ電車が着くだろうと、春壱が柱から一歩前に踏み出したとき、いきなり誰かに肩を叩かれた。
「え?」
振り向くと、そこにはメガネの初老の男が立っていた。
それはかつて春壱のお客だった田崎という男で、その男はメガネを指で押し上げながら、まるで久方ぶりに会った長年の友かのようににこやかに春壱へ声をかけてきた。
「やあ。久しぶりだね、ハルイチ」
「え、あ…………田崎、さん……?」
「覚えててくれて嬉しいよ。あんまりにも久々で、つい声をかけちゃったよ。大変だったみたいだね、君のお父さん」
「……」
「やっぱり迷惑だったかな。声をかけるか迷ったんだよ。やっぱり君はかわいいから目立つよ」
田崎はまだ40才と若いが、駅周辺にいくつも飲食店のビルを持っている資産家だ。高級鉄板焼店やバーなど手広くやっていて、何度か春壱も肉とか美味しいものを食べさせてもらったことがある。金払いもよく、内緒で小遣いをくれたり、プレイでも無茶な要求はしない太客だった。
客の中でもわりと常識的なタイプという印象で、外で見かけても声をかけてきたりはしない人だと、勝手に思っていた。
「いやだな。本当にただ久々に見かけたから、懐かしくなっただけさ。そんな顔しないでよ」
「あの、俺……」
「お父さん捕まったんだって? 急に連絡取れなくなったからさ、びっくりしたよ。もうウリの仕事はやってないんだ? やってるならと思ったけど、その顔見る限りではもう足を洗ったのかな」
店が摘発されたあと、芋づる式に客も捕まるかと思っていたが、どうやら田崎は警察からの追跡を免れていたようだ。この余裕ぶりは、捕まることなどないと確信を得ている顔だ。
「もう、俺そういうのやってないんです」
「そっかー、それは残念。……まあでも、見た感じ、ちゃんと暮らせてるようで安心したよ。君の生活環境には目に余るものがあったからね。心配したんだよ。ご飯は食べたのかい? もしまだなら一緒に……」
田崎の言葉を遮るように「鏑木!!」という声が、2人の間に割って入った。
「き、木嶋……」
「ん? ……おっと」
いつ改札から出てきたのか、いきなり現れたスーツ姿の木嶋が、田崎の視線を遮るように春壱の前に無理やり割り込んだ。
「……すみません、俺のツレがなにかしましたか」
突如現れた男に田崎は目を丸くしたが、すぐにククッと笑い出した。
「なるほどね。ハルイチ。そうか、ふふ。新しい保護者ができたのか。いいね、君らしいよ。……こう睨まれちゃ仕方がない、おじさんは退散しよう。じゃあねハルイチ。元気で」
思ったよりもあっさりと、田崎はこの場を去っていった。あの飄々とした感じだと、木嶋の威嚇に臆したとも思えない。
田崎が春壱の置かれている状況を気にしてくれてはいたのは事実で、だから今日ももしかすると本当に自分を心配して声をかけてくれたのかもしれない。だからスーツを着た木嶋の登場で、あっさり手を引いた。
春壱はそんなふうに思いながら、去っていく田崎の背中を見ていた。
「……鏑木。なんで田崎と会ってたんだ。あいつと連絡とってたのか」
「え?」
珍しく苛立った声に、春壱は木嶋の顔を見上げた。
まずい。本当に怒っている。こんな刺々しい声の木嶋は初めてだ。
「ち、ちげーよ。木嶋が帰ってくるの待ってたんだって。そしたら、むこーから声かけてきてさ。つか、お前なんで——」
なんでお前が田崎さん知ってんだよと言おうとして、春壱は言葉を飲み込んだ。
そういえば前のタイムリープで、木嶋は田崎と会っているんだったと思い出したからだ。前の世界で木嶋は春壱を助けるため奔走し、春壱の客とコンタクトをとったことがあるのだ。そのとき会った相手が田崎だったと言っていたはず。
だからこの木嶋の怒りの矛先が、元客の田崎に対してなのか、それとも元客に会っていた自分に対してなのか、春壱には分からなかった。
「もしかして、疑ってんのかよ。木嶋。俺がまたウリやるかもって思ってんのかよ」
春壱は苛立ち、思わず声に力が入った。
なんでそんなことを疑われなきゃいけないのか。春壱だって話したくもないのに、声かけられてしかたなく対応したっていうのに。
木嶋の表情が一瞬曇り、春壱から視線を逸らす。
「——ごめん。変な言い方した。疑ってない。待っててくれたのにな。悪かった」
喧嘩なんかする予定じゃなかった。ただ、迎えにきた春壱を見て、嬉しそうにする木嶋が見たかっただけなのに。
これ以上こんなところで言い争いはしたくない。春壱は苛立ちをぶつけるところもなく、くるっと踵を返した。
「……ふん。別にいーけど。帰るぞ」
なんだか今日は嫌な1日になってしまった。
無言のまま帰路につく2人。本当なら手なんか繋いじゃって、北村が言ったことなんかどこかに吹き飛ぶくらい、じゃれ合って仲良く家に帰るところなのに、今日の木嶋は春壱の後ろで項垂れたまま、とぼとぼと歩いている。
カンカンと音を響かせて古い外階段を上ると、春壱は外灯の電球が切れて真っ暗な外廊下を歩き、手探りでドアの鍵を開ける。
蹴飛ばすように靴を脱いで上がると、すぐにキッチンの蛍光灯をパチンと点けた。
「……ごめん、鏑木。マジで、本当にごめん」
「ああ?」
振り返ると、図体のでかい男が、玄関の上がりかまちのところで、今にも泣きそうな顔で立っている。
「あんなこと、言うつもりじゃなかったんだ。——ただ、鏑木が田崎と話してのるを見て、無性に腹が立って……」
「んー? だから俺がまたウリすっかもって思って心配だったんだろ? ……もーいーって」
「そうじゃない。そうじゃないんだ。……なんて言えばいいのか……」
珍しくウジウジとする木嶋に、春壱はようやくピンときた。
(もしかしてこれ、木嶋が田崎に嫉妬したってやつじゃね!?)
