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第4章

『ヒーローは遅れてやって来る』

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「眠い……」

 全国高校バスケットボール大会地区予選会場に降りたった入月勇志の第一声がそれだった。

 立花大付属高校バスケ部の合戦となる舞台は、男子と女子の会場が同じ場所であったため、大型バスを1台貸し切り、全部員と応援団の方々と揃って学校からここまでやって来ていた。
 もちろんこの男、入月勇志もそのバスに乗せてもらっていたのだが、車内でも終始「眠い……」と、口癖のように呟いていた。およそ試合当日とは思えない死んだ魚のような目と、その下のドス黒い隈には理由がある。
 昨晩、突然入月家に泊まることになった幼馴染の桐島歩美が、突然寝ていた勇志のベッドに潜り込んできたからだ。
 自分の腕の中で、スヤスヤ眠る魅力溢れる幼馴染に、手を出さないことに全ての意識を集中させて、僅かな理性を繋ぎ止めるという、常に針に糸を通すような繊細な作業をしていたため、結局朝までほとんど寝れなかったのだ。
 おまけに1時間弱もの間、バスに揺られて車酔いまで併発していた。
 勇志の不調レベルは10段階中、18といったところだろう。

 バス移動中は、隣の席の林田真純の肩を借りて、ずっと休んでいたが、バスのエンジン音や部員たちの騒音に敏感になってしまい、一睡も寝ることができなかった。
 おまけに真純の肩を借りて、寄り添う勇志の姿を見た周りの生徒たちが、「やっぱりあの2人はできてる」「やっぱり入月くんが受けだわ!?」とかなんとか、ヒソヒソ話が敏感になっている勇志の耳に聞こえてきて、もう限界をとっくに超えた極限のゾーンに突入していた。

「こんな状態で試合とか、正気の沙汰とは思えん……」

 ガップレ時の美声はもちろんのこと、通常時の声からも想像の出来ない程の掠れた声で、勇志は小さく呟いた。

「おい、勇志大丈夫か? さっきより顔色悪くなってるぞ?」
「ま、ますみぃ~……」

  誰よりも真っ先に勇志のことを心配してくれる親友。病んでいて弱っているということもあるが、内心(惚れてまうやろ~ッ!)と、叫んでいた。

 それに比べ、勇志を睡眠不足と過度のストレスを与えてくれた歩美は、朝起きてから顔を真っ赤にして、ベッドから逃げ出したかと思えば、それからまともに口も聞いてくれていない。
 何度か目は合っているが、直ぐに目を逸らされてしまうので、さてはいかがわしいことでもされたと思っているんじゃないかと勘繰っていた。
(全く、真摯な幼馴染を持って良かったな)と、声を大にして言いたいが、声が出ないのでは仕方がない。
 勇志が、今も目を逸らされてしまった歩美に死んだ魚のような眼線を送っていると、背後から小畑良介が肩にそっと手を置いてきた。
 
「いや~、残念だったな」
「何が……?」
「桐島さんだよ。ようやく、お前と幼馴染だとかいう悪夢から目が覚めたんだろ?」
「は?」
「大丈夫だ、桐島さんは俺が幸せにしてやるから!桐島さ~ん!今行くよ~!」

 こうして、小畑が歩美のところに駆け寄ったのを合図に、一斉に男子たちが歩美の元に集まり始めた。

 歩美は、異性から信じられないほど良くモテる。今日はいつにも増して男たちに群がられていた。何故なら、普段は入月勇志という虫除けスプレーが機能しているため、余程言い寄ってくる者もいないのだが、今日は絶好のチャンス到来とばかりに、バスの中から既にどんちゃん騒ぎだったわけだ。これもまた、勇志がのんびり眠ることが出来なかった要因でもある。
 ちなみに、絶世の美女といえば『橘時雨』も負けていないのだが、多少は他人と関わるようになったとはいえ、まだその『鉄仮面』『氷の女王』などのイメージと、相変わらずの塩対応(特に男子に対して)は健在のため、男はほとんど近寄らない。
 対して歩美は、人当たりが良く交友関係も広いのだが、その本来の性格を【Godly Place】のミュアとして露出させてしまったため、学校での変装時は『少し内気で、あまり目立たないお淑やかな女の子』という設定でキャラ作りしていた。
 しかし、その『内気でお淑やか』というものが、男子高校生の大好物だということは知らなかった。「こんな俺にもワンチャンあるかも!?」という、頑張れば手が届きそうな美人枠に、見事に当てはまった歩美を放っておく方が無理な話だ。

