精霊守りの薬士令嬢は、婚約破棄を突きつけられたようです

餡子・ロ・モティ

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1巻

1-3

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 だから大事なのは精霊達が気に入るかどうか、過ごしやすいかどうか、そういうことになる。 さてノームンはいい場所だと言っているし、ここで試しに薬草園を展開してみることに。
 私は泉の湧き出ているあたりに立ち、そこを中心に草木がモリモリと成長していく姿を明確にイメージする。
 ノームンをはじめとした精霊達は、それに呼応するように周囲を舞い踊る。
 庭の一角がちょっとした森のようになるまで、それほどの時間はかからなかった。
 皆が気持ちよさそうに動き始めていた。水も風も火も、花も光も草木も、影も氷も雷も。

「ハイラスさん。それじゃあ私、この場所をお借りすることにします」
「あ、ああ、気に入ってくれてよかった。ええと、念のために聞かせてくださいますか? この森が……薬草園? ということでよろしいでしょうか?」

 ハイラスさんに確認されてしまった。
 この薬草園は外から見るとただの小さな森だから無理もない。けれど、中に入ってみると意外と日当たりもよくて、広々とした空間が広がっている。
 私か権限を持つ精霊が許可した者でないと、中に入ることはできない仕様になっている。
 ひとまず今日はこれで薬草園のことはよいとして……
 さて、こんなにも広くて立派なお屋敷なのだから、とうぜん滞在費も相当な額のはずだ。しかし私にはお金や財産はほとんどない。
 では他にできることといったら……やはり薬草やポーションでお支払いするしかないだろう。
 ハイラスさんは言う。今は家賃はいらないから、まずはしばらくここに滞在してみてくれだなんて。けれど、やはりそうもいかない。
 ちょうど私の手元には、モグラもどきの皆さんにいただいた「星影ほしかげ欠片かけら」がたくさんあった。これを使った魔法薬を練成しよう。
 ええとこれなら他に必要な材料は……と考えながら、私は薬草園に入った。
 地中深くに腕を差し込んで、よく育った山の根っこを収穫。
 水の中に手を入れて、魚の吐息を少しだけ分けてもらう。
 どちらもこの世の中にほとんど存在しない物質だ。
 ノームンがその昔ドワーフ小人からいただいた宝物を、この薬草園で精霊達の手をかりて皆で育んでいる貴重品。
星影ほしかげ欠片かけら」もそうだけれど、大切に扱わなくてはいけない。
 集めた材料はこのあと、ろ過を繰り返して作ってある純水で綺麗に洗い、星型フラスコに詰める。
 これを熱の出ない蛍灯ほたるとうのランプの下にぶら下げて、夜になったら月の光をとりこんでゆっくりと温めると、一しずくずつ、銀色の液体がしたたり落ちる。
 ひと晩かけて抽出したら、遠心分離機付きの小型魔導炉にかけて、外側に沈んだものを取り出すと、これで「ユグドラシルのしずく」という魔法薬が出来上がるのだけれど。
 まずは材料だけ採って、私は薬草園の外へ出た。

「リーナ様、おおリーナ様っ。ご無事でしたか」

 私の姿が急に見えなくなったせいで、心配をさせてしまったらしい。
 ハイラスさんは出入口のすぐ近くで、茂みの中に入って私を捜索中だった。

「すみません、お話ししてから入るべきでしたね」 
「いいえいいえ、まったくお気になさらずに。ご無事ならそれでいいのです。それよりも、お持ちになっているものは?」

 今度は興味深そうに、私が手にするカゴの中を見ていた。

「魔法薬の材料を、少しばかり採ってまいりました」

 この場所にお招きいただいた感謝の印として、魔法薬を作るから受け取ってもらえるようにとお話をする。
 もしも今は家賃が不要というのならば、私を町に呼んでくれたことや、当面の滞在場所を用意していただいたことへのお礼でもある、と伝えた。
 ハイラスさんは少しだけ悩んだ様子だったけれど、ややあってうなずいた。

「分かりました、受け取らせていただきます。ただ申し訳ないことに、これから少々用事がありまして、明日あらためてうかがっても構わないでしょうか?」
「ああこれは失礼を。お忙しいでしょうに長々とお引き止めしてしまいましたね」
「私なぞ暇なものです。またすぐに寄らせていただきます」 

 今から作るものは、どのみち完成にひと晩はかかる。
 また明日。出来上がりしだいお渡しする約束をした。


 夜になって。ランプの下に星型フラスコを吊るした。
 ガラスの中の様子を見ながらも、引っ越しで運んできた道具を並べて整備をしたり調節をしたり、これから必要になりそうな薬剤の生産工程を確認したりと作業を進めた。
 そうこうしている間に、一晩よく輝いてくれた青紫色の月がルンルン山脈の向こうに消えてゆく。私は仕事を終えて伸びをした。
 この屋敷は少しだけ高い場所にあるから景色がいい。
 振り返ると、まだ暗い景色の中でアドリエルルの湖の大きな姿がよく見えた。
 ふと気がつく。こんな早朝から港のほうがやけに明るいことに。
 お祭り? ではなさそうだけれど、なんだろうか?

