【完結保証】愛妾と暮らす夫に飽き飽きしたので、私も自分の幸せを選ばせてもらいますね

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 葉室家には、日々いろんな噂が舞い込む。
 私と堀口中尉の奇妙な夫婦関係も、社交界では十分に話題の種にされているらしい。
 軍人一家と新興華族の縁組がうまくいっていないという話が、興味本位であちこちに流れているのだろう。

 そんな中、私は母に頼まれて葉室家へ一時帰省することになった。
 経営状態の確認や使用人たちの手当など、やることは山積みだが、正直なところ堀口家の冷たい空気から離れられるだけで少し気が楽になる。

 馬車で葉室家へ向かう途中、町の中心部を通りかかった。
 そこで、私は予想もしなかった人物との出会いを果たすことになる。

 馬車が停まったのは、古くからの華族の家系が集うという社交場の入口だった。
 ちょうど何かの集まりがあったのだろうか、華やかな服装の紳士や淑女たちが出入りしている。
 私はたいして身なりを整えているわけではなく、少し地味な和装に羽織を纏っているだけだ。

 それでも、葉室家の令嬢として最低限の礼儀をと思い、一度だけ馬車から降りて軽く挨拶をすることにした。
 すると、ちょうどその時、会場のドアが開いて、凛々しいスリーピースのスーツ姿を纏った男性が姿を現す。

「藤堂様、お車のご用意ができております」

 従者らしき人が恭しく頭を下げ、その男性を“藤堂様”と呼んだ。
 私の目には、彼の茶色がかった髪と切れ長の瞳がまず飛び込んでくる。
 伯爵家の嫡男、藤堂 圭吾という名を耳にしたことはあるが、こうして直接お姿を拝見するのは初めてだ。

「ありがとう」

 低く落ち着いた声で従者に礼を言うと、藤堂はふと視線をこちらに向けた。
 まるで場の空気を一変させるような、不思議な気品を漂わせていて、一瞬でその存在感に目を奪われる。

 私は慌てて一礼しようとするが、どのように言葉をかければいいか迷ってしまう。
 ところが藤堂の方から、さりげなくこちらに近づいてくるではないか。

「失礼ですが、葉室家のご令嬢でいらっしゃいますか?」

 まっすぐな視線と柔らかな口調に、私は思わず胸がどきりとした。
 しかしすぐに気を取り直し、丁寧に言葉を返す。

「は、はい。葉室 綾乃と申します。どうして私の名を……?」

「先日、お噂を少し耳にしたもので。たしか、呉服商の新興華族として頑張っておられるのに、なにやら苦しい立場にあるとか。伯爵家の私がこういうことを言うのはおこがましいかもしれませんが……大丈夫ですか?」

 その問いかけに、胸の奥がざわつく。
 葉室家の経営難や、私の結婚生活の不仲な状況は、どうやら社交界の耳にも入っているのだろう。
 それを伯爵家の当主である藤堂が直接口にするということは、よほど話題になっているに違いない。

「ええと……なんとか、踏ん張っております。ご心配には及びません」

 そう言いながらも、私がどこかうろたえているのを見て、藤堂は穏やかに笑みを浮かべた。

「もしもお困りのことがあれば、遠慮なくご相談を。伯爵家と葉室家では歴史も違いますが、こういう時代です。助け合える関係になれたらと思います。ほら、文明開化の流れで新しい取り組みが増えているでしょう?」

 軍での横暴に苦しめられている私たちからすると、藤堂の言葉は意外でありながら、とても心強い。
 彼はまるで私の考えを見通しているかのように、柔らかな眼差しで続けた。

「こんな私でも、財界の何人かと懇意にしています。もし経営面やその他でお困りでしたら、いつでもご一報ください。あなたが望むなら、お力になれます」

 藤堂は懐から名刺を取り出し、私に差し出す。
 伯爵家の紋章が小さくあしらわれた上質な紙で、彼の名前と伯爵位が示されていた。
 そこには欧州での留学経験を思わせる肩書もあり、まさしく時代の先駆けを担う人物なのだとわかる。

「ありがとうございます……」

 名刺を受け取りながら、私はなぜか言葉に詰まってしまう。
 堀口中尉のような偽りの威圧感ではなく、本物の落ち着きと品格を持つ人がいることに、正直な驚きがあるのだ。
 そして同時に、その温かい眼差しがどこか私の心を揺さぶる。

 人として、こんなにも丁寧に接してもらえるとは思っていなかった。
 葉室家が破綻寸前と噂される中でも、彼は見下したり同情だけで近づいてくるような感じではない。

「葉室 綾乃様。お会いできて光栄でした。またご縁がありましたら、ぜひ」

 藤堂はそう言って小さく会釈すると、従者と共に馬車へ向かう。
 その後ろ姿を目で追っていると、なぜか胸が熱くなる。
 私の事情など何一つ知らないはずなのに、あんなふうに優しく言葉をかけられて、正直戸惑いを隠せない。

 伯爵家の藤堂 圭吾。
 社交界でも名高い家柄と聞くし、欧州留学の経験から進歩的な考えを持っているとも。
 まさかこんな形で、私が彼と会話を交わす日が来るとは思ってもいなかった。

 馬車に戻り、葉室家へ向かう道すがら、私はずっと藤堂の名刺を眺めていた。
 そこに刻まれた文字と紋章が、妙に力強く感じられる。
 まるで、救いの手を差し伸べられたような、不思議な温もりを感じるのだ。

 その夜、実家で母や使用人たちと顔を合わせるが、誰もが疲れた表情だ。
 堀口家への仕送りをさらに要求されているという話も本当だった。
 母は青ざめた顔で頭を抱えるばかり。

「綾乃……どうにかならないの? 私も色々と手を尽くしたけれど、もうお金が残ってないの」

 きっと母も苦しいのだろう。
 私が嫁いだ後も、葉室家が守り抜いてきた呉服屋の維持と、華族としての体面を保つための出費が重なり、限界が近いという。

 その現状を聞きながら、頭の片隅には藤堂の名刺がよぎる。
 私たちを馬鹿にする人ばかりがいるわけではないのだ。
 もし、本当に行き詰まったら、彼を頼るのも一つの選択かもしれない。

「母様、まだ私にできることはあると思います。ごめんなさい、もう少しだけ待ってください」

 そう告げると、母は少しほっとしたようにうなずく。
 けれどその目は不安で満ちていて、私の言葉だけで安心しきれる状況ではないのだろう。

 伯爵家の藤堂 圭吾の言葉は、本当に私の助けになるのだろうか。
 彼が差し出してくれた名刺を握りしめながら、私は知らず知らずのうちに、彼の存在に期待を抱き始めている自分を感じていた。
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