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第2話:新たな一歩と心の動揺
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翌朝、フローレンスはできる限り平静を装いながら朝食の席へ向かった。
伯爵家の食卓はいつも静かだが、その日はさらに重苦しい空気が漂っている。
彼女の父であるディルフィア伯爵は、新聞を開きながら沈黙を保ち、母はその向かいで険しい表情を隠そうともしていない。
フローレンスが席に着くと、母が半ば憤るように声を上げる。
「フローレンス、ディアス様とのこと、あれは本当なの? 伯爵家として、婚約破棄など前代未聞よ。それも娘が病弱だからと…。そんな失礼な話があってたまるものですか」
その声音に、フローレンスは戸惑いながらも素直に返事をする。
「ええ、間違いありません。ですが私…何も言い返せませんでした。なぜなら、昨日の使者はディアス様の秘書で、本当に書状もありましたから」
すると、父が手元の新聞を閉じて目を細めた。
「ディルフィア伯爵家としちゃ由々しき事態だ。何があったにせよ、利用されただけだという話なら許せん。政治的に埋め合わせを求めねばならんかもしれんが、フローレンス、まずはおまえの身体が一番大事だ。変に無理だけはするな」
家族からのそんな言葉は、正直、フローレンスにとって少し意外だった。
なぜなら幼少期から病弱な彼女に期待をかけない一方、誰もが表立って守るほどの関心も寄せてこなかったからだ。
しかし、今回のことを目の当たりにして、伯爵家としての誇りが傷ついたのだろう。
親子としての感情が完全に薄れていたわけではなかったのかもしれない。
「ありがとう、お父様。お母様。私…自分のことを、もう少し見つめ直してみます」
そう答えると、母はわずかに安堵したように笑みを浮かべ、父は再び新聞を手に取った。
朝食を終え、自室へ戻ろうとしたとき、メイドのローザが駆け寄ってくる。
「お嬢様! 先ほど、隣国の貴公子アシュレイ様からお手紙が届きましたよ。屋敷の門番が大変恐縮なさって…」
「アシュレイ様から?」
まさかと思いつつ手渡された封筒には、英語ともフローレンスには馴染みの薄い異国の言語が混じった封蝋が押されている。
それを恐る恐る開けると、丁寧で流れるような字で、近いうちに再び会いたいと記されていた。
手紙の最後には、飾り気のない短い一文が添えられている。
「――君の笑顔に再び会えることを願っている。アシュレイより」
思わず胸が熱くなり、フローレンスはその手紙をそっと抱きしめる。
婚約破棄から一夜明けてまだ傷が生々しい彼女にとって、この言葉は救いの光でしかなかった。
そんなフローレンスが午前のうちに片付けようと手を付けていたのは、父から頼まれていた書簡の整理だった。
長年続く実家の伯爵家では山のように書類が溜まっており、貴族同士の連絡や公的な手紙まで散乱している。
彼女は体調に合わせて少しずつ整理を進め、要点をまとめる能力に長けていた。
「これが終わったら、アシュレイ様とお会いできる日を考えよう。そうしないと、いつまでも落ち込んでしまいそうだわ」
自分の気持ちを奮い立たせるように、小さくつぶやいたとき、ドアの向こうから声が聞こえる。
「フローレンスお嬢様、失礼いたします。よろしいでしょうか」
父の秘書であるマルコが顔を出し、彼が小さくため息をつきながら部屋に入ってくる。
「どうぞ。何かあったの?」
「じつは、先ほどディアス様の側近から連絡が届きました。『伯爵家への政治的圧力』を多少示唆するような文言が書かれており、示談のような形で穏便に済ませたいなら協議しましょう、と」
その言葉にフローレンスは驚きと怒りを感じた。
「自分から婚約破棄を申し出ておきながら…どういうつもりなの? 伯爵家の名誉に傷がついたまま、何もしないでいてほしいということ?」