「お嬢様あれは、これより未開領域の地へ旅立つ冒険者の方々とその船です。おそらくハイラス様も今あの港にいらっしゃるかと。昨日ここからお帰りになったあとは、船の最終確認に行かれたはずです」

 屋敷の執事であるハーナンという男性が、そう教えてくれた。まだ若そうだけれど、使用人を束ねる立場の人物だと教えられている。初日だというのに私にひと晩付き合ってくれてしまっていた。
 彼はこの町に詳しい。生まれたときから住んでいるそうだ。
 港に今あるのは、これから危険な冒険の旅に出かける船だという。
 船を所有するのはヴァンザ同盟。
 今ハーナンさんが口にした未開領域とは、ここから船に乗って順風で西へ三日ほど行った場所にある未知の大陸のこと。
 その地の探索は、たしかヴァンザ同盟が今最も熱心に進めている事業のひとつだ。
 冒険者達を送り込んでは、新たな商売の種を探している。すでにいくつか新種の植物や魔物素材を発見しているのだとか。
 ハイラスさん自身が船旅に行かれるのではなく、ヴァンザの盟主として送り出す立場のようだ。
 それでも彼にとっても同盟にとっても、今回の出航は重要な意味を持つものだそう。
 私はあまり詳しくはないけれど、未開領域への挑戦は人類の大きな課題でもあり、その困難さについては、小さな子供でもよく知っているほど。
 あの領域に限った話ではないが、こういった冒険旅行への挑戦は、大きな期待がかけられるいっぽうで、無残な結末をむかえることも少なくない。
 危険な船出。それならば、今作りたてのこの魔法薬も、ちょうど役に立つかもしれないと私は思った。
「ユグドラシルのしずく」は、復活薬に分類されるもの。
 瀕死ひんしの重傷者に使うと、一般的な回復薬とは比較できない速さで、自力歩行できる程度にまで回復させてくれる魔法薬だ。
 回復力そのものはさほどでもないけれど、効果速度は最高水準。危険な戦いの場面では、この即効性が生死を分ける場合もある。
 もしものときのハイラスさん用にと思っていたけれど、船に積んでいただければ冒険者の方にも役に立つかもしれない。
 私はそう思い立って、ハーナンさんに確認をした。

「どうでしょうか、それとも忙しいところへお邪魔してはご迷惑でしょうか?」
「なるほど左様でございますか。私が思いますには、ハイラス様も冒険者の方々もお喜びになるかと。きっと旅先で彼らの役に立つことでしょう」 

 ハーナンさんのお墨付きもあって、私はこれを港に届けることにした。
 さっそく届けに行こうと思ったところで、ハーナンさんに止められてしまう。
 もうすぐ朝だとはいえまだまだ外は暗い。危険だから自分もついて行くという。

「私の勝手で昨晩から付き合っていただいているのに、そこまでは……」
「執事ですから、この程度のことならいくらでも承ります。それではさあ行きましょうお嬢様。船が出ないうちに。ただその前にひとつだけ、これは申し上げておかねばなりません。お嬢様、我々のような使用人に丁寧すぎる話し方をなさいませんように。お願い申し上げます」

 なんだか別なところでしかられてしまう私だった。
 こういう生活にあまり慣れていないせいで、まだどうしていいのか分からないでいる。
 そんな話をしながら夜明け前の港に向かった。
 その場でのハイラスさんはとても忙しそうだったけれど、私の姿を見つけると、すぐに駆け寄って来てくださった。
 持参した品物をお出しする。

「これは……リーナ様が? 昨日の魔法薬ですか?」
「はい。よろしければ冒険のお供にと思いまして。ご迷惑かとも思いましたがお持ちしてしまいました」

 水薬用の小瓶に入ったそれを革袋からひとつ取り出して、見ていただいた。
 ハイラスさんの視線が小瓶に、その目は品物を見定めるプロのものに変わる。

「こ……れは? もしや復活薬の……ユグドラシルのしずくですか?」
「え、あ、はいそうです。一目見ただけで分かってしまうなんて。凄いですね、ハイラスさん」
「いえ、いえいえ、お待ちくださいリーナ様? これをお作りになったのですか? ひと晩で? ええと、色々と気になることはあるのですが、まずは……、そう、わざわざ徹夜をしていただいたのですか?」

