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流されて、猫カフェ

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カフェや飲食店で時間を過ごす時、一番重視する事は人によって分かれるだろう。それは内装の綺麗さかもしれないし、メニューの豊富さかもしれないし、評価サイトの星の数かもしれない。
私にとって一番気になる事は、『各席にタブレット端末や呼び出しブザーがあって、客の好きな時に注文出来るか』だった。
そして、今回入った大学近くのカフェでは、私の望みが叶う事は無いようだった。

「お客様、ご注文はお決まりですか?」
「あ、はい!カフェオレホットとチーズケーキのセットをお願いします」
「私はチャイティーラテホットとミルクレープでお願いします~」
「……わ、私は、同じでいいです」

二人の友人が滑らかに注文するのに遅れないように、私は内心で焦りながら口を開いた。まだどのメニューにするか迷っている途中だったとか、そんな事は言っていられない。
店員さんは私の言葉を受けて首を傾げる。

「……すみません、どなたと同じものを注文するのですか?カフェオレホットの方ですか?」
「あ、は、はい!そうです!」
――正直なところ、カフェオレホットの方がどんな組み合わせだったかなんてもう忘れちゃった。でも、いい。
私の優柔不断で皆の時間を奪ってしまうよりは、何でもいいから選んでしまった方がいい。


大学生というのは大人だ。社会人からしてみればそうではないのかもしれないけど、私はそういう認識を持っている。
少なくとも、春野さん、椎名さん――私の大学の同級生達は自分よりも遥かに大人に見える。

「で?今取ってる授業どうよ?はるちゃん」
「聞いてた前評判程は楽じゃないかな……。結構ちゃんとノート取らないとついていけない感じ。でも過去問見れればテストは楽な方みたいだよ」
「ほんと?過去問って出回ってる?来年はうちもその授業取ろうかと思ってるんだ。良かったら教えてね」
「いいよー」
「舞ちゃんの授業はどんな感じ?」
「えっ」

椎名さんに話を振られた私は、動揺しつつも口を開く。

「……そ、そうだなあ。私はちょっと付いていくのに苦労してるかも」
「教授が厳しい人なんだ?」
「いや、必須授業だしそんなに難しくない筈なんだけど、私の頭が悪いから……」
「そんな落ち込まなくて大丈夫だよ、舞空さん。私もアルバイトで体力使いきってて、授業受けてるとぼーっとしちゃうというか」
「あ、いや、私はアルバイトもまだ探していないんだ……。本当に大学に通うだけで精一杯って感じで……」
「はるちゃんも舞ちゃんもえらーい!うちはバイトと遊ぶので一日終了って感じで大学の存在意義が段々と薄れてきてるよ」
「薄れちゃ駄目でしょ!」
「怒られちゃった~。舞ちゃん、庇って庇って~」

軽く嗜める春野さんや、私に寄りかかってくる椎名さんを見つつ、私は乾いた笑い声を出した。
――この場で誰よりも生活を改めなければいけないのは私である事は、薄々わかっている。



この春から晴れて大学生にはなったものの、世間で聞いていたイメージと現状の私の生活は乖離している。

大学生になれば世界がぐっと広がる。
大学生になれば自由に過ごす事が出来る。
遊びに精を出す者が多く、学業に励む事は少ない――。
私の知り合いの中だと、一番このイメージに近いのは椎名さんだろう。アッシュベージュのふんわりとした髪を持つ彼女は、いつ構内で遭遇しても溌溂としている。

ただ、私は大学入学前から彼女のような学生にはなれないだろうと思っていた。
大学の図書館で勉強しつつ、アルバイトで地道にお小遣いを稼ぐ――そんな生活を想像していた。こちらに近いのは長く艶やかな黒髪を靡かせている春田さんの方だ。
今のところの私は、大学の授業にうまくついていけず、サークルも何に入ったものか迷っているうちに四月の新入生歓迎期間が終わり、アルバイトも探せていない――そんな日々を送っている。


「奏(カナタ)」
「なにー?」
そろそろ炬燵をしまう時期だ、この暖かさを満喫出来るのはこれが最後かもしれない――とごろごろしている私に、母親が話しかけてくる。

「お母さん、何か用事があるの?」
「いや。用事があるというより……あんた、今日も家にいるなと思ってね」
「え?」
「折角の連休なんだから、サークルとかイベントに行くとか、短期バイトに行くとか、そういうのなんか、無いの?私が大学生だった頃と今とは色々変わった事もあるだろうけど、今どきの大学生だってそういう事はやるんでしょ?」

母親のズバズバとした物言いに、私は内心で冷や汗をかく。
……私の母親は父親と共働きをしつつ私を育ててきた。そういう人間からすれば、時間的余裕があるのにぼんやり過ごしている私の事は不甲斐なく見えるんだろう。

大学に入学してから何だかんだと月日は流れ、五月のゴールデンウィークに差し掛かっている。この時期になると入ったばかりのバタバタした状況からはある程度落ち着いて、生活のルーチンが定まってくる。
私は、この期に及んでも未だに日々の過ごし方に満足出来ず、悩んでいる状態だ。

そもそも、大学の学部も熱心に希望して選んだ訳ではない。とりあえず就職に有利になりそうなところという事で、文系の中でも難易度が高めのところにした。その結果、勉強へのモチベーションは上がらず、授業についていくだけでも苦戦している。授業に苦戦しているから、授業外の活動をする気力が起きず、大学と家を往復するだけの毎日を送っていた。悪循環――という奴だろう。

春野さんや椎名さんといった大学の同級生と出会えたのは、学生同士で発表をする必要がある語学のクラスで一緒になったからだ。語学クラスが無ければ、私は知り合いが一人も出来ないままの学生生活を送っていた事だろう。

「カナタ……」
「な、なに?」
「人生のうちで自由に暮らせる時間っていうのは少ないのよ。大学生の間だけで考えても、三年とか四年とかになる頃には就活やら卒業論文で忙しいだろうし」
「それは、まあ」
「そもそも就活をうまく乗り切る為には売りになるようなエピソードを持っておかないと駄目なわけ。今のあんたには何があるの?授業が思っていたより難しくてって話は聞いてるけど、それ以外で大学でこれを頑張りましたっていう、胸を張って言えるような事、何かある?」
「…………。今のところは無いですね……」
「それなら今すぐに何か行動に移した方がいいわよ。仮に途中で失敗したとしてもいいの。就活で喋れる話題にさえなればいいんだから」

母親は喋りながら部屋の片付けをしている。そんな彼女に向かって、私は縋るように呟く。

「お母さん……」
「ん?」
「お母さんはどう思う。私は何が向いていると思う?」

母親はじっと私を見つめながら言う。
「それはあんたで決めなさい。もう大学生でしょ?」


悩んだ末、私が選んだのはアルバイトに申し込む事だった。
自由に使えるお金が欲しかったし、将来の仕事の予行練習にもなるだろうし、最も無難な選択だろうと思ったのだ。入学当初よりは授業に慣れていたから、空き時間にアルバイトを入れるくらいなら重い負担にはならないと判断した。
体力を使い過ぎて授業に支障が出ないように、まだ自分に向いていそうな事務系のアルバイトに申し込んだ。実際にバイトを始めたら苦労もあるんだろうけど、まだ相対的に楽そうな仕事だと考えたのである。
――結果として、自分が想像したよりもずっと前に壁にぶつかる事になるのだが。

「君、不採用ね」
「……え?」

アルバイトの面接が終わった後、別室で少し待って欲しいと言われ、数十分後に通告されたのがこの言葉だ。

「君の後に何人か面接をしたけど、他に採用したい人が来てね。悪いけどアルバイト探しは他をあたってほしい」
「あの……」
「なに?」
「不採用であることは承知しました。ですが、出来れば……理由を教えて下さい。自分だけでは悪いところがわからないので、可能であれば教えていただきたいです」

