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1巻
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地面からニョッキリ現れたのは大地の精霊ノームンだった。
人間によく似ていて少年のような見た目だけれど、たぶん私よりは年上だ。ちっちゃいくせに少しとんがった話し方をするのが愛らしいと私は思っている。
彼は他の精霊達に比べるとずっとよくおしゃべりをする。というよりも、うちにいる精霊達のほとんどはあまり喋らないから、彼は少し特別な存在。
『いいかい? 今はこの中庭が聖域になってるが、俺達にとって一番大事なのは場所じゃない。そこに誰がいるかってことさ。そりゃあ少しは引っ越しの手間はかかるけど、そんなのたいしたことじゃないね』
そう話すノームンの周りに風がグルリと渦を巻く。
と、その中に、今度は中性的な美人さんが現れる。風の精霊シルフ達だ。優しく微笑みながらノームンの言葉への賛同を表していた。
それから火と水と木と草花と、みんな姿を現して、慌ただしく出発の準備を始めるのだった。
私が自室から持ち出してきた仕事道具も、手分けをして運んでくれるという。
錬金術用の小型魔導炉や、薬草園の管理のための道具。着替えを少しと、携帯用の食べ物。そしてあとは小さな薬草園。
『さあ準備はできたぜ。精霊の住まう聖域、リーナの薬草園は出発準備完了だ』
「みんなありがとう。ついてきてくれて心強いよ」
『どこへでも行こう、どこでだってリーナを守ってみせよう。だけどリーナの場合……きっとモンスター蠢くダンジョンの中にすら住めてしまうんだろうけどね』
「ちょっとノームン? 私のことをなんだと思ってるの? 薬を作るくらいしかできない私に、ダンジョン暮らしなんて無理に決まっているでしょう?」
『はっは、まあ冗談だけどな。でも、どうだかね。リーナはめったに本気で戦ったりしないから分からないけど。まあいいぜ、どうせそういうのは俺がやってやるからな。血なまぐさいのは任せておけ』
ノームンは可愛らしい。少年のような姿だけれど戦うのは得意で、そこらの魔物なんかは簡単に倒してしまう頼もしい存在だ。
さて、こうして引っ越しの準備はできたけれど、ひとつだけ気がかりなことも。
モグラもどきという種族の皆さんだけはここに残るというのだ。地中に住む小さな精霊だ。
彼らの場合は、私がここに来る前から中庭にずっと棲み着いていた。
習性として、一度棲み着いた場所からはめったに離れることがない。
『しんぱいいらないよ。オイラ達は、へっちゃらだいっ。みつからないもの』
小さな小さな姿で、小鳥のさえずりのようなかすかな声。
どんと胸を張って私を見ていた。
どうあってもここに残るらしい。
せめて無事に過ごせるようにと思って、いくつかの魔法薬をモグラサイズの小瓶に詰めて贈る。
何かのためにと、このサイズの魔法薬瓶を用意しておいてよかった。
モグラもどきの皆さんはそのお返しと、旅立ちの記念にと言って「星影の欠片」という名の小さな小さな草の実を手渡してくれた。
これは今日のようなよく晴れた星空が見える夜に、地面に落ちた影から実を結ぶ薬草。
そこまで珍しい植物ではないのだけれど、一粒ずつがあまりに小さくて人間の目で探すのはほとんど不可能。モグラもどきの皆さんは、これを採取するのが大得意だ。
「ありがとう。みんなも元気で。もしも何か危険なことがあったらスース様にね」
モグラもどきの皆さんは、小さな手を振り、ピチピチとさえずり、それから地中深くに姿を隠した。
それから引っ越しの準備が全て整った私達は、シルフの風に乗って星空に飛んだ。
宮廷魔導院にある賢者の塔の最上階まで浮上して、スース様に別れの挨拶をしていくことに。
部屋の中に入ってみると、スース様はすでに宮殿での出来事をご存知のようだった。
私が外へ行くことを聞いても驚きはしない。ただ悲しげに、そして私のような者に向かって頭を下げていらした。
「すまぬ、リーナ。結局ワシはお前さんに、幸福な日々を送らせてやることはできなかった。哀れな老いぼれに、これまで付き合わせてしまったことを詫びるほかない」
「何をおっしゃるのです。スース様がいらっしゃったからこそ、私はこの場所で、人として生きてこられたのです」
「優しい子だ。元気でいておくれ、リーナ」
「はいスース様も。本当に長い間お世話になりました。それでは行ってまいります」
私は宮廷魔導院に勤めた薬士として、正式な礼の形をとろうとする。賢者様の杖を額にかざしていただくように。これで本当にお別れだ。
「ああリーナ、リーナ。そんなふうにあらたまる必要はないよ。行っておいで。またいつだって会えるのだ。いや、もしかしたらじきにワシもそっちに行くかもしれぬしの」
スース様は優しく微笑んでいらした。大げさな別れなんてするつもりはないと語られる。
いずれ私が旅立つことは、スース様には分かっていらした。
私達は、こうなる日のことを話し合ってもいたのだ。
王太子殿下と私の婚姻など上手くいくはずがないと分かっていたから。
流石に今日の日に突然婚約破棄されるとまでは想定していなかったけれど、いずれ私がこの都から離れる日のことを、私達は感じていた。