「おそらく、そう解釈しても差し支えありません。あちらの侯爵家も評判を落としたくないようですし、何よりディアス様が事を荒立てたくないようで。伯爵家から訴えがあれば、彼らとしても困るでしょうから」
フローレンスの胸に再び、あの怒りが燃え上がる。
しかし同時に、伯爵家に被害が出ることだけは避けたいという思いもある。
このままではディアスに対する恨みだけが募り、結果的に家が傷ついてしまうかもしれない。
「そうね…。ただ、いま協議に応じると、私が何もかも許してしまうようで嫌だわ。いずれにせよ、すぐに結論は出さないように伝えてちょうだい」
「承知いたしました。お嬢様のお気持ちは、伯爵にもお伝えします」
マルコが再び丁寧に一礼して退室していく。
ひとりになったフローレンスは、机に広げた書類を見つめながら拳を握りしめた。
「こんな形で黙ってしまうなんて、できない。私の心を踏みにじったのに、それを知らぬふりをするなんて許せるはずがないわ」
自分の気持ちに整理はつかない。
けれど、黙っているだけでは進展しないともわかっている。
そこにまた、アシュレイの言葉が脳裏に蘇る。
『誰かを傷つけるのではなく、誰かを助けたい』
アシュレイはまるで自分のすべてを肯定してくれそうな響きがあった。
でも、その甘い囁きだけに頼る自分でいいのだろうか。
復讐という言葉がぴったりの深い怒りは、フローレンスの胸をさらに刺激してくる。
「私はきっと、もっと強くならなくちゃいけないのね。新しい自分を手に入れる…そのための一歩を踏み出さなくちゃ」
穏やかとは言い難い想いを胸に、フローレンスはアシュレイに返事を書くことにした。
伯爵令嬢としての礼儀もあるが、彼に今の心境を少しでも伝えたい。
ペンを手に取り、彼女は柔らかな筆跡で手紙を書き始める。
時折、小さく笑みがこぼれる。
それは彼女が、これまで知らなかった感情――“自分は一人じゃない”と思えた安心感の証拠なのかもしれない。
静かな部屋の中で、用紙に綴られる文字は明るい明日へ向けた、小さな決意のしるしだった。
伯爵家の食卓はいつも静かだが、その日はさらに重苦しい空気が漂っている。
彼女の父であるディルフィア伯爵は、新聞を開きながら沈黙を保ち、母はその向かいで険しい表情を隠そうともしていない。
フローレンスが席に着くと、母が半ば憤るように声を上げる。
「フローレンス、ディアス様とのこと、あれは本当なの? 伯爵家として、婚約破棄など前代未聞よ。それも娘が病弱だからと…。そんな失礼な話があってたまるものですか」
その声音に、フローレンスは戸惑いながらも素直に返事をする。
「ええ、間違いありません。ですが私…何も言い返せませんでした。なぜなら、昨日の使者はディアス様の秘書で、本当に書状もありましたから」
すると、父が手元の新聞を閉じて目を細めた。
「ディルフィア伯爵家としちゃ由々しき事態だ。何があったにせよ、利用されただけだという話なら許せん。政治的に埋め合わせを求めねばならんかもしれんが、フローレンス、まずはおまえの身体が一番大事だ。変に無理だけはするな」
家族からのそんな言葉は、正直、フローレンスにとって少し意外だった。
なぜなら幼少期から病弱な彼女に期待をかけない一方、誰もが表立って守るほどの関心も寄せてこなかったからだ。
しかし、今回のことを目の当たりにして、伯爵家としての誇りが傷ついたのだろう。
親子としての感情が完全に薄れていたわけではなかったのかもしれない。
「ありがとう、お父様。お母様。私…自分のことを、もう少し見つめ直してみます」
そう答えると、母はわずかに安堵したように笑みを浮かべ、父は再び新聞を手に取った。
朝食を終え、自室へ戻ろうとしたとき、メイドのローザが駆け寄ってくる。
「お嬢様! 先ほど、隣国の貴公子アシュレイ様からお手紙が届きましたよ。屋敷の門番が大変恐縮なさって…」
「アシュレイ様から?」