「桐島さん、良かったら今度、俺とお茶でも!」
「おい、お前!抜け駆けすんなよな!」
「俺が先に話しかけたんだぞ!?」
「――えっとー、休みの日は殆んど用事があって、だからごめんなさい……」
「じ、じゃあ空いてる日教えてくれない!?」
「合わせるからさ!」
「――ええっ!?」

 (もう!いつもならバッサリ切り捨てるのにー!)

 有無を言わせぬ追撃に、いよいよ困り果てた歩美を見兼ねたのか、すぐ近くから助け舟が渡った。
 
「はいはい、先輩たち!歩美ちゃんが困ってますのでこれくらいにしてくださーい!」
「な!?誰だ君は!?」
「私は入月百合華、入月勇志の妹でーす」
「入月の妹!?」
「か、可愛い……」
「けしからん……!」
「入月にこんな可愛い妹がいたのか……」
「はいはい!先輩たちは今から試合なんですから、こんな所で油売ってないで、集中してください!」
「はーい……」

 今日は、勇志の代わりに百合華が虫除けスプレーになってくれるようだ。取り敢えず、歩美のことは百合香に任せて、勇志はこの絶不調を治すことに意識を向けることにした。
 
「ほんと大丈夫か勇志?無理しないで、ダメな時は言ってくれよ、医務室でも病院でも連れていってやるから」
「真純ぃ~……心の友よ~……」

 勇志の目には、真純の周りに薔薇が咲き誇り、いつもより2割増しでイケメンに映っていた。

「あ!痛てーッ、もう、しょうがねぇ奴等だな!?よーし!じゃあ男子バスケ部全員集合~!!」

 歩美に群がる群れの中から追い出された小畑は、珍しく部長権限を駆使して、群がる部員たちを一箇所に集めた。

「よーく聞けよお前ら!全国高校バスケットボール大会はトーナメント形式になっていて、泣いても笑っても負けたらそこで終了だ!」
「そんなことくらい皆んな知ってますよ……」
「そして!我ら六花大付属高校男子バスケットボール部は、県大会出場を逃せば廃部になり、本当の意味で終了してしまうことになる!」
「だから知ってますってば、部長……」
「お前たちはそれでいいのか!? 」
「実のところ、駄目なら駄目でしゃうがないかなと……」
「バっキャローッ!!」

 小畑の右ストレートが、ボソッと呟いた男子部員の頬を直撃する。勢いよく吹き飛ばされた男子部員は、驚愕の表情を男子バスケ部部長に向けた。

「もう2度と、コートサイドから至近距離で女子バスケ部のあられもない姿を見る事が出来ないんだぞ!? それでも良いのか……?」
「ハッ……!?」
「それで良いのかと聞いているッ!?」
「「「良くありませんッ!!」」」
「その通りだ!いいか!?これは絶対に負けられない戦いだ! 誰一人欠けることなく、全員で必ず勝つんだ!気合入れろよお前らぁああ!!」
「「「おーーーーッ!!!」」」

 動機は不純だが、皆がそれぞれ溢れんばかりの気合いで満ちていた。

 そして、勇志の方は何かが、胃袋から込み上げてきていて、それが溢れないように必死に堪えていたため、不純な男子バスケ部員たちに構うことが出来なかった。
 そんな勇志のことなど知る由もなく、小畑は大会の注意事項を改めて簡単に説明し始めた。

 県大会に出場出来るのは、地区大会を勝ち残った上位2校で、決勝に進出した2校がその時点で県大会出場が決まる。そして、その決勝までの道のりは全部で4試合あり、1度でも負ければ、その時点で敗退することになる。
 しかも、前回の県大会優勝校がシード枠で、順当に行けば3試合目で、六花大附属高校とぶつかることになるらしい。
 つまり、全国レベルの選手たちと試合をして、勝つことができなければ、県大会出場は叶わないということだ。
 勇志の限定プレミアゴールドダンガムプラモの道は険しく困難を極める。 おまけに体調は最悪。激しい運動などしたものなら、間違いなく口から汚物レロレロを吐き出すことになってしまうだろう。

