33 / 99
第5章 仮初めの日常
九話 撃退
しおりを挟むなぜ、あれほど難しかったことが、これほど簡単にできたのか。
秀に起こった変化と言えば、一つだけだ。秀はただ、願った。
会いたい、と。
雪虎と呼ばれたあの子に、また。
それは幼子ゆえに純粋で、一途な願いだった。たとえ、根っこにあったのが、興味本位や好奇心であったとしても。
またもう一度、雪虎と会ってみたかったからこそ、秀は自由を求めた。
それが、功を奏したのか。
あれほど難しかった力の制御を、気付けばいとも容易く秀は行っていた。ただ。
そのための原動力となった、雪虎に会いたいと願う、渇望は。
幼い心にとって、すぐ。
…酷い―――――重荷となった。
なにせ、外に出てからも、ずっと。
秀の心の向きは、雪虎にだけ、真っ直ぐに進んでいて。
せっかく、自由になったのに。
なんでもできるのに。
すべて許されているのに。
秀は何一つ、自由ではなかった。
雪虎が憎くなるのは、すぐだった。
どうして。
―――――あの子は、私を縛るのか。
父が、雪虎を特別扱いするのも、納得できなくて。
許せなくて。
なのに、自分の心からあの子を決して外せないのだ。すぐにわかった。父も、そうなのだと。
気付けば、雪虎のすべてが疎ましくなっていた。
それでも、視線は必ず、雪虎の姿を追っていて。
雪虎が、だいじにしているという小汚い少女に向ける、表情を見た刹那。
たちまち、すべてがひっくり返った。
引きずり戻された。
あの時、はじめて雪虎を見た日へと、心が。
雪虎には、どうあってもかなわない。
完膚なきまでに、秀は敗北した。
否、勝ち負けなどどうでもいい。秀はもう、骨の髄まで理解している。
雪虎が雪虎として、生きて、そこにいる。もうそれが、それだけが、秀にとってのすべてなのだ。
「…旦那さま、よろしいですか」
助手席に乗っていた男が声をかけてくるのに、秀は目を開いた。
「なんだね」
「穂高の若君は、もう本州方面に出て―――――無事、故郷へ向かっていると連絡がありました」
秀は、ゆっくりと俯けていた顔を上げる。
助手席の男は、事務的に言葉を続けた。
「穂高家に、戻った暁には」
「手筈通りに」
ぞっとするような秀の声にも、臆することなく、月杜家に代々仕える男は頷く。
「了解しました。穂高家が始末に動く前に、月杜の者の手で片付けます」
月杜の手で始末したいなら、なぜ、わざわざ穂高家へ返すのか。
そのように思われそうだが―――――まずは穂高家へ戻すことに、意味がある。
秀は明かりが流れていく窓の外へ目を向けた。
雪虎は、こちらへ向かう前に、かかりつけの医師のところへ預けている。
付き添いを一緒にいた者数名に頼み、秀が踵を返したところ。
―――――どこ行くんだ…いや、ですか。
雪虎は、秀の前に、立ち塞がった。怒った顔で。だが。
いつも強い印象の目に浮かんでいたのは、心配だ。
幼い頃から、ああいった表情は変わらない。おそらく、雪虎は察したのだろう。
秀にとって、これからが今日最大の仕事の仕上げの時間だと。
―――――用事はもう終わったんじゃないんですか?
訊きながらも、どう言えばいいのか分からない、と言った態度で、雪虎は言葉を不器用に紡いだ。
終わった、と言えば、じゃあこのまま秀と一緒に行く、と返され。
診察があるだろう、と言えば、終わるまで待っていろ、と来た。
危険な場所へ、雪虎を連れて行きたくはない。
内心、ほとほと困っていると、雪虎は真っ直ぐな目で、核心をついてきた。
―――――危ないこと、しに行くんじゃ、ないだろうな。
その表情を思い出し、温かな心地になった半面。
車の中で、秀は独り言ちた。
「…トラを蹴った、だと」
呟きと共に、車内の空気が、凍えるほどに、冷えた。
秀の身を案じる雪虎の顔に、自身を傷つけた相手に対する恨みなど、もう微塵も残っていなかった。
殴り返して、彼の中では本当に、それで終わったのだ。
雪虎は一度やり返せば、もう、尾を引かない。ただし。
秀は、そうではない。
…秀が答えるまでは引かない、先ほどの雪虎は、そんながんとした態度で立ち塞がった。
彼が、真正面から、じっと秀の目から視線をそらさないのは、珍しい。
秀がすぐに答えなかったのは、そんな雪虎の表情を、もう少し堪能しようと思ったからだ。
だが、なぜそんな表情を雪虎が浮かべるのかは分からなかった。
だいたい、普段の雪虎の反応と言えば。
基本的に、秀を疎んじている。
なのに、その時の雪虎からは、秀から距離を取ろうとする意思を感じなかった。そのせい、だろう。
気付けば、手が伸びていた。
右手で、そぉっと頬に触れれば、ぴくりと雪虎の肩が揺れる。
戸惑った態度で、彼の視線が振れた秀の手がある方へ動いた。
秀は触れた指先で、頬の輪郭を撫で下ろすように、して。
雪虎の顎を掴んだ。そのまま、当惑した顔を上向かせ―――――…。
触れた、感触を思い出した秀は、車の中で、ふ、と指の甲で唇の輪郭をなぞった。
正直なところ、雪虎に害をなした相手は、すべて消し去りたい。なにせ、彼らは。
秀から雪虎という存在を、奪う可能性があったからだ。
その根にあるのは―――――恐怖だ。
笑うしかない。
鬼だなんだと恐怖と畏怖の対象でありながら、月杜秀は、たったひとりを失うことが耐えられないのだ。
だが、中学の頃、無茶なことをやらかしていた雪虎には、相当敵も多い。
もし、秀が。
気持ちのままに行動し、そのいっさいを片付けていれば、今頃、雪虎と同年代あたりの人間は、地元では不自然なくらいに数を減らしていただろう。
ゆえに、秀は耐えた。
子供の頃から、ずっと。
消し去りたい衝動を、堪え続けた。
だいたいそんなことは、雪虎は望んでいない。それを思えば黙っていることもできたのだ。だが、今回は。
穏やかだが、凍った刃のような声で、秀は続けた。
「いくら殺しても殺したりないが…仕方ないね」
たった一度、殺されるだけで済むならば、優しい方だろう。
0
お気に入りに追加
5
あなたにおすすめの小説

