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離縁に向けた書類がほぼ揃い、弁護士とも最終的な確認を済ませた頃。
私の心には奇妙な静けさと、ほんの少しの緊張が同居していた。
あれほど恐ろしく思えた堀口家との対峙が、もはや他人事のように感じられるのは不思議なものだ。
けれど、このまま穏やかに終わるとは限らない。
離縁協議という正式な場が設けられれば、あちらは最後の足掻きに出る可能性が高いのだから。
そんな中、葉室家では呉服事業の拡大に沸き立ち、使用人たちも活気にあふれていた。
老舗織物商との取引が次々に成立し、父が残した新素材の注文が殺到しているという。
伯爵家の藤堂様からも、海外バイヤーが興味を示していると耳にし、私たちは昼夜を問わず対応に追われていた。
苦しい時代を乗り越えてきた職人たちが嬉しそうに笑い合う姿を見ると、心が軽くなるのを感じる。
父が生前に夢見た「新時代の呉服」は、今まさに軌道に乗り始めた。
私が心配していた資金繰りの問題も、伯爵家の援助と織物商からの前払い注文などによって解消されつつある。
華族としての葉室家が再び立ち上がる瞬間は、もうすぐそこまで来ているようだった。
ところが、そんな嬉しい報せの裏で、堀口家が妙な動きを始めているという噂が入ってきた。
軍部での立場を追われかけている堀口 哲也が、あちこちに顔を出しては「葉室家の新素材は軍事用途に転用されるべき」「もし協力すれば大きな利益を得られる」などと吹聴しているらしい。
要するに、まだ新素材を手に入れるチャンスがあると周囲をそそのかしているのだろう。
香織のデマ攻撃と同様、あまりに浅ましい策謀だ。
私が離縁を決断してから、堀口中尉は一度も私の前に姿を現さない。
しかし、その代わり香織や姑、あるいは取り巻きがやってきて暴言を吐いていく場面は何度もあった。
だが、葉室家の人々は以前のように怯えなくなっている。
皆が「新素材で再建したい」という強い意志を持ち、伯爵家の存在を後ろ盾にしているからだろう。
そんなある日の夕方、弁護士から正式な連絡が届いた。
「堀口家が離縁協議の場を設けることに同意した」というのだ。
つまり、あちらも裁判を避けたがっているのだろう。
放火未遂や不正蓄財の噂、香織との醜聞など、裁判が公開の場で行われれば堀口家は取り返しのつかない打撃を受ける。
これ以上騒ぎが大きくなる前に、私との関係を整理したいという腹づもりに違いない。
「これで、本当に終わる」
その報せに触れたとき、私は胸の奥でそう感じた。
裁判手続きではなく協議という形で離縁が成立すれば、堀口家とのトラブルも最小限で済むだろう。
香織が正妻の座を狙うなら勝手にすればいいし、私はもう関与しなくてもいい。
ただ、まだ油断はできない。
協議の場で向こうがどんな難癖をつけるかわからないし、最終的な条件面での駆け引きもあるだろう。
夜になって、私は離れの自室で書類のチェックを進める。
弁護士が用意してくれた「離縁協議の主張書面」は、堀口家の数々の悪行と私が被った被害を明確に列挙してあった。
香織の存在、不正な金銭要求、放火未遂、噂のデマ……どれだけ挙げてもキリがないほどだ。
改めて読むと、よくここまで耐えてきたものだと、我ながら不思議に思う。
ふと、机の隅に置かれた父の写真に目を移す。
昔は父と一緒に呉服の話をするだけで楽しかった。
私が嫁に行ったあとは、こんな苦労を重ねると父は予想していただろうか。
もしかしたら、父は私が軍人一家に嫁ぐことを本当は快く思っていなかったのかもしれない。
残された研究の図面は、父が最後まで「娘に苦労をかけたくない」と願った証拠でもあるように感じられる。
明日か、明後日には離縁協議の日程が正式に決まるという。
その場に私と弁護士が出向き、堀口家の代表者と話をまとめるという流れだ。
伯爵家からも、控えとして関係者が来てくれるらしい。
こうして万全の態勢を敷けることに感謝しながらも、胸はどうしようもなく落ち着かない。
どんなに警戒していても、最後の最後に何が起きるかわからないからだ。
「でも、もう戻りたくはない」
呟いた自分の声が耳に届く。
夫に香織がいる環境で暮らすなどまっぴらだし、呉服事業を邪魔される毎日には耐えられない。
父の遺した新素材を、軍部の金儲けや香織の欲望に汚されるのだけは許せないのだ。
襖を開けて廊下へ出ると、夜風が少しひんやりと感じられる。
遠くで使用人たちが行き来する音に耳を傾けながら、ふと窓の外を眺める。
星が淡く瞬いている。
あの光の先に、私の新しい未来があると信じたい。
離縁が成立し、葉室家が完全に立ち直る日を迎えたとき、私は何をしているのだろう。
「今度こそ、自分の幸せを選んでいいのよね」
帯留めを握りしめながらそう問いかけると、どこかから父の温かな声が聞こえてきそうな気がした。
これまでは「葉室家のため」という言葉に縛られ、香織を抱える夫に耐え続けるしかなかった。
でも今はもう違う。
伯爵家の助力も、世間の評価も、何より自分が築いてきた実績がある。
香織や姑の嘲りなど、遠い雑音に過ぎない。
すべてが終わったら、心から笑顔になれる生活を取り戻そう。
父の形見が微かに光を返してくれるような気がして、私はそっと微笑みを浮かべる。
そして、離縁協議へと向かう。
それは、堀口家との偽りの結婚生活に終止符を打つための、決定的な合図なのだ。