だから、別れは、とてもあっさりしたものだった。
それにスース様が言うように、この方がその気になれば私がどこにいても、いつだって訪ねてきてくれるに違いない。
私は窓から飛び立ち、小さく手を振った。
空から下を眺めてみると、中庭にあった聖域はすっかりなくなっていて、今はもうただの林と野原になっていた。
『ん? どうかしたか? リーナ』
「なんだか思い出して。昔よく魔法薬屋さんごっこしたよね。ノームンと精霊さん達がお客さん役をやってくれてさ」
『リーナがもっと小さい頃だった。あの頃はまだ、俺と同じくらいの大きさだったのに、人間は成長が速いね。あっという間だ』
山奥でひっそり薬草園をやって暮らすか、それともどこか目立たぬ町で小さな魔法薬店を営んで暮らすかできると嬉しいけれど。私は、そんな日を迎えることができるのだろうか。
賢者の塔が、遠く小さくなっていく。
〇賢者の物思い
リーナが飛び去ったあと。魔導院の塔の中。
「行ってしまったな……」
首席魔導士スースは、膝の上に載せた黒猫に向けてつぶやいた。黒猫は答える。
「はいスース様……。あの娘は、リーナは大丈夫でしょうかね」
「んん? ふぉっふぉっふぉ、それは何も問題はなかろうよ。まだ少しばかり世間知らずなところはあるがな、あの娘は賢く強い。どこでだってやっていけるじゃろう」
「そうです、よね」
「ふむ。それよりもむしろ問題なのは王国のほうじゃな。これまではリーナの力で持ちこたえていたが、いよいよ危ういか。これも定めなのじゃろうが悲しいものだ。建国の英雄である初代様から数えて四代目か。今の王室には国を継続させる力は残っておらぬのかもしれぬな」
「スース様はこれからどうなさるのです?」
「ワシにはまだやることがあるからのう。王国の最後を、末路を見届ける義務がある」
「初代様とのお約束をまだ守ると?」
「むろんじゃよ」
老賢者は塔の窓から宮殿の華やかな明かりを見つめて物思いにふけった。
〇リーナと、ヴァンザの盟主
私は王都の空を西に飛んでいた。しばらく行けばルンルン山脈と呼ばれる山岳地帯がある。
ちょっと楽しそうな浮かれた名称とは裏腹に、凶悪な魔物がひしめく危険地帯となっている。
とりあえずこのルンルン山脈のどこかに新しい住み処を構えようかと思っているのだけれど……
『リーナ。地を駆けて誰かが追いかけてくるぞ』
土の精霊ノームンが何かを見つけた様子。
「あら、まさか追手? 流石に殿下もわざわざ私ごときを暗殺したりはしないと思っていたけれど」
『いやあれは暗殺だの追手だのの雰囲気じゃあないな。リーナを呼んでいるぞ。何やら話があるから待ってくれとさ』
ノームンが指し示す地上のあたりをよく見ると、駿馬に乗った男性二人が一生懸命こちらに手を振っていた。
よく耳を傾ければ、おーい、おーいと呼んでいるのが聞こえる。
なんだろうか? 敵対の意思は見えないようだけれど。
少しだけ下へ降りて行ってみることに。
「ハハハッ、アーハッハ。いやリーナ様、まさか風を従えて飛んで行くとは。稀代の薬士だという噂は聞いていましたが、そんな術もお使いになるとは驚きです」
「ええまったく。あやうく追いつけなくなるところでしたな。フッフッフ」
妙な男性が二人。息を弾ませ、やたら愉快そうに笑いながら声をかけてきた。なるほど、これはやはり不審人物だ。
「ああこれは失礼。あまりに愉快で名乗るのを忘れておりましたな。私はヴァンザ同盟の盟主を務めております、ハイラス・ラナンディアスと申します。実は今夜、リーナ様をお誘いにまいりました。もしよろしければ我らの同盟に参加している町にお寄りになりませんかとね」
ヴァンザ同盟のハイラス様?
ヴァンザ同盟といえば……いくつかの商業都市が連携して作ったという広域組織だ。
確かもともとは商業都市をつなぐ協同組合のようなもので、非常にゆるい繋がりの小さな組織だったと聞いている。
ただし近年は躍進目覚ましく、さらにハイラスという青年が同盟の中で頭角を現し始めてからは、顕著にその勢力を拡大しているのだとか。
「ハイラス様、ですか。ご高名は伺っております。そんな方が、私に?」
「ええ、是が非でもお連れしたいのです。どうか我らの同盟都市においでください」
「そう、なのですか……同盟に参加している都市というと、この国の中では湖上の自由都市アセルスハイネになりますか?」
「これはよくご存知で。尊い身分の方々は、我らのような商人のことなど気にもとめないものですが」
確かに彼の言うとおり、貴族は商人を下賎の者と蔑んで軽んじることは多い。
だけれども、私なんて尊くもなんともないし、それにあの町は印象深い場所でよく覚えているのだ。
湖上に浮かぶアセルスハイネ。
そこは小都市ながらも国際的な貿易港として確かな発展を続け、それでいて王都のように煌びやかすぎない落ち着いた場所。もとは小さな漁村として始まった町だ。
今では西方に広がる未開領域を探索するための拠点として賑わい始めていて、ヴァンザ同盟に参加する都市群の中でも重要な位置にある。
形式上は王国に所属しているけれど自治志向の強い都市でもある。
穏やかながら人々に活気があって、様々な異国の食べ物が流通し、珍しい交易品を見ることもできる。最近では、偉大な芸術家が幾人かその地へ移り住んだとも聞く。
