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父ジャン伯爵の書斎で、私は報告を聞いていた。
グランツ公爵家の財政調停に向けて、王宮が本格的に動くという知らせが届いたのだ。
「公爵家自身が頑として外部の介入を認めないのであれば、今後はさらに厳しい措置が取られるでしょう。
早急に何らかの改善策を提示するよう、国王陛下も促しているようです」
父は机上に置かれた書簡を手に取りながら、少し気がかりそうな顔をしている。
レオナルドが未だに意地を張っているということもあり、王宮からのプレッシャーが相当なものなのだろう。
「それで、リリー。アレクシス殿下の想いについてはどう考えている?」
唐突な父の問いに、私は少しだけ視線をさまよわせる。
殿下から改めて求婚めいた言葉をかけられたばかりだ。
父も当然ながら気にかけているだろう。
「正直に言うと、私はまだ自信がありません。
もう傷つきたくないというのが本音です」
弱音にも似た声が自分でもわかるほど、私は心を乱されていた。
父は静かに頷き、私の手にそっと手を重ねる。
「気持ちは分かるよ。
しかし、アレクシス殿下の誠意もまた本物だと私は思う。
彼は王太子でありながら、一人の人間としてお前を見つめているのだろう」
父の言葉には真実味があった。
殿下は王太子という立場を武器にするのではなく、むしろ私に対して人としての優しさと誠実さを示してくれている。
それが嬉しくないわけではない。
「……もう少し時間をください。
自分の心を整理したいんです」
そう伝えた私に、父は「ゆっくり考えるといい」と微笑んでくれた。
そんなやり取りがあった翌日、まさかの人物から使者が来た。
レオナルド本人からの連絡だという。
「リリー嬢にお話があると、レオナルド様がおっしゃっていますが……」
信頼する執事が複雑そうな顔で私に伝えてくる。
この期に及んで、何の用があるというのだろう。
私が呆れて口を開こうとしたとき、まるでそれを見計らったかのようにレオナルド本人がブライト伯爵家の屋敷に押しかけてきた。
豪奢だったジャケットは少しほころび、目つきも焦りの色に濁っている。
「リリー! 話があるんだ。少しだけ時間をくれ」
急な訪問に不快感が募る。
けれど父は穏やかに微笑みながら、私に判断を仰いだ。
正直、彼の顔を見たいとは思わないが、ここで逃げたところで関係が断ち切れるわけでもない。
「分かりました。書斎へどうぞ」
私がそう言うと、レオナルドはまるで勝ち誇ったような表情で背筋を伸ばした。
私と執事が案内する形で書斎に通すと、彼はさも当然のように椅子に腰を下ろして脚を組む。
「リリー、戻ってきてくれないか。
おまえなら公爵家を立て直す手助けができるだろう?
お父様も学識がある方だし、やはりブライト伯爵家との縁組は必要なんだ」
あまりにも厚顔無恥な言葉に、私は思わず息を呑んだ。
先日まで散々私を蔑み、婚約を破棄したのは誰だったのか。
今さらこんなことを言うなんて、あまりにも自己中心的すぎる。
「……あなたは私を捨てたはずですよね。
『才気走っていて可愛くない』と言われたあの日のこと、忘れたとでも?」
抑えきれない怒りを込めて、私は淡々と返す。
するとレオナルドはばつが悪そうに顔をゆがめたが、すぐに取り繕うように声を張り上げた。
「すまなかったと思っている! あのときはつい、口が滑ったんだ。
でも俺には公爵家を守る責任があるし、おまえほど有能な女性はいない。
おまえの力で、俺を助けてくれ」
あまりの自己都合に、開いた口が塞がらない。
彼がなぜ今になって私に頼ろうとしているのかは、借金問題が逼迫しているからだとすぐに分かった。
しかし、それで私が再び彼のもとに戻るなんて考えられるわけもない。
「残念ですが、私はそのような意思は一切ありません」
私がきっぱりと断言すると、レオナルドの目が一瞬大きく見開かれた。
彼は焦ったように手を伸ばしてきそうになるが、私は少し身を引いてそれを拒む。
「な、なぜだ……?