 おお、流石さすがはヴァンザの若き盟主、一流の大商人だ。
 まずはラベルを見せる前から、一目で魔法薬の種類を判別したことに私は驚かされていた。
 そのうえ今の会話の流れからすると、製法までご存知の様子なのだ。そうでなくては私の夜更かしが分かるはずもない。
 思わず感心して、目を丸くしてしまう。

「いや、あのリーナ様、ここは私が驚くところですよ。なぜ貴女のほうがそのようにビックリなさっているのでしょうか。私にはそこがよく分かりませんが。それよりもさて、どうしたものか。素材の希少価値や製作の難易度とか、薬品の完成度とか、いろいろと気になりますが、いったい私は何からお話を……ええい、もうこの際いいでしょう。ともかくも、ありがとうございますリーナ様。こんな早朝から、私共のために貴重な品をお持ちいただいて」

 あれこれ考えを巡らせていたハイラスさん。どうやら最終的には喜んでいただけたようで、私はほっと胸を撫で下ろした。
 場合によっては、「余計なことをするな、この泥娘が」などと言われるかもしれないとも考えていたけれど……よかった、これをお持ちして。
 なんだか、なんだか妙にほっとしてしまった。
 なぜか瞳が潤んでしまう。弱い。もう大人なのに。恥ずかしくて、うつむいてしまいそうになる。
 私は慌てて、ついでに持参した残りふたつの薬草をお渡しし、そのまま帰路につく。

「えええと、お邪魔しましたハイラスさん、船旅のご無事をお祈りしております。それではまた!」
「え、ああ、はいリーナ様。それではまた後ほどうかがいます。でもどうかこのあとはお休みください。貴女の美貌と身体のために」

 私は小さく会釈えしゃくをして、それでお別れをした。
 最後のほうがごちゃごちゃになってしまったけれど、とにかく目的は達成できた。
 ノームンも執事のハーナンさんも、何も言わずに私のかたわらに寄り添ってくれる。付き合わせてしまった二人にもお礼を言って、帰るやいなやすぐにベッドに潜り込んだ。


 目覚めるとすっかり日は高く昇っていた。
 製作の都合上、夜でないと作れないものも多いから私としてはいつものことだけれど、今は少しだけ気まずい。執事やメイド、家の中にたくさんの人がいるから、私の生態がバレバレなのだ。
 外は晴れやか。船は今ごろどこまで進んでいるだろう。
 朝食なのか昼食なのか判断の難しい食事をとりながら窓の外を見ていると、水路を小船に乗ってやってくる男性達の姿が見えた。
 それから少しして、メイドの一人がドアを叩く。ハイラスさんの訪問だった。

「なんということでしょうかリーナ様、大変です……」

 彼は入室するなり、少し慌てた様子でそう言った。
 何事だろうかと思って、彼の言葉に耳を傾ける。

「まずは今朝いただいた、あの薬草二種について確認させていただけますでしょうか? 間違いがあってはいけませんからね。ひとつは膂力りょりょくの種で、数量は三個。もうひとつはオニキス草で十束。どちらもグレードは第七等級で間違いないでしょうか」
「は、はい。それで間違いありませんが」

 膂力りょりょくの種は、力の強さを上昇させるもの。
 オニキス草は一時的に魔力を強化する。
 グレードに関してはもっと上等なものが世の中にはあるのだけれど、今回は第七までにしておいた。もしや、こんな質のものでは不足だったのかとわずかな不安がよぎる。
 これまでいた王都で騎士団にお渡しする際には、先方からの強い要望で最高グレード第九等級のものだけを用意していた。
 この類の薬草は大雑把おおざっぱに言ってしまえば乾燥させただけのものなのだけれど、それでも栽培方法や収穫の時期、選別、保存、仕上げの手順の違いによって、グレードは大きく変わる。
 基本的には上のものほど効果は高い。とくに強化系の魔法薬の第六~第九は、ひとつグレードが上がるたびに希少度も効能も倍加していく。
 ただ、あまりグレードの高いものは、使用期限が極端に短くなるというマイナス面も。
 すぐに効力がなくなってしまうのだ。
 だから緊急時以外は何段かグレードを落としたもののほうが使い勝手がいいと私は思っている。
 そのあたりのことが説明不足だったのかもしれないと思い、あらためてハイラスさんにはお伝えしておくことに。

