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オーナーの話

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宗谷さんの発言に、私と白金さんは暫し沈黙する。
口火を切ったのは白金さんだった。

「この猫カフェを畳むって事?それを伝えに来たの?」
「そうだ」
「てことは、俺たちアルバイトも皆解雇するの?」
「そういう事になるな。勿論今までの賃金はおいおい振り込む。今まで手伝って貰った事、感謝する」
「いやいや……。感謝って、それだけじゃ済まないでしょ。店を閉めるって、いつ閉めるつもりなんだ?俺、お客様にスタンプカード渡しちゃってるぞ。スタンプ溜められたら割引って事になってるのに、実は最初から店を閉める予定でしたってなったら、クレームが入るかもしれないじゃん。俺、なるべくそういう事態は避けたいんですけど」
「……この話をしたのはこれが最初だ。他のスタッフ達にも話をし終えたら、その日から閉めようと思っていた」
「え!じゃあ、あと数日程度で閉めようと思ってた訳?早すぎるだろ。それに……猫たちはどうするんだよ。ここの猫、十匹以上いるよね。宗谷くん一人で面倒見きれる数なのか?」
「…………」

白金さんと宗谷さんの会話を聞きながら、私は無言で唇を噛んだ。
そうだ。
アルバイトを解雇される事になったとして、私はさほどダメージを受けない。また働きたいと思ったとして、他のアルバイトを探せばいいだけだからだ。

でも、ここの猫たちはどうなるのか。
アーニャは――どうなるのか。

今まで猫カフェの売上で猫たちのご飯や生活費を賄っていたし、スタッフ達が入れ替わりで猫の世話もしていた。猫が遊びたい時や撫でられたい時はお客様が率先して構ってくれた。
けど、それらが無くなったとするなら……。

宗谷さんは表情を変えずに口を開く。
「確かに……今いる猫を全て俺一人で対応するのは難しいかもしれない。だから、猫の行き先は考えるようにする」
「誰かに引き取ってもらうって事?」
「この猫カフェと同じような店舗は沢山ある。俺の知り合いに当たってみれば、少しずつ引き取ってもらう事は出来るだろう」
「宗谷くん宗谷くん、という事は、まだ猫たちの行き先は決まってないって事なんだよね?」
「それはまあ……そうだな」

宗谷さんの答えを聞いて、白金さんはため息をつく。

「このカフェのオーナーは宗谷くんだから、どうしても事情があるなら店を畳むのはやむなしだと思うけどさ……。将来俺が有名な役者になったとして、過去に働いてた店で猫が放り出されたみたいな話が広まったら、相当なイメージダウンでしょ。だから店を閉めるのは猫の行き先が皆決まってからにして欲しいな。それが俺からの要望」
「……わかった。猫の処遇が決まったら店を閉めるようにする。客への予告もする」
「はいはい。そんな所かね。じゃ、もう遅いからそろそろ帰るね。舞空ちゃん、一緒に帰ろう」

白金さんが帰りの支度をして、私に声をかけた。
……確かに、もうすっかり遅い時間だ。戻らないと家族にも心配をかけるだろう。
でも……。
私は、宗谷さんに問いかける。

「宗谷さん。あの、この猫カフェを閉めなければいけないというのは、本当なのでしょうか」
「…………」
「わ、私……。この猫カフェで働くのが楽しくなってきていて、まだまだ猫について勉強したいなって考えていたところだったんです。店を閉じる理由に、解決可能な事があれば教えていただきたいです。私が出来る事が何か無いか、考えてみますから」

宗谷さんは食い下がる私を見て、一瞬目を閉じた。
その後、平坦な声で答える。
「カフェを閉める理由は……今のところは教えるつもりはない。君にやって欲しい事も、特にはない」
「…………」
「すまないが、一人でやらなければいけない事があるんだ。そろそろ出るようにしてくれ」


店が終わる頃はすっかり外が暗くなっている。私は白金さんと一緒に帰り道を歩いていた。
白金さんは伸びをしながら私に話しかけてくる。

「……はあ。舞空ちゃんに連絡が無いって聞いた時も何してるんだって思ったけど、実際に店に来たら来たでろくな話は無かったな。俺、今まで色んなアルバイトを点々としてきたけど、こんな嫌な上司は久しぶりだよ」
「…………」
「舞空ちゃん、あんまり気にし過ぎないでね。そもそもアルバイトにそんな重い責任がある訳じゃないし、これは宗谷くんの問題っぽいし……。俺たちに理由を教えてくれなかった以上、俺たちに出来る事はもう無いよ。俺は猫を引き取れる環境じゃないから猫たちに対して何も出来ないし。舞空ちゃんもそうなんでしょ?」
「……そう……ですね」

猫を自宅で飼うようにするには、それなりの準備がいる。
まず、猫を飼ってもいい物件を調達すること。
一人暮らしをしている者はマンションやアパートを借りて住む事が多いが、その中で動物を飼える建物の数はぐっと少なくなる。
動物はその鳴き声が騒音になったり、動物アレルギーを持った他の住民とのトラブルの可能性があるなど、人間だけの住まいよりも問題が起きやすいと予測されるからだ。

