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そして、ついに博覧会の開幕が訪れた。
ロンドンの街がざわめきに包まれ、各国からの観光客や出展者が大勢詰めかけている。
私たちのブースがある会場も、朝早くから人の流れが途切れず、入り口付近では長い列ができているという話を聞く。
「さあ、綾乃さん。準備はいいですか?」
ラウレンス氏が隣で声をかける。
私は深呼吸をひとつして、持っていた着物の襟元を正す。
「ええ、大丈夫です。
今まで準備してきたことをしっかり見せるだけ。
やるべきことは明確ですから」
開幕の合図とともに、私たちは新素材の呉服を展示するブースで来場者を迎えはじめる。
ブースには桜の花びらをイメージした装飾や、日本的な和紙を貼ったパネルが並び、そこに英語と日本語で「HA-MURO TEXTILE(葉室の織物)」などの文字を掲げた。
ラウレンス氏と藤堂様が補助してくれるおかげで、英語での説明もなんとか形になっている。
「Oh, what a beautiful kimono!」
「Look how light it is! I’ve never seen such material!」
あちこちから驚きの声が上がる。
新素材を手に取った人々が、その軽さと光沢に目を丸くしている。
私は微笑みながら「It’s very strong and it can be dyed in vivid colors.(とても丈夫で、鮮やかな色合いを出すことができます)」と説明を繰り返す。
完璧な発音ではないかもしれないが、皆が興味津々の様子を見ていると、言葉の壁も超えられるような気がしてくる。
ブースの奥では、作り帯の実演コーナーを設けた。
ラウレンス氏の提案どおり、最初から帯の形をある程度整えておくことで、現地の方が自力で腰に巻き付けやすくなっている。
それを見た来場者は「Oh, it’s so easy!」と歓喜し、笑顔で鏡の前に立ってポーズをとる。
この瞬間、私は強く思うのだ――「父がこの場にいたら、きっと喜んでくれただろうな」と。
昼過ぎ頃、一段落ついたタイミングで、伯爵家の藤堂様が私に「さすがです」と声をかけてくれた。
会場内を巡ってきたらしく、同じ日本からの出展者と比べても、私たちのブースがひときわ注目を集めているようだ。
やはり「軽い」「丈夫」「染めが美しい」という点が人々の感性に響くのだろう。
「綾乃さん、ここまで盛り上がるなんて予想以上ですよ。
欧州の人々にとって、呉服はまだ珍しく、神秘的なものでもあるのです。
新素材の技術や実用性が加われば、さらに興味が増すのは当然かもしれませんね」
藤堂様の言葉に、私は素直にうなずく。
もし離縁をしていなかったら、この場に来られなかった。
愛妾や姑の存在に萎縮して、父の研究を世に広めるどころか自分の人生すら歩めなかったはずだ。
あの暗闇を経て、こうして華やかな舞台で日本の呉服を紹介している自分がいる――それはまるで奇跡のようでもある。
夕方になると、来場者が少し落ち着き、私は少しだけブースを抜け出して会場内を見て回ることにした。
遠くでは華やかな舞踊や、機械の実演、各国の料理の試食など、多彩なパフォーマンスが行われている。
まさに世界が一堂に集うお祭りだと感じる。
「日本の伝統も、こうして世界の前で光を放てるのね」
呟きながら、私は父の帯留めに触れ、強く胸に誓う。
堀口家のしがらみを抜け出したからこそ、私は自由に世界を見られる。
この博覧会での成功をきっかけに、もっと大きな目標を追いかけたいとも思う。
欧州各地を巡るのも面白いし、新素材を使った新しいデザインを開発する余地も無限にあるはずだ。
夜になり、会場が閉まるころにはブースは大賑わいのまま終わりを迎えた。
それぞれの国の人々が「明日も来ていいか?」などと言い残して去っていく光景に、私たちは感謝と疲労を抱きつつ微笑みで送り出す。
完全に片づけを終えたあと、控室に戻った私は、大きく息をついた。
「なんて充実した一日なんだろう」
堀口家で悶々と過ごしていた日々とは比べ物にならないくらい、頭も体も使ったが、それ以上の達成感がある。
私にとって、離縁は決して無駄ではなかった。
この瞬間、父が夢見た「呉服の未来」が確かに色づいてきているのだと感じる。
「父様、見たかしら……あなたの研究が、こんなにも多くの人を魅了しているのよ」
心の中で語りかけると、胸が熱くなり、瞳が潤む。
悪夢のような堀口家での生活は、すべてがこれにつながるステップだったのかもしれない。
あの時は地獄のように感じたが、いまはこうして自らの足で世界に立つことができている。
「綾乃さん、今日のところはお疲れさまでした」
ラウレンス氏が肩をぽんと叩き、笑顔で言う。
「明日以降も頑張りましょうね」と。
「もちろんです。
まだまだ始まったばかりですから」
私は心地よい疲れを抱えながらそう答えた。
博覧会はしばらく続くし、欧州での展開はこれからが本番だ。
新素材の呉服が世界に溶け込み、たくさんの人の人生を彩るようになったとき、きっと父は微笑んでくれるに違いない。
日本を出てきたばかりとは思えないほど、このロンドンという場所になじめそうな気がしていた。
もう、愛妾や姑の声に脅かされることはない。
離縁によって得た自由と父の研究への誇りを胸に、私は新しい世界の扉を大きく開こうと決意するのだった。
