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欧州への渡航といえば、長い船旅が待っている。
鉄道や飛行機など、まだまだ限られた手段しか存在しないこの時代、ロンドンへ行くには横浜から出る定期航路を利用するのが一般的だ。
伯爵家が手配してくれるという豪華客船は、それでも数週間かけて海を渡るらしい。
私たちはその間に疲労や船酔い、未知の病気などと対峙せねばならない。
出発日まであまり余裕がないことを知ると、私は慌ただしく支度に追われ始めた。
まずは持って行く着物や反物、展示用の資料をまとめ、船便で先に送るものと手荷物にするものを区分しなくてはならない。
せっかくロンドンで呉服を披露するのに、父が丹精込めた新素材のベストなラインナップを持ち込まないわけにはいかない。
「綾乃様、この箱は何に使われますか?
欧州に送る予定の反物でしょうか?」
「ええ、海外向けに特別に仕上げた淡い色合いの反物も入っているから、しっかり梱包しておいてちょうだい。
湿気に弱いので、乾燥剤を多めに入れてね」
離れの部屋を倉庫さながらに使いながら、使用人や職人たちが合力して梱包を進めている。
私は指示を出しつつ、自分自身の身支度も忘れないように気を配る。
洋装と和装、どちらもロンドンでは必要になると聞いているからだ。
伯爵家やラウレンス氏が「あなたの着物姿を現地でも披露するべき」と勧めてくれたが、洋装の方が動きやすい場面も多いだろう。
夜が更ける頃になって、ようやく最初の積み荷が整った。
翌朝には船便業者が取りに来るというから、私は入念にチェックを終えて一息つく。
そこへ、母がひっそりと差し入れを持ってきてくれた。
「綾乃、あまり無理しすぎないでね。
今までだって頑張りすぎて、倒れかけたこと何度もあったでしょう。
欧州に着くまで長いんだから、体力を温存しておくのよ」
その穏やかな声に、私は苦笑しながら首を振る。
「大丈夫、母様。
これでも昔よりは自分を労わるようになったつもり。
離縁のあれこれで疲弊する日々があったけど、今はもう解放されたんだから、心の余裕もあるわ」
母は納得したように微笑み、小さく肩を叩いてくれる。
私にとって、母の存在はいつも大きい。
堀口家との争いで心が折れかけたときも、母のさりげない気遣いがあったからこそ立ち直れたのかもしれない。
ほどなくして、葉室家に仕える人々もそれぞれ私に声をかける。
職人たちは「欧州で受けそうなデザインのイメージができたら、すぐに手紙で教えてくれ」と言い、使用人たちは「葉室家の留守は任せてください」と胸を張る。
仲間たちからの温かい言葉を耳にすると、少し寂しさがこみ上げてきた。
「そうだ……私、当分家を空けることになるのよね」
欧州への旅は短くても何ヶ月という単位で帰ってこられない。
日本を発ち、ロンドンの博覧会に参加し、その後にまた船で戻るまでの時間を考えると、気が遠くなるほどだ。
でも、これも父が夢見た未来のため、葉室家を次の時代へ導くためだと思えば心が強くなる。
その夜、伯爵家の藤堂様から馬車での迎えがあり、急ぎの打ち合わせを行うことになった。
ロンドンでの博覧会参加に際して、どのような手続きが必要なのか、現地での滞在先はどうするのかなど、細かな調整が山ほどあるという。
「綾乃さん、渡航にはパスポートや海外渡航許可証など、いろいろと書類が要りますよ。
伯爵家で手配しているものもありますが、あなた自身も署名や押印が必要ですから、時間のあるうちに済ませてくださいね」
「わかりました。私、こういった書類仕事は慣れていなくて……堀口家にいた頃は、すべてあちらの都合に合わせるだけでしたから」
口に出して初めて、堀口家との結婚生活がいかに私の意思を無視していたかを再認識する。
今こうして自分の判断で海外へ行く道を選べるのは、離縁したからこその自由なのだと改めて感じる。
「でも、逆に言えばこの自由を最大限に活かせるのはあなたですよ。
書類仕事なら私たちがサポートしますから、安心してください」
藤堂様の優しい眼差しを受けて、私は「よろしくお願いします」と深々と頭を下げる。
かつての私なら、こういう大きな話に尻込みしていただろう。
けれど、父の研究を守り抜いた経験と、香織や姑の理不尽を乗り越えた自負が、私に新たな勇気を与えている。
打ち合わせを終えて葉室家に戻る頃には、深夜に近い時間帯になっていた。
門の前では下男が灯りを持って出迎えてくれ、「綾乃様、お帰りなさいませ」と丁寧に頭を下げる。
かつて堀口家の離れに置かれていた頃の孤独とは、まるで違う温もりを感じる。
離れの部屋に入ると、少しだけ肌寒い。
火を起こして湯を沸かし、ひと口すすってから帯留めに触れてみる。
父様、私はこれから遠い海を渡ることになるよ……。
そう心の中で呟くと、帯留めに宿るかのような父の思いが伝わってくる気がする。
「行ってきます、父様。
あなたの研究を、世界に伝えてくる」
そして私は、船旅を前に葉室家での暮らしに別れを告げる準備を進める。
堀口家の呪縛から離れられた今、私の人生は私が舵を取る。
大海原がどんな荒波を見せても、私はもう恐れずに進むつもりだ。
鉄道や飛行機など、まだまだ限られた手段しか存在しないこの時代、ロンドンへ行くには横浜から出る定期航路を利用するのが一般的だ。
伯爵家が手配してくれるという豪華客船は、それでも数週間かけて海を渡るらしい。
私たちはその間に疲労や船酔い、未知の病気などと対峙せねばならない。
出発日まであまり余裕がないことを知ると、私は慌ただしく支度に追われ始めた。
まずは持って行く着物や反物、展示用の資料をまとめ、船便で先に送るものと手荷物にするものを区分しなくてはならない。
せっかくロンドンで呉服を披露するのに、父が丹精込めた新素材のベストなラインナップを持ち込まないわけにはいかない。
「綾乃様、この箱は何に使われますか?
