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離縁の気配が現実的になってきたある日の午後。
私は離れにある簡易的な作業場で、次回の新作呉服のデザイン案を職人たちと話し合っていた。
父の残した新素材が軌道に乗り始め、あちこちの織物商から引き合いがかかっている。
忙しい日々ではあるけれど、その充実感は何にも代えがたいものだ。
ところが、そんな穏やかな時間を乱すように、荒々しい足音が廊下に響いた。
一瞬で「また来たか」と嫌な予感が走る。
数瞬後、襖の向こうから甲高い声が聞こえてきた。
「綾乃! 出てきなさいよ!
どこまで私たちの邪魔をすれば気が済むの!」
言わずと知れた、香織の声だ。
まさかこの離れまで直接乗り込んでくるとは、いよいよ焦りも頂点というところだろうか。
職人たちが戸惑っているのを制して、私は軽く息をついたあと、襖を開けて香織の前に立った。
「何のご用かしら?
私と堀口家は、いずれ離縁という形で終わりにしようと思っていますが」
私が淡々と言い放つと、香織はカッと目を見開き、怒りに身を震わせる。
「勝手なこと言わないで!
あんたが離縁すれば、私が堀口家の正妻になれると思ってたのに、あんたが軍に喧嘩を売るから全部めちゃくちゃじゃないの!」
その言い方に、私は思わず眉をひそめる。
香織も正妻になりたいなら、私が離縁することはむしろ都合が良いはず。
なぜ私が「軍に喧嘩を売っている」と言うのか。
どうやら彼女の中では私が軍を敵に回して堀口中尉の評価を下げている、という解釈になっているらしい。
「私が正妻の座を明け渡したところで、軍部の信用を失った堀口中尉が、そのまま栄転できるとは思いませんが。
あなたが何を焦っているのかわかりませんけれど、もう私に構わないでください」
「ふざけるな……!
あんたがいなくなれば、私こそが堀口家を支えて、軍でも立場を取り戻せると思ってたのに!
でも実際は逆よ!
放火未遂の件も、軍の仲間が私とあの人を冷たく見るようになって……どうしてくれるの!」
勢いよく詰め寄られても、私としては何の責任も感じない。
あちらが勝手に謀って放火や窃盗を試み、失敗して信用を失っただけの話だ。
これ以上どうしろというのか、むしろ不思議に思うほどだ。
「あなた方が勝手に行動して、勝手に失敗しただけでしょう。
私のせいではありません。
そもそも、私は離縁に向けて弁護士や伯爵家の方々と話を進めていますから、あとはご自由にどうぞ」
香織の顔がみるみる青ざめ、次いで怒りに燃えるように赤くなった。
感情の振れ幅が激しすぎて、その表情を見ているだけで気圧されそうになる。
けれど私は、もう怯えたり振り回されたりする自分ではない。
「やっぱりあんた、最悪だわ!
綾乃、あんたがいなければ私が正妻になれたし、軍部とも上手くやれたのに!
あんたが伯爵家を味方につけるから、もうこっちには逃げ場がないのよ!」
「……そうですか。
残念ですが、私は伯爵家だけじゃなく、自分でも努力してここまで来ました。
あなたがどんな恨みを抱こうと、それはそちらの都合であって私の知ったことではありません」
冷ややかな口調でそう言うと、香織は悔しそうに唇を噛んだ。
そしていきなり手を振り上げて私に掴みかかろうとする。
私は反射的に身をかわすが、その瞬間、周囲の職人や下男たちが割って入り、香織を取り押さえた。
「離してよ!
あんたたち、私が誰だと思ってるの!」
その罵声に、職人たちはむしろ冷めた眼差しを向ける。
過去の放火や窃盗未遂を知っている人々にとって、香織は危険人物でしかない。
私も顔をしかめながら、静かに言葉を投げかける。
「もう出ていってください。
ここは葉室家の離れです。
あなたが勝手に乗り込んできて暴れるなら、警察に通報するしかありませんよ」
香織は顔を歪め、さまざまな暴言を吐き散らかしながらも、もはや一人ではどうにもできない状況に気づいたのか、足をもつれさせるようにして出ていこうとする。
その背中は、どこか惨めで、かつてあれほど傲慢だった姿とはあまりに対照的だ。
「覚えてなさい!
あなたを地獄に落としてやるから!」
捨て台詞を残して、香織は去っていった。
私はふうっと肩の力を抜き、周りにいた人たちに軽く会釈する。
「みなさん、ごめんなさいね。
仕事中に迷惑をかけてしまって」
職人や下男たちは、「いえ、こちらこそ、お怪我がなくてよかった」と口々に言いながら落ち着きを取り戻す。
私の中には、憤りよりも虚しさがわき上がっていた。
香織があそこまで壊れるように罵声を浴びせるのは、堀口中尉とともに追い詰められている証拠だろう。
そして、そんな相手に私が同情する余地はもはや残っていない。
「もうすぐ、この茶番も終わる」
自らをそう鼓舞して、私は再び職人たちとの打ち合わせに戻る。
離縁さえ成立してしまえば、こうした理不尽な衝突とは無縁の生活を送れるのだ。
堀口家が崩れていく姿を見るのは決して気持ちのいいことではないけれど、これまでの仕打ちを思えば、彼らが破滅へ向かうのはむしろ当然の報いにも思えた。
私は離れにある簡易的な作業場で、次回の新作呉服のデザイン案を職人たちと話し合っていた。
父の残した新素材が軌道に乗り始め、あちこちの織物商から引き合いがかかっている。
忙しい日々ではあるけれど、その充実感は何にも代えがたいものだ。
ところが、そんな穏やかな時間を乱すように、荒々しい足音が廊下に響いた。
一瞬で「また来たか」と嫌な予感が走る。
数瞬後、襖の向こうから甲高い声が聞こえてきた。
「綾乃! 出てきなさいよ!