加えて、猫を飼う事はより渋られる傾向にある。
猫を室内で飼っていると、壁で爪とぎをして建物を駄目にする可能性が高いからだ。その建物への被害も見越してか、猫飼育可の建物は一般的な建物よりも家賃が高くなりやすい。

一昔前は猫を外に出して飼う者も多くいたようだが、最近は猫を完全に室内で飼育する事が推奨されている。外に猫を出すと、車に轢かれたり、他の猫と喧嘩になったり、迷子になって戻ってこられなくなるなど、猫に被害が及ぶ危険性がぐっと高まるからだ。

だから、猫を今すぐ引き取りたいならば、猫を飼える住宅が無いといけない。
そして、私にはそれが無い。

実家は持ち家の一軒家なので、その点だけでいえば猫を迎える事は可能だ。
ただし、猫を飼うに当たっては一緒に住む者の同意を得なければいけない。
猫は棚の上に置いてある物を落としたり、家具の電源コードを食いちぎろうとしたり、人間にとっては厄介な事も沢山する。そして、犬相手のように継続的に躾ける事は難しい。
猫の習性をある程度許容出来る人でないと、四六時中一緒に過ごす事は難しいのだ。
私の家族は動物を飼う予定はないと明言している。ここは覆らないだろう。
つまり、今の猫カフェが閉まる事になれば、日々接している猫とは離れ離れになるのだ。

「……ま、猫の引取先が見つかるまではここで働こうと思うから、よろしくね。なんなら、ここでのアルバイトが終わっても俺達は会おうと思えば会えるんだし。もし興味があったら、俺の出てる公演に来てみてよ。お金は安くしておくから、ね」
「アルバイトが、終わる……」

朗らかに話しかけてくる白金さんに、私はうまく返す事が出来なかった。
私は震えた声で白金さんに呟く。

「……す、すみません。私……私……、まだ、猫カフェが無くなるって事を受け入れられてなくて……。お店の売上も私が来る前とは変わりなかったのに、何が起きたのかなって……」
「…………」
「宗谷さんはああ言われていましたけど、どうしても理由は何なんだろうって考えてしまって……。猫に対しても、もっといい接し方はあったんじゃないかって思っちゃって。……このままだと、お客様の前でも明るく接客出来なさそうです。駄目ですね。もっと仕事をこなせるようになろうって思ってた筈なのに……」

白金さんの胸中はどうあれ、彼はいつも朗らかにお客様対応をしてくれている。きっとそれがあるべき姿なんだろう。でも、私はそれが出来ない。
宗谷さんは私の働きは閉店とは関係ないと言っていたけれど、本当の所はどうなんだろう。最近になって雇った私の働きが思わしくないから宗谷さんはカフェを閉める事にしたのではないか――。そんな考えが消えない。

白金さんは私の顔をちらりと見やって、肩を竦めて言う。
「まあ、それはそれでいいんじゃない?だって、カフェが閉まるんだよ。客にとっては悲しいだろうし、舞空ちゃんみたいに悲しんでくれるスタッフがいた方がいいと思うよ。……いや、どうだろう。意外と、舞空ちゃんほどショックを受けないお客様もいるかもしれないしね。天路さんなんかは、特に」
「……え?」

私は、白金さんの言葉に戸惑った。

「……私、天路さんは一番閉店を悲しみそうな方だと思っていました。猫を第一に考えてくれていて、昔からの常連さんのようですし……」
「だからこそ、心構えは出来ているんじゃないかな。俺、前天路さんに聞いた事があるんだけど、今の猫カフェになる前から通ってたんだってさ。だから一度店が閉まった事も経験してる。天路さん以外にもそういう客はぽつぽついるみたい。俺はオーナーが宗谷くんになってからアルバイトを始めたから、その時の猫カフェは知らない訳だけど」
「……?」
「今の猫カフェになる前、オーナーは別の人だったんだ。宗谷くんの父親、宗谷光一。演劇をよく見る人じゃないと名前は知らないだろうけど、舞台俳優のベテランとして人気があった人だよ。ファンが殺到したりしないように、オーナーが猫カフェを運営している事は秘密にしていたみたいだけど。彼が病気で亡くなった時、カフェは長期間閉店する事になったらしい」


夜遅い時間だったため、その日は白金さんとはそこで別れる事になった。
宗谷さんは、まだアルバイトのシフトは変えずに猫カフェを運営するとのことだ。猫たちの引き取り手が見つかるまでは今まで通り営業を行い、全ての猫に都合が付いたら客に閉店を予告する。それから程なくして店を閉めるという。

という訳で、別日に私はまた猫カフェにアルバイトに来ていた。
お客様対応をしたり、猫の世話をしたりしつつ、休憩時間になったので私はスタッフルームに入る。
そして、自分のスマホを手に取り、ある調べ物をした。

宗谷光一。
スマホで検索にかけると、著名人の来歴をまとめたページが出てくる。宗谷光一の記事もそこにあった。俳優として出た舞台の名前の他に、彼の活動についてもいくらか書かれていた。
宗谷さんは芸能活動で得た資金で動物保護活動を行っていたらしい。その中の一環が、保護猫の団体に寄付を行う事だった――そう書いてある。
ネットのページには書かれていないが、私の働いている猫カフェの前身の店のオーナーでもあったようだ。白金さんの言う通り、公にはしていないから来歴に載っていないのだろう。