心臓をどくどくと鳴らしながら、私は声を振り絞って聞く。自分なりに適性があると判断したところに応募したのにうまくいかなかったという事がショックで、今すぐには立ち直れそうにはなかった。出来る事ならば駄目なところは直して次に活かしたい。

面接官の男の人は手元の書類を見ながら私に言葉をかける。
「……そうだな。君は、本当はそんなにこの仕事をやりたくないんじゃないのかなって思ったんだよね。だから、より熱意がありそうな子の方を選んだ」
「…………」
「まあ、君はまだ若いんだし、今後仕事なんていくらでも見つけられるよ。頑張ってね」


「はあ……」

面接を受けた建物から出て、私は街中を歩いた。
さんさんと輝く五月の晴天は、今の私には眩しすぎるくらいだ。私は街にある雑居ビルの中に入って、廊下で休憩する事にした。
ビル内のひんやりとした空気を感じながら、頭の中で鬱々と考える。

――春野さんや椎名さんならば、こんな事は無かったんだろう。

自分の適性を見極めて、かつその為に何をするべきかの判断が出来る。
仮に何かに失敗したとしても、その経験を活かして次に進んでいけるのだろう。

彼女達を羨ましいと思うのは、能力がある事もだけど、何よりも自信を持って行動している事だ。
私にはそれが無い。

今にして思えば、高校までは良かった。受験という大きなゴールがあって、その為に毎日授業に出席して試験を受けるという風に、日々やるべき事も決まっていた。服は制服を身に纏っていれば良かったし、化粧は校則で禁止されていた。それが不服だという人も大勢いるのはわかっていたけれど、私にとってはやるべき事が決められている方が居心地が良かったのだ。

私に向いていない事は、何かを自分で選び取る事……。

大学の教授や両親は自分自身でやりたい事を選ぶべきだと諭すけれど、いざ実際にそれを行動に移してもうまくいかないではないか。
それなら……、誰かの言葉に黙々と従うようにした方が、私にとってはうまいやり方なのかもしれない。
……そうだ。
そうしよう。
次に私が誰かに何かを求められる事があったら、それに従う事にしよう……。

「お嬢さんよ」

――声がした。
どこか威厳を感じさせる男性の声だ。妙に古めかしい言い方も考えると、発言主は年配の人なのだろう。

「おい、どこに行くんだ。そこの縞模様に黒のお嬢さん。あんただ、あんた」

――なんだと。

続く言葉に、私は驚愕した。
この男性は私以外の誰かに話しかけているんだろうと思っていた。だけど、今日の私は縞のシャツに黒のボトムスを穿いている。彼が挙げた特徴から言って、どうやら用事があるのは私としか考えられなかった。

「あんたに用事があるんだ。逃げるんじゃない。困っているやつがいるから、助けてやってほしい。礼に何でもさせてやるから、な」

厳かな声は尚も私の頭の中に鳴り響く。

――なんだろう。
これこそが、お告げ、神の啓示――というやつなんだろうか。

バイトに落ちたショックのあまり、胡乱な事を考えているのかもしれない――どこか冷静な自分はそう思う。
だけど、普通に話しかけられたようには思えなかった。貫禄のある声は脳内に直接問いかけるように私を呼んでいる。普段暮らしていてこんな風に話しかけられた覚えはない。

これが神の啓示ならば――従った方がいいのか。
いや。
この際、神がどうとかそういう考えは一旦置いておこう。さっき決めた事じゃないか。相手が誰とか関係なく、私はとりあえず人の要求に従った方がいいんじゃないかって――。

しばらくすると、暗い廊下から姿を現す者がいた。

「あの」

廊下の奥から姿を現したのは、長身の男性だった。
黒髪に黒い服装、眉にかかる前髪に陰った表情。
一般的に暗いビジュアルというのは人目を惹かないものだが、彼は違った。表情を浮かべていない状態なのに、いや、だからこそ、彼の髪の艶と目鼻立ちの美しさが浮かび上がっている。服装だけを見れば大学の中でも同じような学生は見るけれど、彼には特別に注意を引きつける不思議な存在感があった。透き通る冬の夜空のように、ずっと見つめていたいような気持ちになる。

そして――、彼のルックス以上に目につくものがあった。
荷物だ。
現れた男性は大ぶりのバッグを左右の肩に一つずつ提げている。片方のバッグは、小刻みに中が揺れているようだ。
……中に、動く何かが入っている?

「ちょっと。そこのあんた」
「えっ、あっ、はい。わ、私ですか?」

男性は私を指して話しかけてきた。

「この後、時間はあるか?俺は、今……アルバイトを探している。もし良かったら、依頼したい事がある」
「……アルバイト?」
「無条件で雇う訳じゃない。あんたの都合がいいなら、この後すぐに面接を行う。時間はそう長く取らない」

彼の言い分に、私は内心でごくりと喉を鳴らした。
……普段の私だったら、怪しいからやめておこうと考えていただろう。
けれど、今の私は違う。
またアルバイトの募集を新たに探すのも大変だなと思っていたところだし。
次に誰かに頼み事をされた時は、それに着いていこうと決めていた。
これも何かの縁だと思って、私は男性に着いていく事にした。

――でも、その前に解決しておきたい事がある。

「あの……」
「なんだ?」
「その。この建物内に、年配の男性はいませんでしたか?」
「……年配の男?」
「はい。さっき声をかけられたと思ったんです。貴方の来た方から声が聞こえたような気がしたのですが……」

誰かが私を呼んでいたなら、それを無視するのは少し気にかかる。だから確認する事にした。
男性は一瞬首を傾げた後、無表情のまま私に嘯く。

「俺はそんな男を見た覚えは無いが……。きっと不審者だろうな」
「ふ、不審者?」
「最近は気温が高いからな。暖かくなってくると不審者の類は増えてくるらしいぞ。あんたは女性だから気を付けた方がいい。が、今は俺の面接の方を優先してもらおう」
「あ、ええと……。声も聞いていないという事ですか?」
「ああ。聞いていない。あるいは、そうだな……あんたは季節の変わり目による自立神経の乱れで幻聴でも聞いたんだろう」
「そ、そうですか。なるほど……」
「面接は……こっちでやろう。着いてきてくれ」

男はくるりと背を向けて、ビルの廊下を歩いて行く。私も慌てて彼に着いていく。
……現在進行系で幻聴を患っている人間を雇うのは気にならないのだろうか、という疑問が頭に過ぎったけれど、とりあえず私はアルバイトの面接を受ける事を優先した。


連れてこられたのは、殺風景な部屋だった。会議用の机にパイプ椅子が数個置いてあり、窓からは光が差し込んでいる。目につくものといえばそれくらいである。

「まずは……」
「は、はい」
「これで手を拭いてほしい。話はそれからだ」

男は、私にあるものを差し出した。ウェットティッシュだ。
面接の中で手を使う何かをするのかな――と内心で考えながら、私は大人しくウェットティッシュで両手を拭く。

「よし。じゃあ、そこの椅子に座って。で、俺が何か指示するまで待っていてくれ。えっと……。あんた、名前はなんと言うんだ?」
「舞空です。舞空奏(マイゾラカナタ)」
「舞空奏。舞空さん、か。俺は宗谷景一(ソウヤカゲイチ)という」
「はい。宗谷さん、ですね。…………」

名前を知れたのはいいとして、宗谷さんの動きに気になる事がある。
私が椅子に座った後も、彼は部屋の中でてきぱきと動き続けていた。
……何のために?

