ご自慢の聖女がいるのだから、私は失礼しますわ

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 黒い渦をまとった聖女が生み出している呪いの風は、壁や床を砕くだけではなく、部屋全体を飲み込むように増幅していた。
 私を含む全員が息苦しいほどの圧力を感じていて、ここにいるだけで体力を削られるのがわかる。
 レオポルド殿下や騎士たちは、なんとか踏ん張って聖女へ近づこうとするが、凄まじい魔力の乱れに阻まれている状況だ。

「もう終わりにしろ!」
 殿下の怒号が虚空に消える。
 聖女は耳を貸すどころか、さらに狂気を深めるように呪文を唱え続けた。
 不自然な言語の連なりが、聞いているだけで頭痛を誘うほど不吉な響きを帯びている。

 そこへ、あろうことかアレクサンドル殿下がふらふらと聖女の背後に歩み寄る姿が見えた。
 顔はすすで汚れ、血走った目には焦燥とも怨嗟ともつかない光がある。
 まるで何かを悟ったような、あるいは全てを放り出したような表情だ。
 私たちは警戒しながら、その動きを見守るしかなかった。

「お前の“奇跡”は、もう誰も信じない……」
 アレクサンドル殿下が搾り出すように言うと、聖女はびくりと肩を震わせた。
 彼の言葉に、怒りか悲しみか、途方もない感情が混じっているのが伝わってくる。
 何しろ、この二人はつい先ほどまで互いを利用し合いながら、虚勢を張ってきた関係なのだ。

「信じない……? 私を裏切ったのはあなたじゃない! 私は何も悪くないのに……!」
 聖女の声には、歪んだ被害意識と絶望が宿っている。
 しかし、アレクサンドル殿下はそれに答えず、ただ薄く笑いを浮かべた。
 その笑みは、自嘲と諦念を織り交ぜたような、見る者をどこか悲しくさせる表情だ。

「そうかもしれない。けど、これ以上は……俺も後戻りできないんだ」
 吐き捨てるようにそう言った殿下は、何か覚悟を決めたかのように聖女の腕を掴もうと手を伸ばす。
 しかし、彼女の体を包む黒い風がアレクサンドル殿下をはじき飛ばすように襲いかかる。
 彼はもろにその衝撃を受けて、激しく床に叩きつけられた。

「くっ……!」
 見るに堪えないほど痛そうな声を上げ、殿下は体を折り曲げるようにしてうめき声を漏らす。
 同時に、私も悲鳴をあげかけたが、なんとか踏みとどまり、駆け寄りそうになる足を抑えた。
 今、彼に手を貸せば、私自身も巻き込まれてしまうリスクが高い。
 それでも、放っておくわけにはいかないという気持ちで、胸が引き裂かれそうになる。

「ユリア、危ない!」
 レオポルド殿下が私を呼び止める。
 彼は剣を再び構え、血走った目で聖女の動きを見張っている。
 どうにかして魔術の拠点を断ち切ろうとしているが、隙を狙うのも容易ではないらしい。
 黒い渦はますます勢いを増していて、こちらが踏み込むタイミングを奪っている。

 その渦の中心で、聖女が足場を失いかけながらも、最後の詠唱を続けている様子が見えた。
 まるで崩れ落ちる床から闇の手が伸び、何かを引きずり上げるかのようだ。
 嫌な胸騒ぎが走る。
 このままでは、大規模な禁忌の魔術が完成する可能性があるのではないか……?

「皆、下がれ! 今、突っ込むのは危険だ!」
 レオポルド殿下の判断で、騎士たちは後退しつつ身を守る構えをとる。
 私もそれに倣って数歩引くが、背後からは崩壊する梁が落下してきていて、これ以上退がれない。
 まさに四面楚歌の状況だ。

 その時、アレクサンドル殿下が床に倒れ込んだまま何かを呟いた。
 もはや言葉としては聞き取れないほど小さな声だが、その表情はどこか決意に満ちているようにも見える。
 彼は虚空を掴むようにして立ち上がろうとし、再び聖女へ向かおうとしているのだ。

「もうやめろ……!」
 殿下の揺れる声が空気に混じり、私の胸を締めつける。
 これ以上の争いは、一体何を生むのか。
 周囲には騎士の苦鳴や崩落の轟音が渦巻き、毒ガスの瘴気も完全には抜けきっていない。
 もし今、聖女が禁忌の術式を完成させたなら、私たち全員が呑み込まれても不思議ではない。

 絶体絶命の中、アレクサンドル殿下が聖女のそばへにじり寄る姿に、私もレオポルド殿下も目を見張る。
 果たして彼は、最後に何を成し遂げようとしているのか。
 あの“偽りの聖女”を共倒れにでも巻き込む気なのだろうか。
 嫌な予感が脳裏をかすめ、私は緊張で呼吸が止まりそうになる。

 ここから先の展開は、一瞬たりとも目が離せない。
 小さな油断が、私たちすべての命を奪いかねないのだ。
 あふれ出す闇の力を前にしながら、私たちはほんの糸ほどの希望にすがりつく思いだった。
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