以前から気になってはいたけれど、私は王都以外の場所に住むことなど許されなかった。このお誘いは、願ってもない吉事だった。
「でもハイラス様。私などが伺ったら、きっとご迷惑をおかけするでしょう。王太子殿下が何を言ってくるか分かりません。やはり私は人里離れた山奥にでも隠れ住もうと……」
「リーナ様。そんな迷惑だなんてとんでもない。私のほうからこうしてお願いしているのです。来ていただきたいからお誘いしているのです。リーナ様、あらためてお願いいたします。どうか私と一緒に来てはいただけませんか?」
ハイラス様は、そう言って私の前に手を差し出した。
スラリと伸びた指はしなやかで美しい。だけれども、けっして苦労知らずの貧弱な手ではない。日々を力強く生きている者の手をしている。
自分でも不思議なほどに、私は自然に彼の手をとっていた。
「それでは参りましょう。すぐに馬車をご用意します」
彼がそう言うと、後ろに控えていたもう一人の男性がさっと手を上げる。
するとしばらくして、小高い丘の向こうから一台の馬車と、馬にまたがった騎士風の男性達が現れる。どうやらハイラス様の護衛らしい。
「初めから大人数で押しかけては警戒されてしまうかと思いまして。彼らには少し距離をとっておいてもらったのです」
白銀の鎧を纏った男達は、私の傍にまで来ると下馬して膝を地面につけた。
私はハイラス様に手をとられながら馬車の中へと向かう。まるでどこか良家のお嬢様のように。とてもこそばゆい。
手などとってもらわなくとも、階段くらい上れるのだけれど。
そんな無粋なことを思っていると、ここで、古くから私の護衛役を自認している土の精霊ノームンが姿を現した。
ノームンさん? 何をする気だろうか? と様子を見ていると。
彼は地面を凸凹に隆起させながら、石と土で練成された魔法生命体、アースゴーレムの姿になって騎士達の前に立ちふさがる。
当然ながら人間の皆さんは大慌てで、魔物の襲撃だと思って戦いの態勢を整える。
「ああ待ってくださいハイラス様。これは私の護衛を務める土の精霊なのです。戦闘の意思はありませんので」
ノームンのこの姿は、どちらかというと威嚇の姿勢。
本当に戦うときにはこんな無駄に大きくなったりはしない。ノームンはただ、初対面の人間に警戒しているだけ。
「いいか小僧ども、我らのリーナに対して良からぬことでも企めば、即刻その命はなくなるものと思え」
ノームンがアースゴーレムの口を使って発した声は、声というよりも地響き。大気がオンオンと震えていた。
「ノームンありがとう。でもきっとこの人達は大丈夫よ」
私がゴーレムにそっと手をあてると、周囲の地面はすぐに元通りに変わってゆく。
「リーナ様? 今のは……」
「すみませんお騒がせしまして。今のは土の精霊なのですが、じつは他にもたくさん……あの、やはり私など迷惑でしょう、お連れになるのは止めたほうが……」
窺うようにハイラス様を見上げた。すると、彼は喜色をあらわに首を横に振る。
「いやいや、不覚にも少々驚かされましたが。なんとも素晴らしいではありませんか。精霊を使役するなど特級の魔導士でもできないことです。私も話には聞いたことがありますが、実際には精霊を間近にハッキリと見たのも初めて。実に稀有なお力ですよ。私はそれを尊びます」
「そう、ですか? ええと、ありがとうございます。ああでも使役はしていないのです。ただいつも傍にいて友人でいてくれるというか、そんな存在です」
「友人、ですか。いやはややはり貴女には驚かされる。精霊が友人とは、そんな話は聞いたこともありません。面白い、じつに面白い。ハッハッハ」
ノームンのあの姿を見て、怒りも恐れもせずに笑って面白がるハイラス様。
彼は笑い上戸なのかも。とてもよくお笑いになる。
ノームンがこうして私の安全に神経を尖らせてくれるのは、何も過剰防衛をしようというのではない。だけどやはり普通の人はとても驚くし、怖がりもする。
精霊にも色々な種類がいるから、当然、本当に危険な者も存在する。
人間に危害を加える精霊だっている。
あるいは人間の精神に干渉して操ってしまうような精霊も。
私は精霊を引き付ける体質だ。ときには悪質な存在だって寄ってくる。
それどころかはっきりとした悪意をもった魔物の類まで呼び寄せることすらある。
これまでノームンがそういう者達を撃退してくれたことなんて数知れない。
ノームンは私にとって頼れる友人、兄妹のような存在だ。だからこそ、ハイラス様がノームンを恐れずにいてくれたことは嬉しかった。
「さあ、それでは馬車へ。精霊のご友人一同、アセルスハイネにご案内しましょう」
私はこの夜星の下で馬車に揺られ、長らく住んだ王都をあとにした。
ひと晩揺られながら眠って、再び目を覚ましたとき、私の瞳には湖上の小都市アセルスハイネの姿が映っていた。
王都の北方から流れるディセンヌール川が、巨大湖アドリエルルに交わる場所。そこに白い石壁の美しい町並みが見えてくる。
その先はもう対岸が見えぬほど巨大な湖が続いている。
町に入るための大きな跳ね橋を渡り、門をくぐり、繁華街を抜けて住宅地へと馬車は進む。
アセルスハイネは湖上の島ではあるけれど、その面積は小さくはない。どの家にも花と緑の庭が備え付けられているくらいには余裕がある。
さらに道を進んだ先で、馬車は止まった。
