時雨太夫

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第三十六話

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 時雨しぐれは江戸市中の旅籠はたごへ泊っていた。
 時雨《しぐれ》はもともと自分から遊女ゆうじょになっているので特に抜けるのに問題はない。もし、追っ手を掛けても被害しか生まない。
ただ置手紙だけして出奔しゅっぽんしたことは申し訳なく思っていた。

 時雨しぐれは自分の身なりも変えた。
旅籠はたごに着き次第、髪をばっさりと肩口から落とした。まるで禿かむろのような格好になる。
 そして、化粧も一切していない。飾りっ気のないただの女性となっていた。
荷物は少なく、今は小袖こそではかま羽織はおりを着ていて男装に近い。
深網笠ふかあみがさ手甲てっこう脚絆きゃはんは部屋の隅に転がしてある。
 そして太刀が二振り、これも部屋の隅に置いてある。
 振り分け荷物の中には二百両ほどの両替をした金子きんす鼈甲べっこうの張り型、思い出の品と少しばかりの腰巻きが入っている。
 今、時雨しぐれは太刀の手入れをしていた。
どこにも傷、刃切れはない。つかにも緩みはなく、目釘めくぎもしっかりとしている。これなら十分に斬り合いに耐えられる。そう思いながら太刀に油を引き、さやの中に収めた。

 夕刻になり、夕食が運ばれてくる。茶碗一杯の白飯と味噌汁、|鰈かれいの煮付けに香の物がでてきた。時雨はそれをゆっくりと食べる。今日はどこにも行くつもりはなかった。少しゆっくりとし、明日以降動くつもりでいた。

松風まつかぜ上屋敷かみやしきへ襲撃。

 これが当面の時雨しぐれの目標だった。
証拠は関係ない。
 自分の目で見た。ただそれだけで良かった。どこまでの人物が関係しているのかは分からないが、時雨しぐれ松風まつかぜ家自体を潰すつもりだ。
上屋敷かみやしきを襲撃。中屋敷なかやしき下屋敷しもやしきは後日に廻す予定だ。

 翌朝目を覚ますと身だしなみを整え、太刀を差して階下へ降りる。

「すまないが、部屋を二日ほど貸し切りにして欲しい。部屋には誰も入れないでくれ」

 時雨しぐれはそう言うと、懐から二朱金を一枚取り出し番台へ渡した。そしてそのまま江戸の町に繰り出した。
 目指すは日比谷。そこに松風まつかぜ上屋敷かみやしきはある。
一度は侵入しある程度は把握しているのだが、侵入経路と脱出経路の確認は必要だった。前は行き当たりばったりで侵入・脱出をしたからだ。
 今、時雨しぐれは両国を歩いている。夕刻まで時間を潰すためだ。
吉原よしわらにいたころには目に出来なかったものが数多くある。懐には五百文と二朱銀八枚、一朱銀十六枚を入れていた。
 見世物小屋に入り、茶屋で団子を食べ、蕎麦を手繰たぐる。足りなくなったら二朱・一朱銀を両替商で一文銭と四文銭に変える。そしてまた食べ歩き、見世物小屋を見て回った。しかし、その足はゆっくりとではあるが日比谷の武家屋敷へと近づいていった。

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

 夕刻、日が暮れ始めると時雨しぐれは行動を開始した。人目を避けるように武家屋敷を抜け、大名屋敷の範囲に入る。その頃には日は完全に沈んでいた。
武家は夜間の外出が制限されているため中間ちゅうげんや、同心、岡っ引き、夜回りなどに気をつけていれば良い。
 時雨しぐれはわざとくるくると大名屋敷周辺を周り、目的の松風まつかぜ上屋敷かみやしきに着いた。辺りは暗く静まりかえっている。気配を探りながら上屋敷かみやしきを一周してみた。特に殺気を放つ者はいない。
 前回、犬がいたため懐の中から手甲てっこうをとりだし、両腕に付ける。脚絆きゃはんはすでに足に巻いてある。
 前回と違い着物ではないので動きは楽だ。
 時雨しぐれは角のとこから塀の上へ登った。姿勢を低くし、辺りを見回す。特に変わった様子はない。時雨は屋敷に近づかず、まずは土蔵の方へ向かった。前に侵入したとき、東雲とううんがいた土蔵に侵入する。今は明かりすら灯っていない。錠前も閉まっている。
 時雨しぐれは錠前を太刀で叩き斬った。錠前は真っ二つに斬れ地に落ちる。そのまま土蔵の中に侵入した。時雨はしばらく動かずに暗闇に眼をならし、勘を頼りに地下への隠し扉を探した。しかし、何も見つからない。

(……隠したか?)

 時雨しぐれは徹底的に土蔵の床を押してまわったが何も変化は無かった。明かりを持って来ていないため確認することが出来ない。
 時雨しぐれは仕方なしに土蔵を後にした。そのまま屋敷に近づく。見張りはほとんどいないようだ。今は数人の中間が見張りに立っている程度で、先日の鋭い殺気を持った者達は屋敷内に見つけることは出来なかった。

(国元へ帰ったか?)

 時雨しぐれは最悪の事態を考えていた。それは江戸家老を残し、君主は参勤交代で肥前ひぜんに帰ってしまったということだ。
しかし、江戸家老は残っているはずだ。それが上屋敷《かみやしき》にいないのだ。   
 時雨しぐれは取りあえず奥方を探すことにした。屋敷に侵入し、気配を探りながら一つ一つ部屋を見てゆく。そして奥まったところに長物を持った女中が数名いる場所を見つけた。

(あそこか)

 時雨しぐれは太刀を抜き、一気に間を詰めた。
三名の女中の内、一人が反応し立ち上がりかける。
しかし、三名とも立ち上がることはなかった。一人の口を左手で塞ぎ、立ち上がり掛けた女中の首をぐ。喉を半ばまで斬られた女中はそのまま喉を押さえ、前のめりに倒れた。そのまま右手にいた女中の胸元に太刀を沈ませる。刃は骨に掛かることなく心の臓を突いた。女中はびくびくと身体を痙攣けいれんさせ、くたりと動かなくなった。
 手から長刀が滑り落ちる。女中の胸から太刀を引き抜くと、左手で口を押さえている女中に向き直った。女中はすでに死んでいた。口を押さえたつもりだったが喉を掴んでおり、口からは血が溢れていた。頭がだらしなく傾いている。念のため女中の首をき斬り、廊下の先へ進んだ。

 時雨しぐれは部屋の周りにいるすべての護衛を殺すために移動した。
闇の中、何が起こったかもわからず、次々と女中達は命を絶たれていく。女中が集中していた部屋の最後の一人を時雨は生きたまま捕らえていた。

「ここは、松風まつかぜ家の奥方の部屋か?」
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