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第九話
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時雨は風呂から上がり、窓を開け、夜風を浴びていた。
といっても風などはほとんど無く、ただ暑いだけなのだが。風呂場で出会った室という稲葉家の侍がそろそろ来る頃だ。
時雨はとりあえず夕餉を食べずにじっと外を眺めていた。
「時雨殿、室でございます。お入りしても宜しいでしょうか?」
襖の向こうから室の声がかかる。
時雨は着流しの裾を直しながらどうぞと声を掛けた。襖がすっと開き、室が入ってくる。その後ろから女中達が料理を持って来た。一人二膳ずつはある。時雨はとりあえず部屋の中央に座った。室も向かい合って座る。女中達はその間に膳に乗った料理と酒を並べていった。
「とりあえず食べませんか?
この地域の特産品を集めてみました。それと良い物もあります」
室は少し大きめの徳利を持っている。膳の上には普通の徳利も乗っていた。
時雨は何が違うのだろうと思いながら膳の上にある猪口を手に取った。しかし室はそれを片手で制し、どこからか湯飲みを出してくる。室の持っている徳利から白濁とした物が並々と注がれた。
「室殿、これは?」
時雨は湯飲みに注がれた液体の匂いを嗅いでみている。特別な薬草とかは入っていないようだ。
時雨は江戸での事件の後から液体物に関しては、常に自分の嗅覚で中に何も入っていないかを確認するようにしている。また、最初に舐めてみて、舌での確認も怠らない。あの吉原での事件はそれほどまで人の心を不審にするものだった。
「あぁ、これですか。これは諸白や中汲などとは違う作り方の酒です。濁醪ですが美味いですよ」
時雨の警戒しているところに気がついたのか、室は湯飲みの半分程を一気に飲み干した。時雨は自分に注がれている湯飲みを箸で数度掻き回し、室に差し出した。室は怪訝な顔をしてそれを受け取り、半分程飲み干す。それを見た時雨はその湯飲みを受け取り濁醪を少しだけ飲んでみた。
中々美味い。
江戸での上質と言われる諸白とは違い、野趣溢れる風味である。ただし、少しだけ何かが違う。時雨は何が違うのかを必死に考えていた。
「時雨殿、この濁醪は諸白より酔いやすいのであまり大量には飲まれない方が良いかもしれません。勧めていてなんなのですが……」
室が自分の湯飲みの中の濁醪を飲み干し、再度徳利から湯飲みへ濁醪を注ぐ。そして、懐から布でできた包みを取り出し。それを囓りだした。
「室殿、それは何でしょうか?」
時雨は室が美味そうに引きちぎりながら食べているものに興味が湧いていた。室は半分だけ口に咥え、残りを時雨の方に差し出した。時雨は何も考えずに口の中に放り込んだ。それは野趣溢れる味で、硬いのだが噛めば噛むほど味が染みだしてくる。江戸では中々味わえない物だった。
室はそれを噛み飲み下してから、濁醪を呷っている。時雨もまねをしてみた。二つの味が重なって中々良い味になる。江戸でのつまみとはまた違った物だった。
「時雨殿、これは鹿肉を干して煙で燻したものです」
時雨は鹿肉と聞いてなるほど、このような味になるのかと思っていた。
時雨の生まれた時任家を放逐された後、江戸に流れ着くまでに様々な物を食べてきた。しかし、そのほとんどは焼いて食べるのがせいぜいだったからだ。世の中には様々な料理法があるものだと感心しながら濁醪と一緒に食べる。
その後、二人は濁醪と鹿肉を飲み、食べ続け、最後は濁醪が空になってしまった。
室は頬が薄く染まっていたが、時雨は表情一つ変えていなかった。そのまま藤木屋の料理に付いてきた諸白を飲み始める。二人とも最初から猪口ではなく湯飲みで飲んでいたため、途中から徳利ではなく一升ずつ持ってこさせていた。料理もみるみる減ってゆき、追加追加で二人は夜半まで飲み食いを続けていた。さすがにこれ以上は台所が閉まるというところで、最後の一升を頼んだ。
「で?
