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床にこびりついた黒い液体から、じわじわと毒々しい蒸気が立ち上る。
先ほど聖女が起こした術式の暴走によって、多くの薬品が混ざり合っているのだろう。
まるで瘴気のようなその煙は、部屋の隅々まで広がり、私の視界は一層濁っていく。
呼吸をするたび、胸の奥がひりつくように痛んだ。
「騎士団の皆、息を止めろ! 布を口に当てながら一気に制圧するんだ!」
レオポルド殿下の指示が飛び、騎士たちは鼻と口を覆いながら聖女へ突進を試みる。
しかし、術式の衝撃波がまだくすぶっているのか、近づくたびに妙な力で弾かれてしまう。
床がぐにゃりと歪んだように見えて、私自身も足元がおぼつかず、何度も倒れそうになる。
その時、不意に後ろから冷たい声が聞こえた。
「邪魔をするな……もう、全てが手遅れだ……」
振り返ると、そこには黒水晶を片手に、疲労感と絶望を混ぜ合わせた表情のアレクサンドル殿下が立っていた。
焼け焦げたジャケットがところどころ破れ、顔にはすすが付着している。
一見すると、これまで見下していた彼の傲慢さが嘘のように見えるが、その瞳にはまだ貪欲な光が宿っているように思えた。
「あなたは、まだ聖女の力にすがる気なのですか? これほどの惨状を引き起こしておきながら……」
私が声を震わせながら問いかけると、アレクサンドル殿下はぎこちない笑みを浮かべる。
「違う……あいつが暴走したせいで、俺の未来が……全部、台無しだ。だけど、まだだ。まだ俺には……」
彼がぎゅっと握りしめている黒水晶を見た瞬間、私は書類の内容を思い出す。
「もし、それを破壊すれば、王家の正統性を証明する機会は失われるかもしれません。あなたにとって、その事実は……」
言いかけた私の言葉を遮るように、アレクサンドル殿下が舌打ちする。
「こんな“王家の証”など、もはや信じられるか。俺が真の王子であることを疑う奴ばかりだ。だったら、あの女を利用してでも、奇跡を起こすしかなかったんだ……!」
その独白を聞きながら、私は複雑な思いを噛みしめる。
もともと、アレクサンドル殿下が偽りの聖女にすがった理由は、こうした血統への不安や劣等感が根底にあったのだろうか。
しかし、それが国を混乱に陥れ、多くの人々を傷つけた事実は変わらない。
彼にはもう、悔い改める機会さえ残されていないのではないだろうか。
「兄上が……王位を継ぐのはわかっていた。だが、俺には何もないわけじゃない……聖女の力さえあれば、俺は認められると思ったんだ……」
アレクサンドル殿下が自虐するように笑みをこぼすと、黒水晶を投げ捨てるように床へ放り投げる。
カランと乾いた音を立てて転がるそれは、うす暗い燐光を帯びているように見えた。
私が思わず視線を追うと、突然、重く鈍い爆発音が部屋の奥から響く。
聖女が最後の抵抗をしているのか、騎士たちが火花とともに吹き飛ばされ、あちこちで悲鳴が上がる。
辺りにはますます濃厚な毒ガスが漂い、呼吸がままならない。
天井からは嫌な軋み音が聞こえ、梁が火花で焼け焦げつつあるようだ。
このままでは屋敷そのものが崩れ落ちかねない――私の胸にそんな恐怖が広がる。
「このままでは、本当に全てが手遅れになります。あなたも、今すぐ降伏なさってください! そうしなければ……!」
私はアレクサンドル殿下に叫ぶが、彼はうろたえたまま壁に寄りかかり、目を伏せる。
「もう遅いんだ。俺は何度も取り返しのつかないことをした……聖女の力も、偽物だったってのに、気づきたくなかった」
震える声でそう洩らした彼に、私は何も言い返せなかった。
一方、レオポルド殿下は騎士たちを再編し、毒ガスを拡散させないように窓や扉を開け放つ指示を出している。
それでも、聖女の魔術と猛毒が入り混じった瘴気は強烈で、彼女自身さえもまともに扱いきれていないようだ。
私たちはどうにかして彼女を止め、同時にこの崩壊寸前の屋敷から脱出しなければならない。
「ユリア! そちらの扉から外に通じる廊下があるはずだ。安全な道を確保してくれ。騎士団の増援が来たら、真っ先にここの毒を薄めさせるように伝えるんだ!」
レオポルド殿下の指示を受け、私は一瞬うなずく。
書類を抱えたまま足をもつれさせながら、どうにか扉の方へ走り出す。
廊下に出れば少しでも煙が減り、外へ脱出する経路が確保できるかもしれない。
アレクサンドル殿下は動けるのだろうか。
その背を振り返ると、ただ呆然と崩れる天井を見上げている。
耳をつんざく音とともに大きな梁がずれて落ち、粉塵が舞う。
まるで、すべてが終わりを告げるかのような光景に、私の胸は怒りとも悲しみとも言えない感情でいっぱいになった。
毒ガスが部屋中に充満する中、そして崩落の危機がせまる中で、私たちはなおも足を止められない。
この場で聖女とアレクサンドル殿下が何を選ぶのか――それ次第で、すべてが決まる。
