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舞踏会の熱気から一夜明け、私は父であるジャン・クロード・ブライト伯爵と共に、屋敷の応接室で向き合っていた。
父は落ち着いた茶系の貴族服に身を包み、いつものように小さな丸眼鏡をかけている。その表情は穏やかながらも、どこか厳格な雰囲気が漂っていた。
「リリー、昨日の舞踏会での出来事はもう耳にしているよ。王太子殿下がきみをダンスに誘ったというのは、相当な注目を集めているようだね」
私は静かにうなずく。あの夜の出来事は、さほど感情を揺らさなかったと自分では思っていたが、少しだけ胸の奥に温かいものが残っている。
「ええ。アレクシス殿下は、本当に紳士的で……私のような者をわざわざ救ってくださるのだから」
すると父が微笑しながら首を振った。
「救うなんて言うと、またおまえが自分を卑下しているように聞こえる。殿下はリリー個人を認めておられるのだろう」
私は父の言葉に苦笑する。自分を卑下するつもりはないけれど、まだどこか傷が深いのは事実だ。そんな私を察してか、父は椅子を少し引き寄せ、話の腰を深めた。
「公爵家……レオナルドのことだが、あの男がかなり焦っているという話を聞いた。婚約解消の正式な書類を急いで提出しようとしているようだが、不備が多いんだろう?」
「はい。既に父とも内容を確認しましたが、結婚同意の欄に署名が抜けているなど初歩的なミスがありました」
「まったく、公爵家ともあろうものが何をしているのか。身分を笠に着た雑な対応は、いずれ自らの首を絞めることになる」
父はそう言って苦々しい表情を浮かべる。私は昨日、レオナルドが放った言葉を思い出していた。あの人は明らかに私を執拗に潰そうとしている。だがそれは、彼自身の焦りを隠せない証拠でもあるのだろう。
「お父様、彼らがいくら荒い手を使っても、私たちは法と礼儀に則って対処するだけで十分だと思います。それに、レオナルド自身が自滅しそうな予感もありますし」
言いながら、自分がひどく冷めた考えをしていると気づく。以前の私は、婚約者であるレオナルドのために淑女としてどれだけ完璧に振る舞えるかと必死だった。だけど今は彼がどうなろうと、心が痛まない。むしろ……
「リリー、おまえが自ら復讐を望んでいるとは思わないが、もし困ったことが起きれば迷わず言うんだぞ。父親としては、娘がまた傷つくのは見たくないからね」
「ええ、ありがとう。私は大丈夫です」
そう言いきった私の手元に、侍女が一通の手紙を携えてやってきた。封蝋もなく、差出人もわからない。
「どなたからの手紙かしら……?」
父と共に内容を確認しようと開封すると、そこには奇妙な文章が並んでいた。
「……“グランツ公爵家が国庫から資金を不正に回している疑いあり”?」
私は声に出すと同時に顔を上げる。父の表情も一瞬固まった。
「もしこれが本当ならば、公爵家にとっては大問題だ。この国の国庫に手を出すなど、重大な罪に問われるのは間違いない。だが、どこまで信ぴょう性があるのか」
父は書かれた内容をじっと見つめ、思案に暮れている。
「わざわざ匿名で送られてきたあたり、何らかの意図が感じられますね。でも、万が一本当のことなら、レオナルドは公爵家の地位を武器にしてきたけれど、その基盤そのものが崩れる可能性があります」
私がそう言うと、父は静かに立ち上がり、ローブを羽織りながら小さく息をついた。
「とにかく、王都へ行って裏を探ろう。もしこの告発が真実なら、公爵家がますます焦っておまえを攻撃してくるかもしれない。安全には気をつけるんだよ」
「わかりました。私も身辺を警戒しつつ、何かわかればすぐに父にお知らせします」
父が決意を固めて部屋を出ると、私は手紙を見つめながら考え込む。レオナルドと公爵家の闇がここまで深いものだとは、正直想像していなかった。私は再び筆を取り、何か思いついた言葉をしたためようと机に向かう。
浮かんだのは、冷たい感情と静かな決心。あれだけ私を軽んじ、侮辱し、そして婚約まで破棄したレオナルドだ。もし本当に違法行為をしているなら、彼の未来は自らの手で崩れ落ちるだろう。
だけど私は、恨みを晴らすことだけを目的にして生きてはいない。ただ、正しいことをしたい。彼が間違いを犯しているなら、相応の罰を受けるべきだ。それだけのことだ。
そうしてペンを走らせていると、窓の外に人影が見えた気がして、私は一瞬眉をひそめる。急いで外を確認すると、そこには赤いドレスを着た誰かが街路を歩いて去っていくのが見えた。遠目ながら、その巻き髪と派手な装飾品はどこかカトリーナを思い出させる。