そう木嶋は嫉妬したのだ。元客である田崎に対して。木嶋は田崎と体の関係があったことを知ってるからこそ、激昂したのだ。
木嶋は付き合う前も後も、春壱のウリの仕事について、なにか嫉妬めいた言葉を言うことは一度もなかった。
気にしないようにしてくれてる、もしくは、それはそれと切り離して考えてるのかと思っていた。
しかしどうやら違ったようだ。
(なーんだ。そんなことかよ)
春壱はなんだか口元がニマニマしてしまう。
木嶋が嫉妬か~。
普段すましている男が、いつになくシュンとしているのも面白い。
まあ、木嶋が春壱のことを、〝恋人に黙ってウリをやりそうな男〟だと思っていることについては正直腹ただしい。だが、これまでのことを考えると、そう思われても仕方がない部分もある。自分が、ラクなほうに流されやすい人間だという自覚があるからだ。
(まー、すげー金に困ってたら俺やるだろーしな。つか、木嶋は嫉妬するくらいには、俺のことが好き。ってことだ。なんだよ木嶋、俺のことすげー好きなんじゃん。北村のやつ、全然ちげーじゃんか。……じゃ、なんで手ぇだしてこねーんだ)
これは一度、ちゃんと話あうべきだな。
春壱は口元のニマニマを気づかれないよう、いかにもわざとらしく仕方がねーなーと、ため息を吐いた。
「もういいって。早くスーツ脱げよ。風呂、洗ってあっからさ、すぐお湯いれるわ。……あとでちゃんと話そうぜ」
いつもとは違うちょっと突き放したような言い方に打ちのめされたのか、より一層項垂れた木嶋に、春壱は必死で笑いをこらえていた。
学校から帰宅すると着替えを済ませると、空になった弁当箱を洗い、それとなく風呂掃除も終えた春壱は、木嶋が帰るまで畳の部屋に寝転びスマホゲームで暇を潰していた。
今ちょっと夢中になってるパズルゲームで、漫画アプリの広告に出たやつ。割と簡単なのだが、稀にハードモードのステージがあり、かなり集中して遊んでしまう。こんな日の暇つぶしにはちょうどいい。
もうちょっとでレベルコンプリートといったとき、画面上部に軽快な音とともに、木嶋からのメッセージ通知が表示された。
どうやら今日は残業らしい。
メシは21時過ぎてもよければ、帰宅後作るから待っていろというメッセージだった。
今日北村に言われたことが、ふと頭をよぎった。
「ちぇっ、しょーがねーなー。なにか俺が作ってやっか」
一人暮らし用の小さな冷蔵庫をパカッと開けると、中にはいくつかの野菜と卵、ソーセージが入っていた。
(うわ、何作っていいのか、わかんねー)
いつも木嶋は何作ってくれてたっけ。
草系の野菜はどれも同じにしか見えないし、ピーマンに至ってはどうやって切るのかも分からない。スマホで検索しようとし、ハッと思い出した。
(あー……、火は危ないから使うなって木嶋に言われてんだった。じゃー結局ダメじゃん)
冷凍庫には、冷凍うどんとラップして冷凍したご飯が2つ入っている。ご飯はきっと今日の夕食用だろう。
今はまだ19時半過ぎ。冷凍ごはんを解凍するにはまだ早い。あんまり余計なことして、無駄になるのも嫌だ。風呂の掃除もできているし、散らかったゴミを捨て、部屋の隅に残っていた洗濯物をたたむと、もう春壱にできることはない。
ゲームも飽きてきたし、仕方なく、今日の授業の復習をしようと、リュックからノートを取り出して机に広げた。
しかし今日北村から言われたことのせいで、なんだか落ち着かない春壱は、どうにもこうにも木嶋のことが気になってしまい勉強も手につかない。
結局30分ほどで春壱は勉強をやめ、畳の上に寝転んだ。
じっと黙っていると部屋の中は静かで、お隣のテレビの音が薄い壁の向こうから漏れて聞こえる。何を観ているのかは分からないが、なんだか賑やかな番組を観ているのだけは分かる。
「木嶋、早く帰ってこねーかなぁー」
お隣のテレビの音を聞きながらぼーっとし、しばらく経ってからスマホを手に取ると、20時半を過ぎたところだった。
