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私が朝食を終えて書斎に向かおうとしたとき、侍女のエマが慌てた様子で駆け寄ってきた。
彼女はいつも冷静沈着で、私の身の回りをきちんと整えてくれる人だ。
そんなエマが言葉に詰まるほど焦っているのだから、ただ事ではないだろう。
「リリー嬢、これは……聞き捨てならない噂が広まっております」
エマによると、レオナルドが夜な夜な酒場に入り浸り、ギャンブルに興じているのだという。
しかもその結果、借金をさらに増やし続けているとのこと。
公爵家の嫡男だったころの財力をあてにした者たちから、続々と金を引き出されているらしい。
私は一瞬、その姿を想像してしまった。
かつて私が必死に学問や礼儀作法を修めたのも、レオナルドとの婚約を全うするためだった。
あの頃は、どれほど彼に期待を抱いていたのだろう。
けれど今となっては、そんな思い出ですら霞んで見える。
同時に、もう一つの噂が伝わってきた。
カトリーナが社交界から完全に締め出されたというのだ。
子爵家の令嬢だとはいえ、最近の傲慢な振る舞いや虚偽が暴露されたことで、人望はすっかり地に落ちているという。
私は、その話を聞いても胸が痛むことはなかった。
むしろ当然の成り行きのように思う。
散々他者を見下し、周囲を自分の噂操作で翻弄してきた末の結果だ。
レオナルドに取り入って優越感を得ていたはずが、そのレオナルド自身が没落の道をひた走っているのだから、今さら支えを求められるあてもないだろう。
私は書斎の窓辺に立ち、外の景色を眺めた。
どこまでも青い空と、伯爵領の穏やかな街並みが視界に広がる。
以前は、あの広い世界をレオナルドと共に歩む未来があると思っていた。
だが今、私の視線の先には、もっと新しく、そしてはるかに充実した道があるような気がしてならない。
「リリー、すこし休んではどうだろう。最近、あまりゆっくりできていないように見える」
父のジャン伯爵が、いつの間にか私のそばに来ていた。
静かな声に、私は振り返る。
父は穏やかな表情を崩さないが、その瞳の奥には心配の色がうかがえた。
「ありがとうございます、お父様。けれど、私は平気ですわ」
私は少し首を傾げながら答えた。
今の私にとって、レオナルドの様子やカトリーナの零落は、もはや心を乱すほどのことではない。
それよりも、これから自分が何をすべきか、そちらの方がよほど大きな課題だ。
その日の夕方、客間にアレクシス殿下がお見えになるという知らせが届いた。
殿下は連日の公務でお忙しいはずだが、このところ何度も私たちの家へ足を運んでくださっている。
最初はそのたびに少なからず緊張していた私も、最近は少しずつ慣れ始めていた。
落ち着いた客間で、殿下と向き合う。
銀色に近い淡いブロンドの髪が、優しい夕陽を受けてうっすら輝いていた。
深い青の瞳が私を真っ直ぐ見つめ、柔らかな口調で語りかける。
「リリー、最近の状況は聞いているよ。レオナルドやカトリーナの話も、僕の耳に入ってきている」
「殿下ほどの立場であれば、私たちより早く情報を得ていることでしょうね」
私がそう返すと、殿下は苦笑するように軽く頷いた。
王太子として、人々の暮らしや貴族社会の問題にも精通せねばならない。
レオナルドが起こしている騒ぎは、もはや王宮でも把握されているようだった。
「リリー、辛い過去があっても、あなたを幸せにしたい。そう思うのは、僕の一方的な願いだろうか」
殿下の言葉に、胸がどきりとする。
一度は婚約という形で裏切られた私にとって、その言葉はあまりに眩しすぎる。
けれど、殿下が常に誠実な態度を示してくれることは、この目で見てきた。
彼の静かなまなざしを前に、私は迷う気持ちを正直に口にした。
「……まだ心の整理が、うまくできていません。私は大きな失敗をして、自分が何も見えていなかったと気づきました。でも、そのせいで幸せをつかむ機会まで逃してしまうのは、もったいないとも思うんです」
すると殿下は優しく微笑む。
まるで、私の迷いを許してくれるかのようだった。
「答えを急がなくていい。僕はいつでも、あなたを尊重したい。だから、ゆっくり考えて」
その言葉に、私の胸がじわりと温かくなる。
レオナルドとの婚約が破棄されたあと、私は自分の努力を全否定されたような気持ちでいっぱいだった。
今でも、不安がまったく消えたわけではない。
でも、殿下の誠実さに触れるたびに、どうしようもなく揺れてしまうのだ。
殿下が帰られた後、私はソファに腰を下ろして静かに目を閉じる。
失敗を恐れていては、何も始まらないのではないか。
父や殿下、そして私を支えてくれる人たちと共に、新しい人生を切り開いていく。
そんな未来が、すぐそこにあるような気がする。
そして、レオナルドやカトリーナは、ついに完全に追い詰められているらしい。
だからといって、私が救いの手を差し伸べる義理はない。
彼らは今、自分の選んだ道の果てに立っているのだから。
エマが茶を淹れてくれた優しい香りに包まれながら、私はそっと胸に手を当てる。
この静けさが崩れる前に、私はもっと強くならなくてはならないと思った。
もう一度、自分の道を恐れず歩むために、心の底から進むべき方向を見定める。
そして、アレクシス殿下の想いに対して、自分がどう応えるか。
