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香織と手下たちが研究室で捕まった一件は、社交界や軍内部にもすぐに知れ渡った。
なにしろ、伯爵家が動いている以上、下手な隠蔽やもみ消しは通用しない。
堀口中尉は必死に上官や知人を頼って事態の緩和を図っているらしいが、周囲からは「お前は何をやっているんだ」と厳しい目を向けられているようだ。
「軍上層部に掛け合ったらしいけど、伯爵家との対立を避けようって動きが強くて、誰も真面目に相手にしてくれないそうだよ」
使用人たちから漏れ聞こえる噂話を耳にすると、私は少しだけ溜飲が下がる思いだった。
これまで軍の威光を盾に、葉室家に多大な苦難を強いてきた堀口中尉。
そんな彼が一度でも挫折を味わうのは、当然の報いというものかもしれない。
香織は拘留が短期間で解かれたものの、身内からも厄介者扱いされているようだ。
聞けば、堀口家の母親までもが「一族の面子を潰すとは何事だ」と頭を抱えているらしい。
まさに、彼らの悪行が表沙汰になってしまった証拠だろう。
「綾乃様、これで堀口家も少しは大人しくなるでしょうか?」
女中さんが心配げに尋ねてくるが、私は首を横に振る。
「どうでしょう。あの人たちが一度や二度の失敗で引き下がるとは思えません。むしろ、追いつめられて焦りが増す可能性もあります」
実際、軍での立場が危うくなればなるほど、堀口中尉は強引な手段に訴えかねない。
葉室家からさらに金を巻き上げる手段を探ったり、新素材の情報を不正に得ようと画策したり……考えただけでも嫌になる。
それでも、これまで一方的に押さえつけられてきた状況からは確実に変化が生まれた。
社交界では「堀口家が何かしでかしたらしい」と噂が立ちはじめ、それが軍全体の面子を潰しかねないという話にまで発展している。
「葉室家は大変ね。でも、かの伯爵家が付いているなら、そう簡単につぶれはしないんじゃないかしら」
「堀口中尉が余計なことをして、軍上層部も困っているらしい」
そんな声が、町の至るところで聞こえるようになった。
私は耳を塞ぎたくなる一方で、正直な気持ちとしては少しだけ安心感もあった。
ついに、堀口家の悪行を公の場で指摘する流れが生まれたのだから。
なにより、私は自分の事業を拡大するための準備を着々と進めている。
新素材の試作品は伯爵家からの資金援助もあって生産が軌道に乗り始め、デザインや仕立てを手がける職人も徐々に増やせるようになった。
「綾乃様、次の反物のサンプルが上がりました。ご確認をお願いできますか?」
葉室家の旧呉服職人が、わざわざ離れに足を運んでそう告げてきた。
かつては閑古鳥が鳴くばかりだった葉室家の工房も、新素材の魅力を耳にした若手の職人が集い、活気を取り戻しつつある。
「もちろん、見せてください。染めの仕上がり具合や手触りを確認しましょう」
その場でサンプルを広げて触れてみると、確かに色も鮮やかで軽さと柔軟性が増しているのがわかる。
老職人や中瀬も「これはイケるぞ」と目を輝かせる。
「まだ改良の余地はありそうですが、以前に比べれば格段にレベルが上がっています。このまま量産できれば、各地の織物商や着物店も興味を示すでしょう」
私はうなずきながら、父が生前に書き残したノートの一節を思い出す。
そこには「常に改良を重ね、手を抜くな」と書かれていた。
まるで今の私に、その言葉を送り続けてくれているようにも感じる。
「父様、あなたが築いてくれた土台が、こうして花開こうとしています」
心の中でそっと語りかけると、胸の奥にこみ上げてくるものがあった。
これまでの苦労が報われるのは、まだ少し先かもしれない。
それでも前にはっきりと道筋が見えている。
そうして新たな呉服のデザインや量産準備で気持ちが高揚している私とは対照的に、堀口家の人々は疑心暗鬼に苛まれているようだ。
堀口中尉は軍で孤立し始め、香織は拘留から解放されたものの、周囲から後ろ指をさされる立場になった。
社交界でも「堀口家を相手にすると厄介に巻き込まれる」と敬遠され、彼らが持ち上げられていた時代はもう終わったのだろう。
「綾乃様、敵の勢いが弱まった今こそ、チャンスかと存じます。どうか、この機を逃さずに事業を拡大されてください」
中瀬が私の耳元でそう囁いてきた。
私もそれには同意見だ。
今こそ一気に売り込みを強化し、葉室家のブランドイメージを回復させるのだ。
もちろん、その裏で堀口中尉が何を仕掛けてくるかわからないという不安はあるけれど、もはや私は怖じ気づいている場合ではない。
こんな形で溜飲が下がっても、まだ終わりではない。
いつか本当の意味で、私が「自由」な立場を手に入れられたときにこそ、心から安堵するのだろう。
けれど、今はこの流れを最大限に活かして葉室家を立ち直らせるのが先決だ。
戸外に出ると、冬の冷たい風が着物の裾を揺らす。
思えば、暗いトンネルの中にずっといたような気がするけれど、出口の光が見え始めている実感がある。
軍の威光がゆっくりと翳りを帯びていく堀口中尉。
その先には、いずれ決定的な破綻が待ち受けているように思えてならない。
「まずは葉室家の事業拡大。焦らず確実に、やっていきましょう」
自分に言い聞かせながら、私はまた次のステップへ足を踏み出す。
同時に、薄く微笑まずにはいられなかった。
堀口家が社交界で蔑まれるようになる日が来るなんて、ほんの少し前までは想像もしなかったからだ。
その夜、離れに戻った私は、一人静かに呉服の仕上がりを思い浮かべる。