21時過ぎには家に木嶋は帰ってくる。スマホのブラウザを開き、木嶋が乗る電車の時刻を調べる。58分に駅へ着く電車があるから、乗るとしたら多分それだ。
(なんか落ち着かねーし、たまには迎えに行ってやっか)
電車が着くにはまだちょっと早いが、改札の前で待っていよう。春壱はリュックから鍵を出しスマホを手に取ると、いそいそと玄関を出た。
21時近くになると、不思議と駅はサラリーマンよりも遊びから帰る学生のほうが多くなる。木嶋はスーツだし背も高いから、きっと見つけやすいだろう。春壱はアパレル店舗の大きな看板が掲げられた柱に凭れて、改札から流れ出てくる人々を目で追っていた。
改札の時計が58分になり、そろそろ電車が着くだろうと、春壱が柱から一歩前に踏み出したとき、いきなり誰かに肩を叩かれた。
「え?」
振り向くと、そこにはメガネの初老の男が立っていた。
それはかつて春壱のお客だった田崎という男で、その男はメガネを指で押し上げながら、まるで久方ぶりに会った長年の友かのようににこやかに春壱へ声をかけてきた。
「やあ。久しぶりだね、ハルイチ」
「え、あ…………田崎、さん……?」
「覚えててくれて嬉しいよ。あんまりにも久々で、つい声をかけちゃったよ。大変だったみたいだね、君のお父さん」
「……」
「やっぱり迷惑だったかな。声をかけるか迷ったんだよ。やっぱり君はかわいいから目立つよ」
田崎はまだ40才と若いが、駅周辺にいくつも飲食店のビルを持っている資産家だ。高級鉄板焼店やバーなど手広くやっていて、何度か春壱も肉とか美味しいものを食べさせてもらったことがある。金払いもよく、内緒で小遣いをくれたり、プレイでも無茶な要求はしない太客だった。
客の中でもわりと常識的なタイプという印象で、外で見かけても声をかけてきたりはしない人だと、勝手に思っていた。
「いやだな。本当にただ久々に見かけたから、懐かしくなっただけさ。そんな顔しないでよ」
「あの、俺……」
「お父さん捕まったんだって? 急に連絡取れなくなったからさ、びっくりしたよ。もうウリの仕事はやってないんだ? やってるならと思ったけど、その顔見る限りではもう足を洗ったのかな」
店が摘発されたあと、芋づる式に客も捕まるかと思っていたが、どうやら田崎は警察からの追跡を免れていたようだ。この余裕ぶりは、捕まることなどないと確信を得ている顔だ。
「もう、俺そういうのやってないんです」
「そっかー、それは残念。……まあでも、見た感じ、ちゃんと暮らせてるようで安心したよ。君の生活環境には目に余るものがあったからね。心配したんだよ。ご飯は食べたのかい? もしまだなら一緒に……」
田崎の言葉を遮るように「鏑木!!」という声が、2人の間に割って入った。
「き、木嶋……」
「ん? ……おっと」
いつ改札から出てきたのか、いきなり現れたスーツ姿の木嶋が、田崎の視線を遮るように春壱の前に無理やり割り込んだ。
「……すみません、俺のツレがなにかしましたか」
突如現れた男に田崎は目を丸くしたが、すぐにククッと笑い出した。
「なるほどね。ハルイチ。そうか、ふふ。新しい保護者ができたのか。いいね、君らしいよ。……こう睨まれちゃ仕方がない、おじさんは退散しよう。じゃあねハルイチ。元気で」
思ったよりもあっさりと、田崎はこの場を去っていった。あの飄々とした感じだと、木嶋の威嚇に臆したとも思えない。
田崎が春壱の置かれている状況を気にしてくれてはいたのは事実で、だから今日ももしかすると本当に自分を心配して声をかけてくれたのかもしれない。だからスーツを着た木嶋の登場で、あっさり手を引いた。
春壱はそんなふうに思いながら、去っていく田崎の背中を見ていた。
「……鏑木。なんで田崎と会ってたんだ。あいつと連絡とってたのか」
「え?」
珍しく苛立った声に、春壱は木嶋の顔を見上げた。
まずい。本当に怒っている。こんな刺々しい声の木嶋は初めてだ。
「ち、ちげーよ。木嶋が帰ってくるの待ってたんだって。そしたら、むこーから声かけてきてさ。つか、お前なんで——」