ハイラス様に案内されたのは、古い城塞を改装して造ったような邸宅。
その中へ進む。屋敷の中にはよく手入れされた、アンティークの調度品がセンスよく配置されていた。
この屋敷にはメイドや料理人、使用人の方々がたくさんいて、みな忙しそうに動き回っている。
彼らは私達の姿が目に入ると、わざわざ仕事の手を止め、こちらに挨拶をしてくれた。
私も貴族令嬢の端くれではあるけれど、こういう環境にはあまり慣れていないから、なんとも背中がこそばゆい。
そうそう、屋敷に施された各種の防御結界も質が高い。これならばドラゴンのブレスが空から降り注いでも耐えられる設計だ。
賢者スース様くらいの術者でなくては、これほどの結界は構築できないと思う。メンテナンスも行き届いているから、もしかすると王宮を守っている結界よりも強度は上かもしれない。
ここまで見てきた限り、この場所がとても高貴な重要人物のお屋敷だということが分かってしまう。
ハイラス様のおうちではなさそうだけれど、この町の誰か偉い人のものに違いない。
私はご挨拶するために連れてこられたのだろうが、なんだか場違いな感じがして緊張する。
私なんて長い間人目も避けて、薬草園と研究塔にばかり入り浸っている生活だったのだから。
さて、ハイラス様はこの屋敷の中を歩き回って、最後に豪華な天蓋つきベッドのある部屋まで見せてくださった。
が、そこで突然おっしゃるのだ。
「リーナ様いかがです? 何せ元が防衛のための無骨な城塞ですので、貴女のような貴い身分のご令嬢には住みやすいかどうか、いささか心配ではあるのですが」
「え? あの、いかがですかって?」
どうも話がおかしい。
「はい、ですから、リーナ様にはこちらに住んでいただこうかと考えているのですが。ああやはり、こんな場所では不十分でしょうね。もう少しお時間をいただければすぐに他の屋敷も準備できるのですが」
「ええと、私がここに住むのですか? この部屋にですか? ああいえ、不満とか不足とは真反対ですハイラス様。立派すぎます。私なんかにはもったいない場所すぎるのです」
「不足でなければよかった。屋敷内には他にも部屋がありますから、どこでも自由に使ってください。使用人はとりあえずこちらで用意いたしましたので、彼らもなんなりと使ってやってください」
困惑する私を前に、そう言って微笑むハイラス様。
この広い屋敷。私一人のためにハイラス様が用意したものらしい。いったいどうしろと?
以前は普通に防衛拠点として使っていた場所らしいけれど、今は防衛施設は別な場所に移っている。
それでこちらを何かに再利用しようと考えているところに、ちょうど私が現れてという流れだ。
昨日の夜のうちに連絡用の早鷲を飛ばして建物の改修が指示されただなんて、とても信じられない。それほどに住居として整備されている。
ハイラス様は話を続ける。
「そうそう、それから私に敬称なんてお付けになるのはお止めくださいませ。同盟での役職があるとはいえ、そもそも私は庶民の出なのですから」
そう断言されてしまう。しかし私は戸惑いを覚えずにはいられない。なんといっても彼は、実質的にはそのあたりの貴族よりもよほど大きな領地と権益を有する存在なのだから。
ヴァンザ同盟は合議制の組織ではあるけれど、今の実権はほとんどハイラスという名の青年が掌握しているというのが、専ら世間での評判だ。
「リーナ様。この屋敷なら日当たりのよい庭もありますからね、馬車の中でお話しされていた薬草園も一応は造れるかと思います。あまり広くはできないかもしれませんが」
私の戸惑いをあえて気にしないようにして、彼の話は薬草園の話題へと変わってしまう。
なんだかもう彼の名に様を付けるのは許してもらえなさそうな雰囲気。が、私はもう一度挑戦してみる。
「ハイラス、様」
「ええと、様はご容赦を……」
「どうしても、ハイラス様じゃだめでしょうか?」
「ああそれでは、せめて、様ではなく、さんでお願いできませんかリーナ様?」
「ふむむむむ。ハイラス、さん。ですか?」
「はい、それでよろしくお願いいたします、リーナ様」
彼の物腰はとても柔らかいけれど、やはり相応の立場の人。正面から視線を交わすとオーラみたいなものを強く感じさせられる。
私と彼の敬称をかけたやりとりは、なんだか微妙に熱い戦いとなったけれど、それでなんとか決着をみた。
話はそれからようやく薬草園のほうへと戻っていくのだった。
ハイラスさんはこの屋敷も庭も自由に使っていいと言う。
「本当にここに造っても?」
「ええ。狭い場所で申し訳ありませんが、どうぞ自由にお使いください」
窓から外を眺めると、さらさらと小川の流れる庭園が見える。
川の流れを目で追っていく。その始まりには泉があって、滔々と湧き水が溢れている。
ついでにその横では、ノームンが地面からヒョッコリ顔を出していた。もちろん彼の姿は私にしか見えていない。
『いい場所じゃないかリーナ。俺は気に入ったぞ。ここなら聖域を展開できる』
ノームンは土や水を手に取って、何かを確かめるように眺めている。
私の薬草園は精霊達の棲み処にもなる場所だ。もちろん、薬草だって栽培しているけれど、今となっては住人達の住み心地こそが重要視されているかもしれない。それで結果として薬草もよく育つようになるという塩梅だ。
