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離縁協議から数日後、弁護士を通じて堀口家との協議が正式にまとまり、書面にサインを交わす段取りが整った。
放火未遂への刑事捜査は進行中だが、民事としての婚姻解消は私の有利な形で決着する運びになったのだ。
それは私にとってまさしく「自由になる」ための最終ステップでもあった。
その知らせを母や使用人たちに伝えると、皆が安堵の表情を浮かべてくれた。
葉室家が再興の道を歩み始めた今、私が堀口家に縛られる必要はもうどこにもない。
母は涙を浮かべ、「これで、あの子も自分の幸せを選べるわね」と私の手を握ってくれた。
中瀬執事や老職人たちは「お嬢様が本当に自由になれる」と喜び、呉服作りにさらに熱がこもるようだった。
しかし、その一方で気になる噂が耳に入ってきた。
堀口家の本館で、夫である哲也が不審な行動を繰り返し、家族や周囲の者に暴言を吐き散らしているという話だ。
軍の地位を事実上失いかけている中で、さらに香織との仲も険悪になり、家中で孤立無援の状態に陥っているのだろう。
結果として、精神的に追いつめられているのだと推察された。
「……自分の招いた結果とはいえ、あの人もみじめなものね」
そう呟いてみても、私の胸にはほとんど何の感情も湧いてこない。
かつては夫婦という形で結ばれた仲でも、あれだけ裏切りや暴虐にさらされれば、情も尽きる。
離縁が成立する以上、彼がどう没落しようが私には関係ないのだ。
弁護士からは「正式な書面のやり取りさえ済めば、即日離縁が成立する。あとは役所への届け出だけ」と聞かされている。
つまり、もう一度堀口家と顔を合わせる必要もないし、協議の場も開かれない。
こうしてあっけなく終わるのだと考えると、不思議な感慨がこみ上げる。
夜になって、私は離れの一室でぼんやり考え事をしていた。
父が遺した新素材、伯爵家の協力、呉服事業の成功、そして堀口家からの解放。
これまで走り続けてきた結果、すべてが望む形に近づいている。
ふと、父の写真に目をやると、そこにはどこか誇らしげに微笑んでいる父の姿があった。
「これで、あなたが守ろうとした葉室家は安泰ね」
そう呟くと、部屋の外で軽い足音が聞こえる。
戸を開けて入ってきたのは女中の一人で、少し困ったような顔をしている。
「綾乃様、堀口中尉が外で取り乱しています。
敷地の門のところで、大声を上げて“綾乃に会わせろ”と言って……」
「私に会わせろ?」
思わず眉をひそめる。
もう夫ではない相手が、今さら何の用だろう。
離縁はほとんど確定しているのに、これ以上の話し合いなど存在しない。
「通さなくていいわ。
警備の者に追い返してもらって」
そう指示を出すと、女中はほっとしたように小さく会釈して去っていく。
かつての私は、こういう場面で心が乱れてしまったかもしれないが、今は冷静なままだ。
離婚届にサインが済み次第、私は法的にも堀口 哲也の妻ではなくなる。
彼の叫び声に耳を傾ける必要など微塵も感じない。
しばらくすると、外からわめき散らす声が遠ざかっていった気配がある。
おそらく警備員が追い返したのだろう。
女中が戻ってきて「立ち去りました」と報告してくれたとき、私は軽く笑みを浮かべて「ご苦労さま」と答える。
嫌な残骸が、ようやく掃き捨てられたような心境だった。
その後、伯爵家や弁護士からの連絡が立て続けに入り、離縁の最終段階に向けた確認作業が進む。
「堀口中尉にはもう合意文書が渡され、署名を残すのみ」という情報も飛び込んでくる。
あれほど強欲だった夫が、こうして呆気なく降参する日が来るとは、自分でも想像していなかった。
「綾乃様、これで本当に終わりますね。
あの人が何を言おうと、法的には関与できませんから」
中瀬執事が感慨深げに言うので、私は小さく微笑んだ。
ただ、完全にすべてが終わるまでは油断できない。
後から難癖をつけて金を要求してくるかもしれないし、軍部が何か動いてくる可能性もゼロではない。
それでも、私がひとりで叶えたわけではない、多くの人々が協力してくれたこの離縁は、そう簡単に覆されるものではないのだ。
夜更け、空を見上げると、雲間から綺麗な月が顔を覗かせている。
昔、父と一緒に月を眺めながら呉服の柄を考えたことを思い出す。
私が一度は諦めかけた未来も、こうして新素材による呉服の成功と、離縁という形で繋がっているなんて。
思えば奇妙な巡り合わせだけれど、それも必然だったのかもしれない。
「父様、私、いよいよあなたの願った形へと進めるわ」
呟く言葉が夜風に溶けて消える。
夫が崩れる姿を目撃しても、私の心は揺らがなかった。
これまで散々蹂躙された分、同情する理由などどこにも見当たらない。
いっそこれが彼の最後の姿なら、多少は因果応報というものだろう。
これで私も、堂々と前を向ける。