私は、この店の名前で検索する。
猫カフェ、きゃっとにゃうんじ。
検索をかけると、一番上にこの店のホームページが出てくる。
私はいつもホームページを直接確認していたので、検索に引っかかる他のページについて気にかけた事はなかった。
でも、検索エンジンの下の方を見ると、ある店の名前が引っかかる事がわかった。

「保護猫カフェ……きゃっとにゃうんじ」
私はその名前を呟き、リンクをタップする。
すると、ひと時代前の雰囲気を持ったホームページが表示された。複数の猫がベッドでごろんとしている画像が表示され、その下には保護猫カフェきゃっとにゃうんじ、とリンクと同じ名前が書かれている。

猫カフェと保護猫カフェ。
表記の揺れでこうなっているだけで、実際は同じものなのではないかと思ったが、どうやら違うものを示すらしい。

私はホームページの中の、保護猫について――というリンクに飛んだ。
この世界で暮らす猫の中には、行き場の無い猫が沢山いる。野良猫の中で通報を受けた猫、ペットショップやブリーダーで売れ残った猫、飼い主が亡くなった猫……。
そんな猫達を一時的に保護し、新たな飼い主を探す事が保護猫活動なのだという。
カフェにいる猫達は皆行き場を無くした猫達で、客が望めば引き取る事も可能である――そう書いてある。

「……あ」

私は、ホームページの中にあるブログを見る。
その中には、猫カフェの猫達の生活が記されていた。そして、ところどころに【卒業】という記事がある。
どうやら、猫が新たな飼い主を見つけて店を出る事が、卒業、と表現されているらしい。
その中で、私は見知った顔を見つけた。

「……ゴローだ」

宗谷さんと初めてあった日、触らせて貰った猫のゴローが写っている。そこには、看板猫の卒業、というタイトルで記事が書かれていた。記事の中でもゴローという名前が書かれているので、猫違いでは無いようだ。
ゴローはカフェの猫によく好かれる猫のため、猫たちのボス兼看板猫として皆に愛されてきたが、皆ゴローの方を慕って他の人間に懐こうとしないため、オーナーの家で引き取る事になった。今までありがとう――そんな意味合いの記事が書いてある。

私は記事を見ながら、猫カフェで見た写真の事を考えた。
宗谷さんに似た男性とゴローが写っていた写真……。あれは、宗谷光一さんとゴローだったんだ。
あの写真の宗谷光一さんはインターネットで見つけられる画像とはまた違った雰囲気で写っているように見えた。演劇のファンに知られる事の無いようにそうしたのだろう。
ブログの日付を確認すると、ゴローが宗谷さんに引き取られたのはかなり前の事のようだけど……。

「うにゃにゃっ」
「あ」

スマホを見つめていると、近くから音がした。アーニャが猫用扉を通ってスタッフルームに入ってきていた。
私が座っている椅子の近くの猫用テーブルに乗ったアーニャは、私のスマホにぺしぺしと猫パンチをしてくる。

「あ、アーニャ。やめなさい。……構って欲しいのかな?」
「なう」

スマホを仕舞ってアーニャの喉を撫でると、アーニャはきらきらした目でこちらを見つめてきた。ごろんと身体を捻ってこちらにお腹を出してくる。
私はアーニャのお腹を開いた手のひらで撫でた。アーニャは気持ちよさそうにごろごろ言っている。
猫は基本的に急所であるお腹は触られるのを避けるものだけど、最近のアーニャはお腹を撫でられる気持ちよさに気づいたのか、よく要求してくるのだ。
アーニャと一緒に過ごしていると、色々な発見がある。それはアーニャの方も同様のようだ。

……そんなアーニャとも、お別れになってしまう。

宗谷さんは猫みんなの引取先を探すと言っていたから、アーニャも新しい家を探すのかもしれない。
その家には、他に猫はどれくらいいるのだろう。
アーニャは未だに猫と接するのが苦手なようだけど、うまく馴染めるだろうか。
一歩一歩今の猫カフェの環境に慣れてきたのに、また新しい環境でやり直すことになるのは、アーニャにとって大変な事になるかもしれない……。

「んなあああ」
「うわわ」

アーニャは俯いた私を叱るように鳴いて、動きが鈍った手を後ろ足で蹴った。
私は苦笑して、アーニャを甘やかすのに全力を注ぐようにする。
そんな風にアーニャと接していて、私はある事に気づく。

……アーニャにスマホを向けると攻撃してくるのは、私がスマホを見ている時いつも浮かない顔をしているからかもしれない。
前までは、宗谷さんと中々連絡が取れずやきもきしていたから。
今はその懸念は無くなったけど、猫たちとの別れの日が確実に近づいている。故に、私はスタッフルームではいつも落ち込んでいる顔をしているのだと思う。だからアーニャは気に入らないのだろう。

