お飾り婚約者は卒業させていただきます

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 王都の中心に位置する大きな市場通りは、いつも多くの人で賑わっている。
 商売人や旅人、貴族の使者など、さまざまな立場の人々が行き交う場所だ。
 セレナ・グランディールは、子爵家の商会スタッフとともに市場で取り扱われている物品や新しい商材を視察するため、この日も足を運んでいた。

 市場通りの一画には、珍しい海外の香辛料や染料が並び、セレナの目を引く。
 彼女はスタッフにさりげなく声をかけ、詳しい情報を聞き取らせようとしている。
 商いの手がかりはどこにあるかわからない。それを見極めることこそ、セレナの腕の見せどころだった。

 すると、その喧騒の中で不思議な視線を感じる。
 セレナが何気なく視線を移すと、少し離れた場所に立つ男がこちらを凝視していた。
 華やかな衣装でもなければ、堂々とした体裁もない。  
 妙に落ち着かず、どこか爬虫類じみた視線を向けている。

「……あの方、以前どこかで……?」

 セレナの記憶の中に微かな引っかかりが生じる。
 だが、その男は慌てたようにそそくさと通りの陰へと姿を隠した。
 セレナは思わずスタッフに目で合図を送り、そちらの方向を探らせようとする。

「お嬢様、何かありましたか?」

「いえ、ちょっと知り合いかと思ったのですけど……気のせいだったかもしれません」

 結局、その男は市場の人混みにまぎれて見当たらなくなった。
 セレナは深く追及せず、視察を続けることにする。
 だが、一度感じた不気味な視線は心にわずかな違和感を残していた。

 市場をひと通り回ったあと、セレナは馬車で次の目的地へ向かう予定だったが、スタッフが手配していた馬車がまだ到着していないという報告を受ける。
 仕方なく少し時間を潰そうと、市場近くのカフェテラスで待つことになった。
 セレナは静かな席を見つけ、スタッフと軽いお茶を注文する。

「お嬢様、今日はだいぶ歩かれましたね。少しお疲れでは?」

「ううん、大丈夫。新しい商材を見られて、むしろ元気が出ました。あなたも休んでくださいね」

 和やかな会話が続くなか、ふと誰かが近づく気配を感じる。
 カフェのテーブルの周りは人が多く、少し視界が遮られているが、セレナは微かな警戒心を抱いて顔を上げた。

「あの……セレナ様、でしょうか?」

 そう声をかけてきたのは、少し若い女性だった。
 派手な衣装でもないが、それなりに上質な布を使っているようにも見える。
 表情はどこか不安げで、何か言いにくそうに言葉を選んでいる様子だ。

「はい、私がセレナ・グランディールですが。どちらさまでしょう?」

「私、シュヴァルツ侯爵家の領地出身で……数ヶ月前まで農民として暮らしていました。お話を伺いたくて、探していました」

 セレナは驚くと同時に、胸に複雑な感情が広がる。
 ヘリオットの領地から逃れ出た者が、この市場で自分を探していたというのだろうか。
 彼女は周囲に人が多いことを気にして、静かな口調で応じる。

「わかりました。あまり周りに聞かせたくないお話なら、少し席を移動しましょうか」

 セレナはスタッフに合図し、近くの角席へ移り、簡易的に仕切りを作って話を聞くことにする。
 そこで明かされたのは、シュヴァルツ領での過酷な徴税と、ヘリオットが私的に流用したせいで領地が疲弊し、逃げ出すしかなかったという現実だった。
 それはセレナが耳にしていた噂よりも、はるかに深刻な内容だった。

「私の家族も重税に耐えかね、とうとう生活が成り立たず、王都へ移ってきました。
 仕事を探して何とか日銭を稼いでいるんですけど……ここまで追い詰められた原因は何なのか、本当のところを知りたくて」

 女性は泣きそうな顔をしながらセレナを見つめる。
 ヘリオットが領民を顧みず、遊興や贅沢に金を注ぎ込んだ結果であることは明白だ。
 セレナも心の中で憤りを感じつつ、穏やかな口調を心がけて答えた。

「……私の口から言えるのは、あの領地を統治する側の管理が杜撰だったということだけ。
 けれど、王宮もすでに調査を進めています。きっと、あなたの家族にも救済策が示されるはずです」

 女性は小さくうなずき、ほっとしたような、それでもまだ不安が残る表情で目を伏せる。

「セレナ様が私たちの話を聞いてくださるだけで、少し安心しました。領地の皆も、あの男の評判とセレナ様の評判がまるで違うと言っていましたから」

「そう……ありがとう。何かあったら、子爵家の商会に手紙を送ってください」

 セレナはスタッフにメモ用紙を渡し、連絡先を記入して女性に手渡す。
 彼女は何度も頭を下げ、謝礼の言葉を繰り返して去っていった。

 すぐにやってきた馬車に乗り込むとき、セレナの心には微妙な重さが残っていた。
 いくら自分が自由になれたと言っても、ヘリオットのしわ寄せを受ける人々が今なお苦しんでいる。
 彼の不正がさらに露見し、裁判で責任を問われている最中とはいえ、その被害は簡単には消えないのだ。

(私にできることは、こうして情報を受け取り、王宮の調査に協力するくらい……)

 馬車が走り出した頃、セレナは窓の外を眺めながら、もう一度深く息を吐く。
 謎の男の視線も気にかかったが、それ以上にヘリオットがもたらした悲惨な余波が胸を痛める。
 いずれ、第2、第3の領民が同じように流れてきても不思議ではない。

 もしそれが「過去の縁」である自分に報せを求めてくるのだとしたら、何か少しでも動ける方法があるか――。
 セレナは商会の立場でできる限りの援助や手続きを考えながら、もやもやとした思いを抱えたまま帰路についた。
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