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第三話:水路へ向かう小舟

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 翌朝、華織と与四郎よしろうは、琴羽を連れて川沿いの水路へ向かった。
 地元の家臣たちが小舟を用意してくれており、橋のたもとから上流に向かう形で水路を巡回するという手筈になっている。
 川は水量が激減しているものの、まだ漕ぎ出せる程度の深さは辛うじて保っていた。

「なんとか舟は動かせそうですね。もっと枯れていれば歩くしかなかったのでしょう」

 与四郎よしろうはそう言いながら、小舟の中で地図を広げる。

「父上たちが以前に施した水路も、だいぶ老朽化が進んでいるのでしょうか。あちらこちらで土砂崩れがあったと聞いています」

 華織は川面を見つめ、まばらにしか流れない水に少し不安を感じていた。

「まずは、全体を把握するのが大事です。実際に水路を見て、崩落や歪みの原因を突き止めれば、修復の糸口が見えるかもしれません」

 与四郎よしろうは意気込みを示し、漕ぎ手の合図で舟が静かに動き出す。
 琴羽は少し緊張した様子で、華織の袖を握っていた。

華織かおり様、舟は平気ですか?」

「ええ、幼い頃に一度だけ川遊びをした記憶はあるけれど、まさかこうして干ばつのときに舟に乗るなんてね……」

 華織は揺れる舟の中で、微かな違和感を覚える。
 本来ならばもっと豊かな流れがあったはずの川が、痩せ細った水筋になってしまった光景はあまりにも痛々しかった。

「……華織かおり様。もし今日の巡回で何か見つかれば、原因解明に繋がるかもしれません。ご不安でしょうが、一緒に頑張りましょう」

 与四郎よしろうが優しい声でそう励ますと、華織は小さく微笑んだ。

「ありがとう。都の方はもっとクールな印象かと思っていたけど、あなたは不思議と親しみやすいのね」

「はは、そう言っていただけると光栄です。私もまだ見習いのみで、実地経験が足りない分、こうして皆さんと一緒に力を合わせたいと思っております」

「そう……。でも、私たちにはあなたの知識が必要なの。だから、遠慮なく発言してちょうだいね」

 華織は真剣な面持ちでそう告げる。
 穏やかな口調の中に、領主の娘としての凛々しさがあり、与四郎よしろうも自然と背筋が伸びた。

 舟は上流へ進んでいく。
 時折、川岸が崩れて土が流れ込んでいる箇所が目につき、その都度与四郎よしろうが地図に印をつけていく。

「見てください。あそこの岩肌なんて、今にも崩落しそうに見えますね」

 華織が指差した先は、大きな石が川に突き出る形で不安定に乗っていた。
 その周囲の水は、妙に淀んで濁っている。

「確かに危険です。土砂が一気に川へ流れ出せば、さらに水の流れが滞ってしまうでしょう。上流でこれが起きれば、下流域への水の供給にも大きく響きます」

「自然現象とはいえ、これほどまでに荒れるものなのでしょうか。まるで、何者かが意図的に川を塞ごうとしているようにも見えるわ」

 華織が眉をひそめると、琴羽がさらに心配そうな声をあげる。

「“あやかし”の仕業、と言われている噂もありますけど……。本当にそんなことがあるのでしょうか」

 与四郎よしろうは一瞬、言葉に詰まる。
 あやかしなど、都で学んできた理屈からすれば、ただの伝承に過ぎないはず。
 しかしこの地では、古来より水神を祀る風習があり、その存在を否定できぬほどの不思議な出来事が起こっているとも聞かされていた。