ちらちらと宗谷さんを観察してみるが、彼は私の反応など気にしていない様子で椅子を動かしている。締め切った出入り口の扉の前にパイプ椅子を置き、部屋の窓に鍵がかかっているかを入念に確認しているようだ。
…………。

宗谷さんは……この部屋が密室であるかどうかを確認している?

何のために。
面接を閉じた部屋でやるのはおかしな事ではないけれど、無差別に声を掛けてきた人が入念に部屋を閉ざすようにしているという状況に、私は違和感を覚える。
もしかしてだけど……アルバイトというのは適当な口実で、私に何らかの危害を加える為に誘い出したんじゃないだろうか。

パイプ椅子の上で震える私をよそに、宗谷さんは持っていた二つの鞄を机の上に置いた。そして片方の鞄のファスナーを開け、中に入っていたものを取り出した。

「……?」

鞄の中には更に入れ物――ピンク色のキャリーケースが入っていた。そして、中からガタガタと音がする。ここから出せと言わんばかりに。
よく見ると、キャリーケースは中身が確認出来る。中には、猫が――それも、細身で小さい猫が入っていた。

宗谷さんはピンクのキャリーケースを開いた。
閉ざされていた檻から小さな猫がぬるりと這い出てくる。

会議室の明かりの下だと猫の姿がよく見える。その猫は細身で小さく、足跡が付けられた白銀の雪原のような淡いグレーの柄の毛皮を身に纏っていた。瞳は青と緑が混ざったような色で、毛皮の色と合わせて雪国の湖のような透明感を感じさせる。
深窓の令嬢――猫を相手にそう呼ぶのは不適切かもしれないけれど、私の頭にはそんな形容が思い浮かんだ。

「…………」
「…………」

会議室を沈黙が満たす。
とはいっても、アクションを起こしている者はいる。今しがたキャリーケースから自由になった、白銀の猫だ。
猫は、きょろきょろと部屋の中を見て回っているようだ。初めて来たであろう場所を警戒しているのか、机の近くにあるパイプ椅子の匂いを確かめるように顔を近づけている。
やがて椅子の検分が終わったらしい猫は、見慣れない人間に焦点を当てた。
即ち。
私の方へと近づいてくる。

「…………」

猫は音も無く移動するのだと何かの図鑑で読んだ事があるけれど、あれは正しい知識を書いていたんだなとぼんやり思った。音も無く移動するのは、なんの為だっけ……狩りの為、だっけ。

こんな風につらつらと過去の事を考えているのは、宗谷さんの言葉が原因である。
――何か指示があるまで待っておけ。
彼はそう言っていた。宗谷さんはあれこれ動きはしたが、私に対して何も次の指示をしていない。だから私には座って静粛にしているしか選択肢がなかった。

私が自主的に何かをしようとしたら失敗するのは、ここに至るまでの事でよくわかった。
だから、私はじっと黙って待機する。

そもそも――私は猫と触れ合った事が今まで無い。野良猫を街中で見つけてすれ違った事はあるけど、それくらいの接点しか無い人生だった。
この猫は宗谷さんの飼い猫なんだろうけど、扱い方のわからない動物に対して何かアクションを起こそうとは思わない。
という訳で、じっとしていた。

白銀の猫はじりじりと私のもとへと近づき、机の上の腕にすんすんと頭を近づけた。細い尻尾がくるんと動いて、先端が私の肘に触れる。それでも私は石像のようにじっとしていた。
暫くそうしていると、猫はふいと私から離れた。どうやら窓の方が気になるようで、その方向へ歩き始める。
猫が自由に動き回っていたのはそこまでだった。
猫の様子を見ていた宗谷さんが、風のように猫に近づいて何かを被せた。あれは――洗濯ネットだ。動きを封じられた猫はミャアミャアと高い声で抗議しているようだったが、宗谷さんは意に介さないようで、そのままキャリーケースに戻して鞄に仕舞い込んだ。
そして私の方へ向かって口を開く。

「舞空さん」
「は、はい」
「合格だ」
「えっ?」
「後はもう自由にしてくれていい。……とはいうものの、俺は今日この後用事があるんだ。今日のところはここで解散しよう。次の土曜日、ここに来てくれるか?」

宗谷さんは胸元から紙を取り出して、私に差し出した。紙には地図と住所、そして宗谷さんの名前と電話番号が書いてある。地図に示された場所がアルバイトの場所なのだろうか。電話番号は宗谷さんの連絡先という事なのだろう。
地図を見つめている私をよそに、宗谷さんはてきぱきと荷物をまとめて今にも出ていきそうだ。
私は慌てて彼を引き止める。

「す、すみません。まだ少しお聞きしたい事があるんですが……」
「少しの時間なら問題無い」
「そうですか。あの、先程の猫は……」
「さっきの猫はアーニャという。メスの子猫だ」
「そ、そうですか。アーニャちゃん。えっと、アルバイトというのは猫に関係する仕事なんですか?」
「そうだ」
「でも私、猫を飼った事も世話した事も無いんですけど……。正直なところ、私に務まるかどうか……」
「俺はどうにかなると見ている。俺はアルバイト先のオーナーだ。他の奴らも文句は言わないだろう」

……そういうものなのだろうか。先程のアーニャの反応で宗谷さんはそう判断したのか。正直、アーニャの反応がいいものだとは思えなかったけど。何を基準に判断したんだろう……。
不安のままに私が無言でいると、宗谷さんは片方の鞄をテーブルの上に置き、そして私に向き直る。

「……まあ、そうだな。不安というなら、こっちの猫でも試してみるか」

宗谷さんは頷き、鞄のファスナーを開けて中身を取り出す。
中には黒いキャリーケースが入っていて、アーニャ同様に猫が入っているのが見えた。宗谷さんがキャリーケースの扉を開けると、中からゆったりと猫が姿を現す。
同じ猫とはいえど、アーニャとは違う点がいくつかある。
まず柄が違う。黒いキャリーケースに入っていた猫は、全身に虎のような黒の縞模様が入っていた。体格はアーニャの三倍はあり、毛皮はアーニャよりも濃い灰色で、その眼光はどこか鋭い。強面――という言葉が思い浮かぶ。だがアーニャの時よりも落ち着いた様子で、ゆっくりと私の傍へと近づいてきている。

「舞空さん。撫でてみてくれ」
「えっ?……この子に触ってもいいんですか?」
「こいつは人に触られるのが好きなやつなんだ。いざ猫と接する事になったら、あんたの方が猫に触れるのが苦手だとわかるかもしれないから、今のうちに試しておきたい。やってみろ」

宗谷さんの言葉を聞いて、私は恐る恐る近くの虎猫に指を伸ばす。
猫というものは人間からアクションを起こすと逃げてしまうものだというイメージがあったけど、この虎猫は違った。喉元に人差し指で軽く触れると、喉を軽く鳴らしながら指に身体を擦り付けてくる。マッサージされて気持ちよくなっている人間のリアクションみたいだ。
私の方はといえば、想像以上の感触に動揺を覚えていた。
猫に触ると、心が癒やされる感じがする。
例えば毛布を寝る時に身体に巻きつけると幸せな気持ちになる。でも、猫の場合はそれに『体温』が加わるのだ。

人間よりも暖かな存在が、私の指に身を預けてくれている……。
気持ちいい……。

ほわほわと幸福な気持ちに浸っていると、宗谷さんがじっとこちらを見つめて口を開く。

「とりあえず、猫アレルギーは無いようだな。で、触ってみた感想はどうだ?」
「き、気持ちいいです……。この子は毛並みが柔らかくて、とても触り心地が良くて……あ……寝ちゃった」

大きな体躯の虎猫は、いつしか机にぺったりと張り付いて静かになっていた。その様子を見て、宗谷さんはキャリーケースを開けてゆっくりと猫を移動させる。キャリーケースをしまい込みながら彼は呟いた。