私が昼間にあれだけの人数を殺害しているのに、黙っておいて酒を一緒に飲んでいても良いのですか?」
時雨は悪戯っぽく笑うと室の顔をじっと眺めた。中々精悍な顔立ちをしている。室はほろ酔い気分になっていたが、時雨が話を持ち出した途端、真顔に戻った。
「時雨殿。
あなた、吉原喜瀬屋の時雨太夫ですよね」
室は時雨にとって衝撃的な言葉を放った。時雨の殺気が一気にふくれあがる。それは室の酔いを完全に吹き飛ばすのに十分なものだった。
室の背中に冷や汗が流れ、額を汗が伝ってゆくのが分かる。しかし、懐から布を出して拭き取ろうにもそれすらもできない。
室はそこで自分の死を覚悟した。世の中には関わっていけないものがあり、興味本位では決して触れてはいけない物があることを悟った。もっとも、この期に及んでは後の祭りだったのだが……。
「室殿、ここからは言葉をじっくり選んでお答えください。さもないと……、お分かりですね」
時雨は微笑みながら室に話しかける。当事者である室はただ黙って頷くしかなかった。
「ではお聞きします。まず、私が昼間のあれをやったとお気づきになられたのはいつですか?」
「風呂で誰かが入っていると思ったときだ。あのときは匂いと言ったがそれは血の臭いだったからだ」
室は絞り出すような声で即答した。じっくり言葉を選べとは言われたが正直選んだら死が訪れる。それは分かっていた。だから、自分の思ったことを正直に答えることにした。
時雨は室の言葉に黙って頷いた。匂いや臭いということを言っていた記憶はある。そういうものに敏感なのだろう。とりあえずそれで納得することにした。
「では、それだけ分かっていてなぜ捕らえようとはしないのですか?」
室は黙っていた。何故と聞かれると何故だろうと考えたからだ。そして結論を口にした。
「戦っても勝てない。その上、所詮はやくざ者。今回は規模が大きかったので宿場に泣きつかれて出向いてきただけだ。全員、慰安目的のようなものだ……」
時雨は呆れかえった表情をしていた。10万石以上である稲葉家の侍でもこの程度に堕落しているのか……。これでは吉原の番屋にいた岡崎の方がまだましだと思う。
「あのね、あなた侍でしょう。それがその程度なのですか?
恥ずかしいとは思いませんか?」
時雨は思わず説教をしていた。あれだけの人を殺したことは完全に忘れて説教をする。室は不条理だという表情を作りながら、それでも黙って聞いていた。
時雨は半刻ほどその話で室を責め続けた。吉原にいた頃の時雨の適当さとはうって変わっていた。それは吉原という特殊な環境から出て、世間に戻ってしまった時雨の心境の変化もあるのだろう。まあ酔っていただけなのかもしれないが。
言うだけ言った時雨は、最後の質問をした。
「最後に聞きますけど、私が吉原の太夫だとどこでお知りになったのです?
しかも銘までご存じとは」
この問いに関しては室の返答は早いもので、分かりやすいものだった。
「少し前まで江戸詰めだったのですが、最後に吉原に行った。その時に太夫や格子が張見世で歌い、踊るのを見かけたことがあり、その時に印象に残っていたからだ……」
室は最後は俯いていた。酒のせいなのか恥ずかしいからか顔は真っ赤になっていた。
「なるほどねぇ。あれを見られたのですか……」
時雨は氷室太夫や他の太夫、格子達と謹慎明けの喜瀬屋の客足を取り戻すために歌い、踊り、琴を奏でた日々を思い出した。しかし、その喜瀬屋は今は小見世になり当時の面影はない。
また最初に協力してくれた氷室太夫はすでにこの世の人ではない。懐かしさと共に、悔しさと憎らしさが沸き上がってくる。
時雨の感情の変化を感じ取ったのか、室は赤かった顔色が青を通り越して白くなっていた。
「しかし、私はとったお客様の顔は忘れないのですがねぇ。室様と床を一緒にしましたか?」
威圧感は少し収まり、時雨は少し優しい雰囲気に戻っていた。
「し、時雨殿。私ら小役人に吉原の太夫が買える訳がありません。ただ、外から歌を聴き、眺めていただけです」
室はその当時に見ていた時雨太夫と今の時雨を重ね合わせていた。服装や髪型、雰囲気さえ違うがそこには圧倒的な美貌の時雨が座っている。当時の時雨と今の時雨を想像していた室は自分が呆けている事に気が付いていなかった。
しかし時雨は昔の癖でその変化に気がついていた。この状況でそうなる人物も珍しい。時雨は遊んでもいいかと思っていた。
俯いて膳の上を見つめている室に気づかれないようにそっと移動し、室の真横に座り突然時雨は口吸いをする。
そこには驚いた表情で目を見開いた室の顔があった。
といっても風などはほとんど無く、ただ暑いだけなのだが。風呂場で出会った室という稲葉家の侍がそろそろ来る頃だ。
時雨はとりあえず夕餉を食べずにじっと外を眺めていた。
「時雨殿、室でございます。お入りしても宜しいでしょうか?」
襖の向こうから室の声がかかる。
時雨は着流しの裾を直しながらどうぞと声を掛けた。襖がすっと開き、室が入ってくる。その後ろから女中達が料理を持って来た。一人二膳ずつはある。時雨はとりあえず部屋の中央に座った。室も向かい合って座る。女中達はその間に膳に乗った料理と酒を並べていった。
「とりあえず食べませんか?