それほど広い面積が必要なわけではない。ある程度の土地さえあれば、聖域化したエリアの中身は、物理現象を飛び越えて拡張できるから。
人間によく似ていて少年のような見た目だけれど、たぶん私よりは年上だ。ちっちゃいくせに少しとんがった話し方をするのが愛らしいと私は思っている。
彼は他の精霊達に比べるとずっとよくおしゃべりをする。というよりも、うちにいる精霊達のほとんどはあまり喋らないから、彼は少し特別な存在。
『いいかい? 今はこの中庭が聖域になってるが、俺達にとって一番大事なのは場所じゃない。そこに誰がいるかってことさ。そりゃあ少しは引っ越しの手間はかかるけど、そんなのたいしたことじゃないね』
そう話すノームンの周りに風がグルリと渦を巻く。
と、その中に、今度は中性的な美人さんが現れる。風の精霊シルフ達だ。優しく微笑みながらノームンの言葉への賛同を表していた。
それから火と水と木と草花と、みんな姿を現して、慌ただしく出発の準備を始めるのだった。
私が自室から持ち出してきた仕事道具も、手分けをして運んでくれるという。
錬金術用の小型魔導炉や、薬草園の管理のための道具。着替えを少しと、携帯用の食べ物。そしてあとは小さな薬草園。
『さあ準備はできたぜ。精霊の住まう聖域、リーナの薬草園は出発準備完了だ』
「みんなありがとう。ついてきてくれて心強いよ」
『どこへでも行こう、どこでだってリーナを守ってみせよう。だけどリーナの場合……きっとモンスター蠢くダンジョンの中にすら住めてしまうんだろうけどね』
「ちょっとノームン? 私のことをなんだと思ってるの? 薬を作るくらいしかできない私に、ダンジョン暮らしなんて無理に決まっているでしょう?」
『はっは、まあ冗談だけどな。でも、どうだかね。リーナはめったに本気で戦ったりしないから分からないけど。まあいいぜ、どうせそういうのは俺がやってやるからな。血なまぐさいのは任せておけ』
ノームンは可愛らしい。少年のような姿だけれど戦うのは得意で、そこらの魔物なんかは簡単に倒してしまう頼もしい存在だ。
さて、こうして引っ越しの準備はできたけれど、ひとつだけ気がかりなことも。
モグラもどきという種族の皆さんだけはここに残るというのだ。地中に住む小さな精霊だ。
彼らの場合は、私がここに来る前から中庭にずっと棲み着いていた。
習性として、一度棲み着いた場所からはめったに離れることがない。
『しんぱいいらないよ。オイラ達は、へっちゃらだいっ。みつからないもの』
小さな小さな姿で、小鳥のさえずりのようなかすかな声。
どんと胸を張って私を見ていた。
どうあってもここに残るらしい。
せめて無事に過ごせるようにと思って、いくつかの魔法薬をモグラサイズの小瓶に詰めて贈る。
何かのためにと、このサイズの魔法薬瓶を用意しておいてよかった。
モグラもどきの皆さんはそのお返しと、旅立ちの記念にと言って「星影の欠片」という名の小さな小さな草の実を手渡してくれた。
これは今日のようなよく晴れた星空が見える夜に、地面に落ちた影から実を結ぶ薬草。
そこまで珍しい植物ではないのだけれど、一粒ずつがあまりに小さくて人間の目で探すのはほとんど不可能。モグラもどきの皆さんは、これを採取するのが大得意だ。
「ありがとう。みんなも元気で。もしも何か危険なことがあったらスース様にね」
モグラもどきの皆さんは、小さな手を振り、ピチピチとさえずり、それから地中深くに姿を隠した。
それから引っ越しの準備が全て整った私達は、シルフの風に乗って星空に飛んだ。
宮廷魔導院にある賢者の塔の最上階まで浮上して、スース様に別れの挨拶をしていくことに。
部屋の中に入ってみると、スース様はすでに宮殿での出来事をご存知のようだった。
私が外へ行くことを聞いても驚きはしない。ただ悲しげに、そして私のような者に向かって頭を下げていらした。
「すまぬ、リーナ。結局ワシはお前さんに、幸福な日々を送らせてやることはできなかった。哀れな老いぼれに、これまで付き合わせてしまったことを詫びるほかない」
「何をおっしゃるのです。スース様がいらっしゃったからこそ、私はこの場所で、人として生きてこられたのです」
「優しい子だ。元気でいておくれ、リーナ」
「はいスース様も。本当に長い間お世話になりました。それでは行ってまいります」
私は宮廷魔導院に勤めた薬士として、正式な礼の形をとろうとする。賢者様の杖を額にかざしていただくように。これで本当にお別れだ。
「ああリーナ、リーナ。そんなふうにあらたまる必要はないよ。行っておいで。またいつだって会えるのだ。いや、もしかしたらじきにワシもそっちに行くかもしれぬしの」
スース様は優しく微笑んでいらした。大げさな別れなんてするつもりはないと語られる。
いずれ私が旅立つことは、スース様には分かっていらした。
私達は、こうなる日のことを話し合ってもいたのだ。
王太子殿下と私の婚姻など上手くいくはずがないと分かっていたから。
流石に今日の日に突然婚約破棄されるとまでは想定していなかったけれど、いずれ私がこの都から離れる日のことを、私達は感じていた。
だから、別れは、とてもあっさりしたものだった。
それにスース様が言うように、この方がその気になれば私がどこにいても、いつだって訪ねてきてくれるに違いない。
私は窓から飛び立ち、小さく手を振った。
