時雨太夫 東海道編 箱根の宿

文字の大きさ
上 下
18 / 18

第十八話

しおりを挟む
 小吉のいた場所には二人の侍しか立っていなかった。小吉の姿は見えない。一瞬、時雨しぐれの心の臓を何かが掴んだような気配が襲う。二人の侍の刀はとどめを刺すように地面を向いていた。

「小吉!」

 時雨は侍の注意を引こうと大声を上げて二人へと近づく。二人の侍の動きが一瞬止まる。その中の一人が時雨に向かってきた。侍は少しだけ時雨の方に走り寄り止まる。走り抜けながら斬り合いをするつもりは無いようで、迎撃の態勢を取った。時雨は一気に加速する。中段に構えた侍をすれ違い様に鎖ごと一刀で斬り捨てた。

(間に合わない……)

 時雨の顔に絶望と後悔の表情が浮かぶ。侍の刀が地面に突き刺さった。
 血飛沫が上がり、侍の口から絶叫が洩れた。突き込まれたはずの腕がそのままの形で地面に落ち、時雨の位置からでも侍の両腕から血が吹き出すのが分かる。さらに下から上へと一陣の光が走った。そのままゆっくりと侍は崩れ落ちた。そこには誰か分からない一人が立って時雨の方を見つめていた。その人物の足下で何かがもぞもぞと動き、小さな人影が半身を起こした。

「小吉!」

 時雨は大声で叫んでいた。小吉という声に半身を起こした影が手を振っている。

「時雨姉ぇ~」

 元気の良い小吉の声が時雨の耳に届く。それは時雨の心に平静を取り戻させていた。

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□
  
 時雨が小吉の元にたどり着いた時、侍を斬り捨てた者は刀を鞘に収めている所だった。その顔に時雨は見覚えがあった。

「やあ、時雨殿。小僧は生きてるぞ」

 そこには岡崎が立っていた。にやりと笑う岡崎を尻目に時雨は小吉を抱きしめていた。小吉は一人の侍の下敷きになっていただけのようだ。

「小吉! 小吉! 怪我は無い?」

 時雨は小吉を放すと身体の隅々を調べて回った。小吉は顔を真っ赤にして恥ずかしそうにしている。岡崎も呆れたような表情で時雨の様子を見ていた。

「時雨殿、私が見ていたので大丈夫だ」

 岡崎が小吉の様子を見て気の毒になったのか時雨に話しかけた。時雨はまるで母親のように小吉のことを心配している。過保護な親のようだ。

「岡崎様! なんであんなに危険になるまで放っておいたのですか!」

 時雨は小吉に怪我の無いのを確認して立ち上がり岡崎に詰め寄る。その気迫に岡崎は数歩後ずさった。

「時雨殿。落ち着かれよ。この小僧、小吉と言ったかな、これはこれでなかなかのものだったぞ。油断していたとはいえ鎖を着込んだ侍を一突きで仕留めたのだからな」

 岡崎は本当に感心したように小吉に声をかける。小吉の顔が嬉しそうににやけていた。時雨は溜息をつく。それからもう一度岡崎を睨み付けた。

「で、なんで岡崎様はここにおられるのですか? やはりつけてましたね?」

 時雨の殺気が一気に膨れあがる。それまでにやけていた小吉の顔から汗がしたたり落ちていた。岡崎には特に変化は無い。

「まぁまぁ、落ち着け、時雨殿。私が追っていたのは稲葉家の侍の方だ。話したはず
……、憶えてるわけないか……」

 岡崎は吉原での時雨のぐうたらさを思い出していた。
 岡崎は元々稲葉家から派遣されてきた侍・むろ達の動向を探っていたそうだ。そして時雨が姿を消したと同時に稲葉家の侍達が動いた。それも足軽や箱根の捕り手達を置いて。

