【完結保証】愛妾と暮らす夫に飽き飽きしたので、私も自分の幸せを選ばせてもらいますね

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 博覧会も開催期間の後半に入り、各国の要人や商談を求めるバイヤーたちの熱気がさらに高まっていた。
 私たちのブースも相変わらず盛況で、軽くて丈夫な新素材の呉服は世界中の人々の目を惹きつけ続けている。

 朝早くから、私は展示の準備やスタッフへの指示に追われていた。
 列をなす来場者の対応、商談相手への説明、サンプルの手配など、やるべきことは尽きない。
 それでも、不思議と気力が落ちることはなく、むしろ充実感が増していると感じる。

「綾乃さん、こちらのフランス商社の方が再度お話を伺いたいそうです」
 
 ラウレンス氏の声に呼ばれ、私は急いで駆け寄る。
 穏やかな笑顔のフランス人バイヤーが、サンプルの反物を手にしながら熱心に質問していた。
 商品の輸送方法や、イギリスからフランスへの移動に伴う関税など、細かな問題は山積みだが、少しずつ解決策が見えてきた。

「問題はありません。
 私たちとしては、できる限りスムーズに流通できるよう準備を進めます」
 
 そう答えると、バイヤーは嬉しそうに頷き、さらに詳しい打ち合わせの日程を提案してくれた。
 具体的な数字やスケジュールが決まり始めると、夢が現実に近づいているのだと実感する。
 私は自然と笑みがこぼれ、「ありがとうございます」と深く頭を下げた。

 ブースに戻る途中、何人もの来場者に呼び止められては商品説明を繰り返す。
 一つひとつの問いに答えているうちに、朝からの疲れが肩に溜まってきた気がするが、意欲は途切れない。
 父が生前に温めていた研究が、こうして実を結び、多くの人に評価されているのだと思うと、踏ん張りが効くのだ。

 昼過ぎ、ようやく落ち着いて椅子に腰掛けた瞬間、会場スタッフが慌ただしい様子で私たちのブースへやってきた。

「そちらのご関係者様にお伝えしたいことがあります。
 ……先日問題を起こされた男性、堀口という方についてですが、今朝、会場近くで警察に拘束されました。
 公序良俗に反する行為や暴力の恐れがあるという理由で、いったん留置されるとのことです」

 その報せを聞いた瞬間、胸の奥でわずかな安心感が広がる。
 堀口がここ数日、会場内外で騒ぎを起こしていたのは間違いない事実だ。
 私自身も何度も嫌な思いをさせられてきた。

「そうですか……。
 警備の方も、ずいぶん苦労をかけてしまっていましたから……ありがとうございます」

 私は小さく頭を下げ、スタッフに礼を言った。
 これで、少なくともこの博覧会の残りの期間は、堀口が実力行使で私に近づくことはなくなる。
 ほっとする反面、あの人がなぜそこまでして私を引きずり降ろそうとしたのか――いや、もう考えるだけ無駄だと思い直す。

「綾乃さん、少し休んでください。
 昨日からほとんど立ちっぱなしですし、さすがに体に障ります」

 ラウレンス氏にそう言われ、私は頷きながらスタッフ専用の休憩スペースへ向かった。
 控室にはテーブルと椅子が置かれ、コーヒーや軽食が準備されている。
 腰を下ろしてひと息ついていると、今度は藤堂様がひょいと顔を出した。

「堀口の一件、聞きました。
 警察に拘束されたとのことですね。
 これで博覧会は安心して続けられそうです」

「ええ……そうですね。
 ようやく、不安の種がひとつ消えました」

 それは大きな安心材料だった。
 父の研究を示すために来たイギリスで、あの男の影に怯えながら過ごすのはもううんざりだったからだ。
 藤堂様は私の安堵を汲み取るように、穏やかな声で続ける。

「それと、新素材の評判ですが、どうやら海外メディアにも取り上げられているようです。
 現地の新聞社や雑誌にも記事が掲載される予定だとか。
 欧州の市場に進出したいなら、ここからが本番ですよ」

「本番……そうですね。
 まだまだ越えなきゃいけないハードルはあると思いますけれど、皆さんのお力を借りて頑張ります」

 私が微笑んでそう答えると、藤堂様は「頼もしい限りです」と言い、小さく会釈して控室を出ていった。

 落ち着いたのもつかの間、午後のピークタイムがやってくる。
 各国のバイヤーが次々に商談の時間を取りたいと申し出てくれ、ブースには列ができるほどだ。
 英語での対応が追いつかないときは、ラウレンス氏や通訳の協力を仰ぎ、休む暇もなく説明を続ける。

 夕方、ようやく来場者が減ってきた頃、私たちはブースの奥で軽い打ち合わせを始めた。

「今後の流れとしては、博覧会終了後も滞在を延長して、本格的に契約条件を詰めましょう。
 フランスやドイツ、さらにアメリカへも販路を開拓できるかもしれません」

 ラウレンス氏が地図や資料を示しながら提案する。
 私の目には、その資料が輝いて見えた。
 日本での発売にとどまらず、世界へと広がる父の研究――それこそが、父が夢見ていた「新しい時代」なのだと思う。

 ところが、その充実感の裏で、私は妙な胸騒ぎを覚えていた。
 堀口は拘束されたはずなのに、なぜか完全に不安が消え去らない。
 その理由をはっきり言葉にできないまま、私は忙しさにかまけて考えることをやめてしまう。

 夜になり、ブースの片づけが終わると、ラウレンス氏やスタッフとともに宿へ戻る。
 食事を取りながら今日の出来事を振り返り、堀口が引き起こした問題に誰もがため息をつく。
 けれど、拘束されたのなら少なくとも博覧会を荒らされる心配はない――そう互いを励まし合い、部屋に引き上げた。

 私はベッドに倒れ込むように横になり、ふと父の帯留めに触れる。
 「もう少しであなたの研究が世界に広まるわよ」――そう心の中で呟くと、不思議と体の疲れがいくらか和らいだ気がした。
 明日もまた忙しい一日が待っているが、これは私が望んだ道。
 そう思えば、どんなに大変でも前に進む力が湧いてくるのだ。
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