 (県大会出場は逃しても、レロレロだけはしないようにしよう……)

 そう心に誓った時だった。

「あの……入月先輩……」

 背後から聞き覚えのある可愛らしい、それでいて何処か恥じらいが残るような声が、勇志を呼び止めた。

「――花沢さん?」

『花沢華』六花大附属高校一年、女子バスケットボール部所属。橘時雨に憧れてバスケ部に入部するも、男性恐怖症から人付き合いが苦手で、男子バスケ部と合同練習をするようになってから、自分のことも、バスケのことも、どんどん嫌いになってしまった女の子。
 けれど、昨日の練習試合でバスケというスポーツの面白さ、チームを信頼することを通して、少しずつ人との関わり方を前向きに考えられるようになっていた。
 その気持ちが表情にも現れていて、バスの中でも同性の部員たちと、笑顔で会話してしている姿が印象的だった。

「どうしたの? たしか、女子は全員会場入りしたんじゃなかった?」

 男子が歩美に群がっている間に、女子バスケ部はとっくに会場に移動していたのを、勇志は目の端で捉えていた。
 
「はい……でも、なんだか入月先輩の体調が悪そうだったので……」
「もしかして……心配してくれて、わざわざ引き返して来てくれたの……?」

 同性の真純は別として、異性の、しかもシャイで男が苦手な、あの花沢さんが心配してくれるなんて……!
 勇志は目頭が熱くなり、思わず片手でぐっと押さえた。
 
「あの、これ……良かったらどうぞ……」

 華は、恥ずかしさで真っ赤になった顔を見せないように俯きながら、キンキンに冷えたペットボトルの水を両手で差し出した。

「あ、ありがとう……」
「試合、頑張ってください!」

 そう言って、華は逃げるように去っていた。

 (冷たい……けど暖かい……)

 勇志は、華からもらったペットボトルを頬に付けて、幸せを噛み締めるように目を瞑った。

「おいおいおい勇志~!」

 突然、小畑が背後からやってきて勇志の首に腕を回す。

「ちょっと今、話しかけないでくださる?余韻に浸ってるところなんだから……」
「ちょっと目を離した隙に、女の子とイチャイチャしやがってー!んで?どーやって男嫌いの華ちゃんと仲良くなったんだよ!?羨ましいぞコイツ~!」

 小畑は、そのままジリジリと首に回す腕に力を込め、勇志の首を強く絞め上げた。

「うぐッ……ぐ、ぐるしい……もうダメ、出る」
「え゛ッ!!?? ちょっと待て!?  あ゛ッ、ぁぁぁああああッ!!」

 勇志は、今まで必死にこらえてきた汚物レロレロを、小畑の着ているジャージに向かって、全て余すことなく解放したのだった。

………………

…………

………
 

「試合終了!六花大附属高校の勝利!」
「「「ありがとうございました!」」」

 危なげなく、初戦と2回戦も勝ち抜いた女子バスケ部は、観客ギャラリーからの称賛を受けながらコートを後にした。

「橘部長、お疲れ様です!」
 
 そう言いながら、綺麗に折り畳まれたタオルを差し出したのは花沢華。まだ一年生の彼女は他の一年生と同様に、まだレギュラー入り出来ず、メンバーのサポートと応援を進んで行っていた。

「ありがとう、花沢さん」

 華は、昨日の練習試合からまるで別人のように明るくなり、女子バスケ部の中に漂っていた不穏なムードも、まるで嘘だったように消えていた。
 時雨は、華の成長が喜ばしい反面、それが勇志の影響なのだと思うと、どこか手放しで喜べないような複雑な気持ちだった。

 (もしかして……これが『嫉妬』というものなのかしら……?)