絡みあうのは蜘蛛の糸 ~繋ぎ留められないのは平穏かな?~
志位斗 茂家波
ファンタジー
想いというのは中々厄介なものであろう。
それは人の手には余るものであり、人ならざる者にとってはさらに融通の利かないもの。
それでも、突き進むだけの感情は誰にも止めようがなく…
これは、そんな重い想いにいつのまにかつながれていたものの物語である。
―――
感想・指摘など可能な限り受け付けます。
小説家になろう様でも掲載しております。
興味があれば、ぜひどうぞ!!

S級冒険者の子どもが進む道
干支猫
ファンタジー
【12/26完結】
とある小さな村、元冒険者の両親の下に生まれた子、ヨハン。
父親譲りの剣の才能に母親譲りの魔法の才能は両親の想定の遥か上をいく。
そうして王都の冒険者学校に入学を決め、出会った仲間と様々な学生生活を送っていった。
その中で魔族の存在にエルフの歴史を知る。そして魔王の復活を聞いた。
魔王とはいったい?
※感想に盛大なネタバレがあるので閲覧の際はご注意ください。

アレク・プランタン
かえるまる
ファンタジー
長く辛い闘病が終わった
と‥‥転生となった
剣と魔法が織りなす世界へ
チートも特典も何もないまま
ただ前世の記憶だけを頼りに
俺は精一杯やってみる
毎日更新中!

【完結】私の嘘に気付かず勝ち誇る、可哀想な令嬢
横居花琉
恋愛
ブリトニーはナディアに張り合ってきた。
このままでは婚約者を作ろうとしても面倒なことになると考えたナディアは一つだけ誤解させるようなことをブリトニーに伝えた。
その結果、ブリトニーは勝ち誇るようにナディアの気になっていた人との婚約が決まったことを伝えた。
その相手はナディアが好きでもない、どうでもいい相手だった。

【完結】愛する者を手に入れる事が皇帝になる条件です
みやちゃん
恋愛
この世界の頂点に立つイオマミール帝国。
その国の唯一の皇帝の実子である皇女アイルーナは皇帝になりたがっていた。
そんなアイルーナに父である皇帝は条件を出す。
「愛する者を権力なしで手に入れろ」
アイルーナが愛するのは護衛&側近のフィンデル。
帝王学しか学んでこなかったアイルーナのダメダメなアピールでフィンデルは落ちるのだろうか?
アイルーナはなぜ皇帝になりたかったのか。
そこには悲しい真実があった。
公女様は愛されたいと願うのやめました。~態度を変えた途端、家族が溺愛してくるのはなぜですか?~
朱色の谷
恋愛
公爵家の末娘として生まれた幼いティアナ。
お屋敷で働いている使用人に虐げられ『公爵家の汚点』と呼ばれる始末。
お父様やお兄様は私に関心がないみたい。
ただ、愛されたいと願った。
そんな中、夢の中の本を読むと自分の正体が明らかに。
◆恋愛要素は前半はありませんが、後半になるにつれて発展していきますのでご了承ください。

貧乏男爵家の末っ子が眠り姫になるまでとその後
空月
恋愛
貧乏男爵家の末っ子・アルティアの婚約者は、何故か公爵家嫡男で非の打ち所のない男・キースである。
魔術学院の二年生に進学して少し経った頃、「君と俺とでは釣り合わないと思わないか」と言われる。
そのときは曖昧な笑みで流したアルティアだったが、その数日後、倒れて眠ったままの状態になってしまう。
すると、キースの態度が豹変して……?

惣菜パン無双 〜固いパンしかない異世界で美味しいパンを作りたい〜
甲殻類パエリア
ファンタジー
どこにでもいる普通のサラリーマンだった深海玲司は仕事帰りに雷に打たれて命を落とし、異世界に転生してしまう。
秀でた能力もなく前世と同じ平凡な男、「レイ」としてのんびり生きるつもりが、彼には一つだけ我慢ならないことがあった。
——パンである。
異世界のパンは固くて味気のない、スープに浸さなければ食べられないものばかりで、それを主食として食べなければならない生活にうんざりしていた。
というのも、レイの前世は平凡ながら無類のパン好きだったのである。パン好きと言っても高級なパンを買って食べるわけではなく、さまざまな「菓子パン」や「惣菜パン」を自ら作り上げ、一人ひっそりとそれを食べることが至上の喜びだったのである。
そんな前世を持つレイが固くて味気ないパンしかない世界に耐えられるはずもなく、美味しいパンを求めて生まれ育った村から旅立つことに——。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる