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私のもとに届いた一通の書類。
その中身を読み進めるうちに、知らず手先が震えた。
差出人の名はなく、けれど内容にはグランツ公爵家が多額の借金を抱えていることが詳細に書かれている。
しかも、その返済期限が迫っているという事実まで──。
まさか、あのレオナルドが資金繰りに追われているというのだろうか。
かつて婚約者だった頃の彼は、いつも自信満々で、足元が危ういようには見えなかった。
しかし、先日の監査で見えてきた不正や財務の杜撰さを思えば、今更驚くことではないのかもしれない。
私は最初こそ「これは何かの嫌がらせかもしれない」と疑ったが、記載された借金の具体的な金額や、それに付随する契約条件を眺めるほど、それが作り話ではないことをひしひしと感じた。
私はすぐに執務室で執筆の準備をし、書類の内容をお父様に伝える手紙を書き始める。
いま王都にいるお父様なら、これがどの程度信憑性のある情報なのか判断してくださるに違いない。
少しでも早く意見を仰ぎたいという気持ちで、筆先は自然と急ぎがちになる。
だが、書いているうちに、私は一度息をついて冷静になろうとした。
彼らの借金がどれほど深刻であろうと、それは私自身には直接の関係がない。
あのレオナルドを追い詰める材料が増えたとしても、私はもうすでに過去の関係に囚われるつもりはないのだから。
とはいえ、グランツ公爵家がこれ以上暴走しないためにも、状況を把握しておくのは大切だ。
私にとって彼らは、いずれ自滅する存在であっても、迂闊に油断して自分の身が危険に晒されるのは避けたい。
手紙を書き終え、封をして、すぐに信頼できる召使いに託す。
ブライト伯爵領の屋敷を出て王都へ向かったその召使いを見送ったあと、私は小さく息を吐いた。
迷いや戸惑いではなく、何かを整理するための吐息だった。
「これで、お父様はきっとすぐに動いてくださるわ」
そう自分に言い聞かせ、私は今日の用事をこなしに行くことにする。
借金の噂は確かに重大だが、そればかりに囚われて日常の務めを疎かにはできない。
夕刻、庭で夕食前の一服を楽しんでいるときだった。
控えめなノックとともに、侍女が訪問者の名を告げる。
「リリー様、アレクシス殿下がお見えになっています」
まさか、こんな時間にわざわざ私の家を訪ねてこられるとは。
突然のことに戸惑いつつも、私は態度を取り繕いながら応接室へと向かった。
アレクシス殿下はすでに部屋の中央で待たれていて、私を見るとすぐに微笑んでくださった。
銀色に近い淡いブロンドの短髪と深い青の瞳は、いつもながら穏やかな印象を与えてくれる。
「リリー、急に押しかけてすまないね。大事な話があって来たんだ」
その言葉に、私の胸が少しだけ高鳴る。
彼はいつも柔らかい物腰と誠実な言葉遣いで私に接してくれるから、つい心が安堵してしまうのだ。
「いえ、突然でも殿下なら大歓迎です。どうなさいました?」
私は余裕を装い、静かにソファへと腰を下ろしていただく。
殿下が席に着かれ、私も向かい側に腰をかけると、侍女が淹れたての紅茶をそっと置いていった。
部屋にはほのかにアールグレイの香りが漂い、落ち着く空気が流れる。
「実は、グランツ公爵家の財政について、王宮でも本格的な調査が進んでいるんだ。リリーのところにも、いろいろな情報が入ってきていると思う」
私はそれとなく書類のことを思い出し、視線を下に向ける。
彼は続けて、申し訳なさそうな表情をした。
「もし危険が及びそうなときは、僕が全力で手を貸す。だから、なんでも相談してほしいんだ」
「ありがとうございます。ですが、私がいま抱えているのは、公爵家のことでしょう? 私から動かずとも、彼らが勝手に自滅していくと思います」
ほんの少し刺のある言い方になってしまった。
けれど、それが私の本音だった。
「そう……確かに、放っておいても深刻な状況に陥るだろうね。ただ、彼らが追い詰められたとき、最後の悪あがきでリリーを攻撃するかもしれない。だからこそ、万全を期したいんだ」
殿下の優しさが伝わってくる言葉だった。
私は静かに頷き、殿下が差し伸べてくれる手を素直に受け取るべきか少し考える。
「ご心配いただき感謝します。もし何かあれば、どうかそのときにお力添えをお願いさせてください」
「もちろん」
殿下ははっきりと肯定し、私の返事を待ってくださる。