どこまで私たちの邪魔をすれば気が済むの!」
言わずと知れた、香織の声だ。
まさかこの離れまで直接乗り込んでくるとは、いよいよ焦りも頂点というところだろうか。
職人たちが戸惑っているのを制して、私は軽く息をついたあと、襖を開けて香織の前に立った。
「何のご用かしら?
私と堀口家は、いずれ離縁という形で終わりにしようと思っていますが」
私が淡々と言い放つと、香織はカッと目を見開き、怒りに身を震わせる。
「勝手なこと言わないで!
あんたが離縁すれば、私が堀口家の正妻になれると思ってたのに、あんたが軍に喧嘩を売るから全部めちゃくちゃじゃないの!」
その言い方に、私は思わず眉をひそめる。
香織も正妻になりたいなら、私が離縁することはむしろ都合が良いはず。
なぜ私が「軍に喧嘩を売っている」と言うのか。
どうやら彼女の中では私が軍を敵に回して堀口中尉の評価を下げている、という解釈になっているらしい。
「私が正妻の座を明け渡したところで、軍部の信用を失った堀口中尉が、そのまま栄転できるとは思いませんが。
あなたが何を焦っているのかわかりませんけれど、もう私に構わないでください」
「ふざけるな……!
あんたがいなくなれば、私こそが堀口家を支えて、軍でも立場を取り戻せると思ってたのに!
でも実際は逆よ!
放火未遂の件も、軍の仲間が私とあの人を冷たく見るようになって……どうしてくれるの!」
勢いよく詰め寄られても、私としては何の責任も感じない。
あちらが勝手に謀って放火や窃盗を試み、失敗して信用を失っただけの話だ。
これ以上どうしろというのか、むしろ不思議に思うほどだ。
「あなた方が勝手に行動して、勝手に失敗しただけでしょう。
私のせいではありません。
そもそも、私は離縁に向けて弁護士や伯爵家の方々と話を進めていますから、あとはご自由にどうぞ」
香織の顔がみるみる青ざめ、次いで怒りに燃えるように赤くなった。
感情の振れ幅が激しすぎて、その表情を見ているだけで気圧されそうになる。
けれど私は、もう怯えたり振り回されたりする自分ではない。
「やっぱりあんた、最悪だわ!
綾乃、あんたがいなければ私が正妻になれたし、軍部とも上手くやれたのに!
あんたが伯爵家を味方につけるから、もうこっちには逃げ場がないのよ!」
「……そうですか。
残念ですが、私は伯爵家だけじゃなく、自分でも努力してここまで来ました。
あなたがどんな恨みを抱こうと、それはそちらの都合であって私の知ったことではありません」
冷ややかな口調でそう言うと、香織は悔しそうに唇を噛んだ。
そしていきなり手を振り上げて私に掴みかかろうとする。
私は反射的に身をかわすが、その瞬間、周囲の職人や下男たちが割って入り、香織を取り押さえた。
「離してよ!
あんたたち、私が誰だと思ってるの!」
その罵声に、職人たちはむしろ冷めた眼差しを向ける。
過去の放火や窃盗未遂を知っている人々にとって、香織は危険人物でしかない。
私も顔をしかめながら、静かに言葉を投げかける。
「もう出ていってください。
ここは葉室家の離れです。
あなたが勝手に乗り込んできて暴れるなら、警察に通報するしかありませんよ」
香織は顔を歪め、さまざまな暴言を吐き散らかしながらも、もはや一人ではどうにもできない状況に気づいたのか、足をもつれさせるようにして出ていこうとする。
その背中は、どこか惨めで、かつてあれほど傲慢だった姿とはあまりに対照的だ。
「覚えてなさい!
あなたを地獄に落としてやるから!」
捨て台詞を残して、香織は去っていった。
私はふうっと肩の力を抜き、周りにいた人たちに軽く会釈する。
「みなさん、ごめんなさいね。
仕事中に迷惑をかけてしまって」
職人や下男たちは、「いえ、こちらこそ、お怪我がなくてよかった」と口々に言いながら落ち着きを取り戻す。
私の中には、憤りよりも虚しさがわき上がっていた。
香織があそこまで壊れるように罵声を浴びせるのは、堀口中尉とともに追い詰められている証拠だろう。
そして、そんな相手に私が同情する余地はもはや残っていない。
「もうすぐ、この茶番も終わる」
自らをそう鼓舞して、私は再び職人たちとの打ち合わせに戻る。
離縁さえ成立してしまえば、こうした理不尽な衝突とは無縁の生活を送れるのだ。
堀口家が崩れていく姿を見るのは決して気持ちのいいことではないけれど、これまでの仕打ちを思えば、彼らが破滅へ向かうのはむしろ当然の報いにも思えた。
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