もうカトリーナとの仲など終わらせるつもりだし、おまえに不自由はさせない!」
その言葉に、私は呆れを通り越して悲しさすら覚える。
カトリーナを捨て、私に戻ってこいと言われても、心が微塵も動かない。
彼は婚約破棄のときから何も変わっていないのだと思い知らされる。
「あなたと結婚したところで、何の幸せも感じません。
もう私を巻き込まないでください」
静かに告げると、レオナルドは顔を歪めたまま、次の言葉を出せずにいる。
私を見下し、支配できる存在だと信じていたのだろう。
しかし、その幻想が崩れた今、彼の目には明らかな戸惑いと苛立ちが混ざっていた。
書斎の空気が重たくなる中、執事が扉の外で控えている気配を感じた。
万一レオナルドが暴れ出したとしても、護衛を呼べる態勢は整えてある。
そんな気まずい沈黙の中で、レオナルドは歯ぎしりするように低く唸る。
それは怒りか、あるいは恐怖か。
「リリー……おまえに見捨てられたら、俺はどうなる?」
「……私の知ったことではありません」
絞り出すような声に、私ははっきりと返した。
これ以上、彼の都合に振り回されるのはうんざりだ。
するとレオナルドの顔は見る見るうちに青ざめ、狂気を孕んだような瞳で私を見つめる。
何かを言おうとして口が動くが、言葉は出てこない。
寒気すら覚えるほどの視線に、私の背筋が凍りつきそうになった。
(この人、ここまで追いつめられているのか……)
そう悟った瞬間、私は身震いする思いだった。
あの高慢だったレオナルドが必死になってすがりついてきても、もう遅い。
書斎の扉を開けた執事が彼を制するように立ちふさがったのを見て、私はこの場を離れることにした。
廊下を歩きながら、胸の鼓動が早まっているのを感じる。
レオナルドのあの表情は、何か狂気じみた別の感情を抱いているかもしれない。
(大丈夫、私はあの人との縁を完全に断った。
それだけのことよ……)
そう自分に言い聞かせても、かすかな不安が残るのを拭えないまま、私は屋敷の奥へと足を進めた。
グランツ公爵家の財政調停に向けて、王宮が本格的に動くという知らせが届いたのだ。
「公爵家自身が頑として外部の介入を認めないのであれば、今後はさらに厳しい措置が取られるでしょう。
早急に何らかの改善策を提示するよう、国王陛下も促しているようです」
父は机上に置かれた書簡を手に取りながら、少し気がかりそうな顔をしている。
レオナルドが未だに意地を張っているということもあり、王宮からのプレッシャーが相当なものなのだろう。
「それで、リリー。アレクシス殿下の想いについてはどう考えている?」
唐突な父の問いに、私は少しだけ視線をさまよわせる。
殿下から改めて求婚めいた言葉をかけられたばかりだ。
父も当然ながら気にかけているだろう。
「正直に言うと、私はまだ自信がありません。
もう傷つきたくないというのが本音です」
弱音にも似た声が自分でもわかるほど、私は心を乱されていた。
父は静かに頷き、私の手にそっと手を重ねる。
「気持ちは分かるよ。
しかし、アレクシス殿下の誠意もまた本物だと私は思う。
彼は王太子でありながら、一人の人間としてお前を見つめているのだろう」
父の言葉には真実味があった。
殿下は王太子という立場を武器にするのではなく、むしろ私に対して人としての優しさと誠実さを示してくれている。
それが嬉しくないわけではない。
「……もう少し時間をください。
自分の心を整理したいんです」
そう伝えた私に、父は「ゆっくり考えるといい」と微笑んでくれた。
そんなやり取りがあった翌日、まさかの人物から使者が来た。
レオナルド本人からの連絡だという。
「リリー嬢にお話があると、レオナルド様がおっしゃっていますが……」
信頼する執事が複雑そうな顔で私に伝えてくる。
この期に及んで、何の用があるというのだろう。
私が呆れて口を開こうとしたとき、まるでそれを見計らったかのようにレオナルド本人がブライト伯爵家の屋敷に押しかけてきた。
豪奢だったジャケットは少しほころび、目つきも焦りの色に濁っている。
「リリー! 話があるんだ。少しだけ時間をくれ」
急な訪問に不快感が募る。
けれど父は穏やかに微笑みながら、私に判断を仰いだ。
正直、彼の顔を見たいとは思わないが、ここで逃げたところで関係が断ち切れるわけでもない。
「分かりました。書斎へどうぞ」
私がそう言うと、レオナルドはまるで勝ち誇ったような表情で背筋を伸ばした。
私と執事が案内する形で書斎に通すと、彼はさも当然のように椅子に腰を下ろして脚を組む。
「リリー、戻ってきてくれないか。
おまえなら公爵家を立て直す手助けができるだろう?