ロンドンの街がざわめきに包まれ、各国からの観光客や出展者が大勢詰めかけている。
私たちのブースがある会場も、朝早くから人の流れが途切れず、入り口付近では長い列ができているという話を聞く。
「さあ、綾乃さん。準備はいいですか?」
ラウレンス氏が隣で声をかける。
私は深呼吸をひとつして、持っていた着物の襟元を正す。
「ええ、大丈夫です。
今まで準備してきたことをしっかり見せるだけ。
やるべきことは明確ですから」
開幕の合図とともに、私たちは新素材の呉服を展示するブースで来場者を迎えはじめる。
ブースには桜の花びらをイメージした装飾や、日本的な和紙を貼ったパネルが並び、そこに英語と日本語で「HA-MURO TEXTILE(葉室の織物)」などの文字を掲げた。
ラウレンス氏と藤堂様が補助してくれるおかげで、英語での説明もなんとか形になっている。
「Oh, what a beautiful kimono!」
「Look how light it is! I’ve never seen such material!」
あちこちから驚きの声が上がる。
新素材を手に取った人々が、その軽さと光沢に目を丸くしている。
私は微笑みながら「It’s very strong and it can be dyed in vivid colors.(とても丈夫で、鮮やかな色合いを出すことができます)」と説明を繰り返す。
完璧な発音ではないかもしれないが、皆が興味津々の様子を見ていると、言葉の壁も超えられるような気がしてくる。
ブースの奥では、作り帯の実演コーナーを設けた。
ラウレンス氏の提案どおり、最初から帯の形をある程度整えておくことで、現地の方が自力で腰に巻き付けやすくなっている。
それを見た来場者は「Oh, it’s so easy!」と歓喜し、笑顔で鏡の前に立ってポーズをとる。
この瞬間、私は強く思うのだ――「父がこの場にいたら、きっと喜んでくれただろうな」と。
昼過ぎ頃、一段落ついたタイミングで、伯爵家の藤堂様が私に「さすがです」と声をかけてくれた。
会場内を巡ってきたらしく、同じ日本からの出展者と比べても、私たちのブースがひときわ注目を集めているようだ。
やはり「軽い」「丈夫」「染めが美しい」という点が人々の感性に響くのだろう。
「綾乃さん、ここまで盛り上がるなんて予想以上ですよ。
欧州の人々にとって、呉服はまだ珍しく、神秘的なものでもあるのです。
新素材の技術や実用性が加われば、さらに興味が増すのは当然かもしれませんね」
藤堂様の言葉に、私は素直にうなずく。
もし離縁をしていなかったら、この場に来られなかった。
愛妾や姑の存在に萎縮して、父の研究を世に広めるどころか自分の人生すら歩めなかったはずだ。
あの暗闇を経て、こうして華やかな舞台で日本の呉服を紹介している自分がいる――それはまるで奇跡のようでもある。
夕方になると、来場者が少し落ち着き、私は少しだけブースを抜け出して会場内を見て回ることにした。
遠くでは華やかな舞踊や、機械の実演、各国の料理の試食など、多彩なパフォーマンスが行われている。
まさに世界が一堂に集うお祭りだと感じる。
「日本の伝統も、こうして世界の前で光を放てるのね」
呟きながら、私は父の帯留めに触れ、強く胸に誓う。
堀口家のしがらみを抜け出したからこそ、私は自由に世界を見られる。
この博覧会での成功をきっかけに、もっと大きな目標を追いかけたいとも思う。
欧州各地を巡るのも面白いし、新素材を使った新しいデザインを開発する余地も無限にあるはずだ。
夜になり、会場が閉まるころにはブースは大賑わいのまま終わりを迎えた。
それぞれの国の人々が「明日も来ていいか?」などと言い残して去っていく光景に、私たちは感謝と疲労を抱きつつ微笑みで送り出す。
完全に片づけを終えたあと、控室に戻った私は、大きく息をついた。
「なんて充実した一日なんだろう」
堀口家で悶々と過ごしていた日々とは比べ物にならないくらい、頭も体も使ったが、それ以上の達成感がある。
私にとって、離縁は決して無駄ではなかった。
この瞬間、父が夢見た「呉服の未来」が確かに色づいてきているのだと感じる。
「父様、見たかしら……あなたの研究が、こんなにも多くの人を魅了しているのよ」
心の中で語りかけると、胸が熱くなり、瞳が潤む。
悪夢のような堀口家での生活は、すべてがこれにつながるステップだったのかもしれない。
あの時は地獄のように感じたが、いまはこうして自らの足で世界に立つことができている。
「綾乃さん、今日のところはお疲れさまでした」
ラウレンス氏が肩をぽんと叩き、笑顔で言う。
「明日以降も頑張りましょうね」と。
「もちろんです。
まだまだ始まったばかりですから」
私は心地よい疲れを抱えながらそう答えた。
博覧会はしばらく続くし、欧州での展開はこれからが本番だ。
新素材の呉服が世界に溶け込み、たくさんの人の人生を彩るようになったとき、きっと父は微笑んでくれるに違いない。
日本を出てきたばかりとは思えないほど、このロンドンという場所になじめそうな気がしていた。
もう、愛妾や姑の声に脅かされることはない。
離縁によって得た自由と父の研究への誇りを胸に、私は新しい世界の扉を大きく開こうと決意するのだった。
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