呉服事業の成功と自由な人生は、すぐそこまで来ている。
放火未遂への刑事捜査は進行中だが、民事としての婚姻解消は私の有利な形で決着する運びになったのだ。
それは私にとってまさしく「自由になる」ための最終ステップでもあった。
その知らせを母や使用人たちに伝えると、皆が安堵の表情を浮かべてくれた。
葉室家が再興の道を歩み始めた今、私が堀口家に縛られる必要はもうどこにもない。
母は涙を浮かべ、「これで、あの子も自分の幸せを選べるわね」と私の手を握ってくれた。
中瀬執事や老職人たちは「お嬢様が本当に自由になれる」と喜び、呉服作りにさらに熱がこもるようだった。
しかし、その一方で気になる噂が耳に入ってきた。
堀口家の本館で、夫である哲也が不審な行動を繰り返し、家族や周囲の者に暴言を吐き散らしているという話だ。
軍の地位を事実上失いかけている中で、さらに香織との仲も険悪になり、家中で孤立無援の状態に陥っているのだろう。
結果として、精神的に追いつめられているのだと推察された。
「……自分の招いた結果とはいえ、あの人もみじめなものね」
そう呟いてみても、私の胸にはほとんど何の感情も湧いてこない。
かつては夫婦という形で結ばれた仲でも、あれだけ裏切りや暴虐にさらされれば、情も尽きる。
離縁が成立する以上、彼がどう没落しようが私には関係ないのだ。
弁護士からは「正式な書面のやり取りさえ済めば、即日離縁が成立する。あとは役所への届け出だけ」と聞かされている。
つまり、もう一度堀口家と顔を合わせる必要もないし、協議の場も開かれない。
こうしてあっけなく終わるのだと考えると、不思議な感慨がこみ上げる。
夜になって、私は離れの一室でぼんやり考え事をしていた。
父が遺した新素材、伯爵家の協力、呉服事業の成功、そして堀口家からの解放。
これまで走り続けてきた結果、すべてが望む形に近づいている。
ふと、父の写真に目をやると、そこにはどこか誇らしげに微笑んでいる父の姿があった。
「これで、あなたが守ろうとした葉室家は安泰ね」
そう呟くと、部屋の外で軽い足音が聞こえる。
戸を開けて入ってきたのは女中の一人で、少し困ったような顔をしている。
「綾乃様、堀口中尉が外で取り乱しています。
敷地の門のところで、大声を上げて“綾乃に会わせろ”と言って……」
「私に会わせろ?」
思わず眉をひそめる。
もう夫ではない相手が、今さら何の用だろう。
離縁はほとんど確定しているのに、これ以上の話し合いなど存在しない。
「通さなくていいわ。
警備の者に追い返してもらって」
そう指示を出すと、女中はほっとしたように小さく会釈して去っていく。
かつての私は、こういう場面で心が乱れてしまったかもしれないが、今は冷静なままだ。
離婚届にサインが済み次第、私は法的にも堀口 哲也の妻ではなくなる。
彼の叫び声に耳を傾ける必要など微塵も感じない。
しばらくすると、外からわめき散らす声が遠ざかっていった気配がある。
おそらく警備員が追い返したのだろう。
女中が戻ってきて「立ち去りました」と報告してくれたとき、私は軽く笑みを浮かべて「ご苦労さま」と答える。
嫌な残骸が、ようやく掃き捨てられたような心境だった。
その後、伯爵家や弁護士からの連絡が立て続けに入り、離縁の最終段階に向けた確認作業が進む。
「堀口中尉にはもう合意文書が渡され、署名を残すのみ」という情報も飛び込んでくる。
あれほど強欲だった夫が、こうして呆気なく降参する日が来るとは、自分でも想像していなかった。
「綾乃様、これで本当に終わりますね。
あの人が何を言おうと、法的には関与できませんから」
中瀬執事が感慨深げに言うので、私は小さく微笑んだ。
ただ、完全にすべてが終わるまでは油断できない。
後から難癖をつけて金を要求してくるかもしれないし、軍部が何か動いてくる可能性もゼロではない。
それでも、私がひとりで叶えたわけではない、多くの人々が協力してくれたこの離縁は、そう簡単に覆されるものではないのだ。
夜更け、空を見上げると、雲間から綺麗な月が顔を覗かせている。
昔、父と一緒に月を眺めながら呉服の柄を考えたことを思い出す。
私が一度は諦めかけた未来も、こうして新素材による呉服の成功と、離縁という形で繋がっているなんて。
思えば奇妙な巡り合わせだけれど、それも必然だったのかもしれない。
「父様、私、いよいよあなたの願った形へと進めるわ」
呟く言葉が夜風に溶けて消える。
夫が崩れる姿を目撃しても、私の心は揺らがなかった。
これまで散々蹂躙された分、同情する理由などどこにも見当たらない。
いっそこれが彼の最後の姿なら、多少は因果応報というものだろう。
これで私も、堂々と前を向ける。
呉服事業の成功と自由な人生は、すぐそこまで来ている。
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