……いや。
私は、アーニャのお腹をぐりぐりと揉みながら考える。

宗谷さんは私達の前に姿を現してくれたけれど、まだ充分に話をしたとは言い難い。
白金さんは、猫カフェが閉店する事自体には異論を挟まないようだったけど……。
本当に、このままでいいんだろうか。

――私は、いつも迷ってばかりだ。そして、結論を出すのがいつも遅い。
自分のやるべき事をすぐに処理出来る、白金さんのような人の事を羨ましいと思っていた。
それに、この店のオーナーは宗谷さんだから、彼の判断に従う事が正しいのかもしれない。
だけど……。

私は、今までのアーニャとの日々を振り返りながら考える。
他の人の意見を全て受け入れていたら、今のアーニャとの時間は無かっただろう。
だから――、私が意見を出す事が間違いだとは思わない。
アーニャがその自信を与えてくれた。
だから……考えよう。
宗谷さんと話をする方法を。


前まではスタッフ達が持ち回りで夜の当番をしていたけど、今は違う。閉店時間後に宗谷さんがやってきて、スタッフ達を帰して宗谷さん一人で番をしている。
今日も私と他のスタッフさんは宗谷さんにカフェを明け渡して帰る事になった。

「……こんな風に帰るのもあと何日になるかわかりませんね。猫と接するのも、そんなに嫌いではなかったんですが……。では、お疲れ様です。舞空さん」
「ええ、お疲れ様でした」

私はスタッフさんに挨拶をして別れる。
そして、Uターンして猫カフェへの道を戻り、インターホンを鳴らす。
今ならば猫カフェの中には宗谷さんしかいない筈だ。一対一でゆっくり話すには、閉店後の今の状況が一番ふさわしいと思った。

「はい」

扉を開けた宗谷さんは、私の姿を見て少し動揺したように目を見開いた。

「……舞空さんか。荷物を頼んでいたのが来たのかと思った。忘れ物でもしたのか?」
「……えっと。私は……宗谷さんと話をしたいと思ったので、戻ってきたんです」
「俺と……?」

宗谷さんは訝しげな声を出す。
話す事はない――、と言われると思った。だから、何か言われる前に中に入る事にした。
私は手早く窓際近くのソファに座る。

閉店したカフェの中では、猫達はほとんどみんな眠っている。日中お客様によく遊んでもらったからいい意味で体力を使い切ったのだろう。
キジトラで身体の大きいジロウは起きていて、構ってほしそうに宗谷さんの足にすりすりと寄ってきたが、宗谷さんはジロウの甘えを放置して私の隣に座った。袖にされたジロウは伸びをした後、大きなクッションの上で眠っているアッシュとつむぎにぴたりとくっつき、眠り始めた。ジロウは誰かと過ごすのが好きなんだろうな、と思った。

「それで、何の用事なんだ。他のスタッフに対して何か要望があるのか?それとも、早めに店を辞めたいと言いに来たのか」

宗谷さんは店内の時計をちらりと見ながら呟く。
彼は荷物の事を気にしているのかもしれないし、私に早く帰ってほしいと思っているのかもしれない。
それでも……。

私は、深呼吸してから宗谷さんに話を切り出した。

「宗谷さん。そのどちらも違います。私は……このカフェを閉じるという話について、お聞きしたい事があるんです」
「……その話か」

宗谷さんは温度の無い声で私に返す。
こういう反応を貰う事になるのは予想の範囲内だ。私は既に一度宗谷さんに異議を申し立てようとして、そして失敗したのだから。
だけど、まだ彼には確認していない事があった。

「舞空さん。前にも言ったが、このカフェを閉じる理由は君が気にするような事では無く……」
「宗谷さん。その事なんですが……。カフェを閉じる理由について、私は心当たりがあるんです。そして、その対処も出来るかもしれない。それについて相談したかったんです」

私の言葉を聞いて、宗谷さんは瞬きをした。彼は目を伏せて、私に質問をする。

「心当たり、か。それは……なんだ?」
「ゴロー……宗谷さんの飼っている猫が、体調不良になったのではないですか?」


この猫カフェのオーナーが変わる前のブログを見ていて、私はある事に気づいた。
ゴローが宗谷家に引き取られたのは今から十年近く前の事だ。

猫の時間の流れは、人間のそれとは大きく異なる。
人間の十歳は子供の時期だが、猫の十歳は既にシニア――中年の時期だ。
一般的に猫は七歳頃からシニア期に入るのだという。その時期から食事を見直したり、検診の項目を増やす事が推奨されると本に書いてあった。
ゴローは年齢不詳の猫だとブログには書いてあったけど、引き取られてから十年経っているのならば、今が何歳だろうと体の調子に陰りが出てくる時期という事には変わりがない。

「自宅で飼っている猫の世話に専念したいから、猫カフェの運営を断念する事にした――そうなのではないかと思ったのです。猫を多数世話していると、特定の猫の体調変化を確認する事はどうしても難しくなってくると思うので……」
「…………。もし、そうだとしたら?」
「今いる猫カフェのスタッフで数が足りないなら、もう少し数を増やしてみるのはどうかなと思いました」