 物思いに耽りながら、タオルで汗を拭く時雨の姿は、まるで絵画のように美しく、周りの部員たちや、観客たちから次々と溜息を引き起こしていた。

 (私も人並みに、誰かに嫉妬したり出来るようになったのね……)

 本人は勿論、周りの反応に気付いているが、全く意に返さず、今も別のことを考えていた。

「そういえば、男子の試合はどうなっているかしら?」
「――はッ!?えっと……それがー……」

 華も、他の部員たちや観客と同じく、時雨に見惚れていたため、反応するのがワンテンポ遅れてしまう。

「まさか、負けてしまったの!?」

 会場に到着する前から、入月くんの体調が悪いのは気付いていた。初戦はなんとか入月くん抜きで勝てたと聞いていたけれど…… まさか、また彼が不在で負けてしまったの?あの時みたいに……

「いえ!負けたわけではないんですけど……でも、かなりピンチだと思います……」
「まだ……ね……」

 全ての責任を負い、誰からも称賛されることなく、バスケというスポーツから離れ、背を向けて歩き出していった、あの日の勇志の姿が脳裏に浮かぶ。
 
「花沢さん、今から男子の試合を見に行くわよ!」
「でも、次の試合の準備が……!?」

 どうしても見届けないとならない使命感が、時雨を強く駆り立てた。

「――みんな、お願いが……!」
「皆まで言わなくていい、部長」
「そうですよ、こっちのことは任せてください!」
 
 女子バスケ部の全員が示し合わせることなく、それぞれがウィンクをしたり、サムズアップで時雨を快く送り出してくれた。

「みんな、ありがとう……!」

 部員たちの優しさに感謝しながら、時雨は急いで男子の会場へと向かったのだった。

 総合体育館は、バスケのコートが4面あり、男女で2面ずつ試合が行われている。体育館の両端には階段があり、そこから2階へ上がるとアリーナや映画館のような『ひな壇』状の客席になっている。応援団や観客は、基本的にこの2回席から試合を観戦する決まりになっていた。
 時雨たちが2階に到着すると、各校の生徒や応援団、保護者たちで既に賑わっていた。
 流石に地区大会の規模で満席ということはなく、時雨と華は、六花大附属の男子バスケ部の試合が、なるべく近くで観られる席を探して腰を下ろした。
 直ぐに眼下で行われている男子の試合の様子を伺うと、試合は丁度中盤に差し掛かったところで、点差はかなり絶望的だった。
 それもそのはずで、コートには勇志だけでなく部長の小畑の姿まで見当たらない。そのため、真純は攻撃オフェンスを諦め、守備ディフェンスに専念しているようだ。

「一体どうしてこんなことに……」

 つい、弱音が漏れ出てしまった。それを聞いて、前の座席に座っていた観客が反応して振り向く。

「時雨?こっちに来てたの?」

 黒髪を靡かせ、黒縁の大きな眼鏡から覗く大きな瞳が時雨に向けられる。
 
「歩美? ここにいたのね」

 男子バスケ部の試合が気になっていて、周りが目に入っていなかったようだ。見れば、周りには六花大附属の生徒たちが多く座っている。
 その中でも、特に目を引くのはやはり『桐島歩美』で、他校の生徒たちの視線までも集めていた。本人はそのことに気付いているようだが、全くに気にならないといった様子で、例えるなら、大物の芸能人や、アイドルのような貫禄さえある。
 そしてもう1人、見覚えのない子が歩美ほどではないが、同じように異性からの視線を多く集めていた。

 (たしか、バスの中でも歩美の隣に座っていた子ね)
 
 可愛らしいけれど、どこか凛としているその子に、時雨もまた視線を奪われてしまう。

「えっと、歩美の隣の方は……?」
「初めまして、入月勇志の妹の『入月百合華』です。 いつも兄がお世話になってます」

 そう言って、丁寧にお辞儀をする百合華の姿は、年下とは思えないほどの気品を纏っていた。
 普段、百合華が家では絶対に見せないその姿。外面の良さと、オンとオフを使い分けることができる器用さは、兄にはない百合華の特技である。

 (入月くんの妹さん!?だから目が離せなかったのね……)