そんな彼の誠実な態度に、再び私の心は少しずつ揺れる。
そして最後に、殿下は少し真剣な表情を浮かべた。
「リリー……いずれ、ちゃんと僕の気持ちを聞いてほしい。でも、今はまだ早いかもしれないね」
その言葉の真意をはっきりと問う勇気は、私にはなかった。
それでも、殿下の想いはうすうす感じてしまう。
「殿下のお気持ちは……きっと、嬉しく思います」
そう返すのが精一杯だった。
何故か胸の奥が熱くなるのを感じながら、私は紅茶を一口すすった。
ほどなくして殿下は席を立ち、余裕ある微笑みを残して帰っていかれる。
私は見送りのために玄関先まで並んで歩きながら、彼の後ろ姿を見つめた。
その姿に、これまで感じたことのない不思議な安堵を覚える。
部屋に戻ると、先ほどお父様へ送った手紙がどう受け止められるかを考え始めた。
もしグランツ公爵家の借金が本当なら、いずれ王都全体を巻き込む大騒動になるかもしれない。
それだけの大金を動かせる家は限られているし、その返済が滞れば、公爵家が破産する可能性すらある。
そうなれば、レオナルドとカトリーナの派手な遊興も維持できなくなるどころか、公爵家全体が危機に陥るのだ。
これまでの仕打ちを考えれば、その報いを受けるのは当然なのだろう。
けれど、まだ事態は進行中で、彼らが逆恨みして私に矛先を向けてくる可能性も否定できない。
あくまで冷静に、確実に手を打たなければ……私は頭を切り替え、今後の対策をまとめ始めた。
深いため息をつくと、外はすっかり夕闇が迫っている。
あのレオナルドが焦りに焦れ、何をするか分からない。
不確かな情報源から送られてきた書類が真実であれば、彼の破綻はすぐそこまで迫っているのかもしれない。
だけど、私は自分に言い聞かせる。
この道は、私自身が選んだ道なのだ。
公爵夫人の座から降りてでも、自分の誇りを守ると決めたのだから、今さら悲観する必要はない。
そっと窓際へ歩み寄り、涼やかな夜風を感じる。
庭の小さな灯りがゆらゆらと揺れる光景を眺めながら、私は少しだけ安堵し、そしてほんの少しだけ心細さを感じていた。
ともあれ、借金問題はもう後戻りできない段階へ進んでいるようだ。
お父様が戻ってきたら、改めて方針を相談しよう。
それまでは私がブライト伯爵家を守り、そして、自分自身を守り抜くしかないのだから。
その中身を読み進めるうちに、知らず手先が震えた。
差出人の名はなく、けれど内容にはグランツ公爵家が多額の借金を抱えていることが詳細に書かれている。
しかも、その返済期限が迫っているという事実まで──。
まさか、あのレオナルドが資金繰りに追われているというのだろうか。
かつて婚約者だった頃の彼は、いつも自信満々で、足元が危ういようには見えなかった。
しかし、先日の監査で見えてきた不正や財務の杜撰さを思えば、今更驚くことではないのかもしれない。
私は最初こそ「これは何かの嫌がらせかもしれない」と疑ったが、記載された借金の具体的な金額や、それに付随する契約条件を眺めるほど、それが作り話ではないことをひしひしと感じた。
私はすぐに執務室で執筆の準備をし、書類の内容をお父様に伝える手紙を書き始める。
いま王都にいるお父様なら、これがどの程度信憑性のある情報なのか判断してくださるに違いない。
少しでも早く意見を仰ぎたいという気持ちで、筆先は自然と急ぎがちになる。
だが、書いているうちに、私は一度息をついて冷静になろうとした。
彼らの借金がどれほど深刻であろうと、それは私自身には直接の関係がない。
あのレオナルドを追い詰める材料が増えたとしても、私はもうすでに過去の関係に囚われるつもりはないのだから。
とはいえ、グランツ公爵家がこれ以上暴走しないためにも、状況を把握しておくのは大切だ。
私にとって彼らは、いずれ自滅する存在であっても、迂闊に油断して自分の身が危険に晒されるのは避けたい。
手紙を書き終え、封をして、すぐに信頼できる召使いに託す。
ブライト伯爵領の屋敷を出て王都へ向かったその召使いを見送ったあと、私は小さく息を吐いた。
迷いや戸惑いではなく、何かを整理するための吐息だった。
「これで、お父様はきっとすぐに動いてくださるわ」
そう自分に言い聞かせ、私は今日の用事をこなしに行くことにする。
借金の噂は確かに重大だが、そればかりに囚われて日常の務めを疎かにはできない。
夕刻、庭で夕食前の一服を楽しんでいるときだった。
控えめなノックとともに、侍女が訪問者の名を告げる。