私はあるものを宗谷さんに渡した。
一つは、私の通う大学のサークルのポスター。
もう一つは……猫の写真が沢山入ったアルバムだ。

「大学には色々なサークルがあって、猫好きな人が集まっているサークルもあるんです。話を聞きに行ってみたんですが、猫の世話を出来るなら無償でもいいという人も沢山いて……。私も無償で働かせてもらって構いません。人手を増やす事が出来るなら、猫カフェの世話は私達に任せて、宗谷さんはゴローの世話に専念出来る――そう考えました。私は大学の試験期間に入るとアルバイトに来るのは難しくなると思いますが、猫サークルには単位を取り終わった方も多くいるので、私が来れない時にもお手伝いしてもらう事は可能だと思います」
「…………。このアルバムは?」
「サークルの方に説明をするために作りました。今いる猫たちの写真がメインですけど、私が来る前の猫たちの写真も入っています。天路さんに以前の猫カフェの猫の画像が無いか確認したら、色々と送ってくれました」

猫カフェでは客が写真を撮る事が出来る。その写真をSNS上にアップして閲覧出来るようにしている人もいる。
天路さんはSNS上の人にも呼びかけて、この猫カフェの猫の写真を沢山集めてくれたようだ。

「サークルの人達はみんな喜んでいました。どの子もかわいくて伸び伸びしているって。折角だから宗谷さんにも見せたいと思って持ってきたんです。宗谷さんはカフェのオーナーをしていますが、ずっと店の様子を見ていた訳では無いんですよね?だから、現在の猫たちの様子を見てもらいたいと思いました」
「…………」
「お店を運営するのには、色々な苦労があると思いますけど……、その分、思い出をずっと大事にしてくれるお客様も沢山います。私自身も、出来ればこの猫カフェで働き続けたいと思いました。宗谷さんの事情があるならば閉店するのは避けられないかもしれませんが、もし私に出来る事があるならば、――あ」

話し続ける私のもとに、インターホンの音がする。
宗谷さんが注文したという荷物が届いたみたいだ。

「えっと、猫用の荷物ですよね。折角なので私が行きますね」
「……ああ」

私は段ボールを受け取り、部屋の中に置いて封をしているガムテープを外した。

「にゃーん」
「わっ」

私の足元に寄ってくる子がいた。グレージュ色のアッシュだ。
この子は人懐っこい子のようで、スタッフやお客様の誰かが空いていると構ってほしげにまとわりついてくる。先程まで寝ていたが、来客によって目が醒めたみたいだ。
私が猫砂や掃除用品を取り出す時は落ち着いた様子で見ていたものの、猫の食事の袋を取り出す段になると、興奮したように前足で袋をつついてくる。

「やめなさい」

私はアッシュを振り切ってスタッフルームに荷物を運び込み、ストック用の棚に荷物を移動した。ここでもたもたしていると猫が爪で食事の袋を裂いてしまう事があるので、思い切りが肝心なのだ。
ひと仕事終えて、私はフロアの方へと戻った。

「お待たせしました、宗谷さん。……あ、」
「…………」

私は、宗谷さんの様子を見て言葉を無くす。
ソファに座る宗谷さんは、俯いて顔を覆っていた。

私は内心で、どうしよう――と焦った。
私は、今の宗谷さんのような身振りに心当たりがあるから。

自分のキャパシティを超えてどうしようもなく辛い時、涙を堪えるために顔を隠した経験が幾度もあった。他の人に気を遣われたりしないように、なるべく存在感を消すために。他の人を引っ張りがちな私が、更に涙を見せたりするなんて申し訳ない――そう思っていたから。

今の宗谷さんに対して、私はどう対応するのが正解なんだろう。
猫カフェを続けて欲しいと言った事が彼の心労に繋がってしまったんだろうか。

…………。
猫たちと会えなくなるのは、寂しい事だけど……。
猫たちと会うのを楽しみにしているお客様をがっかりさせる事も、辛い事ではあるけど。
そのために宗谷さんが心身を壊す事になるなら、私は引き下がろう。
猫の事を大事に思っているけれど、猫の周りの人の事だって私は無視出来ない。
その上で、今までのお礼をきちんと伝える事にしよう。

私は宗谷さんの隣に座り、じっと待つ。
宗谷さんが落ち着くまで待とうと思ったのだ。
そして、暫くして宗谷さんが口を開いた。

「舞空さん……」
「は、はい」
「色々考えてくれたんだな。カフェと……俺のために」
「……はい」
「舞空さん。さっきまで舞空さんの言っていた事は……間違っている」
「あっ、えっ。そ、そうなんですか」
「それと、サークルの人を雇うかどうかはともかくとして、今のところ無償で人を雇うつもりはない。他のスタッフの待遇との兼ね合いが難しくなるからな」

私は宗谷さんの言葉を聞いて、恥ずかしさに頬が熱くなる。
……そうだったんだ。
確かに、確証は何も無いままに色々と試してみたけど、私のやっている事は本当に的外れな事だったんだ……。

落ち込んで肩を落とす私に、宗谷さんが言葉を続ける。

「舞空さん」
「は、はい」
「今まで、俺が黙っていたから心配をかけたんだよな。だから……今までみたいな事は、もうやめることにする」
「と、いうのは……」
「舞空さん……今から、猫カフェを閉めようとしていた理由を話すよ」
「……はい」