「アーニャはまだ子猫だが、こいつはもっと年を食った猫だ。名前はゴローという」
「ゴロー……。こちらはオスの猫なんですか?」
「ああ」

宗谷さんはキャリーケースの入った鞄を背負いながら呟く。

「でも、あんたが直接関わる事は無いだろうから、忘れてくれていい」


用事があるという宗谷さんと別れてから数日経って、私は地図を片手に住宅街を歩いていた。
駅から数分歩いた後、私は店の出入り口を見つけて店名を呟く。

「猫カフェ……きゃっとにゃうんじ」

出入り口にはその店名と、扉の開閉は店員を呼んでください――という注意書きがあった。店名は休憩所、社交所の意のラウンジをもじったものなのだろう。

しかし……猫カフェ、か。
私は普通のカフェにしか入った事が無いけど、カフェというからには人相手の接客もするのだろうか。コミュニケーション能力や瞬発力があまり高く無い方という自覚はあるので、カフェで働いている自分が真っ当に活躍出来ている姿が想像出来ない。
そして、そもそも猫に触れたのもごく最近の一度だけなのだ。おそらく猫相手にも仕事をすることになるんだろうけど、私に務まるんだろうか?

……でも、とりあえず入ってみない事には始まらない。

「……お、きたきた。いらっしゃいませー」

ベルを鳴らすと中から店員さんと思わしき人が現れた。宗谷さんと同い年くらいと思われる、マット系のふんわりとした髪の男性だ。
男性は扉を開き、にこやかに私を中へと招く。

「オーナーから話は聞いてるよ。新しいアルバイトが来てくれるって聞いて楽しみにしてた。君、名前は」
「舞空です」
「舞空ちゃん、ね。俺は白金雷太(シロガネライタ)。……ちなみにだけど、俺の顔に見覚えはある?」
「えっ?」

私は白金さんの顔をじっと見た。宗谷さんと同じく整った顔ではあるけれど……。

「すみません……。初対面だと思います。以前会っていたらごめんなさい」
「あ、そっか。いやいや、こっちの話ね。まあ気にしなくていいよ。ここに来たからにはこっちの仕事がメインだもんな」
「あ……」

白金さんが身体を動かして、店の中を指し示した。私はそこで初めて店の内装を目の当たりにする。
出入り口付近には荷物を入れるロッカーが十個程あった。フロアの奥にはソファと本棚があり、中にはマンガや雑誌が入っている。床には座布団やクッションが置いてあり、ソファが埋まっている時でも座って時間を過ごせるような作りになっていた。座布団の付近にあるテーブルの上にはノートやアルバムが置いてある。店には上に繋がる階段があり、二階建ての構造になっているようだ。
一軒家で例えるならば、居間やリビングのような空間が広がっている。今まで行った事のある一般的なカフェとは内装のテイストがかなり違うと感じた。

何より違うのは、猫の存在だ。
カフェの建物の中には、大小様々な猫がいた。部屋に吊られたハンモックに丸まっている猫、身体を隠せる家のクッションの中からこちらを覗いている猫、水飲み器から水分補給をしている猫。私を監視するように高い場所からこちらを見つめている猫もいれば、私の足元に近寄ってきてきらきらの目をこちらに向けてくる猫もいる。

猫が、いっぱいいる……。

「あ、ちなみにここに入る時は手洗い必須だからね。そこの洗面所で洗ってね」
「は、はい……」

白金さんの指示に従って手洗いをしていると、私の近くに猫が歩み寄ってくる。私を観察しているのだろう。
私は内心で怖気づく。
以前に猫を触らせて貰ったとはいえ、私は猫をどう扱っていいのかまだわかっていない立場だ。
……というか、アルバイトで何の仕事をするのかも何も連絡されていない。
一応働ける時間については連絡して了承を貰っているけれど、果たしてきちんとやっていけるのか、不安でいっぱいだ……。

「来たか」
「あっ!」

カフェの入り口から男性が現れる。宗谷さんだ。

「おはようございます。今、白金さんに話を伺っていました」
「話っていっても、まだ自己紹介したくらいだけどねー。宗谷くんはどこまで説明した訳?」
「とりあえずここで働いてもらう事は伝えた。内容はこれから伝える」
「え、これから?」

白金さんが宗谷さんの言葉を聞いて不審そうに呟く。宗谷さんはそれに構わず私に話を続ける。

「舞空さん。一緒に働く人間は、主にこの白金。あとは時々他の人間が入る事がある。俺は前まではカフェでも働いていたけど、今は休んでいる。閉店後に不定期に来る事はあるかもしれないが、基本は他の者と働く事になると考えて欲しい」
「わかりました」
「このカフェにいる猫は……今舞空さんの方にぐいぐい来ているのは、きなこ。茶白の子猫だ。あそこのキャットタワーの丸いところに収まってるのがエリザ。長毛種のメスだ。そのクッションの上で一緒に寝ているのはあんこにつむぎ。あんこは小さい黒猫でつむぎはサビ猫の大人猫だ。どっちもメスだ。そこの毛玉ボールで遊んでいるのはうにお。黒猫だ。窓際でひなたぼっこしているグレーの猫がニコルで、床でごろ寝してるのがアメショのシャルル。じゃらしで一人遊びしている白と黒ぶちはトーファ。ソファの上で伸びてるのがジロウ。シャークとはちみとアッシュは……いないな。このカフェは階段を登れば二階に行けるんだが、それぞれ二階の隠れ家にいるか、スタッフルームで休んでいるんだろう。シャークはサバ白、はちみは三毛、アッシュはニコルよりは薄めのグレーと赤茶色が入り混じっている、紅茶のような柄の猫だ。猫の紹介としてはざっとこんな感じか」
「え……」

カフェの中を指差しながら淀みなく説明する宗谷さんに、私は立ち尽くす。
このカフェにいる猫は……
何だっけ?
何匹いるんだっけ?
宗谷さんの言っている事に間違いは無いんだろうけど、二匹いると言われても一匹しかいないように見えたり、中にいると言われてもいないように見える。私は戸惑いながら彼に質問する。

「えっと、すみません。私の覚えが悪くて……。えっと。黒猫ちゃんが何匹かいませんでしたか?」
「あんことうにおが黒猫だ。小さい方があんこで大きい方がうにお。あとうにおの方は足の付け根が少し白くなっている」
「つ、付け根……?」

宗谷さんの説明を聞いて、うにおと呼ばれた猫の方を見てみた。足の付け根、足の付け根……。じっと観察してみようとするけど、うにおは毛玉ボールを転がすのに夢中のようで、全然止まってくれない。

わからない……。

ついて行けない授業の話を聞いている時のような無力感が私の身体を満たす。そんな私と宗谷さんに白金さんが割り込んできた。

「ちょっとちょっと。いきなりそんなダーっと説明してもわかる訳ないでしょ。俺だって猫の見分けをつけるのには時間がかかったんだから」
「はあ……そこまで猫の数が多いとは思わないが」
「人間は七以上の数の事は基本わからないもんだよ。舞空ちゃん、今カフェに在籍してる猫はこのアルバムにまとめて書いてあるから。必要な時はこれを見て復習してくれたらいいよ」
「あ、ありがとうございます」
「――まあ。舞空さんを雇った主目的からすれば、他の猫の事は必ずしも覚えなくていいんだが」

ぽつりと呟いた宗谷さんは、スタッフルームの方へと戻っていった。そして鞄を持って戻ってくる。私はその鞄に見覚えがあった。

「それって……アーニャ、ですか?」
「そうだ。出てこい、アーニャ」

鞄のファスナーが開かれ、キャリーケースの中に白銀の子猫が見える。キャリーケースから出たそうに前足で扉をつついていたアーニャは、宗谷さんによって解放された。

――アーニャと再会出来た。

猫に対してこんな事を思うのもおかしな話かもしれないけど、見知った相手がこの場にいると多少なりとも安心感を感じる。
アーニャはすごく懐いてくる猫ではないけれど、ものすごく警戒したり攻撃する猫ではない、という事はわかっているのだし……。