この地域の特産品を集めてみました。それと良い物もあります」
室は少し大きめの徳利を持っている。膳の上には普通の徳利も乗っていた。
時雨は何が違うのだろうと思いながら膳の上にある猪口を手に取った。しかし室はそれを片手で制し、どこからか湯飲みを出してくる。室の持っている徳利から白濁とした物が並々と注がれた。
「室殿、これは?」
時雨は湯飲みに注がれた液体の匂いを嗅いでみている。特別な薬草とかは入っていないようだ。
時雨は江戸での事件の後から液体物に関しては、常に自分の嗅覚で中に何も入っていないかを確認するようにしている。また、最初に舐めてみて、舌での確認も怠らない。あの吉原での事件はそれほどまで人の心を不審にするものだった。
「あぁ、これですか。これは諸白や中汲などとは違う作り方の酒です。濁醪ですが美味いですよ」
時雨の警戒しているところに気がついたのか、室は湯飲みの半分程を一気に飲み干した。時雨は自分に注がれている湯飲みを箸で数度掻き回し、室に差し出した。室は怪訝な顔をしてそれを受け取り、半分程飲み干す。それを見た時雨はその湯飲みを受け取り濁醪を少しだけ飲んでみた。
中々美味い。
江戸での上質と言われる諸白とは違い、野趣溢れる風味である。ただし、少しだけ何かが違う。時雨は何が違うのかを必死に考えていた。
「時雨殿、この濁醪は諸白より酔いやすいのであまり大量には飲まれない方が良いかもしれません。勧めていてなんなのですが……」
室が自分の湯飲みの中の濁醪を飲み干し、再度徳利から湯飲みへ濁醪を注ぐ。そして、懐から布でできた包みを取り出し。それを囓りだした。
「室殿、それは何でしょうか?」
時雨は室が美味そうに引きちぎりながら食べているものに興味が湧いていた。室は半分だけ口に咥え、残りを時雨の方に差し出した。時雨は何も考えずに口の中に放り込んだ。それは野趣溢れる味で、硬いのだが噛めば噛むほど味が染みだしてくる。江戸では中々味わえない物だった。
室はそれを噛み飲み下してから、濁醪を呷っている。時雨もまねをしてみた。二つの味が重なって中々良い味になる。江戸でのつまみとはまた違った物だった。
「時雨殿、これは鹿肉を干して煙で燻したものです」
時雨は鹿肉と聞いてなるほど、このような味になるのかと思っていた。
時雨の生まれた時任家を放逐された後、江戸に流れ着くまでに様々な物を食べてきた。しかし、そのほとんどは焼いて食べるのがせいぜいだったからだ。世の中には様々な料理法があるものだと感心しながら濁醪と一緒に食べる。
その後、二人は濁醪と鹿肉を飲み、食べ続け、最後は濁醪が空になってしまった。
室は頬が薄く染まっていたが、時雨は表情一つ変えていなかった。そのまま藤木屋の料理に付いてきた諸白を飲み始める。二人とも最初から猪口ではなく湯飲みで飲んでいたため、途中から徳利ではなく一升ずつ持ってこさせていた。料理もみるみる減ってゆき、追加追加で二人は夜半まで飲み食いを続けていた。さすがにこれ以上は台所が閉まるというところで、最後の一升を頼んだ。
「で?
