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離縁に向けての準備が本格化し、私の胸は高揚と不安が入り混じったような落ち着かない状態が続いていた。
そんなある朝、中瀬執事が弁護士からの連絡を持ってきてくれた。
すでに書類は整っており、堀口家へ正式に離縁協議を申し込む段取りがついたという。
いよいよ、私と堀口家の縁を断ち切るための最初の一歩が踏み出されようとしている。
ただ、書類を作成して送るだけではなく、双方で協議する場が設けられることになるだろう。
軍という存在、そして堀口家の母や香織まで絡めば、話し合いがすんなり進むとは思えない。
しかし、このまま婚姻関係を続けることは、私だけでなく葉室家全体にとっても悪影響しかないのは明白だ。
「綾乃様、弁護士から『離縁交渉は堀口家にとっても得策だ』と話がありました。
なぜなら、放火未遂や不正蓄財の疑いがある状況で裁判に持ち込めば、堀口家のほうが軍での立場をさらに失う恐れが高いからです」
中瀬の言葉を聞き、私は深くうなずく。
確かに、こちらが訴訟を起こして公の場で証拠を示せば、堀口家にとっては致命的なスキャンダルになりかねない。
あちらがどれほど軍の権力にしがみつこうと、伯爵家の後ろ盾がある私には通用しないという事実が、少しずつ浸透しているのだろう。
「つまり、堀口家も『これ以上揉めるより、静かに縁を切ってしまいたい』と思っているかもしれないのね」
そう呟くと、中瀬は苦い表情で肩をすくめる。
「香織の方も“正妻”になりたがっているそうですから、綾乃様を追い出す形で済むなら堀口家としては御の字でしょう。
ただ……一筋縄ではいかないかもしれません。
香織や堀口中尉が最後の悪あがきをする可能性はあります」
「わかっています。
でも、私はもう決めたんです。
父の遺志を継いで呉服事業を成功させるためにも、この縁組から解放されるしかない」
その言葉を口にすると、胸の奥から強い決意がこみ上げる。
もし私がまだ怯えていた頃の自分だったら、この状況で戦いを挑むことなど考えもしなかっただろう。
けれど今は、父の研究が形になり、伯爵家の藤堂様という力強い協力者も得て、葉室家が再び輝きを取り戻し始めている。
そう思っていると、玄関の方で騒がしい声が聞こえてきた。
少し様子を見に行くと、女中さんが慌てた顔で駆け寄ってくる。
「綾乃様……堀口家の母上が押しかけていらっしゃいます。
離縁の書類について話があるとかで、今お待ちいただいているのですが……」
「そう。わかりました。場所は……応接間でいいわよね」
今まさに書類を送ろうとしている段階で、向こうから出向いてくるのは正直予想外だ。
ただ、この機を逃さず直接話をしておくのも悪くない。
夫――堀口 哲也の母がどう出るのか、こちらとしても掴んでおく必要がある。
女中さんに案内され、私は応接間へ足を運んだ。
そこには、堀口中尉の母が厳しい顔つきで腰を下ろしている。
以前にもこちらに来た際に憤怒の表情を見せていたが、今日の彼女はそれとは違う、どこか上ずった空気を纏っているように見えた。
「……失礼します」
私が丁寧に一礼して席に着くと、姑は開口一番こう切り出した。
「綾乃さん、離縁など馬鹿な真似はやめなさい。
堀口家に金をもたらさないのは困るけれど、裁判沙汰になったらこっちも困るんですよ」
やはり思惑は予想通りだ。
静かに縁を切りたいが、私を追い出すだけでなく、葉室家から金を搾り取りたいという打算もあるのだろう。
軍の名誉がこれ以上傷つくのを恐れているのも見え見えだ。
「私がやめるわけありません。
そもそも、この結婚はもう破綻していると誰の目にも明らかでしょう。
放火未遂までされて、どうしろと言うのですか」
「放火なんて、一部の暴走でしょう!