「ええリーナ様、その点についてのご配慮には、私共も冒険者の方々も舌を巻きました。まさに必要な品物が、本当によく考えて揃えてあったのですから。かえってあれ以上のものはありませんね。ただ、私がお話ししたいのはその先なのです」

 そこからハイラスさんの表情は、一層真剣なものになった。
 他になんのお話があるだろう?
 私は思わず息を呑む。

「ああリーナ様、リーナ様。釣り合わないのです。あのような品物がお礼では、まったく釣り合わないのです。金額的に、どう見積もっても、私はあまりに上等なお礼の品をいただき過ぎてしまったのです。ユグドラシルのしずくを小瓶一本でも十分でしたのに、結局それが六本と、さらに膂力りょりょくの種三個とオニキス草が十束。どれも銀貨を詰めば手に入るとは限らない希少品ばかり。これでは建物の家賃どころか一月分の総滞在費や、他の諸経費を合計しても釣り合わない。ですからおつりを、おつりを受け取っていただかなくては。ああ、バスティアノ、すまないが六八〇万ディグリアを聖銀貨で用意してくれるか?」
「はい。こちらに、用意できております」
「ありがとう。流石さすがはバスティアノだ」

 いやいやハイラスさん? バスティアノさん?
 おつりとかは別にいらないのだけれど?
 あくまでお礼なのだし。ここはすっとお受け取りいただいて、すっと。しかしそう伝えても、ハイラスさんは首を縦に振らない。

「私はこれでもヴァンザ同盟に所属する商人なのです。上質な品物には常に適切な対価を支払わねばなりません。それでこそあきないは健全に発展していくというものです」

 いやいや、そうは言われても。
 六八〇万ディグリアなんて大金、聞いただけでも落ち着かなくなる。いただいても困ってしまう。私は必死に説得を試みるのだった。
 そうして激しい交渉が勃発し、しばらく時間がかかり、その結果。目の前には一枚の羊皮紙が提示された。

「ではリーナ様、ご確認ください。こちらが六か月分の不動産の貸借代金。それからこちらの項目にある基本的な生活諸経費と、使用人にかかる人件費を合計しまして、ちょうど先ほどの魔法薬と薬草合計十九点との交換という形での契約書となります。よろしければ、こちらにサインをお願い致します」
「あ、はい。ここでいいですか? サイン」
「はい、こちらに」

 とまあそんな形で、私はこの屋敷に住み始めるようになった。
 ハイラスさんは大らかそうな見た目と違って、色々と細かい。ちょっとめんどくさ……あ、いやいやなんでもありませんよ、ハイラスさん。本当に。

「おや? どうかされましたか? リーナ様」

 ひと通りの手続きがとどこおりなく終わって顔を上げたとき、彼が私を見て、目を見開いた。
 私の頬にはなんだか笑みがこぼれていた。



   〇後の宮廷魔導院


 こうしてリーナが新しい場所での生活を始めた頃、王都にある宮廷魔導院では密かに騒動が起こり始めていた。
 初めに異変に気がついたのは薬草倉庫の管理番。在庫のチェック業務を受け持っている職員だった。
 いつもなら毎日のように補充されているはずの希少薬草の棚に、この数日、ほとんど薬草が追加されていないことに気がついた。
 入手経路は重要機密扱いで、彼には知らされていない。
 はて、どうしたものやら。希少薬草がどこから来ているのかを知っているのは限られた一部の者だけ……彼が直接話を聞ける相手となると……
 宮廷魔導院の首席魔導士である賢者スースだ。
 在庫管理の担当者は賢者の住まう塔を登って相談をしに行く。
 問われた賢者は答えた。

「おお? 希少薬草? それならば以前から話しておったはずじゃが?」
「以前から? というと……」
「じゃからのう、あのような希少素材は、いつまでも簡単に手に入るものではないと言っておいたじゃろうが。少なくとも当面の間はあの棚に薬草が収められることはないのう」
「え? ちょいちょい、えっちょい。えええ? そんな……それはあまりに唐突ではございませんかスース様」
「何を言っとるか。今までに何度も伝えておいたはずじゃ。供給は突然止まる、今日にも明日にも止まるかもしれんとのう。どうしても必要なときには、それに応じて、自分達で採りに行くしかあるまい?」
「無茶なことをおっしゃらないでくださいませ。あんなものを採りに行くなんて誰にできるというのです?」
「ほんの十年ほど前までは、皆そうしておったはずじゃが?」
「それはもちろん……そうですが。あんなものは命と人生をかけてのことでした。今さらまたアレをやれと?」
「やるしかないのう。どうしても必要であればな」