私が昼間にあれだけの人数を殺害しているのに、黙っておいて酒を一緒に飲んでいても良いのですか?」
時雨は悪戯っぽく笑うと室の顔をじっと眺めた。中々精悍な顔立ちをしている。室はほろ酔い気分になっていたが、時雨が話を持ち出した途端、真顔に戻った。
「時雨殿。
あなた、吉原喜瀬屋の時雨太夫ですよね」
室は時雨にとって衝撃的な言葉を放った。時雨の殺気が一気にふくれあがる。それは室の酔いを完全に吹き飛ばすのに十分なものだった。
室の背中に冷や汗が流れ、額を汗が伝ってゆくのが分かる。しかし、懐から布を出して拭き取ろうにもそれすらもできない。
室はそこで自分の死を覚悟した。世の中には関わっていけないものがあり、興味本位では決して触れてはいけない物があることを悟った。もっとも、この期に及んでは後の祭りだったのだが……。
「室殿、ここからは言葉をじっくり選んでお答えください。さもないと……、お分かりですね」
時雨は微笑みながら室に話しかける。当事者である室はただ黙って頷くしかなかった。
「ではお聞きします。まず、私が昼間のあれをやったとお気づきになられたのはいつですか?」
「風呂で誰かが入っていると思ったときだ。あのときは匂いと言ったがそれは血の臭いだったからだ」
室は絞り出すような声で即答した。じっくり言葉を選べとは言われたが正直選んだら死が訪れる。それは分かっていた。だから、自分の思ったことを正直に答えることにした。
時雨は室の言葉に黙って頷いた。匂いや臭いということを言っていた記憶はある。そういうものに敏感なのだろう。とりあえずそれで納得することにした。
「では、それだけ分かっていてなぜ捕らえようとはしないのですか?」
室は黙っていた。何故と聞かれると何故だろうと考えたからだ。そして結論を口にした。
「戦っても勝てない。その上、所詮はやくざ者。今回は規模が大きかったので宿場に泣きつかれて出向いてきただけだ。全員、慰安目的のようなものだ……」
時雨は呆れかえった表情をしていた。10万石以上である稲葉家の侍でもこの程度に堕落しているのか……。これでは吉原の番屋にいた岡崎の方がまだましだと思う。
「あのね、あなた侍でしょう。それがその程度なのですか?
恥ずかしいとは思いませんか?」
時雨は思わず説教をしていた。あれだけの人を殺したことは完全に忘れて説教をする。室は不条理だという表情を作りながら、それでも黙って聞いていた。
時雨は半刻ほどその話で室を責め続けた。吉原にいた頃の時雨の適当さとはうって変わっていた。それは吉原という特殊な環境から出て、世間に戻ってしまった時雨の心境の変化もあるのだろう。まあ酔っていただけなのかもしれないが。
言うだけ言った時雨は、最後の質問をした。
「最後に聞きますけど、私が吉原の太夫だとどこでお知りになったのです?
しかも銘までご存じとは」
この問いに関しては室の返答は早いもので、分かりやすいものだった。
「少し前まで江戸詰めだったのですが、最後に吉原に行った。その時に太夫や格子が張見世で歌い、踊るのを見かけたことがあり、その時に印象に残っていたからだ……」
室は最後は俯いていた。酒のせいなのか恥ずかしいからか顔は真っ赤になっていた。
「なるほどねぇ。あれを見られたのですか……」
時雨は氷室太夫や他の太夫、格子達と謹慎明けの喜瀬屋の客足を取り戻すために歌い、踊り、琴を奏でた日々を思い出した。しかし、その喜瀬屋は今は小見世になり当時の面影はない。
また最初に協力してくれた氷室太夫はすでにこの世の人ではない。懐かしさと共に、悔しさと憎らしさが沸き上がってくる。
時雨の感情の変化を感じ取ったのか、室は赤かった顔色が青を通り越して白くなっていた。
「しかし、私はとったお客様の顔は忘れないのですがねぇ。室様と床を一緒にしましたか?」
威圧感は少し収まり、時雨は少し優しい雰囲気に戻っていた。
「し、時雨殿。私ら小役人に吉原の太夫が買える訳がありません。ただ、外から歌を聴き、眺めていただけです」
室はその当時に見ていた時雨太夫と今の時雨を重ね合わせていた。服装や髪型、雰囲気さえ違うがそこには圧倒的な美貌の時雨が座っている。当時の時雨と今の時雨を想像していた室は自分が呆けている事に気が付いていなかった。
しかし時雨は昔の癖でその変化に気がついていた。この状況でそうなる人物も珍しい。時雨は遊んでもいいかと思っていた。
俯いて膳の上を見つめている室に気づかれないようにそっと移動し、室の真横に座り突然時雨は口吸いをする。
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