時雨太夫 東海道編 箱根の宿

文字の大きさ
上 下
10 / 18

第十話

しおりを挟む
 「時雨殿、私がここに派遣されてきたのはもうひとつ目的がある。それはこの宿場に阿芙蓉あふようの蔓延の噂があるのだ……」

 事が終わり寝言のように語るむろの言葉に時雨は夢見心地を一気に引き戻された。
  時雨は室の一言に全身が紅潮するのが分かった。その一言は今までの快楽をすべて否定するのに十分に足り得るものだった。
室もその時雨の変化に気がついたのか時雨に軽く唇をつけ、君は気にする必要は無いよと言う。
 しかしこの段階ですでに時雨の心と身体は完全に冷め切っていた。
時雨は頭に廻されている室の腕を強引に引きはがし、立ち上がった。すぐに着流しを身体に羽織る。

「室殿、この宿場に阿芙蓉があるというのは本当ですか?」

 つい口が滑ってしまった。室は余計なことを言ったと後悔していた。
 今までの心地よさが全て冷めるような雰囲気が部屋の中に漂い始めたからだ。それは二人が快楽を貪り合う前に感じた感覚よりも遙かに強烈なものだった。

「時雨殿が気にする必要は無い。それにこれは私、いや稲葉家の問題なのだ」

 立ち上がった時雨を見ながら、室は時雨の身体に手を伸ばす。しかしそれは時雨によって完全に拒否された。時雨の視線はすでに別のところを見ている。
 室に今日はこれで帰るように促す。それは何者にも反論ができないような表情だ。時雨はそのまま布団に潜り込み、布団から室を押し出す。それっきり話しかけても一切言葉を返さなくなった。
 室は仕方なしに持って来ていた徳利を抱えて時雨の部屋を後にした。そして、時雨を監視する必要があると思いながら自らがあてがわれた部屋へと引き上げていった。  

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

 時雨は目を覚ますとすぐに旅支度を調え藤木屋を出た。その際、貪り合った女を見つけ、稲葉家の室殿へ文を渡すように言って小銭を握らせる。小銭と言っても銭緡ぜにさしなのだが。
女は時雨の表情が硬いのを見抜いたのか大丈夫ですかと声を掛けてきた。

「お前は心配しなくても良いよ。しっかり仕事しなさい。ただ、今後は関わり合いにならない方が良いかも知れない」

 時雨はもう呼んで遊ぶ気はないというような態度を取る。女は自分が何か気に触ることをしたのかと時雨に尋ねた。
時雨は黙って首を振り、女の頭を撫でる。

「そういうわけではないのだよ。
ただ私と関わりがあると分かれば、君に危険が及ぶ可能性があるから離れた方が良いと思っているんだ」

 昨日、室との逢瀬の中で阿芙蓉のことを聞いた。
 時雨はそこで感情を殺すことが出来なかった。室には警戒されただろう。今後のことを考えると最悪稲葉家から派遣された武士達には死んでもらう必要があるかもしれない。そうなると藤木屋にも迷惑がかかるし、仲良くした女にも詮議が及ぶかもしれない。

「少し面倒なことになってしまったのだよ。
岩重郎の一家の件と善四郎の件は私が始末をつける。だから問題ないからね。これまで通り一生懸命働くんだ。もしかしたらまた会うかもしれないから」

 時雨は少しかがむと女の口を吸う。女も黙って目を閉じた。薄らと目に涙が浮かんでいる。別れを惜しんでいると藤木屋の主人善三郎が飛び出してきた。

「時雨さんでしたか?。 
春、お春を見かけませんでしたか!」

 善三郎は相当慌てている。しかし、春ならば何処へでも出かけていきそうなものだが……。

「春殿に何かあったのですか?」

 時雨の問いに善三郎は息を切らしながら紙を差し出した。

【私は暫く旅に出ます。今度は長旅になると思いますので探さないでくださいませ。申し訳ありませんが少々路銀をいただいてまいります】

  簡単に訳すとそのような内容だった。時雨は単純に伊勢参りにでも出かけたのでは無いかと言ってみた。しかし善三郎は首を振る。

「いくら何でも旅支度もせず出かけることは無いのでは」

「ふむ、拐かしか」

 時雨はぽそりと呟いた。善三郎がその場に崩れ落ちる。目には涙が浮かんでいた。外の騒ぎに気づいたのか奉公人達が外へ顔を出し始めた。
 善三郎の様子に奉公人達が何事かという視線を向ける。女が奉公人達に事情を話し始めた。奉公人の一人が小田原から来ているお役人を呼んでくると言って見世に走り込む。

「善三郎さん、私はこれから町へ出ます。春さんの手がかりを探してみますので、お気を確かにお持ちください」

時雨はそれだけ言うと藤木屋を旅立つのであった。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

淫らに、咲き乱れる

あるまん
恋愛
軽蔑してた、筈なのに。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

旧式戦艦はつせ

古井論理
歴史・時代
真珠湾攻撃を行う前に機動艦隊が発見されてしまい、結果的に太平洋戦争を回避した日本であったが軍備は軍縮条約によって制限され、日本国に国名を変更し民主政治を取り入れたあとも締め付けが厳しい日々が続いている世界。東南アジアの元列強植民地が独立した大国・マカスネシア連邦と同盟を結んだ日本だが、果たして復権の日は来るのであろうか。ロマンと知略のIF戦記。

野球部の女の子

S.H.L
青春
中学に入り野球部に入ることを決意した美咲、それと同時に坊主になった。

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

体育座りでスカートを汚してしまったあの日々

yoshieeesan
現代文学
学生時代にやたらとさせられた体育座りですが、女性からすると服が汚れた嫌な思い出が多いです。そういった短編小説を書いていきます。

時雨太夫

歴史・時代
江戸・吉原。 大見世喜瀬屋の太夫時雨が自分の見世が巻き込まれた事件を解決する物語です。

処理中です...