「はぁん、そういうことですか。でも証人を全員消したかもしれないのに大丈夫なのですかねぇ」

 時雨は地面に転がっている稲葉家の侍達を見ながら勝ち誇ったように岡崎をからかっていた。ここに倒れている者達は全員が家紋などに相当するものは身に着けていない。この者達の死体だけで襲われたとするのは不可能だ。それにもし家紋などをつけた侍を斬り殺したとなれば一気に罪人として追われる。時雨達はこのまま姿をくらますので問題は無いが岡崎はどうするつもりだったのか聞いてみたかった。

「ああ、それならば大丈夫。もう証人になりそうな者は捉えてある。藤木屋……だったかな? あそこの娘もこちらで保護しているからな。ちなみに証人は時雨殿が提供してくれたのだがな」

 時雨には心当たりが無かった。

(箱根でも誰も捕らえていないし、ここでも全員斬り倒したはずだ……。あれ?全員?)

 そこまで考えて時雨は一人だけ思い当たる人物がいることに気がついた。そういえば一人だけ山から自分で落ちていった侍がいた。岡崎はその事を言っているようだ。ただし捕らえてから小吉の所に来たとは考えられない。岡崎は最初からここにいたと言った。それでは誰がということいなる。時雨はすぐに辺りの気配を探った。人らしき気配が数名近くに潜んでいる。それは時雨でも中々気付けないほどの小さな気配だ。

「隠密か素破がついている?」

 時雨は岡崎の眼を睨み付けた。岡崎はおお怖っという表情を浮かべて肩を竦める。

「さて、時雨殿。ここからは我ら幕府の者が潰しにかかる。時雨殿はこのまま旅立たれると良い。箱根から一里までは私の配下達を半月ほど配置して追っ手を排除しよう。もっとも全員は無理とは思うが……。それとその小僧も連れて行くのか?」

 岡崎は小吉の方を見て呟いた。時雨も小吉の方をじっと見る。当の小吉は岡崎と時雨の二人の顔を見比べていた。そして徐々に顔が崩れていく。

「時雨姉ぇ、連れて行ってくれるよねぇ」

 小吉は今にも泣き出しそうな顔をしている。時雨は連れて行くと一度は約束してはいたが今回の襲撃で多少心に変化があった。先程は岡崎がいなければ守り切れなかった。それが結論だ。ただ小吉に人殺しをさせて連れて行かないという負い目もある。

「どうするかね、時雨殿。私の所で預かっても良いが?」

 岡崎が声をかけてくる。岡崎ならば決して悪いようにはしない。元々岡崎に押しつけるつもりでもあった。最悪、吉原の喜瀬屋にでも放り込んで貰えば良いと考え始めていた。

「時雨姉、連れて行ってくれるよね」

 低い声に時雨は思わず小吉の方を向いていた。岡崎も視線を向ける。小吉の手にはいつの間にか時雨が預けていた太刀が握られていた。問題はその動きに時雨も岡崎も気がつけなかったことだ。

(いつ遺体を動かし、太刀を引き抜いた?)

 小吉の動きを警戒しつつ時雨は岡崎と目を合わせた。それは岡崎も同様の意見だったようだ。困ったというよりも危険が発生したという目付きに変わっている。とりあえず時雨は小吉に少し待って欲しいと言って岡崎と二人、小吉に声が届かない場所に移動していた。

「時雨殿、あれは危険では無いか?」

「岡崎様でもそう思われますか?」

 時雨は昔の自分を思い出していた。吉原に入る前の自分。それはそこらにいる盗賊や山賊などよりも遙かに危険だった。そして自分が昔起こした大虐殺を思い出す。ここで始末するか、連れて行き、感情を制御させるか? 
時雨は迷っていた。

「なぁ時雨殿。正直私では手に負えぬかもしれん。それは喜瀬屋でも一緒では無いか?」

 岡崎の言葉にも一理ある。時雨は国元から江戸まで旅をして様々な人と出会い吉原に行き着いた。その狂気は女として吉原で発散することが出来ていた。しかし小吉は違う。発散するにはまだ若すぎる。それに同じ方法が小吉に当てはまるとは限らない。