欧州に送る予定の反物でしょうか?」
「ええ、海外向けに特別に仕上げた淡い色合いの反物も入っているから、しっかり梱包しておいてちょうだい。
湿気に弱いので、乾燥剤を多めに入れてね」
離れの部屋を倉庫さながらに使いながら、使用人や職人たちが合力して梱包を進めている。
私は指示を出しつつ、自分自身の身支度も忘れないように気を配る。
洋装と和装、どちらもロンドンでは必要になると聞いているからだ。
伯爵家やラウレンス氏が「あなたの着物姿を現地でも披露するべき」と勧めてくれたが、洋装の方が動きやすい場面も多いだろう。
夜が更ける頃になって、ようやく最初の積み荷が整った。
翌朝には船便業者が取りに来るというから、私は入念にチェックを終えて一息つく。
そこへ、母がひっそりと差し入れを持ってきてくれた。
「綾乃、あまり無理しすぎないでね。
今までだって頑張りすぎて、倒れかけたこと何度もあったでしょう。
欧州に着くまで長いんだから、体力を温存しておくのよ」
その穏やかな声に、私は苦笑しながら首を振る。
「大丈夫、母様。
これでも昔よりは自分を労わるようになったつもり。
離縁のあれこれで疲弊する日々があったけど、今はもう解放されたんだから、心の余裕もあるわ」
母は納得したように微笑み、小さく肩を叩いてくれる。
私にとって、母の存在はいつも大きい。
堀口家との争いで心が折れかけたときも、母のさりげない気遣いがあったからこそ立ち直れたのかもしれない。
ほどなくして、葉室家に仕える人々もそれぞれ私に声をかける。
職人たちは「欧州で受けそうなデザインのイメージができたら、すぐに手紙で教えてくれ」と言い、使用人たちは「葉室家の留守は任せてください」と胸を張る。
仲間たちからの温かい言葉を耳にすると、少し寂しさがこみ上げてきた。
「そうだ……私、当分家を空けることになるのよね」
欧州への旅は短くても何ヶ月という単位で帰ってこられない。
日本を発ち、ロンドンの博覧会に参加し、その後にまた船で戻るまでの時間を考えると、気が遠くなるほどだ。
でも、これも父が夢見た未来のため、葉室家を次の時代へ導くためだと思えば心が強くなる。
その夜、伯爵家の藤堂様から馬車での迎えがあり、急ぎの打ち合わせを行うことになった。
ロンドンでの博覧会参加に際して、どのような手続きが必要なのか、現地での滞在先はどうするのかなど、細かな調整が山ほどあるという。
「綾乃さん、渡航にはパスポートや海外渡航許可証など、いろいろと書類が要りますよ。
伯爵家で手配しているものもありますが、あなた自身も署名や押印が必要ですから、時間のあるうちに済ませてくださいね」
「わかりました。私、こういった書類仕事は慣れていなくて……堀口家にいた頃は、すべてあちらの都合に合わせるだけでしたから」
口に出して初めて、堀口家との結婚生活がいかに私の意思を無視していたかを再認識する。
今こうして自分の判断で海外へ行く道を選べるのは、離縁したからこその自由なのだと改めて感じる。
「でも、逆に言えばこの自由を最大限に活かせるのはあなたですよ。
書類仕事なら私たちがサポートしますから、安心してください」
藤堂様の優しい眼差しを受けて、私は「よろしくお願いします」と深々と頭を下げる。
かつての私なら、こういう大きな話に尻込みしていただろう。
けれど、父の研究を守り抜いた経験と、香織や姑の理不尽を乗り越えた自負が、私に新たな勇気を与えている。
打ち合わせを終えて葉室家に戻る頃には、深夜に近い時間帯になっていた。
門の前では下男が灯りを持って出迎えてくれ、「綾乃様、お帰りなさいませ」と丁寧に頭を下げる。
かつて堀口家の離れに置かれていた頃の孤独とは、まるで違う温もりを感じる。
離れの部屋に入ると、少しだけ肌寒い。
火を起こして湯を沸かし、ひと口すすってから帯留めに触れてみる。
父様、私はこれから遠い海を渡ることになるよ……。
そう心の中で呟くと、帯留めに宿るかのような父の思いが伝わってくる気がする。
「行ってきます、父様。
あなたの研究を、世界に伝えてくる」
そして私は、船旅を前に葉室家での暮らしに別れを告げる準備を進める。
堀口家の呪縛から離れられた今、私の人生は私が舵を取る。
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