「私にはまだわかりません。ただ、これは単なる土木だけで片付けられる問題ではなさそうですね」

 そっと舟に揺られながら、与四郎よしろうは俯くように呟いた。

「父上も何かをご存じのようだけど、あまり語ってくれないの。まるで話を避けるような……」

 華織がそう言うと、琴羽はさらに声を落とす。

「城内では、昔この地に“水神と交わした契約”があったと囁かれています。でも、それがどういう内容だったのか、今や知る者はほとんどいないみたいで……」

「もし契約が破られたのだとしたら、その代償は大きいのでしょうか」

 与四郎よしろうの問いかけに、華織も苦い表情を見せる。

「わからない。でも、もし水神との誓いが破られて、その結果として雨が降らなくなったのだとしたら……。藩を救うためにも、私たちが真実を突き止めなくてはならないわ」

 そう言い切る華織の横顔には、ただの名家の娘とは思えない覚悟が感じられた。

 舟はさらに奥へ進む。
 すると、岸辺に倒木が重なり、水が通る場所を大きく塞いでいる地点に差し掛かった。
 ここだけ水流が妙に早く、渦を巻いているようだった。

「危ない、あそこは流れが急だ! 漕ぎ手、少し速度を落としてください!」

 与四郎よしろうが慌てて声をかける。
 漕ぎ手たちは必死に舟を制御しようとするが、激しい流れに舟がぐらりと傾く。

「きゃあっ!」

 琴羽が悲鳴をあげ、華織も咄嗟に支えようとする。
 しかし、その拍子に華織はバランスを崩し、船べりに手をついた。

華織かおり様、大丈夫ですか!」

 与四郎よしろうはすぐさま華織の手を取り、体勢を戻させる。
 舟は何とか転覆を免れたものの、岸辺に打ち寄せられる形で漕ぎ手が舟を止めざるを得なかった。

「はあ……危なかった。皆、怪我はありませんか」

 華織は息をつきながら、まず周囲を確認する。
 漕ぎ手たちも無事で、琴羽もなんとか落水は免れたらしい。

「どうやら、ここから先へ進むのは困難そうですね。流れが早すぎますし、倒木による渦ができているようです。ここは一旦舟を降りて、陸路から上流を目指したほうがいいでしょう」

 与四郎よしろうの提案に、華織は同意の頷きを返す。

「それが良さそうね。いずれにせよ、あそこまで塞がれている現状を見過ごすわけにはいかないし、川の周囲を歩いて確認しなきゃ」

 舟を岸に寄せ、乗っていた者たちはそれぞれゆっくりと上陸をはじめる。
 渦巻く水の音を背に、華織は改めて、自然の力の大きさと、この土地の異変に潜む“何か”を感じずにはいられなかった。

「まるで……川そのものが、何かに怯えているみたい」

 華織が呟いたその言葉を、与四郎よしろうは聞き逃さなかった。

「怯えている、ですか。確かに、どこか嫌な気配を感じます。これは単なる水害ではなく、もっと深い問題があるのかもしれません」

「先ほどの祠で見つけた札……あれも何かの封印だったのなら、この異変とも関係があるのかもしれない。水神が怒っているのか、それとも……」

 華織は強まる日差しに耐えながら、額の汗を拭う。
 そこへ、琴羽が木陰から声をかける。

華織かおり様、こちらに少し涼しい場所がありますよ。水筒もお持ちしましたので、喉を潤して休まれませんか」

「ありがとう、琴羽。与四郎よしろう様も、少し休みましょう。これから地形を確かめるにしても、体力が必要だわ」

「そうですね。ありがとうございます、お借りします」

 こうしてしばし木陰で小休憩を取る三人。
 ほんの一瞬でも体を冷やさないと、照りつける日差しに体力を奪われてしまう。
 華織はごくりと水を飲み込みながら、仰ぎ見る空に一片の雲もないのを見て、無意識にため息をついた。

「この空はいったい、いつまで私たちに意地悪を続けるのかしら……」

 その問いは、誰にも答えられない。
 だが、ここまでの巡回だけでも、異常な崩落や強すぎる流れといった不穏な兆候が見つかっていた。
 何かが、この土地を蝕んでいる。
 確かなのは、それだけだ。

「よし、もう少し落ち着いたら先に進みましょう。わたしも、ここで終わるわけにはいかない」

 華織の瞳には、再び決意の光が宿っていた。
 この歩みが、やがて水神の沈黙と誓いの謎を解く糸口となることを信じて。
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