と、思っていたものの。

「シャー」
「みゃあ?」
「なー」
「シャー」
「ウウウウウウウウウ」
「アアアアアアアア」
「ウルアアアアアア」
「……これは……」

アーニャが解放されてからの怒涛の展開に、私は言葉を失った。
まず私の傍でうろうろしていた茶白の子猫が、新たに現れた猫に興味を持ったのか、アーニャに走り寄って近づいた。それを受けたアーニャがシャーと声を挙げ、体毛をぶわりと逆立てる。それでも茶白の子猫は接近をやめようとせず、アーニャに向かって鳴き声を上げる。猫同士の鳴き声で目を覚ましたのか先程まで寝ていた猫たちもアーニャに向けてアクションを起こし始めた。アーニャに近づこうとするもの、アーニャから距離を取ろうとするもの、アーニャにシャーシャーと威嚇するもの。アーニャは更に毛を逆立て、サイレンのような低音の唸り声をあげた。子猫ながらに深窓の令嬢のような美しい顔をしているのに、令嬢が出してはいけないような声をあげ続けている。

アーニャの様子を見て、白金さんがため息をついた。
「アーニャ姫は相変わらずだな。宗谷くんの家では猫嫌いは直んなかったの?」
「多少は落ち着いたと思っていたが、駄目だったようだな。ゴロー以外だとこうなるのは相変わらずらしい」
「舞空ちゃんって猫の世話をするの初めてなんでしょ?初めてにしてはアーニャはハードル高くない?」
「アーニャと顔合わせをさせたが、アーニャは舞空さんを相手にしている時は落ち着いているようだった。だから大丈夫だと俺は見ている」
「そんなもんかねえ……」

人間達の会話をよそに、猫達の荒れ模様は続いている。
アーニャは猫に囲まれたのが我慢ならなかったのか、カフェの中の階段を素早く登っていく。アーニャがいなくなった事によって、カフェの一階のフロアには先程のような平穏が戻ってきていた。アーニャの心中が穏やかなものであるかはわからないが。
とりあえず一旦はカフェ内の状況が落ち着いたので、私は宗谷さんに話しかける。

「あ、あの。すみません。宗谷さん、私の仕事というのは……」
「ああ。基本的には猫カフェの中の猫の面倒を見てもらう事。世話をする事。でも、これは最優先事項じゃない。俺が舞空さんにやってほしいのは、アーニャの相手をしてもらう事だ。それさえしてもらえれば、他の猫の事は放置していても構わない」
「アーニャの相手……ですか」

それだけ聞くと、想像していたよりも簡単に思える。だけど、先程のあれこれを経た私の心は一気に不安の方へと傾いていた。

「あの……すみません、さっきお話されていた事ですけど。アーニャは私が相手するにはハードルの高い猫なんでしょうか」
「まあ、そうだな。猫のタイプをざっくり分けると、猫好き人好き、猫嫌い人好き、猫好き人嫌い、猫嫌い人嫌いに分けられる。この順番に扱いにくい猫になると考えてもらっていい。アーニャは猫嫌い人嫌いに近い」
「そ、そうなんですか……」
「俺も白金もアーニャには散々威嚇されたもんだ。だが、舞空さん相手にはアーニャは静かだった。威嚇したり怯えるような事が無かった。だから、相性がいいんだろうと思っている。今までは俺の自宅でアーニャを預かっていたんだが、他にやらないといけない事があってカフェに戻す事になった。だからアーニャを世話出来るような人間を探していたんだ」
「そうなんですね……」
「アーニャは人も猫も嫌いな気難しい猫だが、辛抱強く世話すれば多少気性が丸くなるかもしれない。その未来を目指して舞空さんに相手してやってほしい」
「……。あの。もしもですけど、私とアーニャが本当は全然相性が悪くて、うまくいかなかったら……」
「その時はその時で考える事にする。……さて、俺はそろそろ帰るぞ」
「えっ」

宗谷さんが自分の荷物を片付けて支度を始める。どうやらカフェに来たのはアーニャを送り届ける為のようだった。
私はちらりと時計を見る。そろそろ十時半を回ろうとしている。そして、店の前の看板には開店十一時と書いてあった。

「あ、あの、もう少しでカフェは始まるんですよね?私、まだまだわからない事ばかりで、そんな中でお客様が来ても皆さんに迷惑をかけてしまうと思うので、宗谷さんがいてくれた方が……」
「俺には用事があるんだ。諸々は白金に教えてもらってくれ。余裕が出来たらまた様子を見に来る。それか、スマホで俺に連絡してくれればいい。では」

私の静止はあまり宗谷さんには響かなかったようで、彼は足早に扉を開けて出ていった。呆然とする私に向かって、白金さんが近づいてくる。

「ごめんね、舞空ちゃん。猫カフェといえど人相手にコミュニケーションを取らないといけないもんだから、その辺しっかりしろって宗谷くんには前から言ってるんだけど、なかなか改善されないみたいで……。とりあえず、これ着て」

白金さんが私に渡してきたのは、エプロンだった。よく見ると白金さんも同じような形のエプロンをつけているが、私のものは色が違う。
身につけて紐を結ぼうとすると、おもむろに誰かに引っ張られる感覚がした。そちらを見ると、茶白の子猫が前足で紐にパンチして遊んでいる。

「し、白金さん。これは……」
「あー。猫ってそういうひらひらしたものが好きだったりするからね。俺もよくやられる。まあそういう時は猫をどかしてくれればいいから。きなこ、やめろ!」

きなこと呼ばれた猫は白金さんにべりっと離された。きなこは構ってもらえたのが嬉しかったのか、うなうな言って白金さんの手に顔を擦り付けている。……猫の行動を止めると猫に嫌われるのではないかとぼんやり想像していたけど、どうやらそうとは限らないようだ。
そうこうしているうちにグレーと赤茶の猫が近づいてきて、きなこと同じように紐をちらちらと見つめている。私は猫からばっと距離を取りつつ、この子の名前は何だっただろう……と考えた。宗谷さんの説明する中にいたのだろうけど、正直思い出せない。

私はテーブルの上にあるアルバムを手にとって開いた。確かこの中に猫のプロフィールが書いてあるはずだ。

「……?」

私はじっとアルバムの中の写真を見つめて、首を傾げた。
この写真は。
映っているカフェの内装が概ね今のものと同じだから、ここで撮られたものなのだろうけど……。

「舞空ちゃん、それは歴代のカフェのアルバムだよ。今いる猫についてはこっちに載ってる」
「あ、ありがとうございます!」
「それを読み終わったら、次に読んでおいた方がいいやつを見せるからね」

白金さんにアルバムを指し示されて、私はそれを開く。赤茶の子はアッシュという名前でオスの一歳らしい。
ぱらぱらとめくってみると、それぞれ猫の写真とプロフィールが書いてあった。オスとメスは半々くらいずつ、年齢は子猫から四歳までの子がいるようだ。……猫には詳しくないが、一歳や二歳というのは子猫と呼んでいいものなのかな。後で調べてみよう。

……それにしても。
私は頭の片隅で考える。
先程の写真は何だったのだろう。
あの写真には、宗谷さんがそのまま年を召したような風貌の男性と、かつて私が触らせて貰った猫・ゴローが一緒に写っていたのだ。