哲也がどこまで関わっているかもわからないし、家の面子を潰す話を外に広めないでもらいたいの」
姑の目は険しく、声には焦りが混ざっている。
軍の面子といっても、こんな状況で隠し通せるはずもない。
私は淡々と答える。
「お義母様が望むのなら、私も静かに離縁に応じるつもりです。
ただし、こちらにも条件があります。
葉室家の呉服事業に干渉しない、放火や妨害行為を行わない、そして私を再び利用しようとしないこと――これらは絶対に守っていただきます」
姑は顔をしかめながらも、否定する言葉は口にしなかった。
むしろ、葉室家の実力と伯爵家の影響力を前にして、下手な強行には出られないのだろう。
「わかったわ……とにかく裁判などという醜聞だけは避けたいから、協議という形でまとめることを検討するわ。
哲也にもそう言っておきなさい」
捨て台詞のような口調で立ち上がる姑を見送りながら、私は複雑な気持ちを抱える。
結局、彼女は息子をかばいたいし、軍としての威厳も守りたい。
でも、こちらも黙ってやられるわけにはいかないのだ。
姑の足音が遠ざかり、部屋が静寂に包まれると、私は小さく息を吐いた。
離縁の道筋は確実に動き出している。
葉室家がこんな形で新興華族に列してからまだ日が浅いけれど、私が経験した苦難は簡単に語れるものではない。
「父様……いよいよ、あなたの呉服商が蘇るわ。
私も自由になれる」
心の奥底でそう誓いながら、机の上の書類にそっと触れる。
あとは堀口家が何を言おうと、私の決意は揺らがない。
いずれ、香織と正妻の地位を争うならば、それこそ勝手にすればいい。
私が求めるのは葉室家の安泰と、自らの幸せを自分の手で選び取ることなのだ。
こうして、姑との直接対話を経て、私は離縁交渉の公式なステップへ足を踏み入れた。
これから先、夫がどんな策略を巡らせようとも、もう押し戻されるわけにはいかない。
伯爵家の弁護士が裏付けてくれる確かな勝算を胸に、私は最後まで戦い抜く覚悟を新たにする。
そんなある朝、中瀬執事が弁護士からの連絡を持ってきてくれた。
すでに書類は整っており、堀口家へ正式に離縁協議を申し込む段取りがついたという。
いよいよ、私と堀口家の縁を断ち切るための最初の一歩が踏み出されようとしている。
ただ、書類を作成して送るだけではなく、双方で協議する場が設けられることになるだろう。
軍という存在、そして堀口家の母や香織まで絡めば、話し合いがすんなり進むとは思えない。
しかし、このまま婚姻関係を続けることは、私だけでなく葉室家全体にとっても悪影響しかないのは明白だ。
「綾乃様、弁護士から『離縁交渉は堀口家にとっても得策だ』と話がありました。
なぜなら、放火未遂や不正蓄財の疑いがある状況で裁判に持ち込めば、堀口家のほうが軍での立場をさらに失う恐れが高いからです」
中瀬の言葉を聞き、私は深くうなずく。
確かに、こちらが訴訟を起こして公の場で証拠を示せば、堀口家にとっては致命的なスキャンダルになりかねない。
あちらがどれほど軍の権力にしがみつこうと、伯爵家の後ろ盾がある私には通用しないという事実が、少しずつ浸透しているのだろう。
「つまり、堀口家も『これ以上揉めるより、静かに縁を切ってしまいたい』と思っているかもしれないのね」
そう呟くと、中瀬は苦い表情で肩をすくめる。
「香織の方も“正妻”になりたがっているそうですから、綾乃様を追い出す形で済むなら堀口家としては御の字でしょう。
ただ……一筋縄ではいかないかもしれません。
香織や堀口中尉が最後の悪あがきをする可能性はあります」
「わかっています。
でも、私はもう決めたんです。
父の遺志を継いで呉服事業を成功させるためにも、この縁組から解放されるしかない」
その言葉を口にすると、胸の奥から強い決意がこみ上げる。
もし私がまだ怯えていた頃の自分だったら、この状況で戦いを挑むことなど考えもしなかっただろう。