空から下を眺めてみると、中庭にあった聖域はすっかりなくなっていて、今はもうただの林と野原になっていた。
『ん? どうかしたか? リーナ』
「なんだか思い出して。昔よく魔法薬屋さんごっこしたよね。ノームンと精霊さん達がお客さん役をやってくれてさ」
『リーナがもっと小さい頃だった。あの頃はまだ、俺と同じくらいの大きさだったのに、人間は成長が速いね。あっという間だ』
山奥でひっそり薬草園をやって暮らすか、それともどこか目立たぬ町で小さな魔法薬店を営んで暮らすかできると嬉しいけれど。私は、そんな日を迎えることができるのだろうか。
賢者の塔が、遠く小さくなっていく。
〇賢者の物思い
リーナが飛び去ったあと。魔導院の塔の中。
「行ってしまったな……」
首席魔導士スースは、膝の上に載せた黒猫に向けてつぶやいた。黒猫は答える。
「はいスース様……。あの娘は、リーナは大丈夫でしょうかね」
「んん? ふぉっふぉっふぉ、それは何も問題はなかろうよ。まだ少しばかり世間知らずなところはあるがな、あの娘は賢く強い。どこでだってやっていけるじゃろう」
「そうです、よね」
「ふむ。それよりもむしろ問題なのは王国のほうじゃな。これまではリーナの力で持ちこたえていたが、いよいよ危ういか。これも定めなのじゃろうが悲しいものだ。建国の英雄である初代様から数えて四代目か。今の王室には国を継続させる力は残っておらぬのかもしれぬな」
「スース様はこれからどうなさるのです?」
「ワシにはまだやることがあるからのう。王国の最後を、末路を見届ける義務がある」
「初代様とのお約束をまだ守ると?」
「むろんじゃよ」
老賢者は塔の窓から宮殿の華やかな明かりを見つめて物思いにふけった。
〇リーナと、ヴァンザの盟主
私は王都の空を西に飛んでいた。しばらく行けばルンルン山脈と呼ばれる山岳地帯がある。
ちょっと楽しそうな浮かれた名称とは裏腹に、凶悪な魔物がひしめく危険地帯となっている。
とりあえずこのルンルン山脈のどこかに新しい住み処を構えようかと思っているのだけれど……
『リーナ。地を駆けて誰かが追いかけてくるぞ』
土の精霊ノームンが何かを見つけた様子。
「あら、まさか追手? 流石に殿下もわざわざ私ごときを暗殺したりはしないと思っていたけれど」
『いやあれは暗殺だの追手だのの雰囲気じゃあないな。リーナを呼んでいるぞ。何やら話があるから待ってくれとさ』
ノームンが指し示す地上のあたりをよく見ると、駿馬に乗った男性二人が一生懸命こちらに手を振っていた。
よく耳を傾ければ、おーい、おーいと呼んでいるのが聞こえる。
なんだろうか? 敵対の意思は見えないようだけれど。
少しだけ下へ降りて行ってみることに。
「ハハハッ、アーハッハ。いやリーナ様、まさか風を従えて飛んで行くとは。稀代の薬士だという噂は聞いていましたが、そんな術もお使いになるとは驚きです」
「ええまったく。あやうく追いつけなくなるところでしたな。フッフッフ」
妙な男性が二人。息を弾ませ、やたら愉快そうに笑いながら声をかけてきた。なるほど、これはやはり不審人物だ。
「ああこれは失礼。あまりに愉快で名乗るのを忘れておりましたな。私はヴァンザ同盟の盟主を務めております、ハイラス・ラナンディアスと申します。実は今夜、リーナ様をお誘いにまいりました。もしよろしければ我らの同盟に参加している町にお寄りになりませんかとね」
ヴァンザ同盟のハイラス様?
ヴァンザ同盟といえば……いくつかの商業都市が連携して作ったという広域組織だ。
確かもともとは商業都市をつなぐ協同組合のようなもので、非常にゆるい繋がりの小さな組織だったと聞いている。
ただし近年は躍進目覚ましく、さらにハイラスという青年が同盟の中で頭角を現し始めてからは、顕著にその勢力を拡大しているのだとか。
「ハイラス様、ですか。ご高名は伺っております。そんな方が、私に?」
「ええ、是が非でもお連れしたいのです。どうか我らの同盟都市においでください」
「そう、なのですか……同盟に参加している都市というと、この国の中では湖上の自由都市アセルスハイネになりますか?」
「これはよくご存知で。尊い身分の方々は、我らのような商人のことなど気にもとめないものですが」
確かに彼の言うとおり、貴族は商人を下賎の者と蔑んで軽んじることは多い。
だけれども、私なんて尊くもなんともないし、それにあの町は印象深い場所でよく覚えているのだ。
湖上に浮かぶアセルスハイネ。
そこは小都市ながらも国際的な貿易港として確かな発展を続け、それでいて王都のように煌びやかすぎない落ち着いた場所。もとは小さな漁村として始まった町だ。
今では西方に広がる未開領域を探索するための拠点として賑わい始めていて、ヴァンザ同盟に参加する都市群の中でも重要な位置にある。
形式上は王国に所属しているけれど自治志向の強い都市でもある。
穏やかながら人々に活気があって、様々な異国の食べ物が流通し、珍しい交易品を見ることもできる。最近では、偉大な芸術家が幾人かその地へ移り住んだとも聞く。
以前から気になってはいたけれど、私は王都以外の場所に住むことなど許されなかった。このお誘いは、願ってもない吉事だった。
「でもハイラス様。私などが伺ったら、きっとご迷惑をおかけするでしょう。王太子殿下が何を言ってくるか分かりません。やはり私は人里離れた山奥にでも隠れ住もうと……」