猫を扱う方法はある程度マニュアル化されている。私はそれを読みつつアーニャ及び猫の相手をする。白金さんは接客を行う――そういう運びになった。

この猫カフェの料金は基本的には時間制で決まっている。一時間滞在するごとに料金が増えるという仕組みだ。それとは別にドリンクや猫グッズを購入する事も可能であり、各自の合計が店の売上として加算されるとのことだった。

「おぉ~元気だったかね、チャー。よしよし。相変わらずもふもふだねぇ」
「……変だな。俺のところには誰も来ないみたいなんだけど」
「お兄ちゃんはあっちの雑誌を読んでみなよ。猫をあやす方法が載ってるから。本を読んでるうちに猫が寄ってくるかもしれないし」

カフェが開店してから最初に来た客は、私よりも若干年上と思われる男女の二人だった。会話からすると兄妹だと思われる。
妹さんの方の膝には茶トラの猫が丸くなっており、遠目に見るとまるでチャーハンのように見える。猫の名前の由来を意図せずに知ってしまった。
お兄さんの方は本棚から雑誌を取り出して眺めている。この店に置いてある書籍は全て猫に関するもののようで、猫が寄ってこない場合でも本を読んで楽しむことが出来るようだ。

その後に来店する客も続けて観察して、私はある事に気付く。
猫カフェの内装は一般的なカフェと比べて独特なものになっていると思ったが、店に訪れる客もまた特徴があるようだ。
猫カフェに来る人は、カフェのドリンクや接客が目当てというより、猫を目的にして来ている。

白金さんが来店したお客様に説明している時、猫が興味を持って近付いてくる事がある。そんな時、お客様は理性では説明を聞こうとしているが、本心ではやってきた猫を構いたくて仕方がない、という様子を見せるのだ。現に白金さんが説明を終えて離れるや否や、早速猫をもふもふしている方がほとんどだった。
そして自由時間がスタートすると、みんな猫のもとへと近づいていく。
首尾よく撫でたりおもちゃで遊ぶ事に成功した場合、歓喜の声をあげて猫と触れ合うのだ。
猫にそっぽを向かれた場合、連れと嘆きの言葉を漏らしあったりしつつ、猫が近付いてきたら全力で猫に注意を向けて再び猫との触れ合いに挑む。

……みんな、猫が好きなんだ。

思えば、普通のカフェも沢山ある中でわざわざ猫のいる店舗を選んで来ているのだから、猫が好きな客が集まるのは当然だといえる。
それに、フラットな目線で見ても店の猫と触れ合えるのは楽しいのだろうと思う。
猫といえば気分屋、人に懐かない、何なら人から近付かれたらすぐに逃げるものだというイメージがあった。
だが、猫の性格は個人によって大きく変わる──という事がはじめてわかった。
人間の膝が大好きで、ソファに座っていたらすぐに丸まる猫もいる。
おもちゃで遊んでもらうのが何より好きで、触られるのは好まない猫もいる。
それぞれの猫は、思い思いに人間との時間を楽しんでいるようだった。


開店してから数時間経ち、閉店の時間になった。
私と白金さんはスタッフルームで話をする。

「今日はお疲れ様。どうだった、カフェの一日は」
「……。びっくりすることがたくさんありました」
「そうなんだ?」
「そもそも、猫の生態も私の想像とは色々と違ったというか……」

そう言いながら私は一日の事を振り返る。
猫カフェの基本的な仕事として、猫の世話をしなければいけない。大きく分けて、トイレの始末、食事の準備、店内の清掃の三つが主なタスクだ。

普通のカフェに行った経験から想像して、店内の清掃は人間が出したゴミの掃除が主かと思っていたけど、そうでは無いようだ。
猫カフェの主な掃除対象は、猫の毛だ。
猫のいる空間にいると、想像を遥かに超えて毛が付着するのである。私のエプロンにもびっしりと毛が付いて、少し恐怖を感じた。コロコロで定期的に毛を取るのだと白金さんに教えてもらった。
仕事の為に掃除の作業を行うのだけど、お客様がいなくなった時に掃除機を掛けると猫が威嚇し始めたのにも驚いた。猫からしてみれば大きくて変な音を出すイキモノに見えてるから怖いんだろと白金さんは笑っていた。
そして、猫の食事風景というものも私の想像とは大きく異なった。
キャットフードをお皿に出そうと箱のあるところに近づいただけでスタッフルームにいる猫達がにゃあにゃあと騒がしくなり、中には私の足をカリカリしてくる子もいた。
お皿に出した後は皆ご飯に集中するが、時々ご飯が好きすぎるのか他の者を押しのけてでも食べようとする猫もいるのだ。
そして私がスタッフルームで軽食を食べようとすると、何を食べているのか気になるのか、猫が近づいてにおいを嗅ごうとしてくる。
人間は摂取可能な食べ物の種類が非常に多いが、猫に人間の食べ物を与えると毒になるケースが非常に多いのだという。そのため、猫が私のご飯を食べないように必死にガードした。

――猫は人間とは違う種の動物であり、猫の考えのもとに日々を生きている。
そんな当たり前の事を実感する一日でもあった。

そう白金さんに伝えると、彼は微笑んで言う。

「良かった良かった。舞空ちゃん、目に見えて不安そうだったからちょっと心配してたけどさ、大丈夫そうで良かったよ」
「いや……大丈夫ではないです。私、全然駄目でした。宗谷さんに申し訳ないです」
「なんで?ご飯も掃除もちゃんと出来てたよ。猫と触れ合うのだってちゃんと出来てる。猫の事もいっぱい観察出来てるじゃない。申し訳無い事なんて何もないと思うよ?」
「でも……私はアーニャと触れ合う事が出来なかった」

私は猫の世話の仕方を学びつつ、アーニャと接触する事を試みた。
だが、アーニャはずっと店の物陰に隠れていたり、スタッフルームの猫ベッドで眠り続けていたりで、コミュニケーションを取る機会がまったく無かったのだ。

白金さんは肩をすくめて呟く。

「それは舞空ちゃんじゃなくてアーニャの問題だと思うけどね」
「……アーニャの、問題」
「アーニャって舞空ちゃんが来る前にこのカフェに在籍してた事があるんだけど、その時も猫も人間の事も怖がってシャーシャー言ってさ。宗谷くんの家で引き取るって話になったんだけど、戻ってきてもあんまり改善はされてないみたいだね」
「どうすればアーニャにとっていい方向に進めるでしょうか。猫を好きになるか、人を好きになってくれる方法は……」
「うーん。正直、周りとうまくいってない猫を馴染ませるのは難しい問題なんだよな。ケージに入れて店内の空気に慣れさせるっていう方法も無くはないけど、アーニャはケージ、嫌がるからなあ」

話しながら白金さんは伸びをした。そして鞄の中を探り、私にチラシを渡してくる。

「ま、まだアーニャも舞空ちゃんも店に来たばかりなんだし、そんな気を張らなくていいと思うよ。そんで……もし興味があったらこれ、どうぞ」
「これは……」
「俺が所属している劇団の舞台だよ。俺は出演してないけど、もし興味があったら来てね。ま、チケット代は取るけど。へへ……」

白金さんの言葉に、私は驚いて返事をする。

「白金さん……本業は役者さんだったんですか」
「そ。まあ、役者さんって主張出来る程仕事がある訳じゃないんだけどさ……。売れない劇団員は仕事も無いし金も無いからアルバイトで食いつなぐ訳よ。で、たまたま宗谷くんと知り合いになった時、彼が猫カフェのアルバイトを探しているって話を聞いた。それでここに通ってる訳。俺以外でもバイト希望のやつは何人かいたから、一緒に働いてるんだよね」
「……そうだったんですね。じゃあ……宗谷さんと白金さんは、役者仲間、という……」
「まあ、そう。でも、俺と宗谷くんにはめちゃめちゃ差があるけどね。俺が写真アップするよりも、うちの猫どもを載せた方が反応いっぱい貰えるけど、宗谷くんはどの猫よりも上を行くからな。ま、だからこそコネを作っとくとお得だと思って頑張ってるんだけどさ。へへ……」