「リリー様、アレクシス殿下がお見えになっています」
まさか、こんな時間にわざわざ私の家を訪ねてこられるとは。
突然のことに戸惑いつつも、私は態度を取り繕いながら応接室へと向かった。
アレクシス殿下はすでに部屋の中央で待たれていて、私を見るとすぐに微笑んでくださった。
銀色に近い淡いブロンドの短髪と深い青の瞳は、いつもながら穏やかな印象を与えてくれる。
「リリー、急に押しかけてすまないね。大事な話があって来たんだ」
その言葉に、私の胸が少しだけ高鳴る。
彼はいつも柔らかい物腰と誠実な言葉遣いで私に接してくれるから、つい心が安堵してしまうのだ。
「いえ、突然でも殿下なら大歓迎です。どうなさいました?」
私は余裕を装い、静かにソファへと腰を下ろしていただく。
殿下が席に着かれ、私も向かい側に腰をかけると、侍女が淹れたての紅茶をそっと置いていった。
部屋にはほのかにアールグレイの香りが漂い、落ち着く空気が流れる。
「実は、グランツ公爵家の財政について、王宮でも本格的な調査が進んでいるんだ。リリーのところにも、いろいろな情報が入ってきていると思う」
私はそれとなく書類のことを思い出し、視線を下に向ける。
彼は続けて、申し訳なさそうな表情をした。
「もし危険が及びそうなときは、僕が全力で手を貸す。だから、なんでも相談してほしいんだ」
「ありがとうございます。ですが、私がいま抱えているのは、公爵家のことでしょう? 私から動かずとも、彼らが勝手に自滅していくと思います」
ほんの少し刺のある言い方になってしまった。
けれど、それが私の本音だった。
「そう……確かに、放っておいても深刻な状況に陥るだろうね。ただ、彼らが追い詰められたとき、最後の悪あがきでリリーを攻撃するかもしれない。だからこそ、万全を期したいんだ」
殿下の優しさが伝わってくる言葉だった。
私は静かに頷き、殿下が差し伸べてくれる手を素直に受け取るべきか少し考える。
「ご心配いただき感謝します。もし何かあれば、どうかそのときにお力添えをお願いさせてください」
「もちろん」
殿下ははっきりと肯定し、私の返事を待ってくださる。
そんな彼の誠実な態度に、再び私の心は少しずつ揺れる。
そして最後に、殿下は少し真剣な表情を浮かべた。
「リリー……いずれ、ちゃんと僕の気持ちを聞いてほしい。でも、今はまだ早いかもしれないね」
その言葉の真意をはっきりと問う勇気は、私にはなかった。
それでも、殿下の想いはうすうす感じてしまう。
「殿下のお気持ちは……きっと、嬉しく思います」
そう返すのが精一杯だった。
何故か胸の奥が熱くなるのを感じながら、私は紅茶を一口すすった。
ほどなくして殿下は席を立ち、余裕ある微笑みを残して帰っていかれる。
私は見送りのために玄関先まで並んで歩きながら、彼の後ろ姿を見つめた。
その姿に、これまで感じたことのない不思議な安堵を覚える。
部屋に戻ると、先ほどお父様へ送った手紙がどう受け止められるかを考え始めた。
もしグランツ公爵家の借金が本当なら、いずれ王都全体を巻き込む大騒動になるかもしれない。
それだけの大金を動かせる家は限られているし、その返済が滞れば、公爵家が破産する可能性すらある。
そうなれば、レオナルドとカトリーナの派手な遊興も維持できなくなるどころか、公爵家全体が危機に陥るのだ。
これまでの仕打ちを考えれば、その報いを受けるのは当然なのだろう。
けれど、まだ事態は進行中で、彼らが逆恨みして私に矛先を向けてくる可能性も否定できない。
あくまで冷静に、確実に手を打たなければ……私は頭を切り替え、今後の対策をまとめ始めた。
深いため息をつくと、外はすっかり夕闇が迫っている。
あのレオナルドが焦りに焦れ、何をするか分からない。
不確かな情報源から送られてきた書類が真実であれば、彼の破綻はすぐそこまで迫っているのかもしれない。
だけど、私は自分に言い聞かせる。
この道は、私自身が選んだ道なのだ。
公爵夫人の座から降りてでも、自分の誇りを守ると決めたのだから、今さら悲観する必要はない。
そっと窓際へ歩み寄り、涼やかな夜風を感じる。
庭の小さな灯りがゆらゆらと揺れる光景を眺めながら、私は少しだけ安堵し、そしてほんの少しだけ心細さを感じていた。
ともあれ、借金問題はもう後戻りできない段階へ進んでいるようだ。
お父様が戻ってきたら、改めて方針を相談しよう。
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