まさかと思いつつ手渡された封筒には、英語ともフローレンスには馴染みの薄い異国の言語が混じった封蝋が押されている。
それを恐る恐る開けると、丁寧で流れるような字で、近いうちに再び会いたいと記されていた。
手紙の最後には、飾り気のない短い一文が添えられている。
「――君の笑顔に再び会えることを願っている。アシュレイより」
思わず胸が熱くなり、フローレンスはその手紙をそっと抱きしめる。
婚約破棄から一夜明けてまだ傷が生々しい彼女にとって、この言葉は救いの光でしかなかった。
そんなフローレンスが午前のうちに片付けようと手を付けていたのは、父から頼まれていた書簡の整理だった。
長年続く実家の伯爵家では山のように書類が溜まっており、貴族同士の連絡や公的な手紙まで散乱している。
彼女は体調に合わせて少しずつ整理を進め、要点をまとめる能力に長けていた。
「これが終わったら、アシュレイ様とお会いできる日を考えよう。そうしないと、いつまでも落ち込んでしまいそうだわ」
自分の気持ちを奮い立たせるように、小さくつぶやいたとき、ドアの向こうから声が聞こえる。
「フローレンスお嬢様、失礼いたします。よろしいでしょうか」
父の秘書であるマルコが顔を出し、彼が小さくため息をつきながら部屋に入ってくる。
「どうぞ。何かあったの?」
「じつは、先ほどディアス様の側近から連絡が届きました。『伯爵家への政治的圧力』を多少示唆するような文言が書かれており、示談のような形で穏便に済ませたいなら協議しましょう、と」
その言葉にフローレンスは驚きと怒りを感じた。
「自分から婚約破棄を申し出ておきながら…どういうつもりなの? 伯爵家の名誉に傷がついたまま、何もしないでいてほしいということ?」
「おそらく、そう解釈しても差し支えありません。あちらの侯爵家も評判を落としたくないようですし、何よりディアス様が事を荒立てたくないようで。伯爵家から訴えがあれば、彼らとしても困るでしょうから」
フローレンスの胸に再び、あの怒りが燃え上がる。
しかし同時に、伯爵家に被害が出ることだけは避けたいという思いもある。
このままではディアスに対する恨みだけが募り、結果的に家が傷ついてしまうかもしれない。
「そうね…。ただ、いま協議に応じると、私が何もかも許してしまうようで嫌だわ。いずれにせよ、すぐに結論は出さないように伝えてちょうだい」
「承知いたしました。お嬢様のお気持ちは、伯爵にもお伝えします」
マルコが再び丁寧に一礼して退室していく。
ひとりになったフローレンスは、机に広げた書類を見つめながら拳を握りしめた。
「こんな形で黙ってしまうなんて、できない。私の心を踏みにじったのに、それを知らぬふりをするなんて許せるはずがないわ」
自分の気持ちに整理はつかない。
けれど、黙っているだけでは進展しないともわかっている。
そこにまた、アシュレイの言葉が脳裏に蘇る。
『誰かを傷つけるのではなく、誰かを助けたい』
アシュレイはまるで自分のすべてを肯定してくれそうな響きがあった。
でも、その甘い囁きだけに頼る自分でいいのだろうか。
復讐という言葉がぴったりの深い怒りは、フローレンスの胸をさらに刺激してくる。
「私はきっと、もっと強くならなくちゃいけないのね。新しい自分を手に入れる…そのための一歩を踏み出さなくちゃ」
穏やかとは言い難い想いを胸に、フローレンスはアシュレイに返事を書くことにした。
伯爵令嬢としての礼儀もあるが、彼に今の心境を少しでも伝えたい。
ペンを手に取り、彼女は柔らかな筆跡で手紙を書き始める。
時折、小さく笑みがこぼれる。
それは彼女が、これまで知らなかった感情――“自分は一人じゃない”と思えた安心感の証拠なのかもしれない。
静かな部屋の中で、用紙に綴られる文字は明るい明日へ向けた、小さな決意のしるしだった。
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