王太子妃よりも王弟殿下の秘書の方が性に合いますので

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 朝を迎えたばかりの執務室で、私はクラウス殿下と共に書類の最終確認を行っていた。
 ようやく一息つける、そんなタイミングで侍従長が慌ただしく駆け込んでくる。

「失礼いたします! アルト殿下が、いまこの執務室の資料を引き上げようとされているようです!」

 一瞬、私は耳を疑った。
 なぜアルトが今さら資料を横取りしようとするのか。
 私たちが徹夜でまとめたこの報告書は、クラウス殿下の名義で国王陛下に提出する予定のものだ。
 それを奪われては、せっかくの努力が水の泡になりかねない。

「……殿下、急いで止めに行きましょう」

 そう提案すると、クラウス殿下は苦い表情を浮かべたまま頷く。
 正直、眠気はまだ残っているが、どうしても放っておけない。

 私たちは侍従長の案内で隣の文書保管室へ急いだ。
 するとそこには、乱暴に書類を手繰り寄せているアルトの姿があった。
 後ろにはお決まりのようにクリスティーナが控えている。

「これは俺の仕事だ! もともと王太子の俺の領分だったはずだろうが!」

 そう言いながらもアルトの目は血走っていて、取り出している書類の中身をまったく把握していない様子が丸わかりだ。
 周囲の役人たちも止めたいのだろうが、アルトの怒鳴り声に怯えて手を出せずにいる。

「アルト殿下、ご無礼とは存じますが、その書類は私たちが整理して陛下へ提出する予定のものです」

 クラウス殿下が冷静に言葉を発するが、アルトは聞く耳を持たない。
 力任せにファイルの山を引っ張ったとき、その一部が床にばら撒かれてしまった。

「殿下、もうやめてください。書類が散乱してしまいます!」

 私が少し声を張り上げて注意するが、アルトは全く聞き入れず、「お前がしゃしゃり出るな!」と罵声を浴びせてくる。
 しかし、勝手に持ち去ったところで、この膨大なメモや下書きを扱いこなせるはずもないのだ。

 アルトの後ろで、クリスティーナが落ちた書類を見下ろしながら、どこか焦るように視線を動かしている。
 彼女もこんな形でアルトの行動が周囲に露呈するのは望んでいないのだろう。
 でも、止める気はないようだ。
 その打算的な態度が透けて見えると、私の中に冷淡な感情が宿るのを感じる。

「……もういいわ」

 私はそう呟いて、床に散乱した資料を一枚ずつ拾い上げ始めた。
 アルトに文句を言っても意味がないどころか、状況を悪化させるだけだ。
 クラウス殿下も同じ考えなのだろう。
 小さく息をつくと、私の隣に屈み込んで書類を手に取り始めた。

「アルト兄上、これがどんな案件かわかっているんですか?」

 クラウス殿下が疲れたように問いかける。
 しかしアルトは返事どころか、さらに苛立ちを募らせている。
 散らばった紙束をつかんではまた投げ出す始末だ。

「ああもう……! これは俺の領分だって言ってるだろ! お前たちばかり目立ちやがって!」

 明らかに支離滅裂な言い分に、侍従長や役人たちも呆れた表情で固まっている。
 するとアルトは投げ捨てるように資料を放り出し、そのまま廊下へと足早に逃げ去っていった。
 クリスティーナは慌てて後を追いかけるが、書類の残骸がまるで二人の荒れた心のように散らばっている。

 私は呆れを通り越して、あまりの見苦しさに唖然とするしかなかった。
 いつまでも自分が王太子だと信じ込んでいるようだけれど、その座はもう危ういどころか、ほとんど失っているに等しい。
 少なくとも、今の醜態を見た者は誰もアルトを王として仰ぎたいとは思わないはずだ。

「シルヴィア、怪我はない? ……ごめんね、僕の不注意だった」

 クラウス殿下が申し訳なさそうに言う。
 その声に、私はハッとして首を横に振った。

「いいえ、殿下は悪くありません。アルト殿下があんな無茶をするなんて、想定外だっただけです」

 私たちは手分けして散らばった書類をかき集める。
 その横で侍従長や役人たちも、哀れむようにため息をつきながら手伝ってくれた。
 あちこちに白い紙が散らばる光景は、まるでアルトの焦りと苛立ちが形となって現れたようだ。

 私たちはひとまず必要な書類だけでも再チェックして整理し直すことにする。
 面倒だけれど、ここをしっかりまとめれば、むしろ私の実力を示すことができるはず。
 アルトが妨害行為に出ようと、この国の仕事は前に進まなければならない。

 王太子の愚行を目の当たりにした者たちは、よりいっそう私とクラウス殿下を頼りにしてくれるだろう。
 アルトが自分から評判を落としていることに気付かない以上、私たちにとっては有利な展開とも言える。
 それがわかっていても、胸の奥にあるわずかな空しさは拭えない。
 かつて公爵家と王家の結び付きの象徴とされた私たちの婚約が、今やこんな惨状を生むなんて。
 だが、もう後ろは振り返らないと決めたのだ。
 私は改めてクラウス殿下と顔を見合わせ、仕事を続ける決意を固める。

 薄く差し込む朝の光が、散らかった白い紙を照らす。
 荒れた王太子の影に目をやりながら、私はこの国での自分の役割をさらに明確に感じ始めていた。
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