 時雨が目を奪われた理由は、その立ち振る舞いもあったが、やはり目鼻立ちや雰囲気が何処となく勇志に似ていたからに他ならなかった。

「初めまして、私は橘時雨。入月くんとは同じクラスで、今は部活で一緒に練習してもらっているから、こちらこそお世話になっているわ」
「いえ!本当に、稀にしかやる気を出さないダメな兄なので、身内としては、こうして頑張る姿が見れて有難いです!」

 (入月くんに対する妹さんの評価が的確だわ、できるわね……)

「えっと、時雨さんの背後に隠れている方は……?」

 百合華は時雨の影に隠れるようにしながら、こちらを伺っている人物に視線を向けた。

「花沢さん、どうして隠れているのかしら……?」
「え!?っと、その……花沢華です……よろしくお願いしまひゅッ!」

 盛大に噛んでしまった華。
 本来なら女子相手に、ここまで動揺することはないのだが、相手が勇志の妹で、目鼻立ちが似ていて、何処となく勇志を連想させるとなると、真っ直ぐ顔を見つめられないという、華自身もびっくりするような不思議な現象パニックが脳内で繰り広げられていた。

 (なななななななんで私こんな緊張してるんだろう!?相手は女の子で、男子じゃないのに!でも、あの入月先輩の妹さんで、顔立ちとか性格とか、何となく雰囲気が似ているからかな、あーダメだ全然顔が見れない~……!)

「その、彼女はちょっと人付き合いが苦手なの、ごめなさい。でも珍しいわね、普段なら女性にこんなに反応することないのだけれど……」
「わ、私にもよく分からないです……!」
「えっと、私は桐島歩美。よろしくね、花沢さん」

 赤い顔で俯く華に、微笑むように話し掛ける歩美。その天使のような優しさに、華は一瞬、心を奪われたような感覚になった。

「よ、よろしくお願いします……」
 
 (なんて素敵な人なんだろう…… 橘部長も凄く綺麗だけど、桐島さんはそれとはまた違う種類の綺麗さがあるような……)

「それで時雨、女子の試合はどうだったの?」
「特に、何の問題もなく勝ったわ」
「さすがねー、まあ心配はしてなかったけど」
 
 気さくに話しかけてくる歩美に対して、時雨も特に気にする様子もなく言葉を返している。
 歩美と時雨も、勇志と同じ六花大附属中学校の出身で、それに伴い付き合いも長い。だからこうして、歩美にとって素の自分を出せる数少ない友人の1人でもあった。
  交友関係を自ら絶っていた時雨に、何かと気にかけて世話を焼いてくれたのが歩美だった。それは、歩美が困っている人や、悲しんでいる人を放っておけない性格というのもあるが、だったという要因もまた強かった。

「それより、男子の試合の方が心配なのだけれど……」

 今も六花大附属は防戦一方で残り時間も心許ない。にも関わらず、未だに主戦力である勇志も、部長である小畑も交代してくる気配もなかった。

「勇志は、最初の方は試合に出てたんだけど、すぐ気持ち悪そうに、両手で口を押さえて退場していっちゃったのよ……」
「入月くん、朝から体調悪そうだったものね…… 歩美、何か知らない?」

 『幼馴染』だと隠すことなく周りに公表し、何かと勇志の身の回りの世話をする歩美を、同学年では知らない人はいない。勇志の体調不良の原因も、歩美なら知ってることと思っての質問だったが……
 
「えッ!?し、知らないことにしてる……」

 あからさまに動揺する歩美。
 
「それって、身に覚えがあると言っているようなものじゃない」
「時雨さん!兄は色々あって寝不足なんです!色々あって!」

 百合華が、真剣な表情で時雨に訴える。
 
「どうして2回言ったのかしら?」
「それで、バスに揺られて車酔いしてしまったんですね……入月先輩、可哀想……」
「うぐ……」
 
 勇志の体調不良を、心から気の毒に思う華を見て、歩美の心がさらに締め付けられる。
 
「それで、どうして小畑くんまでいないのかしら?」

 時雨の質問に、歩美と百合華がお互いに顔を見合わせて、同時に嘆息する。

「ほら、あそこ……」

 歩美の指先が向けられたのは、試合中のコートからは随分と離れた体育館の隅。薄暗くて良く見えないが、目を凝らすと、誰かが壁に向かって体育座りで小さくなっているように見える。