けれど今は、父の研究が形になり、伯爵家の藤堂様という力強い協力者も得て、葉室家が再び輝きを取り戻し始めている。
そう思っていると、玄関の方で騒がしい声が聞こえてきた。
少し様子を見に行くと、女中さんが慌てた顔で駆け寄ってくる。
「綾乃様……堀口家の母上が押しかけていらっしゃいます。
離縁の書類について話があるとかで、今お待ちいただいているのですが……」
「そう。わかりました。場所は……応接間でいいわよね」
今まさに書類を送ろうとしている段階で、向こうから出向いてくるのは正直予想外だ。
ただ、この機を逃さず直接話をしておくのも悪くない。
夫――堀口 哲也の母がどう出るのか、こちらとしても掴んでおく必要がある。
女中さんに案内され、私は応接間へ足を運んだ。
そこには、堀口中尉の母が厳しい顔つきで腰を下ろしている。
以前にもこちらに来た際に憤怒の表情を見せていたが、今日の彼女はそれとは違う、どこか上ずった空気を纏っているように見えた。
「……失礼します」
私が丁寧に一礼して席に着くと、姑は開口一番こう切り出した。
「綾乃さん、離縁など馬鹿な真似はやめなさい。
堀口家に金をもたらさないのは困るけれど、裁判沙汰になったらこっちも困るんですよ」
やはり思惑は予想通りだ。
静かに縁を切りたいが、私を追い出すだけでなく、葉室家から金を搾り取りたいという打算もあるのだろう。
軍の名誉がこれ以上傷つくのを恐れているのも見え見えだ。
「私がやめるわけありません。
そもそも、この結婚はもう破綻していると誰の目にも明らかでしょう。
放火未遂までされて、どうしろと言うのですか」
「放火なんて、一部の暴走でしょう!
哲也がどこまで関わっているかもわからないし、家の面子を潰す話を外に広めないでもらいたいの」
姑の目は険しく、声には焦りが混ざっている。
軍の面子といっても、こんな状況で隠し通せるはずもない。
私は淡々と答える。
「お義母様が望むのなら、私も静かに離縁に応じるつもりです。
ただし、こちらにも条件があります。
葉室家の呉服事業に干渉しない、放火や妨害行為を行わない、そして私を再び利用しようとしないこと――これらは絶対に守っていただきます」
姑は顔をしかめながらも、否定する言葉は口にしなかった。
むしろ、葉室家の実力と伯爵家の影響力を前にして、下手な強行には出られないのだろう。
「わかったわ……とにかく裁判などという醜聞だけは避けたいから、協議という形でまとめることを検討するわ。
哲也にもそう言っておきなさい」
捨て台詞のような口調で立ち上がる姑を見送りながら、私は複雑な気持ちを抱える。
結局、彼女は息子をかばいたいし、軍としての威厳も守りたい。
でも、こちらも黙ってやられるわけにはいかないのだ。
姑の足音が遠ざかり、部屋が静寂に包まれると、私は小さく息を吐いた。
離縁の道筋は確実に動き出している。
葉室家がこんな形で新興華族に列してからまだ日が浅いけれど、私が経験した苦難は簡単に語れるものではない。
「父様……いよいよ、あなたの呉服商が蘇るわ。
私も自由になれる」
心の奥底でそう誓いながら、机の上の書類にそっと触れる。
あとは堀口家が何を言おうと、私の決意は揺らがない。
いずれ、香織と正妻の地位を争うならば、それこそ勝手にすればいい。
私が求めるのは葉室家の安泰と、自らの幸せを自分の手で選び取ることなのだ。
こうして、姑との直接対話を経て、私は離縁交渉の公式なステップへ足を踏み入れた。
これから先、夫がどんな策略を巡らせようとも、もう押し戻されるわけにはいかない。
伯爵家の弁護士が裏付けてくれる確かな勝算を胸に、私は最後まで戦い抜く覚悟を新たにする。
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