先ほど聖女が起こした術式の暴走によって、多くの薬品が混ざり合っているのだろう。
まるで瘴気のようなその煙は、部屋の隅々まで広がり、私の視界は一層濁っていく。
呼吸をするたび、胸の奥がひりつくように痛んだ。
「騎士団の皆、息を止めろ! 布を口に当てながら一気に制圧するんだ!」
レオポルド殿下の指示が飛び、騎士たちは鼻と口を覆いながら聖女へ突進を試みる。
しかし、術式の衝撃波がまだくすぶっているのか、近づくたびに妙な力で弾かれてしまう。
床がぐにゃりと歪んだように見えて、私自身も足元がおぼつかず、何度も倒れそうになる。
その時、不意に後ろから冷たい声が聞こえた。
「邪魔をするな……もう、全てが手遅れだ……」
振り返ると、そこには黒水晶を片手に、疲労感と絶望を混ぜ合わせた表情のアレクサンドル殿下が立っていた。
焼け焦げたジャケットがところどころ破れ、顔にはすすが付着している。
一見すると、これまで見下していた彼の傲慢さが嘘のように見えるが、その瞳にはまだ貪欲な光が宿っているように思えた。
「あなたは、まだ聖女の力にすがる気なのですか? これほどの惨状を引き起こしておきながら……」
私が声を震わせながら問いかけると、アレクサンドル殿下はぎこちない笑みを浮かべる。
「違う……あいつが暴走したせいで、俺の未来が……全部、台無しだ。だけど、まだだ。まだ俺には……」
彼がぎゅっと握りしめている黒水晶を見た瞬間、私は書類の内容を思い出す。
「もし、それを破壊すれば、王家の正統性を証明する機会は失われるかもしれません。あなたにとって、その事実は……」
言いかけた私の言葉を遮るように、アレクサンドル殿下が舌打ちする。
「こんな“王家の証”など、もはや信じられるか。俺が真の王子であることを疑う奴ばかりだ。だったら、あの女を利用してでも、奇跡を起こすしかなかったんだ……!」
その独白を聞きながら、私は複雑な思いを噛みしめる。
もともと、アレクサンドル殿下が偽りの聖女にすがった理由は、こうした血統への不安や劣等感が根底にあったのだろうか。
しかし、それが国を混乱に陥れ、多くの人々を傷つけた事実は変わらない。
彼にはもう、悔い改める機会さえ残されていないのではないだろうか。
「兄上が……王位を継ぐのはわかっていた。だが、俺には何もないわけじゃない……聖女の力さえあれば、俺は認められると思ったんだ……」
アレクサンドル殿下が自虐するように笑みをこぼすと、黒水晶を投げ捨てるように床へ放り投げる。
カランと乾いた音を立てて転がるそれは、うす暗い燐光を帯びているように見えた。
私が思わず視線を追うと、突然、重く鈍い爆発音が部屋の奥から響く。
聖女が最後の抵抗をしているのか、騎士たちが火花とともに吹き飛ばされ、あちこちで悲鳴が上がる。
辺りにはますます濃厚な毒ガスが漂い、呼吸がままならない。
天井からは嫌な軋み音が聞こえ、梁が火花で焼け焦げつつあるようだ。
このままでは屋敷そのものが崩れ落ちかねない――私の胸にそんな恐怖が広がる。
「このままでは、本当に全てが手遅れになります。あなたも、今すぐ降伏なさってください! そうしなければ……!」
私はアレクサンドル殿下に叫ぶが、彼はうろたえたまま壁に寄りかかり、目を伏せる。
「もう遅いんだ。俺は何度も取り返しのつかないことをした……聖女の力も、偽物だったってのに、気づきたくなかった」
震える声でそう洩らした彼に、私は何も言い返せなかった。
一方、レオポルド殿下は騎士たちを再編し、毒ガスを拡散させないように窓や扉を開け放つ指示を出している。
それでも、聖女の魔術と猛毒が入り混じった瘴気は強烈で、彼女自身さえもまともに扱いきれていないようだ。
私たちはどうにかして彼女を止め、同時にこの崩壊寸前の屋敷から脱出しなければならない。
「ユリア! そちらの扉から外に通じる廊下があるはずだ。安全な道を確保してくれ。騎士団の増援が来たら、真っ先にここの毒を薄めさせるように伝えるんだ!」
レオポルド殿下の指示を受け、私は一瞬うなずく。
書類を抱えたまま足をもつれさせながら、どうにか扉の方へ走り出す。
廊下に出れば少しでも煙が減り、外へ脱出する経路が確保できるかもしれない。
アレクサンドル殿下は動けるのだろうか。
その背を振り返ると、ただ呆然と崩れる天井を見上げている。
耳をつんざく音とともに大きな梁がずれて落ち、粉塵が舞う。
まるで、すべてが終わりを告げるかのような光景に、私の胸は怒りとも悲しみとも言えない感情でいっぱいになった。
毒ガスが部屋中に充満する中、そして崩落の危機がせまる中で、私たちはなおも足を止められない。
この場で聖女とアレクサンドル殿下が何を選ぶのか――それ次第で、すべてが決まる。
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