私は、宗谷さんの返事を受けて体勢を整えた。
今まで秘密にしていた事を話してくれる……。
私が聞いてもいいのだろうか、という緊張もある。
でも……宗谷さんが色々考えて決めた事だ。私も覚悟を決めよう。

宗谷さんは、私の渡したアルバムを開いた。
そこには、ゴローが店の中で遊んでいる写真が載っている。

「舞空さん。俺が飼っているゴローに何か起きたんじゃないかって言っていたな」
「はい」
「それ自体は正しいんだ。ただし、最近になって病気になった訳じゃない。ゴローは死んだ。ゴローを亡くす前とは心境が変わってしまって、俺は猫カフェをやめようと思った」


宗谷さんはぽつぽつと語る。
アーニャはもともと他の猫と同じく猫カフェで暮らさせようとしていた猫だったが、怖がりな性格故に猫が大勢いる生活に馴染めず、ストレスで体調を崩しがちだった。そこで、オーナーである宗谷さんの自宅で保護する事になった。
ゴローはかつて猫カフェにいた時、不思議と他の猫に好かれる体質であり、ゴロー自身も他の猫に対しても世話を焼く事を惜しまなかった。だから、猫が苦手なアーニャであっても一緒に暮らせるのではないかと考えた。

アーニャは最初ゴローにも怯えていたが、次第に宗谷さんの家の環境に慣れるようになった。
宗谷さんはこのままゴローとアーニャと暮らし続けるのも悪く無いと思っていたらしい。
だが、そうはいかなかった。

「舞空さんが言った通り、ゴローは歳を取った猫だ。もともと野良猫だった事もあって、正式な年齢はわからないが、老猫に対するケアが必要な状態である事は確かだった。そして、ある時に検診に行ったらゴローの病気が見つかった。ゴローは眠る時間が増えて、アーニャの事をあまり構えなくなった。それは俺も同じだった。ゴローの看病の時間が増えて、アーニャの事を後回しにし続けた。アーニャが俺に懐いていないのは、構ってもらいたい時に放置されて寂しかったからなんだろうな」

私は、普段のアーニャの様子を思い起こす。
アーニャは人に慣れているとは言い難いものの、人に甘えたいという気持ちは持っている猫だ。私が他の事をしている時に構えとアタックしてくる事は幾度となくあったし、本当に手を離せない時に泣く泣くアーニャを放置したら拗ねて姿を見せなくなった。
私は基本的にはアーニャを優先して構いに行くようにしているけど、日常的に放置されていたのならば宗谷さんに対して不満が溜まっていてもおかしくはない――そう思った。

「俺と舞空さんが会った日、ゴローとアーニャを病院に連れて行っていたんだ。あの日、ゴローに新たな症状が見つかった。それまでは病気から復活出来るかは五分五分だったが、症状が進行してしまっている事がわかった。これまで以上にゴローには手をかけないといけなくなると思った。だからアーニャを世話出来る人間が欲しかったんだ」
「それが……私、だったのですか」
「そうだ。アーニャを預けて以降は、俺はゴローの看病に専念する事にした。前までは猫カフェの作業もしていたんだが、やめた。父親……宗谷光一の影響もあるんだろうが、俺が舞台に出れば多額の報酬を出すと言われていた。ゴローの治療費が欲しかったから、俺は舞台に出る事にした」

その話は、以前白金さんから聞いていた。宗谷さんが舞台に出るからアーニャを預けたのだろうという話だ。その推測は合っていたのだろう。

「……宗谷さんは舞台に無事出演出来たと白金さんから聞いていました」
「ああ、そうだな。舞台は無事に終わった。終わらせられて、ほっとした。ゴローが必要な薬は、海外の薬だったから」
「海外……?」
「舞空さんは猫を飼った事は無かったんだったな。猫を飼う上では諸々の費用がかかるものだが、最も金がかかるのは――医療費だ。動物の医療費は、人間の医療費よりもずっと高額なものになる」

宗谷さんは語る。
国民が皆保険に入っていて、三割負担で済む日本での人間の医療費とは違い、猫はペット用保険に入っていても割引が適用されない場合もある。
現代では飼い主に猫の終生飼育義務が定められているものの、医療費がネックになって治療が続けられなくなる事もあるのだという。
その事もあって、猫の病気治療をどこまで続けるかは飼い主によって変わるものらしい。
加えて、猫の病気に効く薬が、日本ではまだ認可されていないケースも多い。その場合、海外から治療薬を取り寄せようとすると莫大な負担がかかるのだという。

「俺は……」
宗谷さんはアルバムの写真を指でなぞりながら言う。

「ゴローの事は何としてでも治したかった。父親は仕事やら何やらであまり家にいなかったから、ゴローの世話をしたのは主に俺だった。落ち込むような事があった時もゴローはいつもどっしりしていて、一緒にいると落ち着いた。猫たちはゴローによく懐いたが、そんな所に惹かれていたのかもしれないな。……治療に高価な金がかかるとわかっても、ゴローには代えられないと思った。だからどんなに金がかかってもゴローを治そうとした。でも、舞台の千秋楽が終わって家に帰った日……ゴローは俺に反応しなくなっていた」