私の心には奇妙な静けさと、ほんの少しの緊張が同居していた。
あれほど恐ろしく思えた堀口家との対峙が、もはや他人事のように感じられるのは不思議なものだ。
けれど、このまま穏やかに終わるとは限らない。
離縁協議という正式な場が設けられれば、あちらは最後の足掻きに出る可能性が高いのだから。
そんな中、葉室家では呉服事業の拡大に沸き立ち、使用人たちも活気にあふれていた。
老舗織物商との取引が次々に成立し、父が残した新素材の注文が殺到しているという。
伯爵家の藤堂様からも、海外バイヤーが興味を示していると耳にし、私たちは昼夜を問わず対応に追われていた。
苦しい時代を乗り越えてきた職人たちが嬉しそうに笑い合う姿を見ると、心が軽くなるのを感じる。
父が生前に夢見た「新時代の呉服」は、今まさに軌道に乗り始めた。
私が心配していた資金繰りの問題も、伯爵家の援助と織物商からの前払い注文などによって解消されつつある。
華族としての葉室家が再び立ち上がる瞬間は、もうすぐそこまで来ているようだった。
ところが、そんな嬉しい報せの裏で、堀口家が妙な動きを始めているという噂が入ってきた。
軍部での立場を追われかけている堀口 哲也が、あちこちに顔を出しては「葉室家の新素材は軍事用途に転用されるべき」「もし協力すれば大きな利益を得られる」などと吹聴しているらしい。
要するに、まだ新素材を手に入れるチャンスがあると周囲をそそのかしているのだろう。
香織のデマ攻撃と同様、あまりに浅ましい策謀だ。
私が離縁を決断してから、堀口中尉は一度も私の前に姿を現さない。
しかし、その代わり香織や姑、あるいは取り巻きがやってきて暴言を吐いていく場面は何度もあった。
だが、葉室家の人々は以前のように怯えなくなっている。
皆が「新素材で再建したい」という強い意志を持ち、伯爵家の存在を後ろ盾にしているからだろう。
そんなある日の夕方、弁護士から正式な連絡が届いた。
「堀口家が離縁協議の場を設けることに同意した」というのだ。
つまり、あちらも裁判を避けたがっているのだろう。
放火未遂や不正蓄財の噂、香織との醜聞など、裁判が公開の場で行われれば堀口家は取り返しのつかない打撃を受ける。
これ以上騒ぎが大きくなる前に、私との関係を整理したいという腹づもりに違いない。
「これで、本当に終わる」
その報せに触れたとき、私は胸の奥でそう感じた。
裁判手続きではなく協議という形で離縁が成立すれば、堀口家とのトラブルも最小限で済むだろう。
香織が正妻の座を狙うなら勝手にすればいいし、私はもう関与しなくてもいい。
ただ、まだ油断はできない。
協議の場で向こうがどんな難癖をつけるかわからないし、最終的な条件面での駆け引きもあるだろう。
夜になって、私は離れの自室で書類のチェックを進める。
弁護士が用意してくれた「離縁協議の主張書面」は、堀口家の数々の悪行と私が被った被害を明確に列挙してあった。
香織の存在、不正な金銭要求、放火未遂、噂のデマ……どれだけ挙げてもキリがないほどだ。
改めて読むと、よくここまで耐えてきたものだと、我ながら不思議に思う。
ふと、机の隅に置かれた父の写真に目を移す。
昔は父と一緒に呉服の話をするだけで楽しかった。
私が嫁に行ったあとは、こんな苦労を重ねると父は予想していただろうか。
もしかしたら、父は私が軍人一家に嫁ぐことを本当は快く思っていなかったのかもしれない。
残された研究の図面は、父が最後まで「娘に苦労をかけたくない」と願った証拠でもあるように感じられる。
明日か、明後日には離縁協議の日程が正式に決まるという。
その場に私と弁護士が出向き、堀口家の代表者と話をまとめるという流れだ。
伯爵家からも、控えとして関係者が来てくれるらしい。
こうして万全の態勢を敷けることに感謝しながらも、胸はどうしようもなく落ち着かない。
どんなに警戒していても、最後の最後に何が起きるかわからないからだ。
「でも、もう戻りたくはない」
呟いた自分の声が耳に届く。
夫に香織がいる環境で暮らすなどまっぴらだし、呉服事業を邪魔される毎日には耐えられない。
父の遺した新素材を、軍部の金儲けや香織の欲望に汚されるのだけは許せないのだ。
襖を開けて廊下へ出ると、夜風が少しひんやりと感じられる。
遠くで使用人たちが行き来する音に耳を傾けながら、ふと窓の外を眺める。
星が淡く瞬いている。
あの光の先に、私の新しい未来があると信じたい。
離縁が成立し、葉室家が完全に立ち直る日を迎えたとき、私は何をしているのだろう。
「今度こそ、自分の幸せを選んでいいのよね」
帯留めを握りしめながらそう問いかけると、どこかから父の温かな声が聞こえてきそうな気がした。
これまでは「葉室家のため」という言葉に縛られ、香織を抱える夫に耐え続けるしかなかった。
でも今はもう違う。
伯爵家の助力も、世間の評価も、何より自分が築いてきた実績がある。
香織や姑の嘲りなど、遠い雑音に過ぎない。
すべてが終わったら、心から笑顔になれる生活を取り戻そう。
父の形見が微かに光を返してくれるような気がして、私はそっと微笑みを浮かべる。
そして、離縁協議へと向かう。
それは、堀口家との偽りの結婚生活に終止符を打つための、決定的な合図なのだ。
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