少しずつ、けれど確かに、私は殿下の存在を大きく感じ始めていた。
彼女はいつも冷静沈着で、私の身の回りをきちんと整えてくれる人だ。
そんなエマが言葉に詰まるほど焦っているのだから、ただ事ではないだろう。
「リリー嬢、これは……聞き捨てならない噂が広まっております」
エマによると、レオナルドが夜な夜な酒場に入り浸り、ギャンブルに興じているのだという。
しかもその結果、借金をさらに増やし続けているとのこと。
公爵家の嫡男だったころの財力をあてにした者たちから、続々と金を引き出されているらしい。
私は一瞬、その姿を想像してしまった。
かつて私が必死に学問や礼儀作法を修めたのも、レオナルドとの婚約を全うするためだった。
あの頃は、どれほど彼に期待を抱いていたのだろう。
けれど今となっては、そんな思い出ですら霞んで見える。
同時に、もう一つの噂が伝わってきた。
カトリーナが社交界から完全に締め出されたというのだ。
子爵家の令嬢だとはいえ、最近の傲慢な振る舞いや虚偽が暴露されたことで、人望はすっかり地に落ちているという。
私は、その話を聞いても胸が痛むことはなかった。
むしろ当然の成り行きのように思う。
散々他者を見下し、周囲を自分の噂操作で翻弄してきた末の結果だ。
レオナルドに取り入って優越感を得ていたはずが、そのレオナルド自身が没落の道をひた走っているのだから、今さら支えを求められるあてもないだろう。
私は書斎の窓辺に立ち、外の景色を眺めた。
どこまでも青い空と、伯爵領の穏やかな街並みが視界に広がる。
以前は、あの広い世界をレオナルドと共に歩む未来があると思っていた。
だが今、私の視線の先には、もっと新しく、そしてはるかに充実した道があるような気がしてならない。
「リリー、すこし休んではどうだろう。最近、あまりゆっくりできていないように見える」
父のジャン伯爵が、いつの間にか私のそばに来ていた。
静かな声に、私は振り返る。
父は穏やかな表情を崩さないが、その瞳の奥には心配の色がうかがえた。
「ありがとうございます、お父様。けれど、私は平気ですわ」
私は少し首を傾げながら答えた。
今の私にとって、レオナルドの様子やカトリーナの零落は、もはや心を乱すほどのことではない。
それよりも、これから自分が何をすべきか、そちらの方がよほど大きな課題だ。
その日の夕方、客間にアレクシス殿下がお見えになるという知らせが届いた。
殿下は連日の公務でお忙しいはずだが、このところ何度も私たちの家へ足を運んでくださっている。
最初はそのたびに少なからず緊張していた私も、最近は少しずつ慣れ始めていた。
落ち着いた客間で、殿下と向き合う。
銀色に近い淡いブロンドの髪が、優しい夕陽を受けてうっすら輝いていた。
深い青の瞳が私を真っ直ぐ見つめ、柔らかな口調で語りかける。
「リリー、最近の状況は聞いているよ。レオナルドやカトリーナの話も、僕の耳に入ってきている」
「殿下ほどの立場であれば、私たちより早く情報を得ていることでしょうね」
私がそう返すと、殿下は苦笑するように軽く頷いた。
王太子として、人々の暮らしや貴族社会の問題にも精通せねばならない。
レオナルドが起こしている騒ぎは、もはや王宮でも把握されているようだった。
「リリー、辛い過去があっても、あなたを幸せにしたい。そう思うのは、僕の一方的な願いだろうか」
殿下の言葉に、胸がどきりとする。
一度は婚約という形で裏切られた私にとって、その言葉はあまりに眩しすぎる。
けれど、殿下が常に誠実な態度を示してくれることは、この目で見てきた。
彼の静かなまなざしを前に、私は迷う気持ちを正直に口にした。
「……まだ心の整理が、うまくできていません。私は大きな失敗をして、自分が何も見えていなかったと気づきました。でも、そのせいで幸せをつかむ機会まで逃してしまうのは、もったいないとも思うんです」
すると殿下は優しく微笑む。
まるで、私の迷いを許してくれるかのようだった。
「答えを急がなくていい。僕はいつでも、あなたを尊重したい。だから、ゆっくり考えて」
その言葉に、私の胸がじわりと温かくなる。
レオナルドとの婚約が破棄されたあと、私は自分の努力を全否定されたような気持ちでいっぱいだった。
今でも、不安がまったく消えたわけではない。
でも、殿下の誠実さに触れるたびに、どうしようもなく揺れてしまうのだ。
殿下が帰られた後、私はソファに腰を下ろして静かに目を閉じる。
失敗を恐れていては、何も始まらないのではないか。
父や殿下、そして私を支えてくれる人たちと共に、新しい人生を切り開いていく。
そんな未来が、すぐそこにあるような気がする。
そして、レオナルドやカトリーナは、ついに完全に追い詰められているらしい。
だからといって、私が救いの手を差し伸べる義理はない。
彼らは今、自分の選んだ道の果てに立っているのだから。
エマが茶を淹れてくれた優しい香りに包まれながら、私はそっと胸に手を当てる。
この静けさが崩れる前に、私はもっと強くならなくてはならないと思った。
もう一度、自分の道を恐れず歩むために、心の底から進むべき方向を見定める。
そして、アレクシス殿下の想いに対して、自分がどう応えるか。
少しずつ、けれど確かに、私は殿下の存在を大きく感じ始めていた。
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