「連れて行くしか無いかなぁ」

 時雨はぽそりと呟いて岡崎を見詰めていた。岡崎も黙って頷く。二人は不安そうな様子の小吉の元に戻り連れて行くことを伝えた。

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

 それから小吉に食事を取らせている間、時雨と岡崎二人は斬り倒した侍達の死体を漁り、時雨は自分の太刀をむろの死体から回収し、他の死体から上等な刀と脇差しを拾う。
 二人はそれを小吉に渡した。腰に刀を刺した小吉は不格好そのものだった。思わず時雨と岡崎は吹き出して笑っていた。
小吉は膨れたままだ。
 時雨は岡崎がどこからともなく取り出した白い包みを四つ受け取っていた。それは岡崎が喜瀬屋から託された物だということだ。最初はいらないといったが小吉も増えただろうという岡崎の説得に時雨はなすすべも無く敗北した。
 その山で岡崎とは別れ、時雨は箱根の宿の外れに一泊した。小吉の旅支度を調えるためだ。その後、風呂から戻った時雨の荷物の中には小吉用の手形が入っていた。夜、時雨が文句を言いながら大量の酒を飲み、小吉に酌をさせ絡んだのは愛嬌だ。

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

「じゃあ小吉、行こうか」

 次の日、昼前には時雨と小吉は既に関所を越えていた。刀四本を持ち酒臭い時雨に関所の役人は警戒していたが、手形を見て困惑した表情を浮かべながら通してくれた。
関所を通った後、時雨は一振りだけ小吉に刀を渡す。二人は暑い日差しを受けながら東海道を西へ西へと歩いて行く。
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

旧式戦艦はつせ

古井論理
歴史・時代
真珠湾攻撃を行う前に機動艦隊が発見されてしまい、結果的に太平洋戦争を回避した日本であったが軍備は軍縮条約によって制限され、日本国に国名を変更し民主政治を取り入れたあとも締め付けが厳しい日々が続いている世界。東南アジアの元列強植民地が独立した大国・マカスネシア連邦と同盟を結んだ日本だが、果たして復権の日は来るのであろうか。ロマンと知略のIF戦記。

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

大東亜戦争を有利に

ゆみすけ
歴史・時代
 日本は大東亜戦争に負けた、完敗であった。 そこから架空戦記なるものが増殖する。 しかしおもしろくない、つまらない。 であるから自分なりに無双日本軍を架空戦記に参戦させました。 主観満載のラノベ戦記ですから、ご感弁を

体育座りでスカートを汚してしまったあの日々

yoshieeesan
現代文学
学生時代にやたらとさせられた体育座りですが、女性からすると服が汚れた嫌な思い出が多いです。そういった短編小説を書いていきます。

壁乳

リリーブルー
BL
俺は後輩に「壁乳」に行こうと誘われた。 (作者の挿絵付きです。)

滝川家の人びと

卯花月影
歴史・時代
故郷、甲賀で騒動を起こし、国を追われるようにして出奔した 若き日の滝川一益と滝川義太夫、 尾張に流れ着いた二人は織田信長に会い、織田家の一員として 天下布武の一役を担う。二人をとりまく織田家の人々のそれぞれの思惑が からみ、紆余曲折しながらも一益がたどり着く先はどこなのか。

枢軸国

よもぎもちぱん
歴史・時代
時は1919年 第一次世界大戦の敗戦によりドイツ帝国は滅亡した。皇帝陛下 ヴィルヘルム二世の退位により、ドイツは共和制へと移行する。ヴェルサイユ条約により1320億金マルク 日本円で200兆円もの賠償金を課される。これに激怒したのは偉大なる我らが総統閣下"アドルフ ヒトラー"である。結果的に敗戦こそしたものの彼の及ぼした影響は非常に大きかった。 主人公はソフィア シュナイダー 彼女もまた、ドイツに転生してきた人物である。前世である2010年頃の記憶を全て保持しており、映像を写真として記憶することが出来る。 生き残る為に、彼女は持てる知識を総動員して戦う 偉大なる第三帝国に栄光あれ! Sieg Heil(勝利万歳!)

処理中です...