なんでお前が田崎さん知ってんだよと言おうとして、春壱は言葉を飲み込んだ。
そういえば前のタイムリープで、木嶋は田崎と会っているんだったと思い出したからだ。前の世界で木嶋は春壱を助けるため奔走し、春壱の客とコンタクトをとったことがあるのだ。そのとき会った相手が田崎だったと言っていたはず。
だからこの木嶋の怒りの矛先が、元客の田崎に対してなのか、それとも元客に会っていた自分に対してなのか、春壱には分からなかった。
「もしかして、疑ってんのかよ。木嶋。俺がまたウリやるかもって思ってんのかよ」
春壱は苛立ち、思わず声に力が入った。
なんでそんなことを疑われなきゃいけないのか。春壱だって話したくもないのに、声かけられてしかたなく対応したっていうのに。
木嶋の表情が一瞬曇り、春壱から視線を逸らす。
「——ごめん。変な言い方した。疑ってない。待っててくれたのにな。悪かった」
喧嘩なんかする予定じゃなかった。ただ、迎えにきた春壱を見て、嬉しそうにする木嶋が見たかっただけなのに。
これ以上こんなところで言い争いはしたくない。春壱は苛立ちをぶつけるところもなく、くるっと踵を返した。
「……ふん。別にいーけど。帰るぞ」
なんだか今日は嫌な1日になってしまった。
無言のまま帰路につく2人。本当なら手なんか繋いじゃって、北村が言ったことなんかどこかに吹き飛ぶくらい、じゃれ合って仲良く家に帰るところなのに、今日の木嶋は春壱の後ろで項垂れたまま、とぼとぼと歩いている。
カンカンと音を響かせて古い外階段を上ると、春壱は外灯の電球が切れて真っ暗な外廊下を歩き、手探りでドアの鍵を開ける。
蹴飛ばすように靴を脱いで上がると、すぐにキッチンの蛍光灯をパチンと点けた。
「……ごめん、鏑木。マジで、本当にごめん」
「ああ?」
振り返ると、図体のでかい男が、玄関の上がりかまちのところで、今にも泣きそうな顔で立っている。
「あんなこと、言うつもりじゃなかったんだ。——ただ、鏑木が田崎と話してのるを見て、無性に腹が立って……」
「んー? だから俺がまたウリすっかもって思って心配だったんだろ? ……もーいーって」
「そうじゃない。そうじゃないんだ。……なんて言えばいいのか……」
珍しくウジウジとする木嶋に、春壱はようやくピンときた。
(もしかしてこれ、木嶋が田崎に嫉妬したってやつじゃね!?)
そう木嶋は嫉妬したのだ。元客である田崎に対して。木嶋は田崎と体の関係があったことを知ってるからこそ、激昂したのだ。
木嶋は付き合う前も後も、春壱のウリの仕事について、なにか嫉妬めいた言葉を言うことは一度もなかった。
気にしないようにしてくれてる、もしくは、それはそれと切り離して考えてるのかと思っていた。
しかしどうやら違ったようだ。
(なーんだ。そんなことかよ)
春壱はなんだか口元がニマニマしてしまう。
木嶋が嫉妬か~。
普段すましている男が、いつになくシュンとしているのも面白い。
まあ、木嶋が春壱のことを、〝恋人に黙ってウリをやりそうな男〟だと思っていることについては正直腹ただしい。だが、これまでのことを考えると、そう思われても仕方がない部分もある。自分が、ラクなほうに流されやすい人間だという自覚があるからだ。
(まー、すげー金に困ってたら俺やるだろーしな。つか、木嶋は嫉妬するくらいには、俺のことが好き。ってことだ。なんだよ木嶋、俺のことすげー好きなんじゃん。北村のやつ、全然ちげーじゃんか。……じゃ、なんで手ぇだしてこねーんだ)
これは一度、ちゃんと話あうべきだな。
春壱は口元のニマニマを気づかれないよう、いかにもわざとらしく仕方がねーなーと、ため息を吐いた。
「もういいって。早くスーツ脱げよ。風呂、洗ってあっからさ、すぐお湯いれるわ。……あとでちゃんと話そうぜ」
いつもとは違うちょっと突き放したような言い方に打ちのめされたのか、より一層項垂れた木嶋に、春壱は必死で笑いをこらえていた。
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