 在庫管理担当者の男は頭を抱えていた。
 とにかく薬草を採りに行かなくてはならない。それは確かだった。
 何せ上級貴族に向けて生産されている高級増毛剤も精力剤も、どちらも次の納期限が近づいている。
 彼の頭の中は、瞬く間にそのことで一杯になる。
 はたから見れば重要な物資ではないので、問題はないようにも思えるが、彼にとっては一大事。とにかく最初の問題はそれであった。
 もちろん他にも大切なものはあるのだ。
 たとえば騎士団が高難易度の戦いに挑むときに使ういくつかの戦闘用魔法薬。
 これももちろん大事ではあるが、しかし日常的に使うものではない。今すぐに必要な状況ではない。
 効果が弱まるまでの期限が短いものもあるにはあるが、それよりも、口うるさい上級貴族達にやかましいことを言われるほうが、今の彼には恐ろしかった。

「スース様も手伝ってくださいますか?」
「ワシゃあ他にやることがある。お主が必要に思っておるのが貴族用の精力剤なんぞであるなら、そんなものは放っておくがよかろう。それよりも、これから毒沼の活性化が心配されるからのう、ワシはしばらくはそっちにかかりきりになるじゃろうな」
「え? いやいやそんなのこそ大丈夫ですよ。もう何年も前に沈静化しているじゃないですか。きっともう完全に浄化されてるんじゃないですか?」
「いいやそうではないぞ。これも今まで何度となく語ってきたことじゃが、他人の見えぬところで、あれの毒を抑えてきた者がおるのじゃ。本人の希望で表立って名は出ぬようになっておるがな。その者の日々の研究と実地での――」
「あーもういいっすよ。とにかく今それどころじゃないんで」

 男は怒ったように出て行ってしまった。
 部屋に残された賢者スースは目を細めて思った。
 やっぱりもう首席魔導士やめたくなってきたな、と。
 賢者と呼ばれても、普通の人間。正直な話、面倒くさいことばかりだ。隠居したい。
 そんなことが頭をよぎる中、スースは窓の外を眺めている。自分の仕事を続けながら。
 窓の外。彼の目の届くところに、今アルシュタットの姫ヴィヴィアが滞在している部屋がある。
 彼女の部屋は最高レベルのセキュリティを構築した場所として、賢者スースが用意した。
 賢者の塔からも目の届く位置にある。
 それゆえ、姫を外敵から守るためにも最適ではあるが、逆に、賢者スースが姫の動向を監視するのにも適した場所だった。
 姫がこの国でよからぬことを企んでいるという気配をスースは掴んでいた。だから、それが実行に移されることのないように、監視の目を絶やさなかった。
 彼は実に真面目な老人で、やや苦労人である。
 いっぽうでヴィヴィア姫という人物は、野心家ぞろいのアルシュタット王家にあって、ひときわ腹の黒い娘だった。
 野心に満ち溢れ、危険な思想を持ち、他者を平然と蹴落とし優越感に浸ることを好む。
 狙った男を篭絡ろうらくするためならあらゆる手段をためらわず、己の権勢を高めるためなら肉親だって平然と切り捨てるような娘だった。
 彼女には一人姉がいるが、ここからしてすでに仲が悪い。互いに追い落としあいながら生きてきた。
 この姉はヴィヴィアよりも一足先に、豊かで広大な領地を持つ枢機卿のところへとついでいる。
 宗教分野での身分では、法王に次ぐ立場の枢機卿。この時代では婚姻もするし、子供もなす。
 加えて、直接は世俗的な力を持たない法王に代わって、大きな力を所持している。
 そしてこの枢機卿の治める土地。これが文化、軍事力ともに、ヴィヴィアのとつぎ先であるトゥイア王国よりも格が上なのだ。
 王女ヴィヴィアは、これが強烈に気に入らない。
 彼女は固く決意していた。いずれ姉をも倒し、華やかな領地を削り取ってやると。
 そのためにも、まずは目の前の自分の結婚話だ。こちらを盤石ばんじゃくに固めないとならない。
 だからこれから邪魔になりそうな妃候補の娘を、すでに何名か蹴落としもした。
 ヴィヴィアには自身の結婚問題のほうは順調に進んでいるように思えていた。
 伯爵令嬢リーナ・シュッタロゼルも、ヴィヴィアが手をまわして候補の座から追い落とした人物の一人である。


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