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第十話:忍び寄る夜の足音

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 城へ戻った華織と与四郎よしろうは、さっそく領主に湖畔の状況を報告し、工事の許可を得ることに成功した。
 領主もさすがに事態を重く見ており、補修のための人手と物資の手配を早急に行うよう命じてくれた。
 だが、すべてが順調に進むわけではない。干ばつの最中、大規模な工事を行うには水も資材も足りず、領民たちも疲弊しきっている。

「わたしも、何とか領民の皆さんに声をかけて協力を仰ぎます。父上にも、できる限り負担を減らす措置を取ってもらうように提案して……」

 華織が気丈に語っていると、遠くから侍のひとりが駆け込んできた。
 その顔色は青ざめ、息も荒い。

「失礼します! 先ほど、城下の川辺で夜な夜なあやかしを見たという者が、今度は実際に襲われそうになったと……」

「何ですって……! ついにあやかしが人に危害を加えたの?」

 華織は驚きと恐怖で声を上ずらせる。
 侍は必死に続きを語る。

「はい。漁師が夕暮れ時に魚を獲ろうと川辺に出向いた際、黒い影が水面から現れ、手を引っ張られかけたそうです。幸い周囲にいた仲間が助けに入り、怪我こそしなかったものの……漁師は怯えて震えております」

「水面から……。まるで水中に潜んでいるようですね。やはり、“水神の眷属”が暴れ始めているのでしょうか」

 与四郎よしろうは唇を結び、華織を見る。

「まず、その漁師の話を直接聞いてみる必要がありますね。もしあやかしの姿や特徴がわかれば、大きな手掛かりになるかもしれません」

「わかったわ。琴羽、あの漁師さんを城へお連れしてくれないかしら。わたしの部屋でお話を伺うわ」

「かしこまりました、華織かおり様。すぐにお迎えに参ります」

 こうして夜が近づくなか、漁師の男が城にやって来た。
 年の頃は三十ほどで、まだ若いが、その表情には恐怖が色濃く刻まれている。
 華織は部屋に招き、茶を出してから穏やかな口調で話しかけた。

「大丈夫ですか。怖い思いをされましたね……。まず、あなたのお名前をお聞かせいただけますか」

新八しんぱちと申します……。いつもは川で小魚を獲って暮らしているのですが、まさかこんなことになるなんて……」

「あなたは、あやかしの姿を見たのですね。差し支えなければ、どのような様子だったか教えてください」

 華織が問いかけると、新八しんぱちは顔を強ばらせながら、しきりに手を震わせて語り始めた。

「はい……。川面に影が浮かんだような気がして、最初は水草か何かだと思ったんです。
 ところが、その影がぬっと形を変えて、人の腕のようなものが伸びてきて……いきなりわたしの腕を掴もうとしたんです」

「人の腕……やはり人型だったのですか?」

 華織が身を乗り出す。

「はい。ただ、顔はわかりませんでした。長い髪のようなものがゆらゆら漂っていて、見たら目が眩むような恐ろしさがありました。
 ……でも、仲間が灯りを向けた瞬間、その腕は水面の中へすっと消えてしまいました」

 まるで幻のように消えた、という新八しんぱちの言葉に、華織はあの夜に見た黒い影を思い出していた。
 城の廊下に立っていたそれも、長い髪を揺らしていたように感じたのだ。

「川に潜むあやかし……。新八しんぱちさん、掴まれそうになった腕や手首に傷や痕はありませんか?」

「いえ、幸い何も。まるで引きずり込もうとする力だけは強烈に感じましたが、仲間が“放せ!”と大声を上げたら、すぐに離れたんです」

「仲間の方も、同じ影を見たのですね?」

「ええ、ただ明確な姿は見えず……。それだけでも充分恐ろしかったのですが、あれがまた現れると思うと……」

 新八しんぱちは頭を抱えるように身を縮める。
 華織はそっと手を伸ばし、優しく声をかけた。

「大丈夫です、落ち着いてください。あなたには何の落ち度もありません。
 あやかしが本当に人を襲い始めたのだとしたら、対策を立てねばなりません。どうか、今はゆっくり休んでくださいね」

「は、はい……ありがとうございます……。領主様のご娘君が直々にお話を聞いてくださるなんて……。わたしは、この藩が大好きなんです。だから、こんな形で壊されるなんて、悔しくて……」

 涙を浮かべる新八しんぱちの姿に、華織は胸が締めつけられた。
 干ばつの被害だけでも辛いのに、あやかしが現れてさらに人心が乱れるようなことがあっては、この藩は立ち行かなくなるかもしれない。

 部屋を出た新八しんぱちを見送り、華織は与四郎よしろうに向き直る。

「とうとう人を直接襲おうとした……。このままでは夜道どころか昼間でも川辺に近づくのが危険になってしまうわ」

「はい。とにかく、あやかしの正体が何なのか突き止めないと、対策を打ちようがありません。
 湖畔や祠だけでなく、川の周辺にも封印を示すような痕跡がないか、調べる必要があるでしょうね」

「わたしも、できる限りお手伝いします。夜の見回りは侍と一緒に行って、あやかしを追い払うためにも備えましょう。
 ただ、あやかしを退治する方法など、どこにも書かれていないのがもどかしいわ……」

 華織の言葉に、与四郎よしろうは小さく息を吐く。

「現実的には、封印を復元するか、水神の怒りを鎮める儀式を再興するか……。
 郷志ごうし殿のお話では“神人婚”も手段のひとつのようでしたが、あれはかなり特殊な……」

「そうよね。神と人が契りを結ぶなんて、想像もできない……。けれど、それくらいの荒業を使わないと、この干ばつとあやかしの脅威は止められないのかもしれない」

 華織の瞳には、不安と決断がせめぎ合っている。
 誰かが人柱となるような行為をすることなく、平穏を取り戻す方法はないのだろうか。
 それを見つけるためにも、時間は残されていない。

 夜が更けていくにつれ、城下や川辺を警戒する侍たちが増え始めた。
 風が少しずつ涼しさを孕み、華織かおりの髪を揺らす。
 しかし、その風に混じる空気には、どこか不吉な湿り気と冷たさが混ざっているような気がした。

 まるで、“あやかし”が夜の闇とともに、城や川、人々の背後へと忍び寄っているように。
 華織はぎゅっと扇を握りしめ、その場に留まるよう自分自身を鼓舞する。

「このまま黙って見過ごすわけにはいかない。絶対に……負けないわ」
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