白金さんの言葉を聞いて、私は頭の中で納得した。
そうか。
宗谷さんは用事があってアーニャの世話を出来なくなったと言っていたけど、それは演劇の仕事が入ったからだったんだ……。
私は首を傾げながら呟く。

「……でも、人気のある役者ならば、そちらに専念した方がいいのではないですか?カフェの経営もしていると時間が取られますよね」
「うーん……その辺は本人の希望、かな?望めば演劇やら芸能関係の仕事はいっぱい出来るだろうけど、本人がセーブしてるみたい。役者としてのアカウントも作らないし、役柄のメイクを完璧に施した写真しかあげないし、役者として名を上げる気があんま無いのかもな。ここでオーナーとして猫の世話をする方が好きなんじゃないのかな。ま、宗谷くんはあんまり自分の事語らないから、ほんとのところはわからないけど」
「わからない……ですか?私には、宗谷さんと白金さんはとても気を許してるように見えて……」
「そうでもないんだな、これが」
白金さんは帰り支度をしながら呟く。

「俺は未だに猫の事もわかんないし、宗谷くんとも親友って訳でもない。ただ人気のある宗谷くんにくっついていればなんかおこぼれが貰えるかもって思ってて、猫の事も勉強してれば猫好きですってアピール出来るかなって思ってるだけ」
「…………」
「俺はアーニャとうまくやれてる訳じゃないけど、店内の他の十何匹の猫とはぼちぼちやれてるから、まあ一匹くらいはいいかなって気持ちでいる。俺と比べたら、舞空ちゃんはめちゃめちゃ真面目だよ。真面目過ぎていつか壊れちゃうんじゃないかってくらいにね。ま、舞空ちゃんの本業は学業なんだから、支障が出すぎないようにうまくやればいいと思うよ。じゃ、俺は今日の泊まり当番と引き継ぎしてから帰るよ。お疲れ様」
「お疲れ様でした」

会話を終えて、私はスタッフルームを出る。
お客様がいなくなった店内は、ゆったりとした時間が流れているようだ。猫達が思い思いの場所を陣取り、ごろごろしたり、うとうとしたりしている。ある猫は爪とぎをカリカリやっているし、ある猫はクッションをリズミカルにもみもみしていた。
牧歌的な景色だ。
だけど、私の心には棘が刺さったままだった。


「ふう。こんなもんかな。舞空ちゃん、お疲れ」
「お疲れ様でした」

今日も猫カフェの営業は終わった。
最初は猫の生態に面食らったものだが、何回か通ううちに段々と慣れてきて、食事の用意や清掃はスムーズにこなせるようになった。猫達も私がよく食事を用意してくれる人間だと気づきつつあるのか、最近では私が食事の袋を取り出さなくともうにゃうにゃと催促をするようになった。
今日は白金さんが泊まりという事で、今は持参した夜ご飯を食べている。
そんな彼に提案する。

「白金さん。私……もう少しこの店にいてもいいですか。あと一時間か二時間で終わると思います」
「うん?いいけど、夜遅くなると親御さんに心配されない?」
「大丈夫です。事前に相談はしてきたので」

私はメインのフロアの方へ戻った。
先程猫たちの食事が終わった事もあって、みんなクッションやらソファやらに身を預けて船を漕いでいるようだ。
私は二階へと繋がる階段を歩いた。

「アーニャ」
「にぅ……」

辿り着いた先にはいくつかのセパレートで分けられた棚が置かれている。宗谷さんは隠れ家──と表現していたが、なるほどここは猫が身を隠すには丁度いい場所なのだろう。

基本的に猫たちや客は一階のフロアに集まる。故に、二階の物陰にいたら猫とも人ともエンカウントしなくて済む。それでも二階に猫や人が来る事はあるので、時々上でアーニャが唸り声を上げている声が聞こえたものだ。

猫というのは環境の変化に著しく弱い生き物であるらしい。アーニャが全てを拒絶している風なのも宗谷さんの家から移って集団生活しなければならなくなった事にストレスを感じているのかもしれない、逆に言うと慣れたら穏やかに過ごせるかもしれない──白金さんはそう言っていた。
だが、アーニャは連れて来られてから時間が経ってもまだ慣れないようだった。

それでも――、変わる兆しはあると私は感じている。
営業中に二階に来ると、アーニャが何か言いたげにこちらを見つめている事があるのだ。だが、店内に客や猫の気配がするとどうも駄目なのか、私が触れようとしても逃げてしまう事がほとんどだった。
今の時間は店内が静かで猫たちも眠っているからか、アーニャは普段よりもこちらに向き合ってくれているようだ。
だが、私が近づこうとすると口を開いてシャーと威嚇をしてくる。

「アーニャ」
「シャー、ウー」
「はい、これ」
「……ウニャ、ウー」

私はアーニャにあるものを差し出した。猫たちに大人気のウェットフードを乗せたスプーンだ。
アーニャは事情が変わったと言わんばかりに近づいてペチャペチャとフードを舐めている。アーニャは他の猫達が周りにいるとご飯を食べようとしなくなるけれど、あたりに猫がいなければご飯を食べてくれる――というのはこの数日間で調査済みだった。
ウェットフードを食べ終わったアーニャは、私からすっと距離を取った。二階から降りていこうとしないだけ他の猫達に対してよりは心を開いてくれているみたいだけど、それでもまだ警戒心を解いていないようだ。

――アーニャとうまくやれなくても、一匹くらいなら気にしない。
舞空ちゃんは真面目過ぎる。

白金さんは私にそう言った。
あれは彼の優しさなのだろう。私がアーニャとの関わりで気に病む事の無いようにああ言ってくれたんだ。
それでも、アーニャを放っておく事は出来ない。

宗谷さんのオーダーがそれだったから――という事も勿論ある。
でも、それだけじゃない。
私はこの猫カフェにアルバイトで来るようになってから、日々が楽しくなり始めたのだ。
人間とは習性が異なる猫の生き様に面食らった事は沢山ある。
でも、人との生活がいまいちうまくいっていなかった私にとっては、猫達は未知の魅力に溢れた刺激的な存在だったのだ。
何で喜ぶのか、何に怒るのか、本で書かれている事だけではわからない事も沢山ある。
意思疎通も簡単に出来る訳ではない。
私にとっては、だからこそ良かった。

私の周りにいる人間は、自力で問題解決が出来るひとばかりだ。だから、何かを決めるのが遅く迷う事が多い私はすぐに置いていかれてしまう。
その点、猫は違う。
猫は高いところに行って降りられなくなったら下ろせと鳴くし、クッションに爪を立てて飛び散ったら勝手にクッションが壊れたのだと言わんばかりにこちらをまんまるの目で見てくる。猫によって撫でられるのが好きな部位も違うし、気分じゃないと怒りを表明する事もある。
だからこそ、私は色々な手段を試す事が出来た。
あの猫はこの材質の寝床が好きで、あの猫はこの玩具なら遊んでくれる――など、色々なものを試した上で猫の事を知る事が出来た。それはいつもの生活では得られない達成感だった。

自分ひとりだけでは猫に関わる店で働こうとは思いもしなかっただろう。私がこうして働けているのは幸運な事だと思う。
そして、私がここに来れたのはアーニャのおかげだ。
あの日、アーニャが私を拒否していれば、私はアルバイトとして雇われる事は無かっただろう。
アーニャは、今の環境に馴染めずに居心地悪く暮らしているようだ。
それは、以前までの私に近い。
そんなアーニャに、色々試してみたい――そう思って、来客もなく猫達が落ち着く営業時間後に残ることにしたのだ。