それまでのゴローは、以前より鈍くなっていたものの、宗谷さんが帰宅したら反応を返してくれたらしい。だが、その日のゴローが宗谷さんの呼びかけに答える事は無かった。
急患で病院に連れて行ったら、ゴローは病の発作を起こしていた。そのまま亡くなってしまったらしい。

「俺の父親……宗谷光一は、昔から動物が好きだった。今まで稼いだ金を動物の為に使おうとして、この猫カフェも建てた。父親が残した資金は今もある。けれど……それは、世界中の猫の為に使って欲しい、というのが父親の遺言だった。ゴローは宗谷家で個人的に飼っている猫だから、ゴローだけを特別扱いする事は出来なかった。だから、俺自身でなんとかしようとした。だけど……結局は、こういう終わり方になってしまって……」

宗谷さんの声が沈んだものになる。私に語りかけている……というより、独り言を言っているような響きだ。

「俺は、最初から間違っていたのかもしれない。ゴローを無理に治療するべきじゃなかった。ゴローとアーニャを同じように世話して、好きに過ごさせた方が良かったのかもしれない……。そう考えていたら、今カフェにいる猫たちの世話も、何もうまくいかないような気がして……。俺は、カフェを閉める事にした。それが理由だ」

宗谷さんはそう結んで、口を閉じた。
静まり返ったカフェの中で、私は彼の話を頭の中で反芻する。

…………。
私に猫と触れ合う喜びを教えてくれた、ゴロー。
そのゴローがもう亡くなっていると知って、私は驚いた。
触れた時間はごく短いものだったけど、あの暖かく柔らかな猫が病に伏せって亡くなったのだと考えると、喪失感が胸を蝕むような心地がする。
でも、宗谷さんの苦しみは私の比では無かっただろう。

猫は自分自身の病気を隠そうとする習性がある。だからこそ、飼い主は猫の状態を細かく把握しなければいけない。猫を助けてあげられるのは飼い主だけなのだから――。
猫の生態の本を読んでいた時、猫の病気の欄でそう書いてあった。
宗谷さんはゴローという猫の命を預かっていて、ゴローの扱いをどうするかは全て彼の選択にかかっていた。そして、その選択を誤ったと彼は感じている。
そして、猫カフェの中には今も多くの猫がいる。

私が同じ立場だったら、猫の世話をするのが恐ろしくなるのも無理は無いと思う。
何だったら、ゴローが病気になった時点で対応方針を決められるかが怪しい。
だから、宗谷さんが猫カフェを閉じようとする事に対しては何も言えない。
でも……。

「宗谷さん」
「うん」
「宗谷さんがアーニャを誰かに預けようとしなければ、私は……アーニャに出会えませんでした。この猫カフェで働く事もありませんでした。お客様達と話す事も。ゴローに触る事も無かったし、猫の世話の仕方も、猫と一緒に過ごしているとどんなに楽しいかも、きっと知る事は無かった」
「…………」
「宗谷さんの選択が最善だったかどうか、私にはわかりません。ですが……宗谷さんの選択によって救われた人だって沢山います。全てが間違いだったなんてことは無いです。ゴローだって……、私がゴローだったら、きっと……」

私は過去に会ったゴローの事を思い返しながら、宗谷さんに伝える。
ゴローはきっと、宗谷さんと今まで過ごせて幸せだった筈だ。

私が宗谷さんと出会った日――あの時のゴローは滑らかな毛皮をしていた。
それは宗谷さんの努力によって保たれたものだったのだと、今ならわかる。
老齢期に入った猫は、見た目からして老齢の猫だとわかる事が多いのだという。若い猫と大きく変わる事は、猫の毛並みだ。
猫は自らを毛づくろいする事によって、毛並みを綺麗に保つ。
だが、歳を取って体力が落ちた猫は自分自身を毛づくろいする事が減るのだという。だから老齢の猫は毛並みが悪くなる事が多い。
ゴローが猫カフェにいるような若い猫と変わらないくらいの毛並みを保てたのは、宗谷さんがこまめにケアをしていたからだろう。
こんなに自分のために奔走してくれるなんて、私がゴローだったら絶対に幸せに思う――そう宗谷さんに伝えた。

宗谷さんは瞬きをして一瞬目を床に落とした後、私に向き直って言う。

「舞空さん」
「――はい」
「俺は……、ここ数ヶ月はゴローの病気の事ばかり考えていて……、ゴローは、給餌をしても薬を飲ませても、ずっとしんどそうで……。全ての猫はいつかこうなるんだと思うと、何も考えたくなくなって……」
「……はい」
「でも……、いつか行く先は一緒だとしても、今の時間を否定する理由にはならないな。猫カフェの猫たちも、客も、日々を楽しんでくれている。ゴローの事も……猫カフェから卒業して時間が経っても、今になって写真をすぐに出せるくらい、皆大切に思ってくれていた。舞空さんのおかげで、それに気づいた」
「……そう、ですか」
「ああ……」