「もしかして……あれが小畑くんなのかしら?」
「はい…… ものすごーくショックなことでもあったんじゃないですかね?」
「さっき、バスケ部の男子に聞いてみたんだけど、何やらブツブツ呪文みたいなことを呟いているらしいよ……?」
「「「呪文!?」」」

 歩美から発せられた不穏な空気に、全員が声を揃えて反応する。
 
「そう、『汚れちゃった~汚れちゃった~俺、汚されちゃったぁぁああ!!』って」
「ひぃいいッ……!?」

 歩美の迫力満点の演技に、華が恐怖する。それは、ホラー映画のワンシーンを観てしまったような臨場感があった。もちろん、小動物系の華は例に漏れず怖いものが苦手である。

「歩美、そんなに花沢さんを脅かさないでくれる?」
「ごめんね!そんなに怖がるなんて思わなかったから」

 最近では、【Godly Place】のミュアとして、ドラマや映画の出演も多くなり、それに合わせて演技の勉強もしていたからか、つい演技に熱が入ってしまった歩美が、素直に謝罪した。
 
「いえ!私こそ、大袈裟に怖がってしまってごめんなさい……」
「じゃあ、残り時間もあまりないけれど、酔い止め薬を持っているから、入月くんに渡してくるわね」
 「ごめん時雨、お願いね」

 本来なら自分が勇志の元に飛んで行き、介抱してあげたいけれど、昨日のことがあり、情けないし恥ずかしいしで、しばらく勇志と顔を合わせられない歩美は、素直に時雨の好意に甘えることにした。
 
「うちの兄が本当にご迷惑お掛けします……!」
 「いいのよ、気にしないで」

 時雨は、今までいた2階のアリーナ席から降りて、体育館の通路を探し歩くと、トイレの近くにあるウォーターサーバーの前で、青白い顔をして座り込む勇志を見つけた。

「入月くん!?」
「あ、橘…… 女子の試合、どうだった……?」
「人の心配をしている場合?それより自分の心配をしなさい」
「……はい」
 
 (自分が一番辛いのに人の心配をするなんて、どれだけお人好しなのよ……)

「はい、酔い止めの薬よ、今すぐ飲んで」
 「橘、ごめん……橘だって試合で大変なのに、迷惑かけて……」
「いいから早く飲みなさい!」

 そう言いながら、時雨はウォーターサーバーから紙コップに水を入れて、勇志に差し出した。そして、半ば強引に薬を飲ませた後、近くのベンチに座らせて、様子を見ることにした。

「う…… ハア……」
(こんなに弱った入月くん、初めて見た…… いいえ、それは違うわね……)

 いつもやる気なく面倒くさそうにしているのは、『やろうと思えば何でも出来る器用さ』を、他人から隠すためなのではないかと、最近は思うようになっていた。
 唯一、本気で取り組んできたバスケでさえ、最後には決勝の敗退の責任を負い、仲間からも責められてバスケから離れてしまった。
「お前が怪我をしたせいで負けた」
「お前が怪我をしなかったら勝っていた」
 これが学校の生徒たち、そして先生たちが彼に言った言葉。
 そして、私もいつの間にか思ってしまっていた。ずっと思い続けていた。
「どうしてバスケを辞めてしまったの?」
 これらの言葉が、一体どれだけ彼を苦しめたのだろう……
 入月くんが目を閉じてから、どれだけの時間が経ったか分からない。ほんの一瞬だった気もするし、凄く長い時間だったかもしれない。
 遠くの方から聞こえてくる歓声も、近くにいる学生たちの話し声も、いつの間にか聞こえなくなっていて、1人分空けて隣に座る彼の弱々しい息遣いだけが、2人の時間を刻んでいる気がした。

(私ならあなたの弱さも受け入れて、愛せるのに……)
 