父が夢見た新しい技術が生かされれば、私たちの暮らしも、葉室家という家そのものも、きっと生き返るに違いない。
なにしろ、伯爵家が動いている以上、下手な隠蔽やもみ消しは通用しない。
堀口中尉は必死に上官や知人を頼って事態の緩和を図っているらしいが、周囲からは「お前は何をやっているんだ」と厳しい目を向けられているようだ。
「軍上層部に掛け合ったらしいけど、伯爵家との対立を避けようって動きが強くて、誰も真面目に相手にしてくれないそうだよ」
使用人たちから漏れ聞こえる噂話を耳にすると、私は少しだけ溜飲が下がる思いだった。
これまで軍の威光を盾に、葉室家に多大な苦難を強いてきた堀口中尉。
そんな彼が一度でも挫折を味わうのは、当然の報いというものかもしれない。
香織は拘留が短期間で解かれたものの、身内からも厄介者扱いされているようだ。
聞けば、堀口家の母親までもが「一族の面子を潰すとは何事だ」と頭を抱えているらしい。
まさに、彼らの悪行が表沙汰になってしまった証拠だろう。
「綾乃様、これで堀口家も少しは大人しくなるでしょうか?」
女中さんが心配げに尋ねてくるが、私は首を横に振る。
「どうでしょう。あの人たちが一度や二度の失敗で引き下がるとは思えません。むしろ、追いつめられて焦りが増す可能性もあります」
実際、軍での立場が危うくなればなるほど、堀口中尉は強引な手段に訴えかねない。
葉室家からさらに金を巻き上げる手段を探ったり、新素材の情報を不正に得ようと画策したり……考えただけでも嫌になる。
それでも、これまで一方的に押さえつけられてきた状況からは確実に変化が生まれた。
社交界では「堀口家が何かしでかしたらしい」と噂が立ちはじめ、それが軍全体の面子を潰しかねないという話にまで発展している。
「葉室家は大変ね。でも、かの伯爵家が付いているなら、そう簡単につぶれはしないんじゃないかしら」
「堀口中尉が余計なことをして、軍上層部も困っているらしい」
そんな声が、町の至るところで聞こえるようになった。
私は耳を塞ぎたくなる一方で、正直な気持ちとしては少しだけ安心感もあった。
ついに、堀口家の悪行を公の場で指摘する流れが生まれたのだから。
なにより、私は自分の事業を拡大するための準備を着々と進めている。
新素材の試作品は伯爵家からの資金援助もあって生産が軌道に乗り始め、デザインや仕立てを手がける職人も徐々に増やせるようになった。
「綾乃様、次の反物のサンプルが上がりました。ご確認をお願いできますか?」
葉室家の旧呉服職人が、わざわざ離れに足を運んでそう告げてきた。
かつては閑古鳥が鳴くばかりだった葉室家の工房も、新素材の魅力を耳にした若手の職人が集い、活気を取り戻しつつある。
「もちろん、見せてください。染めの仕上がり具合や手触りを確認しましょう」
その場でサンプルを広げて触れてみると、確かに色も鮮やかで軽さと柔軟性が増しているのがわかる。
老職人や中瀬も「これはイケるぞ」と目を輝かせる。
「まだ改良の余地はありそうですが、以前に比べれば格段にレベルが上がっています。このまま量産できれば、各地の織物商や着物店も興味を示すでしょう」
私はうなずきながら、父が生前に書き残したノートの一節を思い出す。
そこには「常に改良を重ね、手を抜くな」と書かれていた。
まるで今の私に、その言葉を送り続けてくれているようにも感じる。
「父様、あなたが築いてくれた土台が、こうして花開こうとしています」
心の中でそっと語りかけると、胸の奥にこみ上げてくるものがあった。
これまでの苦労が報われるのは、まだ少し先かもしれない。
それでも前にはっきりと道筋が見えている。
そうして新たな呉服のデザインや量産準備で気持ちが高揚している私とは対照的に、堀口家の人々は疑心暗鬼に苛まれているようだ。
堀口中尉は軍で孤立し始め、香織は拘留から解放されたものの、周囲から後ろ指をさされる立場になった。
社交界でも「堀口家を相手にすると厄介に巻き込まれる」と敬遠され、彼らが持ち上げられていた時代はもう終わったのだろう。
「綾乃様、敵の勢いが弱まった今こそ、チャンスかと存じます。どうか、この機を逃さずに事業を拡大されてください」
中瀬が私の耳元でそう囁いてきた。
私もそれには同意見だ。
今こそ一気に売り込みを強化し、葉室家のブランドイメージを回復させるのだ。
もちろん、その裏で堀口中尉が何を仕掛けてくるかわからないという不安はあるけれど、もはや私は怖じ気づいている場合ではない。
こんな形で溜飲が下がっても、まだ終わりではない。
いつか本当の意味で、私が「自由」な立場を手に入れられたときにこそ、心から安堵するのだろう。
けれど、今はこの流れを最大限に活かして葉室家を立ち直らせるのが先決だ。
戸外に出ると、冬の冷たい風が着物の裾を揺らす。
思えば、暗いトンネルの中にずっといたような気がするけれど、出口の光が見え始めている実感がある。
軍の威光がゆっくりと翳りを帯びていく堀口中尉。
その先には、いずれ決定的な破綻が待ち受けているように思えてならない。
「まずは葉室家の事業拡大。焦らず確実に、やっていきましょう」
自分に言い聞かせながら、私はまた次のステップへ足を踏み出す。
同時に、薄く微笑まずにはいられなかった。
堀口家が社交界で蔑まれるようになる日が来るなんて、ほんの少し前までは想像もしなかったからだ。
その夜、離れに戻った私は、一人静かに呉服の仕上がりを思い浮かべる。
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