彼女がこんな場所まで来るはずがないと思いたいが、もし本当にあの二人が私へ何か仕掛けてくるのなら……。
私は手紙をテーブルに置き、深く息をついた。
ざわつく胸を抑えていると、外は鈍い曇り空。まるで公爵家の先行きを暗示するかのようだ。
父は落ち着いた茶系の貴族服に身を包み、いつものように小さな丸眼鏡をかけている。その表情は穏やかながらも、どこか厳格な雰囲気が漂っていた。
「リリー、昨日の舞踏会での出来事はもう耳にしているよ。王太子殿下がきみをダンスに誘ったというのは、相当な注目を集めているようだね」
私は静かにうなずく。あの夜の出来事は、さほど感情を揺らさなかったと自分では思っていたが、少しだけ胸の奥に温かいものが残っている。
「ええ。アレクシス殿下は、本当に紳士的で……私のような者をわざわざ救ってくださるのだから」
すると父が微笑しながら首を振った。
「救うなんて言うと、またおまえが自分を卑下しているように聞こえる。殿下はリリー個人を認めておられるのだろう」
私は父の言葉に苦笑する。自分を卑下するつもりはないけれど、まだどこか傷が深いのは事実だ。そんな私を察してか、父は椅子を少し引き寄せ、話の腰を深めた。
「公爵家……レオナルドのことだが、あの男がかなり焦っているという話を聞いた。婚約解消の正式な書類を急いで提出しようとしているようだが、不備が多いんだろう?」
「はい。既に父とも内容を確認しましたが、結婚同意の欄に署名が抜けているなど初歩的なミスがありました」
「まったく、公爵家ともあろうものが何をしているのか。身分を笠に着た雑な対応は、いずれ自らの首を絞めることになる」
父はそう言って苦々しい表情を浮かべる。私は昨日、レオナルドが放った言葉を思い出していた。あの人は明らかに私を執拗に潰そうとしている。だがそれは、彼自身の焦りを隠せない証拠でもあるのだろう。
「お父様、彼らがいくら荒い手を使っても、私たちは法と礼儀に則って対処するだけで十分だと思います。それに、レオナルド自身が自滅しそうな予感もありますし」
言いながら、自分がひどく冷めた考えをしていると気づく。以前の私は、婚約者であるレオナルドのために淑女としてどれだけ完璧に振る舞えるかと必死だった。だけど今は彼がどうなろうと、心が痛まない。むしろ……
「リリー、おまえが自ら復讐を望んでいるとは思わないが、もし困ったことが起きれば迷わず言うんだぞ。父親としては、娘がまた傷つくのは見たくないからね」
「ええ、ありがとう。私は大丈夫です」
そう言いきった私の手元に、侍女が一通の手紙を携えてやってきた。封蝋もなく、差出人もわからない。
「どなたからの手紙かしら……?」
父と共に内容を確認しようと開封すると、そこには奇妙な文章が並んでいた。
「……“グランツ公爵家が国庫から資金を不正に回している疑いあり”?」
私は声に出すと同時に顔を上げる。父の表情も一瞬固まった。
「もしこれが本当ならば、公爵家にとっては大問題だ。この国の国庫に手を出すなど、重大な罪に問われるのは間違いない。だが、どこまで信ぴょう性があるのか」
父は書かれた内容をじっと見つめ、思案に暮れている。
「わざわざ匿名で送られてきたあたり、何らかの意図が感じられますね。でも、万が一本当のことなら、レオナルドは公爵家の地位を武器にしてきたけれど、その基盤そのものが崩れる可能性があります」
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「とにかく、王都へ行って裏を探ろう。もしこの告発が真実なら、公爵家がますます焦っておまえを攻撃してくるかもしれない。安全には気をつけるんだよ」
「わかりました。私も身辺を警戒しつつ、何かわかればすぐに父にお知らせします」
父が決意を固めて部屋を出ると、私は手紙を見つめながら考え込む。レオナルドと公爵家の闇がここまで深いものだとは、正直想像していなかった。私は再び筆を取り、何か思いついた言葉をしたためようと机に向かう。
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そうしてペンを走らせていると、窓の外に人影が見えた気がして、私は一瞬眉をひそめる。急いで外を確認すると、そこには赤いドレスを着た誰かが街路を歩いて去っていくのが見えた。遠目ながら、その巻き髪と派手な装飾品はどこかカトリーナを思い出させる。
彼女がこんな場所まで来るはずがないと思いたいが、もし本当にあの二人が私へ何か仕掛けてくるのなら……。
私は手紙をテーブルに置き、深く息をついた。
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