王太子妃よりも王弟殿下の秘書の方が性に合いますので

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 私は華やかな装飾が施された王宮の一室で、しんと張り詰めた空気を感じ取っていた。
 目の前には浅黒い肌と切れ長の瞳を持つアルト殿下が立っている。
 彼は浅く息をつきながら、いつものように尊大な態度を崩さないまま私を見下ろしていた。

「お前……今なんと言った?」

 アルト殿下の声音には苛立ちが混じっていて、まるで猛獣の唸り声のようだった。
 けれど私の心に恐怖はなかった。
 むしろ、ずっと押し殺してきた感情が今まさに堰を切ったのだと感じている。
 反対に、自分の声は不思議と落ち着いていた。

「婚約を破棄いたします、と申し上げました」

 これまで幾度となく耐え忍んできた生活に終止符を打つ瞬間だと思うと、胸の奥から解放感が湧き上がってくる。
 公爵家の令嬢として、王太子である彼との縁談は周囲からも歓迎されるはずだった。
 しかし、実際のところ私が引き受けさせられたのは、政務と公務の丸投げ。
 挙句の果てには、侍女のクリスティーナとの不倫関係を隠すことすらしないこの男に、私はうんざりしていた。

 アルト殿下は顔を歪め、まるで理解できないというように私を睨みつける。
 その様子を横目で見ながら、私は深く息をついた。

「俺に恥をかかせるつもりか? こんな場で婚約破棄とは、正気とは思えん」

「恥をかかせるも何も、すでに殿下は私の顔に泥を塗り続けてきました。
 これ以上、形だけの婚約者として振り回されるのはまっぴらです」

 その瞬間、アルト殿下の表情が怒りで真っ赤になった。
 彼はもともと傲慢な性格だが、こうも公然と反論されることは初めてなのだろう。
 唇を震わせ、何か言い返そうと口を開いたところで、ひっそりとクリスティーナが姿を見せた。

 腰まで届く赤茶色の髪を軽く巻き、メイド服とは思えない華美な装飾に身を包んだ彼女は、慌てた様子でアルト殿下の腕を掴む。
 まるで自分に火の粉が降りかかることを恐れているようにも見える。

「アルト様、ここは……落ち着きましょう、ね?
 そんなに声を荒らげては、人目が……」

 まさか今さら人目を気にするとは、と内心呆れてしまう。
 彼女はいつも私を見下すような目をしていたが、こうして慌てふためく姿を見ると、この関係がいかに脆いものかよくわかる。
 アルト殿下をなだめるように回る彼女の手が、今はかすかに震えているのが見えた。

 静まり返る空気の中、私は深く一礼する。
 ここで未練を残す必要はない。
 私が王太子妃になるという未来は、もはやこれ以上継続できるものではなかったのだ。

「失礼いたします。
 殿下との婚約は、ここにてすべて無効とさせていただきます」

 冷ややかに私が言い切ると、アルト殿下は怒りを通り越して何か恐怖でも感じたのか、一瞬だけ目を見張った。
 それでもなお譲る気配を見せないらしく、再び声を張り上げる。

「勝手なことを抜かすな! 公爵家との関係を考えてみろ!
 お前が投げ出していい立場だと思っているのか?」

 けれど、私はすでに決意を固めていた。
 王太子殿下の名誉や外聞を守るためだけに生きるのはまっぴらだ。
 心の中には、堂々とこの場を去る覚悟だけがある。

「公爵家がどう思うかは、すでに話を通しております。
 それに、私が耐えてきた日々を省みなかったのは殿下ご自身。
 ですから、あなたとの婚約を今日ここで終わりにしていただきます」

 そう伝えると、クリスティーナが小さく悲鳴を漏らした。
 アルト殿下がつかみかからんばかりの剣幕で詰め寄るが、私は動じず、静かにその腕を受け流す。

「ぐっ……! お前、後悔するぞ……!」

「後悔など微塵もありません」

 言い放った私の言葉を最後に、重苦しい空気が一気に凍りついた。
 クリスティーナが急いでアルト殿下を引き留め、その場の混乱を収めようと必死だ。
 私にはその様子が、まるで下らない茶番のように思えてならない。

 部屋の扉を開いて外へ一歩踏み出す。
 視界に映る王宮の廊下はまぶしく、吹き抜ける風が私のプラチナブロンドの髪をかすかに揺らした。
 今まで重くのしかかっていた呪縛から解き放たれたのだと感じ、思わずほっと息をつく。

 こうして、私の婚約破棄は幕を開ける。
 そして、ここからが私の本当の人生の始まりだ。
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