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第01話:宮廷に咲く薔薇と偽りの微笑

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 王都の中心にそびえる白亜の王宮は、朝の陽光を浴びて輝くように清らかであった。
 その広大な庭園に咲き誇る無数の花々は、いずれも巧緻な手入れが施され、宮廷の美意識をそのまま映し出したかのように整然としている。
 だが、幾重にも連なる回廊と絹を張った広間を進むたび、目に映る光景は美しさよりも冷たさを帯びていく。
 その静謐とした空気の中、侯爵令嬢フィオレンティーナは、両腕を胸元で組み、背筋を張った姿勢で歩を進めていた。

 彼女は薄紅色の長い髪を、清楚に編み込み、白百合の飾りを添えている。
 肌は透き通るように白く、そして青い瞳は、まるで夜明け前の空気をはらんだ静かな湖面のよう。
 王太子妃候補として幼少より厳しく仕込まれ、常に品位を求められてきた少女は、今日も完璧な笑みを貼り付け、誰よりも優雅に、しかし感情を昂ぶらせぬよう心掛けていた。

 大理石の床を踏みしめる足音が、やがて控え室へと続く扉の前で止まる。
 そこで彼女を待ち構えていたのは、王妃教育を任される侍女長グレイシアと、数名の女官たちであった。
 彼女たちはフィオレンティーナを一瞥し、その完成された佇まいに満足げに頷く。

 
「よく来られましたわ、フィオレンティーナ様。
 王太子殿下は本日、学問院より戻られる予定です。
 その際、あなたは正妃候補として胸を張り、礼を尽くし、殿下のご機嫌を伺うこと。
 わかっておりますわね?」

 
「もちろんですわ、グレイシア様。
 わたくしは王太子妃となるべく育てられた身。
 殿下の仰せとあらば、微笑みをもってお応えいたします」

 そう答えるフィオレンティーナの声は、決まりきった文言を紡ぐ鐘の音のように、淀みなく響く。
 女官たちはその返答を聞き、満足そうに目を細める。

 
「良い態度ですわ。
 殿下は学問院での研究が忙しく、ここしばらくお会いしていないかもしれませんが、本日は特別な日。
 殿下は大変な成果を上げられたとか。
 あなたには、その喜びを共に分かち合う資格がございます。
 どうか、素晴らしい笑顔でお迎えくださいませ」

 
「はい。
 殿下が望むならば、わたくしは花瓶の中の一輪の薔薇のように、ただ静かに咲いて参りましょう」

 そう言うフィオレンティーナの表情には一点の陰りもない。
 しかし、その胸の奥底には、今までずっと押し殺してきた微かな不安がくすぶっている。
 王太子アーサーは、彼女にとって義務の象徴であり、また将来を託す存在。
 けれど、その姿を近頃はほとんど見かけていない。
 学問院での生活を優先し、公務も減らし、そして手紙も減る一方。
 彼がどこで何をしているのか、噂は広がれども定かではない。



 控え室の扉が開かれると、そこには高い天井と金の装飾が施された応接間が広がっていた。
 分厚い絨毯を踏みしめ、フィオレンティーナはしとやかに腰掛ける。
 視線は窓外の庭園へ向けられ、その薔薇色の髪は柔らかな光を帯びていた。

 
「殿下は、どのようなお方かしら。
 幼い頃にお会いしたときは、確かにわたくしに微笑んでくださったのに」

 
「おや、フィオレンティーナ様。
 殿下は昔からご多忙です。
 将来国を背負うお方、そうそうあなたに構っていられませんわ。
 でも今日はいずれ正妃となるあなたを前に、きっと特別な言葉をかけてくださることでしょう」

 そう言う女官の笑みは、どこか嘲るような響きを帯びているようにも感じられる。
 フィオレンティーナは微かな違和感を覚えるが、その違和感すらも薄い笑みで覆い隠す。
 ここでは彼女は装飾品、王太子の隣に咲く花であるべきなのだ。



 しばらくすると、廊下の方から足音が響き始める。
 そして重厚な扉が開かれ、王太子アーサーが姿を現した。
 アーサーは金色の髪を後ろで軽く束ね、青い瞳には知性よりも自負が宿っているように見える。
 彼はかつては爽やかな微笑みを持つ少年だったが、今は少し鋭く尖った雰囲気を纏い、袖口に金糸をあしらった高級なチュニックを身につけている。

 
「フィオレンティーナ、そこにいるのか」

 
「はい、殿下。
 本日はお戻りとのことで、心よりお待ち申し上げておりました」

 フィオレンティーナは立ち上がり、一礼する。
 彼女の所作には一点の狂いもない。
 しかし、アーサーは真っ直ぐ彼女を見ることなく、隣に控えていた別の人物へと視線を向けた。

 そこにいたのは、淡い亜麻色の髪を持つ若い娘。
 薄い緑色のローブを纏い、柔和な笑みを浮かべ、彼女はアーサーの隣で控えている。
 その娘はレイシャと呼ばれ、宮廷魔術師の血を引き、平民出身ながら治癒魔法を得意とする希少な存在として今、王宮で噂の的となっていた。

 
「殿下、今日はわたくしもご一緒でき光栄ですわ。
 フィオレンティーナ様も、いつか殿下の大切なお方となるのでしょうね」

 
「……そうだな、レイシャ。
 フィオレンティーナは昔から正妃候補として育ってきたが、まだまだ我が心を掴みきれぬところがある。
 学問院でお前に出会ったとき、真に信頼できる伴侶とは、こういうものかと悟ったのだよ」