宗谷さんはちらりと時計を見つめた。
そして、私に扉を示して言う。

「舞空さん。もう遅い時間だ。そろそろ帰った方がいい」
「……はい。宗谷さんは……」
「俺は、どのみちここに泊まる予定だった。ここで過ごしながら……もう少し考えてみる事にする」

宗谷さんは店の中を見回しながら呟く。
「いきなり猫カフェを閉じる事にしたのは、少し冷静じゃなかったと思う。オーナーとして、今後の猫カフェをどうするか……また、一から考える事にする」
「!……本当ですか!」
「ああ。ただし、すぐに答えは出せないと思う」

宗谷さんは低い声で首を振った。
「ゴローがいなくなって、俺の生活も今までとは変わった。だから、これまで通りに猫カフェを運営するべきなのか、まだ考えが纏まっていないんだ」
「……そうなのですね」
「今暫くは、これまで通りの体制で営業するようにする。その後の事は……また連絡する」


「今日もよろしく、舞空ちゃん」
「よろしくお願いします。白金さん」

今日は白金さんとのシフトの日だ。
白金さんは猫カフェの開店の準備をしながら私に話しかける。

「それにしても、あのメッセージにはちょっと驚いたな。舞空ちゃんも見たよね?」
「そうですね……」

白金さんが言っているのは、宗谷さんからアルバイトに届いたメッセージの事だろう。
連絡ツールには宗谷さんからの謝罪の文面と、今後の事について簡単にメッセージが入っていた。猫カフェを閉店するかどうかは不明になった、また追って連絡する――とのメッセージだ。

「まあ、何にせよ俺は宗谷くんの意向に従うだけだけどさ。猫たちを引き渡すって話でなんかトラブルでもあったのかね。それか、宗谷くんが急に心変わりでもしたのか……」
「…………」
「ん?……舞空ちゃん、実は何か事情を知ってたりする?」
「え?」

私はぎくりとする。
白金さんはいたずらっぽい表情になり、私にすすすと近づいてきた。

「えー、へえ。俺がいないシフトの時に何かあったの?それとも、宗谷くんのやつ、ダイレクトメッセージで舞空ちゃんにだけ粘着メッセージを送ってたり……?なんかそういうヤバイ事情があったら言ってね。ばしっと解決してあげるから」
「そ、そういうのでは無いです。決して」

私は宗谷さんへの疑惑を否定しつつ、話を逸らす。
ゴローの事を知っているのは、猫カフェのスタッフの中で私だけらしい。故に、宗谷さんの猫が亡くなったという情報もまだ誰も知らない。
皆にどういう説明をするか考えたいから、舞空さんも秘密にして欲しい――。そう言われた。
という訳で、私は他のスタッフには宗谷さんの事情を話していないのである。

白金さんからの追求を躱しつつフロアに出て、私は自分のスマホを見つめる。
宗谷さんからはまだメッセージは来ていない。
彼は今も考え続けているのだろう。
今後、宗谷さんがどんな結論を出すのかはわからない。
宗谷さんは私よりもずっと長くこの猫カフェに関わってきたんだ。そう簡単に結論を出す事は出来ないのだろう。
――彼が納得いく答えを出せるまで、待ち続ける事にしよう。

「いたっ。……あ、アーニャ」

スマホを見つめて俯いている私に、アーニャが猫パンチを繰り出した。
青い目でじっとこちらを見るアーニャは、にゃあにゃあと話しかけてきて、前足で私の腕に触れ、ぐいぐいと自分の方へ引っ張ろうとする。
この感じは……抱っこ要求、かもしれない。
私はアーニャに向かって両腕を差し出し、アーニャの下半身を持ち上げ、座り込んでアーニャを抱きしめた。アーニャは満足したようにごろごろと喉を鳴らしている。
私達の近くではトーファがぺたりとカーペットに身体を伏せているが、尻尾をピシピシと俊敏に動かしている。その尻尾をはちみが楽しそうに追い掛けているようだ。子猫をあやしてあげているのだろう。
アーニャも動き続ける尻尾が気になるのか、ちらちらとそちらを見つめている。

私は、アーニャに語りかける。
「アーニャ、気になる?」
「みぅ……」
「気になるなら、アーニャもみんなに混ざって……あっ」

アーニャは素早く走り、店のおもちゃをまとめてある箱に近付き、お気に入りの形状の猫じゃらしを口でぱくりと咥えた。
そして私の方まで持ってきて、ぽとりと落とす。
これで遊んで欲しい──の意なのだろう。
アーニャとしては、動いているものが気になるといえど、猫達と一緒に遊ぶのは嫌らしい。

アーニャには、出来ることなら他の猫達と仲良くなって欲しかったけど……。
――まあ、いいか。
アーニャはやりたい事を私に主張してくれている。そして、他の猫との喧嘩もあまりしなくなった。
私が働き始めて一ヶ月程度になるが、アーニャは人間の時間以上に成長していると感じる。

宗谷さんの状況も気になるけれど、それはそれとして猫には猫の時間が流れている。アーニャとしては今遊んでもらわないと困るという状況なのだろう。
ならば、この時間を楽しむとしよう。
私は猫じゃらしを手に持って、アーニャのお気に召すように振り出した。
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