「リーナ様。そんな迷惑だなんてとんでもない。私のほうからこうしてお願いしているのです。来ていただきたいからお誘いしているのです。リーナ様、あらためてお願いいたします。どうか私と一緒に来てはいただけませんか?」
ハイラス様は、そう言って私の前に手を差し出した。
スラリと伸びた指はしなやかで美しい。だけれども、けっして苦労知らずの貧弱な手ではない。日々を力強く生きている者の手をしている。
自分でも不思議なほどに、私は自然に彼の手をとっていた。
「それでは参りましょう。すぐに馬車をご用意します」
彼がそう言うと、後ろに控えていたもう一人の男性がさっと手を上げる。
するとしばらくして、小高い丘の向こうから一台の馬車と、馬にまたがった騎士風の男性達が現れる。どうやらハイラス様の護衛らしい。
「初めから大人数で押しかけては警戒されてしまうかと思いまして。彼らには少し距離をとっておいてもらったのです」
白銀の鎧を纏った男達は、私の傍にまで来ると下馬して膝を地面につけた。
私はハイラス様に手をとられながら馬車の中へと向かう。まるでどこか良家のお嬢様のように。とてもこそばゆい。
手などとってもらわなくとも、階段くらい上れるのだけれど。
そんな無粋なことを思っていると、ここで、古くから私の護衛役を自認している土の精霊ノームンが姿を現した。
ノームンさん? 何をする気だろうか? と様子を見ていると。
彼は地面を凸凹に隆起させながら、石と土で練成された魔法生命体、アースゴーレムの姿になって騎士達の前に立ちふさがる。
当然ながら人間の皆さんは大慌てで、魔物の襲撃だと思って戦いの態勢を整える。
「ああ待ってくださいハイラス様。これは私の護衛を務める土の精霊なのです。戦闘の意思はありませんので」
ノームンのこの姿は、どちらかというと威嚇の姿勢。
本当に戦うときにはこんな無駄に大きくなったりはしない。ノームンはただ、初対面の人間に警戒しているだけ。
「いいか小僧ども、我らのリーナに対して良からぬことでも企めば、即刻その命はなくなるものと思え」
ノームンがアースゴーレムの口を使って発した声は、声というよりも地響き。大気がオンオンと震えていた。
「ノームンありがとう。でもきっとこの人達は大丈夫よ」
私がゴーレムにそっと手をあてると、周囲の地面はすぐに元通りに変わってゆく。
「リーナ様? 今のは……」
「すみませんお騒がせしまして。今のは土の精霊なのですが、じつは他にもたくさん……あの、やはり私など迷惑でしょう、お連れになるのは止めたほうが……」
窺うようにハイラス様を見上げた。すると、彼は喜色をあらわに首を横に振る。
「いやいや、不覚にも少々驚かされましたが。なんとも素晴らしいではありませんか。精霊を使役するなど特級の魔導士でもできないことです。私も話には聞いたことがありますが、実際には精霊を間近にハッキリと見たのも初めて。実に稀有なお力ですよ。私はそれを尊びます」
「そう、ですか? ええと、ありがとうございます。ああでも使役はしていないのです。ただいつも傍にいて友人でいてくれるというか、そんな存在です」
「友人、ですか。いやはややはり貴女には驚かされる。精霊が友人とは、そんな話は聞いたこともありません。面白い、じつに面白い。ハッハッハ」
ノームンのあの姿を見て、怒りも恐れもせずに笑って面白がるハイラス様。
彼は笑い上戸なのかも。とてもよくお笑いになる。
ノームンがこうして私の安全に神経を尖らせてくれるのは、何も過剰防衛をしようというのではない。だけどやはり普通の人はとても驚くし、怖がりもする。
精霊にも色々な種類がいるから、当然、本当に危険な者も存在する。
人間に危害を加える精霊だっている。
あるいは人間の精神に干渉して操ってしまうような精霊も。
私は精霊を引き付ける体質だ。ときには悪質な存在だって寄ってくる。
それどころかはっきりとした悪意をもった魔物の類まで呼び寄せることすらある。
これまでノームンがそういう者達を撃退してくれたことなんて数知れない。
ノームンは私にとって頼れる友人、兄妹のような存在だ。だからこそ、ハイラス様がノームンを恐れずにいてくれたことは嬉しかった。
「さあ、それでは馬車へ。精霊のご友人一同、アセルスハイネにご案内しましょう」
私はこの夜星の下で馬車に揺られ、長らく住んだ王都をあとにした。
ひと晩揺られながら眠って、再び目を覚ましたとき、私の瞳には湖上の小都市アセルスハイネの姿が映っていた。
王都の北方から流れるディセンヌール川が、巨大湖アドリエルルに交わる場所。そこに白い石壁の美しい町並みが見えてくる。
その先はもう対岸が見えぬほど巨大な湖が続いている。
町に入るための大きな跳ね橋を渡り、門をくぐり、繁華街を抜けて住宅地へと馬車は進む。
アセルスハイネは湖上の島ではあるけれど、その面積は小さくはない。どの家にも花と緑の庭が備え付けられているくらいには余裕がある。
さらに道を進んだ先で、馬車は止まった。
ハイラス様に案内されたのは、古い城塞を改装して造ったような邸宅。
その中へ進む。屋敷の中にはよく手入れされた、アンティークの調度品がセンスよく配置されていた。
この屋敷にはメイドや料理人、使用人の方々がたくさんいて、みな忙しそうに動き回っている。