「アーニャ、どうぞ」
「……?」

私は鞄の中からあるものを取り出した。
アーニャサイズの天蓋付きのベッドだ。

ここ最近、カフェで猫たちを観察していてある事に気づいた。
猫たちは時に衝突する事もあり、アーニャなどは常に衝突している毎日を送っているのだが、その小競り合いは主に特定のクッションの傍で起きていた。
店内には猫が寝床に使えるようにクッションが多数あるのだが、アーニャは円形のふわふわクッションが気に入っているようだった。だが他の猫にもこのクッションは人気で、時に猫団子になってクッションが満員になっている事もある。だからアーニャは退散せざるを得なかった。
アーニャが気に入っているならともう一つ色違いのクッションを買ったのだが、アーニャはクッションを使おうとはしなかった。

猫は気分屋なものだから、アーニャはもうクッションを使いたくないのかも、と白金さんは言っていた。
でも、私は他の可能性を考えている。

アーニャは他の猫が嫌いだ。姿が見えただけで唸りだす。
つまり、アーニャは自分だけのテリトリーが欲しいのかもしれない。人間風にいえば、自分だけの個室が欲しいのだろう。

という訳で、私は床にふわふわクッションを敷いた上で、すっぽりと身体を隠せるようなアーニャ用のベッドを作った。猫用のテント型ベッドを改造して今の形にしたのだ。
令嬢を補佐する執事の気持ちになって、どうぞ、とベッドを差し出す。
アーニャはじろりと全体を眺めた後、すんすんとベッドのにおいを嗅いだ。前足を出してクッションに触れると、これは、という風に青い目を見開き、クッションをふみふみする。
そして、ゆっくりとベッドの中に入っていった。
――入ってくれた。

アーニャは天蓋に覆われて、その姿は見えない。だが中でもぞもぞと物音が聞こえるため、自分の落ち着く体勢を模索しているように思えた。
あるいは――まだ体力が余っていて、眠れない状態なのかもしれない。
カフェの猫たちは皆お客様やスタッフ達に遊んで貰っている。普段ずっと室内で過ごしていると運動不足に陥りやすい事もあって、ストレス発散も兼ねて遊んであげるといいのだという。
だが、アーニャは日中人のいる前に姿を現さないので、遊んだ経験も殆ど無い筈だ。
猫をおもちゃで遊ばせていると、目当てとは違う猫が釣れてしまう事がある。そんな風に他の猫が乱入してくるのを忌避しているかもしれない。
つまり、アーニャだけの空間ならば遊んでくれるかもしれないという事だ。

という訳で、私は猫じゃらしを数本持ってきた。
アーニャの入っているベッドの隙間から猫じゃらしを差し込み、振ったり前後に動かしたりしてみる。
……!
猫じゃらしに重みがかかった。アーニャがベッドの中で猫じゃらしを捕まえようと遊んでいるのだろう。

アーニャが遊んでくれた……。
その事が嬉しくて、私はひたすらじゃらしを振り続ける。アーニャもスイッチが入ったようで、じゃらしを触るスピードが速まっているようだ。

そうして夢中で二人で遊び続けていたが、段々と私の手指が疲れてきた。
一旦休憩しようと思って、私は猫じゃらしをベッドから出して床に置く。

「みゅっ」
「あ」

猫じゃらしを追ってきたのか、アーニャがベッドから這い出てきた。私の近くの猫じゃらしに触りたいのか移動してきて――、
勢いづいていたからか、私の手にアーニャの喉が触れた。

「……おお……」

思わず声が出てしまう。
アーニャに近付こうとすると唸ってしまうから、彼女を刺激しすぎないようにご飯や清掃などの用事が無ければ触らないようにしてきた。アーニャに触るのはこれが初めてだ。
アーニャの毛並みは柔らかくて繊細で――暖かい。
普段の彼女が丹念に毛づくろいをしている事を伺わせた。もしもアーニャが人間に触られるのが平気だったら、瞬く間に人気者になっていただろうに――と思う。
たまたま事故で触れ合ってしまっただけで、アーニャとしてはやめてほしいだろうけど……。
と思って、アーニャを見たが。
アーニャは青い目を見開いて、身を固くしている。どこか緊張しているようで、だがその身体を離して距離を取ろうとはしていない。
それどころか、私の指に毛並みを擦り付けるような仕草まで見せていて……。

「アーニャ……」
「…………」
「気持ちいい?アーニャ」
「、る。うるる、るるる……」
「!」

アーニャの喉が緩く振動し、低めの音を鳴らしている。
これは――ゴロゴロ、だ。
猫が気持ちいい時に鳴らす音。
アーニャは、私と触れ合う事を気持ちいいと思ってくれたんだ。

初めて猫――ゴローに触れさせて貰った時、猫の暖かさ気持ちよさは胸がいっぱいになるものなのだと思った。
でも、私は今あの時よりも深く感動している。
アーニャの気持ちに寄り添えたように思ったからだ。

猫とは必ずしも意思疎通が出来る訳では無いけれど――、だからこそ、通じあえた一瞬はこんなにも尊く感じるものなんだ。
――アーニャ。
私は、アーニャに触れながら心の中で呼び掛ける。
私はアーニャに会えて本当に嬉しい。
これからも一緒に過ごせるならば、こんなに嬉しい事はない。


私は一旦アーニャに背を向けて、宗谷さんにスマホのチャットで連絡を送った。
アーニャがおもちゃで遊んでくれたこと、私に触るのを許してくれたこと。

……返事はまだ来ないだろう。

アルバイトで働くようになってから、宗谷さんには度々連絡している。だが、いつも返事は遅く、一言二言で終わるものばかりだ。
私を責めるような物言いこそ無いが、彼はアーニャがカフェに馴染めていない今の状況を良く思っていないのかもしれない。
宗谷さんは元々口数が多そうなタイプではないし、白金さんならあまり悩んでも仕方がないと言うだろうけど、私はどうしても気になっていた。
今日はアーニャについていい報告が出来そうで、良かった……。

「みゃあ」
「アーニャ?」

私がスマホを見つめていると、アーニャが前足でたしたしとスマホを攻撃する。アーニャが私をじっと見ながら鳴き続けている。
猫が人間に向かって鳴く時は、基本的に人間に何かを要求するとき……。

私はスマホをしまい、アーニャを再び撫で始める。
アーニャは目を細くしてうみゅうみゅと喉を鳴らす。
アーニャは撫でられる事の気持ちよさに目覚めたのか、その後も私の手から離れなかった。


そのまましばらく撫でていると、二階に誰かが上がってくる気配がする。

「舞空ちゃん?段々遅くなってるけど、まだ帰らなくていいの?……あ」
「白金さん!見てください、アーニャが撫でられるのを許してくれたみたいで……あ」
「うぐ」

白金さんに意気揚々と報告した矢先、喉を撫でられていたアーニャは口を開いて私の手の甲に歯を突き立てた。
……噛まれた。
さっきまで私を受け入れてくれたと思って調子に乗っていたけど、アーニャとしてはずっと不満だったのかもしれない。

私は落ち込みながら呟く。

「す、すみません。さっきまでアーニャが我慢してくれていただけかもしれないです。ごめんなさい……」
「わっ、待って。猫ってのは撫で続けてると逆に噛むみたいな事もあるから、そんな落ち込まないで。甘噛みならそんな嫌がってないはず……」
「ウウウウウ」
「あー!アーニャ、俺の事はまだ嫌いなんだな!落ち着け!」

穏やかだった店内はまた騒がしくなる。私達の賑やかな暮らしはまだまだ続いていきそうだ。

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