お父様も学識がある方だし、やはりブライト伯爵家との縁組は必要なんだ」
あまりにも厚顔無恥な言葉に、私は思わず息を呑んだ。
先日まで散々私を蔑み、婚約を破棄したのは誰だったのか。
今さらこんなことを言うなんて、あまりにも自己中心的すぎる。
「……あなたは私を捨てたはずですよね。
『才気走っていて可愛くない』と言われたあの日のこと、忘れたとでも?」
抑えきれない怒りを込めて、私は淡々と返す。
するとレオナルドはばつが悪そうに顔をゆがめたが、すぐに取り繕うように声を張り上げた。
「すまなかったと思っている! あのときはつい、口が滑ったんだ。
でも俺には公爵家を守る責任があるし、おまえほど有能な女性はいない。
おまえの力で、俺を助けてくれ」
あまりの自己都合に、開いた口が塞がらない。
彼がなぜ今になって私に頼ろうとしているのかは、借金問題が逼迫しているからだとすぐに分かった。
しかし、それで私が再び彼のもとに戻るなんて考えられるわけもない。
「残念ですが、私はそのような意思は一切ありません」
私がきっぱりと断言すると、レオナルドの目が一瞬大きく見開かれた。
彼は焦ったように手を伸ばしてきそうになるが、私は少し身を引いてそれを拒む。
「な、なぜだ……?
もうカトリーナとの仲など終わらせるつもりだし、おまえに不自由はさせない!」
その言葉に、私は呆れを通り越して悲しさすら覚える。
カトリーナを捨て、私に戻ってこいと言われても、心が微塵も動かない。
彼は婚約破棄のときから何も変わっていないのだと思い知らされる。
「あなたと結婚したところで、何の幸せも感じません。
もう私を巻き込まないでください」
静かに告げると、レオナルドは顔を歪めたまま、次の言葉を出せずにいる。
私を見下し、支配できる存在だと信じていたのだろう。
しかし、その幻想が崩れた今、彼の目には明らかな戸惑いと苛立ちが混ざっていた。
書斎の空気が重たくなる中、執事が扉の外で控えている気配を感じた。
万一レオナルドが暴れ出したとしても、護衛を呼べる態勢は整えてある。
そんな気まずい沈黙の中で、レオナルドは歯ぎしりするように低く唸る。
それは怒りか、あるいは恐怖か。
「リリー……おまえに見捨てられたら、俺はどうなる?」
「……私の知ったことではありません」
絞り出すような声に、私ははっきりと返した。
これ以上、彼の都合に振り回されるのはうんざりだ。
するとレオナルドの顔は見る見るうちに青ざめ、狂気を孕んだような瞳で私を見つめる。
何かを言おうとして口が動くが、言葉は出てこない。
寒気すら覚えるほどの視線に、私の背筋が凍りつきそうになった。
(この人、ここまで追いつめられているのか……)
そう悟った瞬間、私は身震いする思いだった。
あの高慢だったレオナルドが必死になってすがりついてきても、もう遅い。
書斎の扉を開けた執事が彼を制するように立ちふさがったのを見て、私はこの場を離れることにした。
廊下を歩きながら、胸の鼓動が早まっているのを感じる。
レオナルドのあの表情は、何か狂気じみた別の感情を抱いているかもしれない。
(大丈夫、私はあの人との縁を完全に断った。
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