彼らは私達の姿が目に入ると、わざわざ仕事の手を止め、こちらに挨拶をしてくれた。
私も貴族令嬢の端くれではあるけれど、こういう環境にはあまり慣れていないから、なんとも背中がこそばゆい。
そうそう、屋敷に施された各種の防御結界も質が高い。これならばドラゴンのブレスが空から降り注いでも耐えられる設計だ。
賢者スース様くらいの術者でなくては、これほどの結界は構築できないと思う。メンテナンスも行き届いているから、もしかすると王宮を守っている結界よりも強度は上かもしれない。
ここまで見てきた限り、この場所がとても高貴な重要人物のお屋敷だということが分かってしまう。
ハイラス様のおうちではなさそうだけれど、この町の誰か偉い人のものに違いない。
私はご挨拶するために連れてこられたのだろうが、なんだか場違いな感じがして緊張する。
私なんて長い間人目も避けて、薬草園と研究塔にばかり入り浸っている生活だったのだから。
さて、ハイラス様はこの屋敷の中を歩き回って、最後に豪華な天蓋つきベッドのある部屋まで見せてくださった。
が、そこで突然おっしゃるのだ。
「リーナ様いかがです? 何せ元が防衛のための無骨な城塞ですので、貴女のような貴い身分のご令嬢には住みやすいかどうか、いささか心配ではあるのですが」
「え? あの、いかがですかって?」
どうも話がおかしい。
「はい、ですから、リーナ様にはこちらに住んでいただこうかと考えているのですが。ああやはり、こんな場所では不十分でしょうね。もう少しお時間をいただければすぐに他の屋敷も準備できるのですが」
「ええと、私がここに住むのですか? この部屋にですか? ああいえ、不満とか不足とは真反対ですハイラス様。立派すぎます。私なんかにはもったいない場所すぎるのです」
「不足でなければよかった。屋敷内には他にも部屋がありますから、どこでも自由に使ってください。使用人はとりあえずこちらで用意いたしましたので、彼らもなんなりと使ってやってください」
困惑する私を前に、そう言って微笑むハイラス様。
この広い屋敷。私一人のためにハイラス様が用意したものらしい。いったいどうしろと?
以前は普通に防衛拠点として使っていた場所らしいけれど、今は防衛施設は別な場所に移っている。
それでこちらを何かに再利用しようと考えているところに、ちょうど私が現れてという流れだ。
昨日の夜のうちに連絡用の早鷲を飛ばして建物の改修が指示されただなんて、とても信じられない。それほどに住居として整備されている。
ハイラス様は話を続ける。
「そうそう、それから私に敬称なんてお付けになるのはお止めくださいませ。同盟での役職があるとはいえ、そもそも私は庶民の出なのですから」
そう断言されてしまう。しかし私は戸惑いを覚えずにはいられない。なんといっても彼は、実質的にはそのあたりの貴族よりもよほど大きな領地と権益を有する存在なのだから。
ヴァンザ同盟は合議制の組織ではあるけれど、今の実権はほとんどハイラスという名の青年が掌握しているというのが、専ら世間での評判だ。
「リーナ様。この屋敷なら日当たりのよい庭もありますからね、馬車の中でお話しされていた薬草園も一応は造れるかと思います。あまり広くはできないかもしれませんが」
私の戸惑いをあえて気にしないようにして、彼の話は薬草園の話題へと変わってしまう。
なんだかもう彼の名に様を付けるのは許してもらえなさそうな雰囲気。が、私はもう一度挑戦してみる。
「ハイラス、様」
「ええと、様はご容赦を……」
「どうしても、ハイラス様じゃだめでしょうか?」
「ああそれでは、せめて、様ではなく、さんでお願いできませんかリーナ様?」
「ふむむむむ。ハイラス、さん。ですか?」
「はい、それでよろしくお願いいたします、リーナ様」
彼の物腰はとても柔らかいけれど、やはり相応の立場の人。正面から視線を交わすとオーラみたいなものを強く感じさせられる。
私と彼の敬称をかけたやりとりは、なんだか微妙に熱い戦いとなったけれど、それでなんとか決着をみた。
話はそれからようやく薬草園のほうへと戻っていくのだった。
ハイラスさんはこの屋敷も庭も自由に使っていいと言う。
「本当にここに造っても?」
「ええ。狭い場所で申し訳ありませんが、どうぞ自由にお使いください」
窓から外を眺めると、さらさらと小川の流れる庭園が見える。
川の流れを目で追っていく。その始まりには泉があって、滔々と湧き水が溢れている。
ついでにその横では、ノームンが地面からヒョッコリ顔を出していた。もちろん彼の姿は私にしか見えていない。
『いい場所じゃないかリーナ。俺は気に入ったぞ。ここなら聖域を展開できる』
ノームンは土や水を手に取って、何かを確かめるように眺めている。
私の薬草園は精霊達の棲み処にもなる場所だ。もちろん、薬草だって栽培しているけれど、今となっては住人達の住み心地こそが重要視されているかもしれない。それで結果として薬草もよく育つようになるという塩梅だ。
それほど広い面積が必要なわけではない。ある程度の土地さえあれば、聖域化したエリアの中身は、物理現象を飛び越えて拡張できるから。
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