 アーサーは笑うでもなく、わざとらしく肩をすくめる。
 その仕草は、フィオレンティーナの胸を冷え込ませるには十分だった。
 彼女の耳には明確に聞こえた。
 「まだ心を掴みきれぬ」と。
 つまり、フィオレンティーナは王太子にとって、単なる義務的存在としてしか見られていない。

 
「殿下、それはどういう……」

 
「フィオレンティーナ、これまでお前は我が期待に応えるため、よく礼儀作法や教養を身につけてきたな。
 だがな、花瓶に生けた花と同じで、どれほど美しくとも温もりは感じないのだ。
 レイシャのような慈しみをもって癒してくれる者こそが、我が心を満たす。
 理解できるか?」

 その言葉は刃物のように胸へ突き刺さる。
 フィオレンティーナは微笑みを崩さぬよう必死で自制する。
 だが、笑みはわずかに引き攣り、その青い瞳に冷たい光が差し込む。

 
「殿下のお言葉、しかと胸に刻みますわ。
 わたくしには足りぬものがある、と」

 
「そうだな。
 お前は完璧すぎて、我が身に寄り添う柔らかさがない。
 レイシャは優しく、穏やかだ。
 お前も彼女から学べばよい」

 アーサーはそう言い放つと、レイシャに肩を寄せる。
 周囲の女官たちは二人の親密さを目にして、あからさまな好奇の視線を向ける。
 フィオレンティーナは息を飲むが、問い返すことは許されない雰囲気だ。

 
「殿下、フィオレンティーナ様にはあまりお厳しくなさらず……
 彼女はきっと、お優しい方です」

 レイシャは同情するかのように微笑むが、その裏には何があるのか。
 フィオレンティーナには読めない。
 ただ、確かなことは一つ、今ここで自分が蔑まれているという事実。



 アーサーはその後、レイシャを伴い控室を後にする。
 フィオレンティーナに掛けられた言葉は、期待でもなければ称賛でもない。
 彼女には足りないものがある、それを補うためには誰かを真似ろ、と。
 そう言われているように聞こえた。
 彼女は残された空間で立ち尽くし、その瞳に浮かぶのは静かな悔しさと怒りの予兆。

 
「フィオレンティーナ様、気を落とさずに。
 殿下はまだ若く、いずれあなたの良さに気付かれる日が参りますわ」

 女官の言葉は表面的な慰めに過ぎない。
 フィオレンティーナは唇を噛む。
 彼女は完璧に振る舞ってきた。
 王太子妃となるために数えきれぬ努力をした。
 にも関わらず、今やその王太子は平民出身の魔術師の娘を称え、正妃候補を冷遇している。
 これは単なる不機嫌か、それとも何か計画があるのか。
 彼女には分からない。
 だが確かなのは、自分の立場が危ういということ。

 
「わたくしは……王太子妃となるべき存在。
 わたくしに求められるのは、王国を支える品格と威厳。
 それが愛されない理由になるとでも……?」

 その問いは誰にも答えられない。
 しかし、フィオレンティーナの中で、かすかな亀裂が走り始めている。
 花瓶に挿された花ではない、自ら根を張る薔薇として生きねば、彼女は枯れてしまうかもしれない。
 その不安と怒りが、わずかに彼女の呼吸を荒くさせる。



 その日の夕刻、王太子アーサーとレイシャの仲睦まじい姿が中庭で目撃されたという噂が城中を駆け巡る。
 馬車の隣に並び、微笑み合い、手を繋ぎ、まるで恋人同士のように。
 その場面はあっという間に女官たち、騎士たち、さらには貴族の耳にまで広がった。
 「正妃候補は冷たく誇り高いだけの飾り」
 「新たな側妃は国中を癒す花」
 そんな不吉な噂が、フィオレンティーナの評判を蝕んでいく。

 フィオレンティーナは宮廷の一室で膝を抱えるようにして佇んでいた。
 このままでは、婚約破棄という最悪の結末すら見え隠れする。
 まだアーサーから直接告げられたわけではないが、彼の態度は明らかに冷たい。
 レイシャの存在が、彼女を絶望へと近づけていた。

 
「……わたくしは、どうすれば」

 その独白は、薄闇に溶け込む。
 遠くで響く笑い声は、きっとアーサーとレイシャのものだ。
 フィオレンティーナの青い瞳が、その声の方向へと向く。
 まるで王宮という鳥籠の中で、彼女の運命が変わろうとしているかのように。

 王太子の不誠実な笑みと、レイシャの慈悲深げな微笑み。
 それらが混ざり合う薄闇の中で、フィオレンティーナの心は揺れ、軋む。
 だが、このまま黙しているつもりはない。
 彼女はただの飾りではない。
 薔薇の花には棘があるのだ。

 その夜、フィオレンティーナは自室で冷たい月光を浴びながら、静かに決意を固める。
 もし、自らの存在が否定されるのなら、いずれ王太子が後悔するような選択をしてみせると。
 この国で育まれた薔薇が、棘を隠し続けるとは限らない。
 フィオレンティーナの胸には、密かな怒りと反逆の芽が根を下ろそうとしていた。

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