「――ふぅー……ありがとう橘、少し楽になった気がする……」
「いいのよ、気にしないで」

 ゆっくりと目を開けてこちらに向き直る勇志に、時雨は、叶わぬ願いを胸の奥に仕舞い込んでから、いつものように表情を変えずに言葉を返した。

「男子の試合の方はどうなってる……?」

 勇志の目が、今尚試合が続いているであろうコートの方へと向けられる。
 
「林田くんが守備ディフェンスに専念して、なんとか持たせているけれど、攻撃オフェンスに得点力がないから、このままだと……」
「よし!じゃあ戻らないとな……」

 そう言ってゆっくり立ち上がる勇志の足は、まだ力が入り難いのか、軽くふらついている。誰が見ても、とても試合ができるような状態になかった。

「そんな状態で試合に出るつもり!?」
「ああ、もちろん……」

 そう言って微笑む顔にも血の気がなく、精一杯の作り笑いだ。
 
 「もう……いい……」
「え……?」
「そんなに無理をしてまで試合に出なくていい!そもそも、あなたがバスケ部のためにそこまでする必要なんてないはずよ!?」

 時雨の無表情が音を立てて崩れた。
 涙を堪えて真っ赤になった目元も、行き場のない怒りで、真っ赤になった顔も隠すこともせず、今にもコートへ戻りそうな勇志を、必死に大声で引き止めた。

「――えっ、と……」

 初めて見る時雨の姿に、勇志は動きを止めた。時雨がこんなにも感情を露わにしたのは初めてだ。でも、本当は前に一度、目の前で見た事があった。『入月勇志』ではなく、【Godly Place】の『ユウ』として……
 亡くなった父親と向き合う事で、閉ざした感情を再び開くことができた、その瞬間に立ち会った。だからこそ、彼女が本気で自分のことを心配していると、痛い程分かっていた。
 何故なら、時雨が感情を爆発させるのは、自分の気持ちが抑えられなくなって、溢れ出してしまった時だけだから。
 
「なあ橘、俺がそんなボランティア精神で助っ人に入ってると思ってないよな……?」
「じゃあ何だって言うのよ……!?」
「平穏な学校生活と、限定プラモのためさ」
「……は?ちょっと意味がわからないんだけれど……」
「とにかく、橘が気にする必要はないってこと」

 少しずつ平常心を取り戻してきた時雨を背に、勇志はまたコートの方へと歩み出す。そのまま後ろを振り向かずに、勇志は時雨に声を掛けた。

「橘、その……ありがとな、心配してくれて……」
「別に……そんなんじゃないわよ……」

 時雨はまだフラついている勇志の背中を見送りながら、不安や心配と同時に『期待』をしていることに気付いた。
 彼ならまた奇跡を起こしてしまうんじゃないか……
 花沢華を導いたように……
 そして、私の心の奥底に……

 「本当にずるいわ、そういうところ……」

  誰にも聞こえないように漏らした言葉を噛み締めて、勇志の姿が見えなくなるまで見送った後、来た方向とは逆から2階へと戻ることにした。
 当然、通路を曲がった先に、ちょっとだけ見え隠れしていた六花大附属高校のジャージにも気付くことはなかった。

(ここここここ、これはもしかして、いやもしかしなくても、橘部長は入月先輩のことが、すすすすすすす好きなのでは!?)

 時雨の足音が聞こえなくなったのを合図に、通路の角で息を潜めていた花沢華が、ゆっくりと地面にヘタレ落ちた。

 (あんなに感情的になっていた橘部長、初めて見たな……)

 完璧で非の打ち所がなく、孤高の存在だと思っていた。けれど、それは違った。
 人と同じくらい、いやそれ以上に激情を持っていて、それをぶつけられる相手がいる。

「入月先輩……」

 先輩が女性から好意を寄せられるのは当たり前だ。こんな私にも優しくしてくれて、励ましてくれて、普通に考えて、私のような人間に関わっていたら、先輩が後ろ指を指されてしまう。

「橘部長となら……お似合いだなー……」

 誰が見ても羨むような美男美女カップルだ。文句のつけようもない。けど……

(どうしてこんなに心が痛いの!?どうして、こんなに頭の中がぐちゃぐちゃするの!?)

 華は自分の抱いている気持ちが、何というものなのか理解するまでに、しばらく時間を費やしのだった。
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